太平洋・大東亜戦争の終戦前、
支那には、多数の租借地と租界地という「外国の土地」があった。
しかし、今は、
そのすべてが、支那の支配する領土になっている。
これ、日本のおかげである!
そもそも、
租借地と租界は、
1840年代、
清朝が弱体化するにつれ、
列強が「外国人居留地」として、
清朝に認めさせたものである。
この「外国人居留地」は、
ケースバイケースではあるが、
行政権や司法権などが、
かなり外国列強が握っていた。
(司法権の場合は、治外法権という)
租借地と租界の違いは、
規模である。
租借地はかなり広い。
「町全体」とか、近隣の山や海水域などを含む事もあった。
他方、租界は、「町の一角」という感じだ。
権利関係も、かなり違っている。
租借地は主な権利は、ほとんど外国が握っているし、
地代も払わなくてよかった。
しかし租界は、権利関係が、支那と外国が「半々」という感じで、
外国が地代も払っていた。
しかし支那にとって、
租借地も租界も、「外国」なわけであり、
困ることが多かった。
たとえば支那人の犯罪人が、
租借地や租界に逃げ込めば、
支那政府はタッチできなかった。
税金も、一部しか徴収できなかった。
ところが!
日露戦争、第一次世界大戦、大東亜戦争・・・・と続く中で、
日本は、列強(イギリス、ロシア、ドイツ、イタリア)の租借地や租界を、
次々と接収し、
結局、「まとめて、支那に、返還した」のである!
もしも日本が、支那に一切ノータッチならば、
支那は、1945年の時点で、
国内に、多くの租借地や租界を抱え、
いろいろ苦労していたことだろう。
それどころか、
満州全体も、
ロシア・ソ連の植民地になっていた可能性も高いのである!
それを防いだのは、
日露戦争の勝利であり、
これにより、ロシアは、ギャフンとなり、
「満州は様子見やな」と思うようになったわけだ。
以下、日本が関係した租借地や租界を列挙しよう。
こんなにも、日本は支那に貢献しているのである!
*租借地
1. 膠州湾(山東省の青島)
1914年第一次世界大戦中に、
日本軍がドイツの租借地を占領。
1922年中国へ返還
2. 関東州(遼寧省の旅順、大連)
1905年、ロシアに代わり日本が租借。
1945年支那が接収
3. 広州湾(広東省の湛江)
もともとフランスの租借地だったが、
1943年日本軍が占領。
1945年支那が接収
*租界
1. 本来、イキリスの租界・・・
広州、天津・・・日本軍から汪兆銘政権へと渡された(接収)。
2. 本来、フランスの租界・・・
上海、天津、広州、漢口・・・日本軍から汪兆銘政権へと渡された。
3. 本来、イタリアの租界・・・
天津・・・汪兆銘政権へと渡された。
4. 本来、日本の租界・・・
杭州、蘇州、漢口、天津、沙市、福州、アモイ・・・汪兆銘政権へと渡された。
・・・・支那は、日本に感謝すべきである!!
支那本土から、外国人を追っ払ってくれたのである!!