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「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

京都「島原」(しまばら)

2008年03月19日 18時30分38秒 | 古都逍遥「京都篇」
 浅田次郎の著「輪違屋糸里」でタイトルに使われている新選組ゆかりの「輪違屋(わちがいや)」で知られる「島原」は、正式地名は「西新屋敷」であったものが、官命により寛永18年(1641)に前身にあたる六条三筋町から現在地の朱雀野移され、その移転騒動が「あたかも島原の乱の如し」と流布したことにより、「島原」と呼ばれるようになっという。

 島原は開設以来、公許の花街(=かがい。歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきたが、単に遊宴だけを事とするにとどまらず、和歌や俳諧などの文芸が盛んで、江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈していた。また、幕末には、女流歌人蓮月尼が島原を褒めた歌を遺すなど、女性にとっても親しい町であったようだ。ここが閉鎖的な江戸の吉原と大きく異なり、老若男女の出入りも自由で開放的な町であった所以でもある。維新以降は、明治6年(1873)に歌舞練場が開設されるとともに、青柳踊や温習会が上演されたが、立地条件の悪さのため除々にさびれていき、京都の六花街(上七軒、先斗町、祇園甲部、宮川町、祇園東、島原)の1つに数えられて大いに賑わっていたが、昭和52年(1977)にその長き歴史の幕を閉じた。江戸期に栄えた「角屋」、太夫を抱える唯一の置屋「輪違屋」などが残り、当時をしのばせる雰囲気が漂う。

 大門の近くにある置屋「輪違屋」の創業は元禄年間(1688-1704)。一度建物は焼失し、安政4年(1857)に再建された。
 島原では、宴席の揚屋や茶屋と、太夫や芸妓を抱える置屋とに分かれる営業形態をとり、これを「送り込み制」と称し、江戸の吉原などのいわゆる「遊廓」とは異なっていた。こちらを「居稼ぎ制」と称し、この営業形態は現在の祇園などに伝えられ、現在の花街は、すべて揚屋と同じ「送り込み制」をとっている。
 したがって、島原は「いわゆる遊郭」の町でなく、江戸中期には俳壇ができるなど京都文化の中心的役割を果たしていた。

 島原の太夫について触れておくと、「太夫」とは傾城(けいせい 官許により遊宴の席で接待する女性)の最高位であり、舞の優れた傾城を「舞太夫」と呼んだことが太夫の始まりとされている。歌舞音曲の芸をはじめ、茶、花、和歌、俳諧などの教養を身に付けており、芸を必要としない吉原の娼妓の最高位の「花魁(おいらん)」とは大きく異なったところでもある。

 島原は6つの町内からなり、その位置は大門から東西に走る道「道筋(どうすじ)」に沿って、一筋目に交差する北側の筋に「中之町(なかのちょう)」、その南側の筋に「上之町(かみのちょう)」、二筋目に交差する北側の筋に「中堂寺町(ちゅうどうじちょう)」、その南側の筋に「太夫町」、三筋目に交差する北側の筋に「下之町」、その南側の筋に「揚屋町」とそれぞれなっている。
 揚屋とは、今の料亭にあたる店のことで、置屋は太夫や芸妓を派遣する店のことをいう。

 所在地:京都市下京区西新屋敷場屋町32。
 交通: 阪急電車四条大宮駅から市バス207・206系で島原口下車、花屋町通を西にまっすぐ突きあたり、徒歩10分。JR京都駅から市バス205系で、梅小路公園前下車、壬生川通を北へ、正面通(一つ目の信号)を西へ、突きあたりの公園を北へ徒歩10分。




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 「新島襄旧邸」(にいじまじょうきゅうてい)

2008年03月05日 16時19分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都御所東側の寺町通に、明治初期に建てられた威風堂々とした洋風民家がたたずむ。同志社大学の創設者、新島襄夫妻が暮らした「新島旧邸」だ。今も、当時の面影のまま大切に保存されている。

 新島襄はアメリカ人宣教師の助言を受けながら、日本の大工の手によって、明治11年(1878)9月に完成させたもので、寄せ棟屋根の木造2階建て。1階が食堂や応接間など約210平方メートル、2階が寝室など約140平方メートルで、全体に質素な造りとなっている。

 建物の外観は、東・南・西の3面にベランダを張り巡らし、アメリカの開拓時代を思わせるような洋風建築。内部は、いすやテーブルを配しているものの、障子やふすま、よろい戸があり、伝統的な和風の建築技法が随所に見られる。
 1階部分は、公的な場としても使われた。玄関を入って右手にある応接間は、教室、職員室、大学設立の募金活動の事務所にも利用された。
 
 明治14年(1881)に会堂が完成するまでは、教会の機能も兼ねていたという。さらに、奥に進み、居間を抜けると、書斎が当時のまま保存されている。学生が出入りして、本を自由に借りていたといい、書棚には当時のまま、洋書がズラリと並ぶ。襄が愛用した家具五七点は、簡素な室内とよく調和しており、なかでも国産の洋家具は明治時代初期における家具技術を示す資料としても価値が高く、当初の面影をしのばせているようだ。

 新島夫妻がここで暮らしたのは、わずかに10年。第2次世界大戦後は、無人となったが、明治23年(1990)5月から翌々年7月にかけて、老朽化が激しくなった旧邸の保存修理工事を行った。改変された個所も創建当時の状態に戻された。

 新島襄が創立した同志社大学には、明治期の代表的な洋風建築(重要文化財)数棟が残る。なかでも明治19年(1886)完成の礼拝堂は赤煉瓦、鉄板ぶき、急勾配屋根に尖りアーチをのせ、円窓にステンドグラス、外壁に白い花崗岩をはめ赤煉瓦と調和させるなど、アメリカン・ゴシックの流れを日本の技術に溶け込ませた秀作といわれる。設計は宣教師のD.C.グリーン。

 重要文化財建築はこのほか彰栄館(1884)、ハリス理化学館(1890)、有終館(1887)、クラーク記念館(1894)が現存している。なお、ハリス理化学館2階には常設展示室があり、創立者新島襄のノート、手紙、日記等の展示を中心に年に2回、企画展を開いて一般公開している。
 公開日は、3月~7月と9月~11月の毎週水曜日及び土曜日(ただし、祝日は除く)。

 所在地:京都市上京区寺町通荒神口下ル松蔭町。
 交通:京阪「丸太町駅」下車、西へ徒歩10分。

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