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記者の目:八ッ場ダム建設中止は乱暴=伊澤拓也
就任したばかりの前原誠司国土交通相が、民主党のマニフェスト通り、八ッ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)の建設中止を表明した。これに対し、建設を望む地元住民は、23日に行われた国交相との意見交換会を欠席して反発を強めている。議論が平行線をたどる中、地元住民が「ダムによる生活再建」以外に展望を見いだせないからこそ、中止に反対していることを忘れてはならない。国交相はダムに頼らない地域の将来像を早期に描き、住民に提示する必要がある。
「誠に言いにくいが、中止を白紙に戻すということは考えておりません」。群馬県知事や長野原町長ら、首長と県議が出席した意見交換会の終盤、前原国交相が改めて「中止」を白紙撤回する意思がないことを明言すると、会場の空気が張りつめた。大臣として最初の視察地に選んだ現場で、メモも見ないまま「ダムに頼らない治水」への理解を求めた国交相のぶれない態度は評価してもいい。
ただ、前原国交相の記者会見で、気になる発言があった。住民の生活再建について問われたときのことだ。「(住民と)相談しながら、新たな選択肢をつくりあげていく。押しつけるものであってはならない」。これでは、住民の同意を得るのは難しいと感じた。計画から57年という歳月の中で、住民が疲弊しながらたどり着いた現状を、国交相は理解していないのではないだろうか。
07年4月に前橋支局渋川駐在に赴任し、2年間八ッ場ダム問題を取材した。初めて水没地区にある川原湯温泉を訪れたときの戸惑いは忘れられない。緩やかな坂道に並ぶ風情のある木造旅館が数年後には水に沈む。そう言われても、ピンとこなかった。それにもまして、住民のほとんどがダムに賛成している事実が信じられなかった。
住民はなぜダム本体の完成に執着するのか。代替地への移転を進め、付け替え道路と鉄道の建設も継続するという民主党の政策のどこが不満なのか。その疑問を解くカギは、現地を翻弄(ほんろう)し続けたダムの歴史にある。
計画が浮上したのは1952年。サンフランシスコ講和条約が発効し、戦争状態が終わった年だ。水需要の高まりを背景に、治水と利水を兼ねた「首都圏の水がめ」として早期完成を期待されたが、住民は猛反発した。
だが、国との個別交渉で高額な補償を提示された住民らが賛成に転じ、町は真っ二つに割れた。01年に住民代表が補償基準に調印したとき、闘争は終わりを告げ、疲弊した住民は重機が往来する古里を次々と去った。代替地への移転を希望する世帯は01年の470世帯から3分の1以下に減った。急激な人口の減少で、地域コミュニティーの維持も難しくなった。
川原湯温泉もやはり活気を失った。80年代に22軒あった旅館は現在7軒。空き家が目立つうえ、移転を控えて改修を見送っているため、老朽化が進んでいる。そんな中で、住民たちはダム湖を観光資源として温泉街を再生する計画にたどり着いた。川原湯の住民は現在より東の高台に造成中の代替地に新たな温泉街をつくり、ダム湖の集客力でにぎわいを取り戻そうという青写真を描いたのだ。
ダムに反対する市民団体「八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会」の嶋津暉之(てるゆき)代表(65)が「これまでダムでにぎわった街はない」と指摘するように、ダムによる街の再生が成功するかは未知数だろう。それでも、川原湯で「やまた旅館」を営む豊田拓司さん(57)は「夢物語だとは分かっているが、古里に残るにはその選択しかなかった」と苦しい胸の内を明かした。57年という歳月の中で生まれた、複雑に入り組んだ感情。取材中、淡い希望に残りの人生を託すしかなくなった住民の思いに何度も触れ、胸が張り裂けそうになった。
前原国交相は必要性に疑問符が付くダムの建設を中止し、河川整備による治水を掲げている。確かにダムの必要性には疑問があるが、具体的な河川整備計画もないまま中止を宣言するのは乱暴ではないか。代替案すら用意していないようでは、関係都県を納得させるのは難しい。住民の生活再建策と河川計画を、セットで提示すべきだ。
言うまでもなく、一番の被害者は住民だ。しかし、住民にも考え直してほしいことがある。前原国交相が「住民の理解なしに中止手続きは始めない」と言明した以上、話し合いのテーブルに着くべきではないか。不満はその場でぶつければいい。
民主党が投じたボールはいま、住民の手元にある。足踏み状態が続けば、現地の高齢化が一層進むだけだ。一刻の猶予もないと思う。
(^_^;)紹介終わりです。