ここ閖上小学校では地震当初、小学生、教師とその親は体育館に避難していて、その後駆け込んできた近所のお母さんから津波が押し寄せていると言う情報が入って、急遽校舎の3階に移動して、危機一髪助かったらしい。
その校舎の3階に上がってみると、見晴らしはかなり良く、押し寄せて来る津波とその水位の上昇を、他の逃げ場もない中、ただただ不安げに見守るだけしかない心境は、想像以上に怖かっただろうと、その場に立って実感します。
校庭の隅にあるコンクリート製の小山の上に、その時流されてきた漁船が取り残されています。
そこから海の方向に行くと、ほとんどの建物は流されているか残がいかで、そこから見える小高い山(丘)の上にある日和山富士主姫神社も鳥居は流され、桜の老木も倒れ、頂上に建つお社も流失していた。
明日仙台経由で帰京するのでお土産に、春の味山菜をゲットしに山に入った。
期待以上な成果で、シドケ(和名モミジガサ)、ミズ(和名ウワバミソウ)、アイコ(ミヤマイラクサ)、コゴミ(クサソテツ)、それに葉ワサビ、おまけに山ウド一本と、種類豊富で大満足した。
10日ほど前はフキノトウにコゴミと葉ワサビしか見かけなかったのに。
山の環境は日々刻々変化が早いと、改めて実感しました。
復興支援ゴルフ、元気をいただきました。
復興支援スナック、癒されました。
復興支援お笑いライブ「アンガールズ」「綾小路きみまろ」、励まされます。
・・・「復興支援活動」増殖中、美談次々・・・ありがたいです、気持ちが明るくなりました。
和泉式部は紫式部、清少納言とともに平安時代(400年近く続いた)の三才女と言われています。
それにしても、100年に一人の女性が同時期に3人も。
その中でも美人だったのは和泉式部ではないでしょうか。
元祖プレイガール(当時の呼び名は浮かれ女)と言ってもいいくらい恋愛遍歴が華麗(皇子兄弟とか)だったようで、紫式部も「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と日記に書き残しました。
晩年の歌で百人一首の56番でも「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」と、とことん。
時代を下って南北朝時代(鎌倉~室町時代)の「太平記」の登場人物、児島高徳。
隠岐島に流される後醍醐天皇の救出に向かって果たせなかったけど、美作守護館の天皇宿舎付近の桜の木に「天莫空勾践(てんこうせんをむなしゅうするなかれ)時非無范蠡(ときにはんれいのなきにしもあらず)」(意味は、天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)
この美談(逸話)だけで、戦前教育のヒーローだったようです。
このお二人のお墓(いずれも全国に多数存在しますけど)が、ここ田舎にもありました。
余談ですけど、范蠡とその彼女西施が晩年を暮らした地、無錫の蠡園の写真はカテゴリー「中国旅行ですけど」にアップしています。