うたのすけの日常 昭和33年結婚しました 前編
昭和33年東京タワー出現
高度成長時代の象徴といわれ、当時世界一を誇る鉄塔でした。この年関門国道トンネルが開通し、巷では日劇で第一回ウエスタンカーニバルが開催され、ロカビリー旋風が吹き荒れました。そしてスポーツでは長嶋茂雄が新人王を獲得しています。政界では第二次岸内閣が成立し、衆院の正副議長と16の常任委員長をすべて自民党が独占しました。
あたしはこの年の四月結婚しました。かみさんは農家の娘であります。あたしには過ぎた女房。以来50年、来年は金婚式を迎えます。
結婚は見合いです。仲人に連れられ常磐線に揺られ、私鉄に乗り換えて降りた駅からバスです。道が悪く横揺れではなく、バスはバウンドして頭が天井にぶつかるのではないかと危惧されました。連絡の不手際からかみさんは不在でしたが、とにかく見合いが終わったときは辺りはうす暗くなっていました。表へ出ると家々で風呂を焚いているのか、夕餉の支度か、薪の燃える匂いが懐かしく、たなびく煙が美しいの一言以外、表現の言葉がありませんでした。庭の一角からは牛の鳴き声が長閑に、そして哀愁を誘います。
何日かしてかみさんが仲人に伴われ、父親も同行でわが家を訪れました。あたしは不在です。理由は勘弁してもらうことにして、母は組合の用事でよんどころなく外出していると、頭を下げました。これは後日聞いたことです。夕食の宴がもたれ母はかみさんに、食べたいものを遠慮なくと促したそうです。当時は鮨を取るなんて贅沢は許されなかったのですね。もっとも馴染みのすし屋自体が近所になかったわけです。かみさんは小声で中華の堅い焼きそばをと言ったそうです。このことは後々わが家では笑いと共に伝説になりました。なにしろわが家では中華そばの出前なんか取ったことはありません。来客時にはそば屋でざるそばを取るぐらいがせいぜいでしたから。妹たちもご相伴に預かったそうです。
数日後母があたしの不在したことを責め、返事はどうするのだとせっつきます。既に仲人からは相手はぜひということで、こっちの返事待ちという事態になっていたのです。両親はすすめます、親が賛成ならあたしには言うことはありません。「貰うよ」あたしの一言で結婚はきまりました。かみさんとは一度しか会っておりません、それも農家の薄暗い電灯の下でです。しかし下町の吹けばとぶよな商家の嫁取りなんてこんなもんです。さあそれからが大変です。下町の住人は何事も早くが身上です。
新婚夫婦の住まいの建築が間を置かず始まりました。二間続きの奥の六畳についてる廊下の外に、半間の間をおいて廊下を渡し、急遽六畳一間の新居の増築工事です。建坪四坪ほどの建築費は10万円?ぐらいではなかったでしょうか。そこに日もおかず、花嫁道具が送られてきます。桐の箪笥に洋服ダンス、ベビー箪笥に鏡台、えこう掛けに裁ち板針箱。盥に洗濯板に張り板。近所のかみさんが品定めに来て、遠慮なく箪笥を開けたりしていました。まだまだ貧しかった時代の、庶民の花嫁道具の定番だったのではないでしょうか。結納金はいかほどだっかは知りません。後年かみさんがポツリと言ったことがあります、結納金は桐の箪笥で消えたと。それから父や母がやさしそうだったから、結婚に踏み切ったということも。
そうこうしているうちに結婚式です。
結婚式はまだまだ、式場で行うなんてことは主流ではなかったのでしょう、当たり前のようにわが家で行われました。その前にかみさんを迎えに行き、そこでも結婚式を行うと言う田舎の仕来たりに従いました。もちろんかみさんの家でです。仲人と姉に付き添われハイヤーを奢りました。といっても全て親や姉まかせ、抱っこにおんぶで黙々と従うだけでした。
式は親戚一同出席ということでしょうか、三々九度の杯を交わしたあと座は和み、杯が飛び交い賑やかな雰囲気でした。近所の人たちが庭先に詰めかけ、無遠慮に廊下の障子を開け覗き込みます。そのうち押し合って障子が倒れるといった騒ぎもありました。それから車を連ねて今度はわが家に向かったわけです。家での結婚式が待っているのです。途中写真やに寄ります。慌しいことこの上もありませんでした。