史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

月形 Ⅱ

2015年12月12日 | 北海道
 昨年の春以来、一年半振りの月形である。例によって月形樺戸博物館を訪れたのは開館時間前だったので、拝見は適わず。博物館のそばに月形潔の胸像と顕彰碑が並べて置かれており、その写真を撮って次の史跡へ急いだ。
 月形潔は、弘化三年(1846)、月形健の長男に生まれた。月形健は、福岡藩の勤王の志士月形洗蔵の弟。幕末、福岡藩で勤王党が弾圧されたとき、月形潔も一族とともに拘束・投獄された。維新後、新政府に出仕した。北海道における集治監候補地調査を命じられ、石狩川上流のシベツブト(現・月形町)を選定し、明治十四年(1881)この地に樺戸集治監が建設され、初代典獄(署長)に任命された。村人は月形潔の功績を称え、同地を月形村と命名することを提案した。極寒の地における激務が祟った月形は、肺を患って辞任。郷里の福岡で静養したが、明治二十七年(1894)、四十八歳で他界した。


月形潔胸像


月形潔君之碑

 この顕彰碑はもともと北漸寺境内にあったが、それを移設したものである。

(円山公園)


北海道開拓八代典獄紀念之碑

 円山公園に、初代典獄月形潔以下歴代の樺戸集治監の典獄の名前を刻した記念碑がある。

(北漸寺)


北漸寺

 北漸寺は、明治十八年(1885)、典獄月形潔が建立した寺である。寺宝として、熊坂長庵作「弁天図」を保有している。

(篠津囚人墓地)


樺戸典獄死亡者之碑

 明治十四年(1881)、樺戸集治監が設けられ、明治三十六年(1903)、樺戸監獄と改称され、大正八年(1919)に廃監となるまでの三十九年間、多いときには千三百名前後の囚人が服役したといわれる。厳冬期にも道路開削の外役に出され、斃死した者も数知れなかった。まさに官が作ったこの世の地獄であった。廃監までに病気、事故などで死んでいった囚人の数は千四十六名で、そのうち肉親にひきとられなかった千二十二名は、通称監獄墓場といわれる篠津霊園に眠っている。収容された囚人には、明治初年の自由民権運動での国事犯を始め重罪人が多く、中には強盗常習犯の「五寸釘寅吉」こと西川寅吉や藤田贋札事件の主犯として投獄された熊坂長庵などがいる。


囚人墓地

 正面に戒名を刻んだ墓石が整然と並ぶ様に圧倒される。


樺川堂宝山跡昌居士之墓

 熊坂長庵の墓は、ほかの囚人の墓から少し離れた場所にある。この墓誌は、愛川町の龍福寺の住職の手により建立されたものである。
 熊坂長庵は、弘化元年(1844)、愛甲郡中津村十七番地(現・愛川町)に生まれた。明治六年(1873)、中津村の救弊館(現・愛川町立中津小学校)の初代館長となった。明治十年頃に起こった藤田組贋札事件は、様々な思惑も絡み不透明なまま終結するが、明治十五年(1882)、熊坂長庵は紙幣贋造の罪により神奈川重罪裁判所より無期徒刑の宣告を受けた。長庵は直ちに大審院に上訴したが棄却され、明治十七年(1884)三月、樺戸集治監に収監された。獄中にあって得意の絵画に専念し、幾多の名作を残した。明治十九年(1886)四月、樺戸集治監にて死去。

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