福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

新羅からの舶来品への思いを知るおべんきょうをして そこから筑紫館の果たした役目を確認したいところです

2014年05月24日 13時03分23秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
お昼ごはんを済ませて、おちびさんと ちょっとおでかけ&日常の ちょっとこまごました買い物・・・のつもりが。


寝た

おちび、寝た

うん、いつもなら、「よーし、まちまなびだ!おべんきょうだ!ノートに書き込むぞ!ブログも書くぞ!」と喜ぶところですが。

・・・・・・・・お出かけ予定がある場合は、ちょっとガッカリ


これはもう、おべんきょうしなさいってことでしょうと思って、
ブログ書いても まだ起きなかったら、素直に 鴻臚館跡のおべんきょうをやります・・・・・。


昨日も お昼寝時間を有効活用できて、ノートにまとめる作業、はかどったんですけどね。


“新羅からの舶来品に対する日本貴族の思い”を あらためて確認しました。

『隋唐帝国』にあった
“738年以降、日本への新羅使節団員の数が増加しているが、これは朝貢よりも貿易が主となったため、商人が加わった結果とみられる。
 これには、当時の日本の貴族が新羅舶来品を歓迎したことも原因があるとみなすべきであろう。”
という文章から「よし!確認だ!」と思って

2冊の図録、
『古代の博多 鴻臚館とその時代』と『新羅千年の美 韓国古代文化展』と
あと もう一冊『はかた学2 古代の都市・博多』を参考にして
黙々とノートにまとめました。


統一新羅の金属工芸品とか、日本の 当時の・・・奈良時代の貴族の人々には、本当に憧れの品だったんだろうな
だからこそ、新羅使の後半は ちょっと様子が変わってきたんだろうなとも思います。

新羅使の後半のことを 黙々と知っていこうとすると、
古代って“外交”と“交易”は、
・・・・・・・うーん、車の両輪というか・・・・・・・・
どちらかだけで説明できるものではないのかもだなぁ~~なんて思います。


あー、鴻臚館跡の展示館にも、新羅使や遣新羅使、古代のころの新羅と日本、新羅と北部九州について もーっといろいろ知れる情報があったらいいのに!!

新羅使や遣新羅使のことを知っていくと、
筑紫館が出来上がって、名称が鴻臚館に変わって・・・と たてものの名称や規模、役目に変化はあったけれど、
とにかく、今の福岡市の 真ん中あたり、
昔は福岡城であり、
今は舞鶴公園、戦後の復興期から何十年かは平和台野球場でもあった場所、っていうところに
たしかに古代の時代に存在した“客館”って 
結構すごいものだったんだ!って ほんと 思えるんですけど・・・・・・。

ねぇ。

新羅使も、遣新羅使も さらーっとした触れられ方だったもの・・・・・・。
大宰府の外港である博多大津と、
そこにある客館・筑紫館の果たした役目のすごさが 伝わりづらくて、なんだか もったいないようなぁぁぁぁぁ・・・・・・・



もう少しおちびが大きくなったとき、または ほかのまちから たとえば友達とか親族のみなさんが遊びに来たとき、
鴻臚館跡を案内する機会が できたら・・・・・・
「筑紫館、鴻臚館って すごいとよー」って
補足説明として、統一新羅の貴族文化と文物の話や 新羅使・遣新羅使の話が できるようになっておきたいなって思います


もちろん、中国からの舶来品の話も大事だと思うんですけどねー。
でも、五代十国にしても宋にしても、もーう ちょっとあとの時代だから・・・・・
“779年以降、交易のための施設として変わっていく”のところが つたわりにくいんですもーん



・・・・・・・・・・・・うん、ここまでブログ書きましたが、おちび、起きる気配なし

今から ちょっとまた 読書しましょうかね

当時、新羅からの舶来品として、
新羅使と共に筑紫館にやってきたと思われる いろんな品々について
ちょっと細かく確認していこうかなと思っています。