経済論とは大仰な、単なるやりくりです
先ずあたしも家内も多勢の兄弟に恵まれていたというのが、今回のあたしのお話の前提になります。そして発端は親から受け継いだ住宅店舗の建て直しであります。区画整理の建物の引越しなどで、改築修理は重ねてきましたが、元の建物といえば戦後の21年に建てたバラックです。それが本体なのです。
44年に母が亡くなり、いろいろ難事がありましたが、ようやく店舗を建て直す資金の目途ががたちました。しかし何事にも目算狂いというものは付き物です。ここでは予算オーバーです。あれやこれやで途中で仕事の上での不都合が出たりして、設計のやり直しでみるみる資金は底をつき、什器や店の造作類に手が及びません。頼みの銀行は最初こころよく承知してくれたのですが、途中から雲行きが怪しくなり、中小企業金融公庫?を紹介するというのです。要は貸し渋りに転じたわけです。紹介するといっても審査が通らなければアウトだし、ことは急を要するのです。
そんな急場に救いの神、中華そば屋を経営する友人が、最近駅前に新店舗を開店した相互銀行を紹介してくれたのです。新しく進出したため顧客の獲得に懸命で、貸し出し条件はゆるいというわけです。建物を担保に入れるのは当たり前ですが、条件はただ一つ、幾ばくかの定期を購入、それを担保に入れるということです。定期を組む金があれば、なにも金なんか借りるかいと啖呵を切るわけには参りません。定期に倍する融資を受けるのですから。今度はその金の算段です。
かみさんがずばりと云いました。「兄弟に借りる」その一言で道は開きました。かみさんの兄弟は五人、あたしもそうなれば黙ってはいられません。あたしの兄弟も五人です。兄弟の中にはかなりの金持ちもいましたが、二人で相談して皆の経済事情を忖度し、多少の差をつけて右から左へと出せる金額の融資を頼んだ次第です。要するに一人に大金を頼んでも何かとこちらとしても気が重いし、皆に少しづつ負担してもらえればいいのではないかと。みな気持良く出してくれました。いきなり百万貸せというのではありません。当時としても兄弟たちにとってそれぞれ無理せずに用立てできた金額であった筈です。まこと勝手極まる理屈ですが正直ありがたかったです。
あたしは三本の矢の故事を思いました。一本の矢は簡単に折れるが三本束ねれば容易に折れない、兄弟結束の大事を教えた昔修身で習った故事です。現在の少子化時代では考えられないことです。あたしの事例も一人っ子の時代ではあり得ない話です。
このことだけとっても少子化は世の中を暗くすると思います。この先兄弟の助け合いとか、従兄弟同士の交遊は夢また夢の話で寂しいかぎりです。
さてこの話には後日談があります。借りた金は借入先の経済状態をあたしなりに推察して、順次返済したのですが一口だけ残したままだっのです。あたしもそれなりに銀行の返済もありますし、最後の一口のあたしの長姉の分を、姉は金持ちだし甘ったれてトボケテいたわけです。ある日電話がありました。
「皆に聞いたら返してもらっているというじゃないか。姉ちゃんの分はどうなってんのよ」と。
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当時の金融機関の横暴もひどいもので、融資した金で定期預金を作らせ、融資額をふくらませて実質金利を引き上げるのは常識でした。年利12パーセントが昭和50年頃の常識だったと思います。