我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

結城一平  ドイツ銀行と自由主義 その1

2009年07月25日 | 経済

 

 

 


昨日の『株式日記と経済展望』は、テーマが、「【クリミア戦争】 国民とマスコミが強く戦争を望んで、平和を望んだ政府の鼻先をつかんで引きずり回し、国家を戦争に追いやっていった。」でした。


そのコメントの中で、(すべて私がきめる) さんのコメントは大変興味深いものありました。すこし引用させて頂きます。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/4cda508347204a8a7bfccede6cd30c8e
m(_ _)m引用始めます。

当然、ナチスは農家に手厚い保護をした。
(略)
そのためナチスは、世襲農場法という法律を作った。
世襲農場法は、一定の条件を満たす農家は、農地を借金のカタに取られないようになり、大きな借金を背負っている場合は、返済できる金額まで引き下げられるという法律だった。
一定の条件というのは、
.7.5ヘクタール以上125ヘクタール以内の農地を経営していること
・正統なドイツ人であること
・男子-人に農場を継がせること
などである。
125ヘクタール以内という条件は、ちょっと不思議に思われるかもしれない。ユンカーと呼ばれる貴族的な農場主に対しては、この法律の恩恵を受けさせないようにしたのだ。ナチスは、弱小農民の味方というわけである。

<(_ _)> 引用終わります。


『地と血』とよく言われますネ。ナチスの存立基盤は中規模の自作農だったのでしょうか。日本でも、親衛隊の近衛兵はおもに地主層の意志堅固な者の中から選ばれました。土地に対する執着と地域社会への愛着は、国家への忠誠の出発点なのでしょう。

 

『我が闘争』(Mein Kampf)は、1945年の4月までには約1,000万が出版されたとされています。そのなかに、大衆は難しいことはすぐ忘れてしまうので、言葉を絞って単純なフレーズを何度もなんどもくりかえすことがよいと述べているそうです。

小泉元総理の時代も、同じような手法で、『構造改革』、『郵政民営化』、『官から民へ』などと単純なフレーズを連呼しています。


『日本人が知らない 恐るべき真実 研究ノート』さんのブログに、国家統治から自由な中央銀行の危険性とその対策としての、改正ライヒスバンク法についての記述があります。
http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/c-15-3.html

m(_ _)m引用始めます。

ヒットラーも実は中央銀行の危険性に気がついて、政権の終盤の1939年に、少し遅すぎたが、シャハトをクビにした。ヒットラーはある特定の投資家が中央銀行を持っているのは問題があると考え、政府と一致する、政府を支持する、国民のための中央銀行を設立すべく、1939年に改正ライヒスバンク法を導入した。

当時、日本はドイツと同盟関係にあり、革新官僚と呼ばれた人たちがその法律のよさに気がついて、日本にも導入しようということになった。その法律には、中央銀行は政府の下にあると書かれていたので、大蔵省を政府の代表とみなして、大蔵省の下に入れることになった。こうして、改正ライヒスバンク法は日本語に訳されただけで、1942年に新日銀法として日本に導入された。

それで日銀の生え抜きのプリンスたちが困った。この法律はよくないと、占領軍に改正を要求した。ウォール街の金融財閥も日本に日銀法改正を要求していた。しかし占領軍の司令部は、その法律のことをそれほど悪くないと考えていた。彼らは民主主義の視点から、中央銀行はやはり国民に選ばれた代表の下、つまり政府の下にしないと民主主義ではないと指摘して、そのままその法律が残った。

<(_ _)> 引用終わります。

日銀法改正
平成10年4月の日銀法改正の最大の目的は、この中央銀行の危険性を増大させるものなのでしょう。以下に『日銀のサイト』を紹介します。
http://www.boj.or.jp/type/exp/about/law01.htm


平成8年1月11日から、平成10年7月30日までは橋本龍太郎が総理でした。
平成10年7月30日には、小渕内閣が発足しています。

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