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チャック・ヘーゲル 関係資料

2013年03月05日 | 政治

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生い立ち

チャック・ヘーゲルは1946年10月4日、ネブラスカ州のリンカーン郡ノース・プラットで、チャールズ・ディーン・ヘーゲル(Charles Dean Hagel)とベティ・ヘーゲル(Betty Hagel[2])夫妻の間に生まれた。父はドイツ系を先祖に持ち、母にはポーランド系とアイルランド系の血が流れているという[3][4]。

ネブラスカ州コロンバスローマ・カトリック系の私立高校、セント・ボナヴェンチャー高校(St. Bonaventure High School[5])を卒業後、ミネソタ州の営利大学であるブラウン・カレッジの放送学部に進学、ラジオ放送について学び1966年に卒業する。その後は地元のネブラスカ州に戻り、さらにネブラスカ州立大学オマハ校に進学、歴史学の学位を得て1971年に卒業した。

ネブラスカ州立大在学中の1967年から1968年にかけては、兵役により陸軍に入隊し、ベトナム戦争下のベトナムに従軍している。ベトナムでは第9歩兵師団隷下の第47歩兵連隊に配属され、歩兵分隊の分隊長を務めた。1968年に軍曹の階級で名誉除隊。従軍中は、戦闘時の功績などによりベトナム共和国(南ベトナム)武勲十字章や名誉戦傷章(パープルハート)、陸軍称揚章などを受章している。復員後は、バーテンダーやラジオのニュース・キャスターとして働きつつ、復員軍人の社会復帰を支援する復員軍人援護法(G.I. Bill[6])による援助を受けながら大学に通ったという経歴を持つ。

[編集] ワシントンD.C.での経歴

ネブラスカ州立大卒業後は、ネブラスカ州第2区選出のジョン・Y・マカリスター連邦下院議員(共和党)のスタッフとして雇われ、ワシントンD.C.の同議員のオフィスで働く。1977年に同議員が退任すると[7]、その後はロビイストに転身し、大手ゴム・タイヤメーカーのファイアストン社のロビイストとして4年間働く。また、この間に実施された1980年の大統領選挙では、共和党のロナルド・レーガン元カリフォルニア州知事の陣営で組織担当者(オーガナイザー)として活動し、レーガンの当選に貢献している。

レーガンの大統領当選後は、選挙活動での貢献などを買われて退役軍人局(のちの退役軍人省)の副局長に任命される。しかし、上司(退役軍人局長)であるボブ・ニモとの不和・対立から、1982年に同職を退任し、実業界に転身する。ニモとの不和・対立との原因は、ニモが退役軍人向けプログラムの予算を削減しようとしたことや、退役軍人団体を「欲深い」と表して侮蔑したこと、枯葉剤(エージェント・オレンジ)の影響について「ティーンエイジャーの小さなにきびよりも悪くない」と誤った認識を示したこと、などが挙げられている[8]。

[編集] 実業界での成功

公職を辞したヘーゲルは実業界に転じ、3人の仲間とともに携帯電話会社「ヴァンガード・セルラー・システムズ」を起業する。ヴァンガード・セルラー社は携帯電話普及の流れに乗って規模を拡大し、1990年代には大手通信会社の系列に属さない独立系携帯電話会社(キャリア)の中では全米最大の規模を誇るまでになった。ヴァンガード・セルラー社は1999年にAT&Tに買収されたが、ヴァンガード社での成功はヘーゲルを億万長者へと押し上げることとなった。

また、ヴァンガード社の経営にあたる一方で、実業界の様々な業界団体などで公職を務めた。全米サービス産業連盟(USO)や民間企業協議会の会長・最高経営責任者(CEO)を歴任したほか、ジョージ・H・W・ブッシュ政権時代の1990年にヒューストンで開催された主要国首脳会議(G7)では、副事務局長兼最高執行責任者(COO)として活躍した。また、アメリカ合衆国赤十字社や複数のシンクタンク・政治団体(アイゼンハワー世界問題研究所、リポン・ソサイエティ、ブレッド・フォー・ザ・ワールドなど)の理事や顧問、枯葉剤被害調停基金総裁なども歴任している。この他には外交問題評議会にもメンバーとして迎えられている。

この頃、20年近く在住していたバージニア州の知事選に出馬を期待する声もあったものの、それらの声に応ずることはなく、1992年には地元の投資銀行マッカーシー・グループの会長に就任するためヴァンガード社を離れ、ネブラスカに戻った。また、マッカーシー・グループの会長職と併せて、同社の子会社で電子投票機の製造を手掛けるアメリカン・インフォメーション・システムズ(AIS)の会長兼CEOにも就任し、1995年3月15日に上院選出馬のために退任するまで同職を務めた[9]。このうちAIS社は、のちにイレクション・システムズ&ソフトウェア(ES&S)社に社名変更し、電子投票機のメーカーとして全米的な知名度を得るようになる。ES&S社の規模拡大などにより、ヘーゲルは親会社のマッカーシー・グループを通じて、2003年までに少なくとも500万ドルの収益を上げたとされる[10]。また、マッカーシー・グループの創業者であるマイケル・マッカーシーは、のちにヘーゲルの上院選挙で財務責任者を務めることになる[11]。

上院議員

[編集] 選挙戦での戦い

[編集] 1996年

詳細は「:en:United States Senate election in Nebraska, 1996」を参照

1996年、ヘーゲルは地元ネブラスカ州から、同年に実施される連邦上院議員選挙で改選対象となる議席を狙い、共和党から選挙に出馬することを決意する。この選挙は、それまで3期18年間にわたって上院議員を務めてきた民主党のジム・エクソン議員の引退により空席となる議席を争うものだった。

ヘーゲルは、まず共和党内での予備選に出馬、対抗馬だったドン・ステンバーグ州司法長官を破り、本選挙への出馬を果たす。本選挙では、同じく連邦政界進出を目指す有力な対抗馬だった民主党のベン・ネルソン州知事に対し、得票数にして9万8,000票余り、得票率にして15%近い差を付けて勝利し、政界進出を果たす。当初は州知事としての経験・知名度があり、人気も高いネルソンの方が優勢であると見られていたが[12][13]、その下馬評を覆しての「番狂わせ」的勝利だった[12][13][14]。この勝利は、1972年のカール・カーティス上院議員の再選以来、共和党にとって24年ぶりのネブラスカ州での上院選勝利だった[15]。

ちなみにこの時の対抗馬だったネルソン州知事は、1999年に2期8年の州知事としての任期を満了・退任した後、2000年に実施された連邦上院選挙で、引退するボブ・ケリー上院議員の後継として出馬・当選を果たし、かつてライバルとして選挙を戦ったヘーゲルと(ヘーゲルが引退するまでの8年間にわたり同僚として任にあたることとなる。

[編集] 2002年

再選を目指して出馬した2002年の選挙では、共和党内の予備選は現職として支持を固めて危なげなく乗りきったうえ、本選挙ではライバルの民主党から有力な対抗馬が出なかったこともあり、次点の民主党候補に対して得票率にして約83%という圧倒的な票差を付け、再選を果たした[16]。この圧勝ぶりは、州知事選や上院選など州全体で争われる選挙に関して、ネブラスカ州史上最も大きな差をつけての勝利だった。
( wikipedia より抄出紹介 )

 

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