史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「「旧説vs新説」幕末維新43人」 安田清人著 MdN新書

2022年01月29日 | 書評

本書は幕末維新期に活躍した著名な人物四十三人を取り上げ、旧来の人物像を新説で塗り替えようというものである。

たとえば、勝海舟は「西郷との膝詰め談判で江戸の町を戦災から救った」偉人として知られるが、最近では「「無血開城」の前交渉を行った山岡鉄舟の役割」を評価し、相対的に海舟の貢献度は低下している。

西郷隆盛については「倒幕の道筋となる薩長同盟締結の立役者」とされているが、実際には「同盟ではなく連携程度」のものであり、しかも「西郷に連携を命じたのは久光」であるといわれている。また同盟締結の薩摩側を代表するのは、西郷ではなくて小松帯刀であり、薩長同盟というより「木戸・小松覚書」が実態であったと見るのが最近の有力説となっている。

坂本龍馬は、誰もが知る「脱藩浪士でありながら、明治維新を成し遂げたヒーロー」であるが、最近では「薩長同盟の立役者」とする見方も否定されており、専ら「偉人ぶりはフィクション」とされている。

このように時間の経過ともに、人物の評価は変化している。しかし、全てを「旧説vs新説」で片づけてしまうのも無理があるのではないか。

三条実美は、旧説では「優柔不断で、プレッシャーに弱い「お飾りの宰相」」だったのが、新説では「変転・反目する政府内で長く調整役を務めた有能な宰相」だと、新旧両説を紹介しているが、この人は新旧どちらかの説で割り切れる人ではなく、両方の側面を持ち合わせているのではないか、という気がしてならない。

井上馨は、旧説では「財界と深く結びついた金権政治家」であるが、新説では「国家経営に肝心な「金勘定」ができた政治家」とされている。井上にしても両方の側面を持ち合わせた人物であり、どちらか一つで評価するのは無理がある。

本書は、一人について四ページという「割り振り」になっている。一人ひとりが幕末維新において重要な役割を果たした人物ばかりであり、とてもわずか四ページで新旧両説を語り切れるものではない。本来であれば、一人について一編の論文となるくらいの内容を、四ページに圧縮しているので、やや消化不良感が残る。これを入門書として、詳細は巻末の参考文献を読んだ方が良いだろう。

 

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「幕末大江戸のおまわりさん 史料が語る新徴組」 西脇康著 文学通信

2022年01月29日 | 書評

同じ浪士組をルーツに持ちながら、新選組と比べて、新徴組の人気の無さは気の毒なくらいである。新選組が政治の舞台となった京都で華々しく活躍したのに対し、新徴組は江戸で治安維持にあたった。池田屋事件や禁門の変のような歴史的な事変に遭遇することもなく、新徴組の存在は至って地味である。

新徴組は江戸で何をしていたのか。その日々の活動を、残された史料から丹念に掘り起こしたのが本書である。感動的なドラマが待っているわけでもなく、退屈といえばやや退屈ではあるが、タイトルにあるように新徴組が江戸で「おまわりさん」的な役割を果たしていたことは良く理解できる。

歴史的な事件は起きないまでも、江戸は当時世界有数の大都市であった(人口は六〇万人とも百万人ともいわれる)。これだけの人口密集地帯で、日常的に何も起きないわけがない。強盗、強請(ゆすり)、殺人、泥酔などが息つくヒマもなく発生し、都度新徴組は出動する。時には業務で命を落とすこともある激務であった。

新選組との大きな違いは、新徴組士は庄内藩士に取り立てられ、家禄を支給され、組屋敷を与えられた点である。新選組のように、粛清はなかったし、家族との同居も許された。さらに当人が死亡したら、嫡子や弟などが跡目を継ぐことができた。本書で頻繁に「回想録」が引用され、「最後の新徴組隊士」と呼ばれる千葉弥一郎も、自刃した兄雄太郎の跡を継いで組士となった一人である。新選組より遥かに生活は安定していたといえるだろう。

新徴組が歴史的事件に立ち会ったのが、慶応三年(1867)十二月二十五日の薩摩藩邸焼討事件であった。新徴組は、鎮圧部隊の中心となって華々しく活躍した。この事件が薩長両藩の武力討幕の口実となり、鳥羽伏見の戦いの引き金となった。

新徴組にしてみれば、散々江戸市中を掻き乱された相手を掃討し、見事にその遺恨を晴らすことができた。焼討の後、鯨波一声をあげ、整然・堂々と隊列を組み凱旋した。胸がすく思いだったであろう。

しかし、この事件は彼らの運命を暗転させる端緒となった。庄内藩は江戸からの退去を余儀なくされ、新徴組でも庄内に赴く者がいる一方で、脱退して新政府に合流して東北戦線を闘った者もいた。この事変を境に安定していたはずの彼らの生活が変転した。

戊辰戦争では一度も敗戦を味わうことなく、庄内藩は終戦を迎える。庄内藩と新徴組にとって、そこから苦難の道が続く。廃藩置県後、下級武士の生活は苦しく、元組士たちは、帰農して松が岡開墾事業に従事したが、脱走、離脱も相次ぎ、すさまじい内訌、粛正が展開された。命からがら脱出した例もある。

彼らにしてみれば決して間違ったことはしていない。懸命に職務を遂行し、必死に目の前の敵と戦っただけである。善行や勝利を重ねても、必ずしも報われるとは限らない、という多くの人が経験する悲哀を新徴組でも見ることができる。

 

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「花山院隊「偽官軍」事件」 長野浩典著 弦書房

2022年01月29日 | 書評

「花山院」と書いて「かさのいん」と読む。手元の「明治維新人名辞典」では「かざんいん」と読んでいるので、どちらが正しいのか判断がつかないが、本書では「かさのいん」を採用している。

幕末の偽官軍事件としては、赤報隊、高松隊が知られるが、花山院隊による御許山挙兵は、知名度はずっと劣る。個人的にもこれだけまとまった分量で花山院隊のことを読んだのは、高木俊輔の「明治維新草莽運動史」(勁草書房)以来である。

花山院隊事件の中心人物は、公家の花山院家理(いえさと)である。しかし、家理自身はこの草莽隊の首領に担ぎ上げられながら、九州まで行くことなく拘禁され、京都に送り返されている。一連の騒動において、花山院家理の存在感は希薄である。

唯一、家理が存在感を発揮した場面は、慶応三年(1867)十二月二十五日、馬関(現・下関)から山口訊太郎(または卂太郎)、下村次郎太、山本土佐(小島菊之助)荒金周平(金周平)らが、周防大島の覚法寺にて花山院に拝謁した時であった。彼らは、京都で王政復古が成り、太宰府に流されていた三条実美らも京都に戻ることになった、という情報を持ち帰った。花山院に対し、「京師御一新となったが、義挙の大義名分はどうなりましょうか」と問うた。

この時、家理は激怒して、そこに居合わせた面々を叱責、罵倒した。京師を回復したとは言え、徳川は何をしでかすか分からない。大事な時だというのに、因循なことを唱え、義挙を止めようなどというのでは、朝廷に顔向けができない。九州での義挙は、暗殺された高橋清臣らの復讐でもある、と言い放ち、誰も反論はできなかった。「花山院隊事件を通して、影の薄い花山院自身が、この時ばかりは強烈な個性を発揮した」と筆者は特記している。花山院の一喝で「義挙」の決行は決定されたのであった。

家理は、勅書を得るために同年十二月二十日、児島長年を京都に派遣している。児島長年は、別に児島備後(備後介)、児島三郎という名前でも知られる。後醍醐天皇に仕えた名和長年に因んで「長年」と称したといわれる。赤穂の商家の出身であるが、長州の奇兵隊に加わり、花山院家理担ぎ出しの中心的人物であった。

児島長年は、慶應四年(1868)正月六日に朝廷に呼び出され、三条実美と会うことができた。三条は、家理に帰京を促し、九州の同志も集めて上京させ、王事に尽くすようにとの内命を伝えた。つまり、九州を鎮撫するとか、挙兵せよといったものではない。これは家理が待望していた勅書ではなかった。名年が三条の「内命」を長州に持ち帰った時には、家理は長州藩に拘束され、取り巻きの隊士たちも捕縛されていた。

長州に戻った長年は、直ちに長州藩に拘束され、取り調べを受けた。長年は、頑なに自らの正当性を主張し、勅旨を奉戴していること強調したが、長州藩吏はこれを信じなかった。長年は憤慨し、抗議のために絶食して死んだといわれる。

長州藩は奇兵隊等からの脱隊に対して厳しく対処している。周知のとおり諸隊は武士、農民、商人など様々な身分から構成されている。そのような軍隊を維持するためには、「脱隊すれば斬首」という極刑で対応せざるを得なくなる。第二奇兵隊の脱隊騒動はその典型的な例であるが、報国隊から脱走した花山院党もその例外ではなかった。

慶應四年(1868)一月十三日、花山院隊の総裁格と目された藤林六郎と小川潜蔵が捕縛される。この前後、ほかの花山院隊の面々は一斉に報国隊を脱隊し、船で豊前に向かった。彼らは躊躇なく(花山院家理を迎えることなく)そのまま四日市の陣屋を襲撃し義挙を敢行した。

長州藩が鎮撫に動き出したのは、一月二十日前後である。まず下関において、先に捕縛した藤林と小川を斬首。報国隊の福原和勝、野村右仲(のちの素介)率いる奇兵隊が豊前に向かう。花山院家理やその取り巻きが拘束されたのも一月二十日のことである。御許山の花山院隊は、一月二十四日までに完全に鎮圧された。長州藩の動きは迅速であり、迷いがなかった。

佐々木克は、「新政府の草莽に対する態度が大きく転換するのは、一四日から一六日あたりではないか」と推測している。鳥羽伏見の戦いの勝利後、一月十日、新政府は徳川慶喜以下を朝敵として追討する旨の布告を出した。西日本の諸藩が新政府になびきだし、続々と勤王の誓詞を提出した。この動きに伴って急速に草莽隊の利用価値が低下した。相楽総三の赤報隊に対して帰洛命令が下されたのは一月二十五日のことである。

筆者は、藤林や小川が捕縛された一月十三日から、彼らが処刑されるまでの一週間で流れが変わったと推定している。一月十三日の時点では、長州藩内に花山院本人が滞在しており、簡単に手を出せなかった。新政府の草莽弾圧の方針が明確になると、それと連動して花山院党の制圧に動いたという推論は説得力がある。

本書は、筆者の表現を借りれば「戊辰戦争の裏庭」で起きた花山院事件を多面的に解析した価値ある一冊である。ほとんど忘れ去られた一連の事件に光をあてた功績は大きい。残念ながら遠崎の勤王僧月性を「西郷隆盛で入水し死亡した」月照と混同している(P.189)のは明らかな誤り。版を重ねるのであれば、訂正していただきたい。

 

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大洲 Ⅲ

2022年01月22日 | 愛媛県

(寿永寺つづき)

 

大洲藩故大参事源朝臣山本尚徳之墓

 

 山本尚徳の墓も、寿永寺の裏山にある。見つけた時はちょっとした感動であったが、後から思えばこれは序の口であった。この後、前回(十七年前)に果たせなかった国島六左衛門の墓を探して寿永寺の裏山を歩き回った。ほとんど道らしい道はなく、少し歩けば蜘蛛の巣が顔面を襲い、全身汗でびっしょりとなりながら一時間ほど山中を彷徨した。どこをどう歩いたのか分からないが、気が付けば大禅寺の墓地に出てしまった。結局、国島六左衛門の墓には出会うことができないまま、十七年ぶり二度目の撤収となった。

 

(曹渓院)

 

曹渓院

 

 大洲藩主加藤家の墓所は、龍護山曹渓院と如法寺に分かれている。曹渓院は、藩祖加藤光泰の菩提を弔うために初代藩主貞泰によって創建されて寺院で、以後、六代泰衑(やすみち)、八代泰行、十代泰済、十一代泰幹、十三代泰秋の七名が祀られている。

 

加藤光泰霊廟並びに大洲藩加藤家墓所

 

 奥の藩祖加藤光泰の廟所は、覆屋が朱色に塗られており、他の藩主と区別されている。

 十三代泰秋の墓は、その光泰の霊廟に隣接している。加藤泰秋は、弘化三年(1846)、十一代藩主泰幹(やすとも)の子に生まれた。元治元年(1864)十一月、兄泰祉(やすとみ)の急逝を受けて、十九歳で襲封。幕末多難の藩政に当たった。慶應三年(1867)、摂津西宮を警備し、慶應四年(1868)、大阪親征のときは先鋒供奉に当たった。ついで甲府警備につき、奥羽征討にも藩兵を送って功があった。戦後、慰労金二千円を賜った。同年九月、明治天皇東幸の際には藩兵二百を率いて供奉、護衛に当たった。明治二年(1869)、藩学制を改正して、錦絅舎(卒学校)と明倫堂(藩士学校)を合併し、平民の入学も許した。大洲藩知事となったが、明治四年(1871)六月、廃藩により退官した。大正十五年(1926)、年八十一にて没。

 

少年中江藤樹当山天梁に学ぶ

 

 曹渓院境内に「少年中江藤樹当山天梁に学ぶ」と記された石碑がたっている。十歳で大洲に移住した藤樹は、元和七年(1621)、十四歳のとき、曹渓院天梁和尚に書道や漢詩を学んだ。

 

(如法寺)

 

如法寺

 

 大洲藩主加藤家のもう一つの菩提寺である如法寺は、曹渓院が大洲市街地に位置しているのに対し、市街から離れた山の中にある。如法寺は、二代藩主加藤泰興が寛文九年(1669)に最興した寺院で、山内には二代泰興のほか、三代泰恒、四代泰統(やすむね)、五代泰温(やすあつ)、七代泰武、九代泰候(やすとき)、十二代泰祉(やすとみ)の七名が祀られている。

 

洪徳院殿仁岳宗温大居士

(加藤泰祉(やすとみ)の墓)

 

 泰祉の墓は雑草に被われ、ほとんど手入れがされていない。仮にも市指定の史跡とされている藩主の墓所であるし、もう少し保存には気を使って欲しいものである。

 泰祉は、天保十五年(1844)、十一代藩主加藤泰幹の三男として大洲に生まれ、嘉永六年(1853)、十歳で家督を相続した。農業に必要となる資金を調達するための基金制度を整備し、その基金の利子を活用して村々へ融資を行う勧農銀制度を発足させるなど農業振興のほか、連年の災害や不作によって困窮した村を救済するために郡中港波止場(現・伊予市)の砂堀工事などの公共事業を行い、困窮者の救済に努めた。朝廷を尊び、尊王攘夷を掲げた泰祉は、元治元年(1864)、宮廷守衛や勤王活動の功から歴代大洲藩主の中で唯一従四位下に叙されたが、同年大洲において二十一歳で没した。

 

(法眼寺)

 新谷の法眼寺は、新谷藩主加藤家の墓所である。山内には六代加藤泰賢(やすまさ)の墓所のほか、中江藤樹の門人で、邸内に祠堂を建てるなどして藤樹を崇敬した新谷藩家老徳田季一、寄一、寄隆の墓もある。

 

日蓮宗普妙山 法眼寺

 

正七位香渡晋奥城

 

 本堂のすぐ近くに香渡晋(こうどすすむ)の墓がある。

 香渡晋は天保元年(1830)の生まれ。安政五年(1858)、江戸に出て藤森天山、大橋訥庵らに師事して尊攘思想を抱き、文久二年(1862)、上京以来、実践的運動に乗り出し、志士たちと交わり、ついで高松保実を介して三条実美以下の諸卿と結んで活躍した。維新後、新谷藩大参事となり藩政に当たった。明治七年(1874)、岩倉具視の招きに応じて上京し、その顧問となって補佐し、伊藤博文ら明治政府首脳と交わり、新政の展開に陰の力となった。のち欽定憲法草案を岩倉に提出し、明治憲法制定に一役を演じた。明治三十五年(1902)、年七十三で没。

 

(興覚寺)

 大洲市八多喜の興覚寺は、大村益次郎暗殺の黒幕と疑われた巣内(すのうち)式部が帰郷して謹慎した寺である。巣内式部は謹慎中興覚寺にて五十五歳で没した。式部の墓も本堂裏手の墓地にある。参道入口には、「巣内式部信善先生墓参道」「巣内式部幽居地並墓」と記された日本の石碑が立っている。

 

興覚寺

 

巣内式部信善先生墓参道

巣内式部幽居地並墓

 

巣内式部先生頌徳碑

 

贈従五位巣内式部墓

 

 巣内式部は、文政元年(1818)、大洲の町人松井八郎兵衛の子に生まれた。長じて須内宇兵衛の養子となった。大洲の国学者常磐井厳戈について尊王思想を身に付け、万延元年(1860)、四十三歳のとき上京し、公卿の高松、西四辻家に仕え、その間、在京の志士たちと交わった。元治元年(1864)、長州在の七卿との連絡、中国諸藩の勤王勧請等の要務を帯びて西国に密行したが、そのために慶應元年(1865)から三カ年京都守護職に禁獄された。王政復古後釈放されると、近江国での挙兵に参加し、やがて第二親兵隊の取締となって、北越方面に転戦し功があった。明治二年(1869)九月、大村益次郎が暗殺されると、下手人処刑後の首級埋葬方を申し出てそのため嫌疑を受けて、翌三年(1870)六月、帰郷して禁固され、興覚寺にて没した。

 

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城川 Ⅱ

2022年01月22日 | 愛媛県

(古市公民館)

 西予市城川町古市は、市村敏麿を生んだ街である。古市公民館の前に「市村敏麿生誕之地」と刻んだ石碑が建てられている。

 市村敏麿は、天保十年(1839)、この地に生まれた。父は古市村庄屋市村芝治左衛門。土佐街道の要地に育った関係で、土佐藩浪士西春松に師事し、同藩の吉村寅太郎、那須信吾らと交友があった。文久三年(1863)、庄屋役を売って脱藩し、長州三田尻の忠勇隊に通じた。慶應年間、伊達宗城の人材登用に応じ、機密掛、時勢見聞方として、長州再征の動きの中で松山藩の動静を探索した。のち宇和島藩庁の役人となり、明治三年(1870)の野村農民騒動に当たっては、首謀者の説得を命じられた。明治十年(1877)以降は、南予農民の無役地事件を闘った。大正七年(1918)、年八十で没。宇和島駅近くの龍光院に墓があるらしいが、見逃してしまった。次回、宇和島を訪ねるときには探してみたい。

 

古市公民館

 

維新の先覚 市村敏麿誕生之地

 

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宇和島 Ⅳ

2022年01月22日 | 愛媛県

(大超寺つづき)

 本堂前には宇和島市教育委員会が昭和三十五年に建てた「末広鉄腸の墓」碑もある。

 

末広鉄腸の墓

 

伊能八代永憲夫婦之墓

(伊能友鷗(吉見左膳)の墓)

 

 伊能友鷗は文化十四年(1817)の生まれ。宇和島藩参政中井筑後の弟で、のち吉見長左衛門の養子となり、安政六年(1859)までは吉見左膳、あるいは吉見長左衛門と称した。友鷗は隠居後の雅号である。天保十二年(1841)、伊達宗紀の近習となり、天保十四年(1843)には目付兼軍使として藩政改革に当たった。弘化元年(1844)、伊達宗城襲封後、その信任を受け、側近として藩政の枢機に当り、安政三年(1856)、参政として財政整理、海防強化に努めた。安政五年(1858)、出府して、一橋派の立場に立つ宗城の片腕として活躍したため、翌年重追放処分を受けて帰国した。以後、宗城は「伊達家忠能之臣」を意味する「伊能」と改姓させた。明治元年(1868)、執政となり、明治三年(1870)、引退。幕末維新期の宇和島藩政の中心人物であった。明治八年(1875)、年五十九で没。

 

 墓地の一番奥まった場所に山村家の墓がある。山村家は、高野長英や大村益次郎に学んだ大野昌三郎の家系を継ぐ家である。

 

山村累代之墓(大野昌三郎の末裔の墓)

 

 大野昌三郎は、嘉永年間、来藩した高野長英に蘭学を学び、シーボルト、楠本イネとも昵懇の仲であった。嘉永六年(1853)には、長州の大村益次郎が来宇し、宇和島在住中、世話をした。明治十三年(1880)、没。大野昌三郎の長男が山村姓を名乗り、以来山村姓を引き継いでいる。

 

(選仏寺)

 

選仏寺

 

振洋上甲先生墓

 

 選仏寺は宇和島市内の山の斜面に立っている。墓地からは宇和島城や市内を見渡すことができる。斜面にある墓地の一番高いところに上甲振洋の墓がある。

 上甲振洋は、文化十四年(1817)の生まれ。天保九年(1838)からその翌年まで伊予小松藩儒近藤篤山に学び、天保十一年(1840)から弘化元年(1844)まで江戸昌平黌にて朱子学を研鑽。弘化三年(1846)帰郷し、宇和島藩儒に任命され、やがて藩校明倫館の督学として藩士教育に尽力した。安政元年(1854)、辞職。藩領八幡浜、横浦で私塾青石洞書院を開いて三千人の門弟に朱子学を教授した。明治初年、藩学制の改正に当り、藩学の教頭となったが、間もなく辞職した。以後、再び八幡浜で私塾を開いて地方育英事業に専念した。明治二十一年(1888)、年六十二で没。

 

選仏寺墓地から宇和島城を臨む

 

(大隆寺)

 大隆寺は、宇和島藩主伊達家の墓所で、初代藩主伊達秀宗の夫人亀の墓のほか、五代村候(むらとき)、七代宗紀(むねただ)、九代宗徳(むねえ)らの墓がある。

 

大隆寺

 

正二位侯爵伊達宗徳墓

 

 九代藩主伊達宗徳は、天保元年(1830)の生まれ。父は、七代藩主伊達宗紀。宗城の弟である。天保八年(1837)、伊達宗城の養嗣子となり、安政五年(1858)、宗城の隠居により襲封し、遠江守となった。幕末維新期、宗城が国事に奔走することができたのは、宗徳の藩治が前二代の間に育成された側近上士層補佐のもとに、軍事・生産・教育の各方面にわたって強力に推進されていたことによる。特に富国強兵策を打ち出した慶應の藩政改革、明治二年(1869)から三年(1870)の藩制改革は注目される。明治二年(1869)、藩知事に任命されたが、廃藩置県により免官。明治三十九年(1906)、年七十七で没。

 

伊達正宗長子秀宗十七世

正二位藤原朝臣宗紀墓

 

 伊達宗紀は、寛政四年(1792)の生まれ。父は、六代藩主伊達村寿(むらなが)。文政七年(1824)、襲封すると、人材を登用し藩主権力を強化した上、藩政改革に着手した。文政八年(1825)以降の厳略、質素倹約、文武の奨励、さらに文政十二年(1829)、大阪商人からの負債の無利息二百ヵ年賦償還、民間の貸借の引き捨て、天保六年(1835)の融通会所の設置、天保十一年(1840)以降の内扮検地実施、農村再建のための救恤策、灌漑施設の整備など、矢継ぎ早の富国策は成功して、藩庫は充実し、幕末宇和島藩活動の基礎を作った。弘化元年(1844)致仕。長生し明治二十二年(1889)、年九十八で没。

 

靖簡院殿悠翁三楽居士(松根図書の墓)

 

 伊達家の墓所に至る途中に松根家の墓所がある。同じ墓所に俳人松根東洋城の墓もある。松根図書は、文政三年(1820)の生まれ。宇和島藩主伊達宗城を補佐画策し、藩内きっての有能な人物として信頼された。嘉永四年(1851)九月、家督を継ぎ、財政・民政をつかさどる家老として、慶応三年(1868)三月、退隠するまで、海産物、蝋、茶などの生産増強、専売制の強化を図るとともに、藩内商人に長崎貿易を経営させるなど富国策をとった。また高野長英、大村益次郎らを招いて、西洋兵学の教授、洋式砲台の建設に当たらせるなど強兵策を推進した。慶應元年(1865)~慶應二年(1866)、イギリス公使パークスが来藩して、宗城らと会談したのも松根図書の画策によるもので、幕末維新の際の宇和島藩活動の源泉を涵養する上で功があった。明治二十七年(1894)、年七十五で没。

 

 大隆寺は伊達家の菩提寺であるとともに松根家ゆかりの寺でもある。境内には松根首塚がある。豪勇で知られた松根家の先祖松根新八郞が諸国を修行中、侍の幽霊から頼まれ、仇討ちの助力をしてやった。その礼にと数日後、幽霊が血の滴る生首を置いて消えた。松根家ではこれを邸内の竹薮に懇ろに葬った。以来、生首を家の旗印として、兜の前立ての飾りにもした。この生首は大隆寺に移され、松根首塚として供養が続けられている。

 

松根首塚

 

韜谷大和尚塔

 

 韜谷(とうこく)和尚は、文化九年(182)の生まれ。父は高松藩士小西七兵衛。幼少のころから仏門に入り、武蔵国宝林寺で伽陵老師について修行。天保六年(1835)、宇和島大隆寺で晦巌和尚の許に入門した。安政二年(1855)、晦巌和尚隠居に当たって、首座高弟であった韜谷は、その跡を継いで第六代住職となり、師が幕末伊達宗城の命を受けて国事に奔走している間、内外これを補佐して遺憾のないようにした。博学多才にして書芸にも通じた傑僧であった。明治十九年(1886)、年七十五で没。歴代住職の墓地の中に墓がある。

 

(仏海寺)

 富沢礼中の墓を探して、仏海寺の墓地を歩いたが、富沢姓の墓石すら発見できない。ほとんど諦めかけたその時、本堂のすぐ裏、墓地の入口付近に富沢礼中、賀古朴庵らの事績を紹介する説明板を発見した。富沢礼中、賀古朴庵の墓は、この説明板のすぐ横に集められている。どうしてこれを見逃してしまったのだろう。

 

仏海寺

 

五世賀古朴庵知質(ちかただ)墓

 

 賀古朴庵は、文政元年(1818)の生まれ。諱は知質、通称は宣春、朴庵と号した。弘化三年(1846)、家督を十五人分薬種料十俵にて相続し、藩医となった。嘉永三年(1850)、江戸で大槻俊斎の門に入り、蘭学を学んだ。嘉永五年(1852)、宇和島城下に種痘所が設立され、富沢礼中、砂沢杏雲が主任となり、さらに嘉永六年(1853)には賀古朴庵、谷快堂が追加されて協力した。朴庵は幕末、宇和島で初めて飛行機を考えた人としても知られる。安政六年(1859)、没。

 

清観院竹簷幻露居士(富沢礼中の墓)

 

 富沢礼中は、文化九年(1812)の生まれ。宇和島藩医の家に生まれた。天保四年(1833)、江戸で医学を修業。弘化三年(1846)、藩主伊達宗城の命により蘭医伊東玄朴に入門。療治方格別上達を賞与された。嘉永元年(1848)、藩主の命を受け、高野長英を宇和島に伴い、藩の蘭学振興策を助けた。嘉永二年(1849)には玄朴より中痘痂、種痘針を贈与され、種痘経過について教示された。これに力を得て、同志と協力して、城下に種痘所を設立して診療に努めた。以後、宇和島領民を天然痘から解放した功績は大きい。嘉永六年(1853)、大村益次郎が来宇した際、弟子二人を入門させ、自らも安政二年(1855)、子の松庵を同伴して江戸に再遊学した。明治六年(1873)、年六十二で没。

 

(泰平寺)

 泰平寺には都築温、得能亜斯登という幕末維新期の宇和島藩を代表する二人の藩士の墓がある。

 

泰平寺

 

贈従五位鶴洲都築先生之墓

 

 都築温(あつし)は、弘化二年(1845)の生まれ。父は宇和島藩士末廣雙竹。のち都築燧洋の養子となった。雅号は鶴洲。藩校明倫館に学び、元治元年(1864)、周旋方見習となり、京阪に赴いた。翌慶應元年(1865)帰郷。慶應二年(1866)の第二次征長には広島に出張した。慶應三年(1867)十月、徳川慶喜が薩・土など四十余の藩主、藩臣を二条城に集め、老中をして大政返上の草案を示し、その意見を問い、さらに土佐藩士福岡、後藤と並んで、当時二十三歳の宇和島藩士都築温ら六人から、大政奉還必至の強硬な意見を聞いて、奉還を決意したという。明治元年(1868)、外国官権判事に任じられ、戊辰戦争後の箱館では内外の交渉事務を処理したが、ほどなく退官。帰藩後私塾を開き、部落民の教育を行い、南予中学校長、宇和郡長を歴任した。明治十八年(1885)、年四十一で没。

 

得聖院殿能覚斯登居士

贈従四位得能亜斯登之墓(林玖十郎の墓)

 

 得能亜斯登(とくのうあすと)は、天保八年(1837)の生まれ。維新前は林玖十郎と称した。諱は通顕。安政五年(1858)、伊達宗城の股肱の臣、伊能友鷗が重追放に処されて以降、その小姓として登用されて枢機に与り、慶応三年(1867)までに京阪、防長に使して主君の活躍を援けた。慶應四年(1868)、太政官にて下参与海陸軍務掛を命じられ、有栖川総督宮の下に西郷隆盛、広沢真臣らとともに東征軍の参謀となり、さらに甲斐鎮撫使の下に参謀兼監軍として鎮撫に従い、さらに同年五月には民政をつかさどった。総督より会津藩および松平容保の処分を問われた際に、徹底殲滅を進言したといわれる。明治二年(1869)には箱館府判事に任じられたが、明治四年(1871)、病のため退官帰国した。明治二十九年(1896)、年六十で没。

 

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松山 Ⅳ

2022年01月15日 | 愛媛県

(日尾八幡神社つづき)

 

権少教正三輪田元綱墓

 

 三輪田元綱の墓を求めて、再度日尾八幡神社を訪問した。浄土寺で三輪田米山の墓を発見したが、そこに元綱の墓はなく、ほとんど諦めかけていた時、日尾八幡神社に戻ろうとしたら、その傍らに元綱の墓があった。このところ、空振りが続いていたが、ここで元綱の墓に出会うことができたのは、何かの御褒美なのだろう。

 

(浄土寺)

 浄土寺は、四国八十八ヶ所第四十九番札所。本堂裏手の墓地に三輪田米山の墓がある。

 

浄土寺

 

米山三輪田先生墓

 

 三輪田米山は、文政四年(1821)、日尾八幡神社の神官三輪田清敏の長男として生まれ、名を常貞、号を米山と称した。十七歳の頃、書を学んだが、二十五~六歳の頃、習っていた明月上人の書が王義之に基づくことを知り、王義之の法帖を深く学び、ついに独自の書法を窮めた。六十歳で日尾八幡神社の注連縄石に書いた「鳥舞、魚躍」の字が絶賛を集め、以後数多くの書作を残した。その書風は豪放でエネルギーに満ち、とらわれのない造形美を現出している。米山は万葉集を始めとする古典和歌にも通じ、自ら作った歌数は五万首ともいわれる。明治四十一年(1908)、伊予で没した。墓標の文字は、生前自ら筆をふるったものである。

 

(常信寺)

 常信寺は持統天皇四年(690)、勅令により建立された神宮寺が起源である。寛永十二年(1635)、松山藩主となった松平定行が現在地に移転し、寺号を常信寺と改めた。境内には松平定行の霊廟がある。

 幕末の松山藩主久松定昭は、鳥羽伏見に藩兵を率いて幕軍に加わったため、戦後朝敵として追討を受けた。定昭は、慶応四年(1868)五月、藩主を辞して勝成に譲り、自らは常信寺に謹慎した。ようやく咎を許され、蟄居を命じられた。

 

常信寺

 

 常信寺墓地では、藤野正啓の墓を探したが、代わりに正啓の実弟にして養子となった藤野漸の墓を発見した。正啓の墓は、東京谷中にあるので、そちらに改葬もしくは集約されたのであろう。

 

久松家(松平定行)霊廟

 

藤野漸之墓

 

 藤野漸は天保十三年(1842)生まれ。能楽師。五十二銀行(現・伊予銀行)の創立・経営にも関わり、のち二代目頭取にも就いた。妻十重は、正岡子規の母八重の妹で、子規とは叔父・甥の関係である。子に俳人藤野古白がいる。大正四年(1915)没。

 

(寶塔寺)

 寶塔寺には、奥平貞幹、三上是庵の墓がある。

 

寶塔寺

 

奥平君諱貞幹墓表

 

 奥平貞幹は、松山藩士で、江戸末期の農政家。通称は三左衛門、月窓と号した。藩校明教館で学んだ後、周桑、久万山、和気郡の代官を歴任し、大きな業績を残したが、特筆されるのは、和気郡における大可賀新田の開発といわれる。嘉永四年(1851)、温泉郡の税収減少に対処するため、同郡別府、吉田両村の海岸地域の干潟に着目し、山西村庄屋の一色義十郎に干拓工事を担当させ、安政五年(1858)には約五十町歩の大可賀新田を開いた。また、第二次長州征討の事後処理にあたり、慶応二年(1866)、周防屋代島で長州の林半七と和議交渉を行った。この時の記録は「月窓之巻」として残されている。明治十五年(1882)、年六十五で没。

 

是庵三上先生墓

 

 三上是庵(ぜあん)は松山藩士。崎門派儒者である。文政元年(1818)に生まれ、十八歳、二十六歳の二度、江戸に遊学して崎門学を学んだ。二十六歳の時、梅田雲浜、吉田松陰と往来して時局を論じた。のち綾部藩の九鬼氏、田辺藩の牧野氏に仕えたが、慶応三年(1867)に松山に帰り、藩主松平定昭の顧問となった。王政復古後の戊辰の役では、恭順論を唱え、それに従った藩主父子は城を出て謹慎したので、土佐藩兵が松山藩領に進駐した時に、何の変事も起きなかった。明治四年(1871)、三上学寮という私塾を開き、後進の指導に当たった。明治九年(1876)、病のため没した。

 

(龍泰寺)

 

龍泰寺

 

 龍泰寺周辺は寺院が密集する松山市の寺町である。龍泰寺は、近藤名洲らを生んだ近藤一族の菩提寺である。

 

近藤名洲先生之墓

 

南洋近藤先生墓

 

南崧近藤先生墓

 

 近藤名洲は寛政十二年(1800)の生まれ。文政二年(1819)、松山城下の心学者田中一如に入門。のち江戸の大島有鄰について石門心学を学んだ。文政十二年(1829)以降、松山藩の藩主、家中、郷、町一円にわたって道話を行ったばかりではなく、遠江、播磨、備後、周防、伊予大洲、新谷など他藩にも招かれて出講した。弘化元年(1844)、師の没後、松山心学の六行舎教授を継いで、幕末混乱期の庶民教育にも尽くした。長子南洋、三子南州ともに藩校教授となった。二子南崧(なんすう)は家学を継いで地方教育に貢献した。明治元年(1868)、年六十九で没。

 

(龍穏寺)

 

龍穏寺

 

厳正鈴木府君之墓(鈴木重遠の墓)

 

 龍穏寺はロシア人墓地の向かい側にある。墓地には新しい墓石が並ぶが、その中の鈴木家墓地内に鈴木重遠の墓がある。

 

 鈴木重遠は、文政十一年(1828)、江戸の松山藩邸に生まれた。諱は重遠。法名は「厳正院温故重遠居士」。嘉永六年(1853)以降、蘭学を修め、開国論を唱えた。安政四年(1857)、奉行に挙げられ、藩財政を管理し、神奈川砲台築造に功があり、文久三年(1863)、家老に抜擢された。以来、藩主久松勝昭、定昭のもとで、危機に直面した藩政の企画運営に当たった。慶應四年(1868)、朝敵となった藩内で主戦論を唱え、免職閑居の処罰を受けた。のち赦され藩の執政・大参事に挙げられ、藩政改革に功をたてた。明治四年(1871)、廃藩と同時に免官。明治十一年(1878)から明治二十年(1887)まで、海軍省属官として横須賀造船所に勤務。明治二十一年(1888)からは改進党員として、愛媛県内の大同団結運動を指導した。明治二十三年(1890)以降、愛媛県より四回にわたって代議士に選出され、明治二十五年(1892)には全院委員長に推された。晩年、神鞭知常らと対露同志会を結成した。明治三十九年(1906)、七十九歳で没。

 

(蓮福寺)

 粟井河原の蓮福寺に久米駿公の墓を探したが、本堂裏手の墓地は、比較的新しい墓石ばかりで完全に空振りであった。

 

蓮福寺

 

 久米駿公は文政十一年(1828)の生まれ。諱は政声、駿公は字である。父は松山藩士籾山資敬。のちに久米政寛の養子となった。幼時より聡明で学識非凡であったため、嘉永四年(1851)以降、松山藩世子久松勝成の小姓となった。嘉永六年(1853)の米艦渡来の際、世界の大勢を説き。近隣と相往来すべきとする「隣交論」を著わして、ひとり平和外交を主張した。雅号「知彼斎」を称したが、彼の進取的気分を表している。藩から長崎遊学の特命を受け、素志を果たす機会を与えられたが、安政二年(1855)、果たせず病死した。年二十八。

 

(高縄神社)

 松山市宮内は、旧北条市に属するが、平成の大合併で松山市に吸収された。

 

高縄神社

 

縣社高縄神社

 

 松山市宮内の高縄神社の鳥居前に建つ「縣社高輪神社」の石碑は西園寺公望の筆。西園寺が文部大臣兼外務大臣の時、明治二十九年(1896)の揮毫。西園寺の揮毫は、松山出身の加藤拓川(恒忠 正岡子規の妹リツの養子となり、正岡家を継いだ人)の尽力によるといわれる。

 

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今治 Ⅱ

2022年01月15日 | 愛媛県

(観音寺)

 

観音寺

 

 観音寺で菅周庵の墓を探したが、発見に至らず。菅家の墓は三~四つ見つけたのだが…。

 

 管周庵は文化六年(1809)、今治藩医の家に生まれた。幼少の頃から貫名海屋について儒学を学び、弘化年間には上坂して緒方洪庵について蘭学を、高橋執洲について医術を修めた。このころ洋医が来朝して種痘の術を伝えたので、周庵も長崎に遊学し、親しくその術に習熟して帰藩した。嘉永二年(1849)から藩民に施術した。これがこの地方における種痘の初めであり、以降種痘は藩内一円に普及して明治に及んだ。明治二十六年(1893)、年八十五で没。

 

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小松 Ⅱ

2022年01月15日 | 愛媛県

(仏心寺)

 

仏心寺

 

 仏心寺は、小松藩の二代藩主一柳直治により、その父初代藩主直頼の七回忌にあたる慶安三年(1650)に、一柳家代々の菩提寺として建立された。江戸時代を通じて境内の拡充が図られ、明治以降も小松藩ゆかりの建物が移築されている。

一時間近く墓地を歩き回った。仏心寺墓地には、中央の参道のほか、東西にも道があって、念のため三つの道を全て歩いたが、ついに一柳家の墓所を発見できなかった。汗だくになって、その上、蜘蛛の巣まみれになったが、空しく引き上げることになってしまった。多分、墓の行き当りをさらに奥に行かなくてはいけないのだろうが、背の丈ほど伸びた雑草に行く手を阻まれて途中で断念してしまった。この季節はこの雑草の壁を乗り越えるのは困難である。この先に間違いなく一柳家の墓所があることが分かっていれば、頑張る気力もわいたのだが…。来訪者のためにせめて何らかの案内を出しておいて欲しいものである。

 

山門

 

 山門も小松藩陣屋の遺構である。正面の「圓覚山」の扁額は、一柳直卿(頼徳)の御真筆の奉納額である。

 

御霊屋門

 

 御霊屋門は、元藩主墓所に通じる参道に建てられていたもので、やはり明治になって仏心寺に移された。鴨居には、小松藩主の御紋「丸之中二重釘抜紋」がはめ込まれている。

 

桜門

 

元山源太墓

 

 中央の墓地参道入口を入ったところに、元山元太の墓がある。元山源太は慶應四年(1868)、奥羽に出陣して戦死。十八歳。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、小松藩唯一の戦死者で、慶応四年(1868)八月二十八日、羽越境高畑越で戦死、十九歳とある。

 墓石の前に献香石には、北越に出兵した同僚二十一名の名前が刻まれている。

 

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伊奈

2022年01月08日 | 埼玉県

(桂全寺)

 伊奈町の桂全寺の最寄駅は、埼玉新都市交通株式会社 ニューシャトルの終着駅内宿である。

 ニューシャトルは大宮駅から内宿までの12・7キロメートルを、約三十分余で結んでいる。大宮の次の駅が鉄道博物館駅である。まだ息子が小学校低学年だった頃、鉄道博物館がオープンしたばかりだったと記憶するが、この時初めてニューシャトルを利用した。その息子も今春から社会人になった。初めての鉄道博物館の前夜に高い熱が出てしまい、急遽取り止めになって、泣きながら寝床に行った姿がついこの間のように思い出される。

 鉄道博物館駅を過ぎると乗客は極端に減る。内宿に着いたとき、車両には乗客は私一人となってしまった。

 

桂全寺

 

 桂全寺には、春日家の墓地がある。春日家は、藤原氏の流れを汲み、足利尊氏から領地を与えられたと伝えられる。戦国時代に菅谷から小針内宿付近を本拠とし、岩槻太田氏に重臣として仕えた。春日下総守景定は、拠点としていた小針内宿に春日家の祖である祖父行忠の菩提を弔うため、桂全寺を開基した。

 岩槻に小田原から北条氏房が送り込まれると、景定は相模国にも領地を与えられ、直接北条氏の指示を受けた。北条氏が滅ぶと、景定とその子家吉は、徳川家康に仕え旗本となった。

 家吉の長男家春は、新たに家を興して、元禄十一年(1698)に旧領小針内宿を与えられ、以後幕末まで伝領された。

 幕末の当主左衛門顕道は、先代邦三郎顕恊(あきつぐ)の養子である。慶應四年(1868)、彰義隊が結成されると、天野八郎らとともに頭並に就いた。上野戦争で敗れると、磐城久之浜へ渡り、徳川陸軍を名乗って平潟口で戦った。のちに陸軍隊と称された。左衛門は仙台に転進し、そこで榎本艦隊に合流して蝦夷に渡った。明治二年(1869)の新年に旧幕軍は洋式に再編成されたが、その時、旧陸軍隊を主体とした第三列士満(レジマン=連隊)の第一大隊長となった。明治二年(1869)五月十一日、左衛門は重傷を負って五稜郭に収容された。この時、左衛門は新選組の田村銀之助を養子にしていたといわれるが、その田村の証言によれば、五月十六日、榎本から与えられた毒薬を服用して自死したという。

 

春日家の墓

 

 中央の五輪塔は、景定の祖父行忠の墓。左は左衛門の妻(顕恊の長女)の墓、右は顕恊の妻と左衛門顕道とその子の合葬墓である。

 

春日左衛門顕道の墓

 

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