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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

いわき Ⅴ

2023年07月02日 | 福島県

(松堂院)

 

松堂院

 

 ハノイに赴任してちょうど十カ月が経過した。初めての日本出張は、東京を経て福島県いわき市を皮切りに、週末を京都の実家で過ごし、週明けに愛媛県新居浜市に移動、その後愛知県名古屋市と豊田市に一泊ずつして東京に戻り、日曜日にハノイに戻るという慌ただしい日程であった。

 いわきに着いたのは、午後四時過ぎだったが、夕食までの二時間、ホテルから抜け出し、松堂院と大宝寺を訪ねた。

 二つの寺には、坂下門外の変で安藤信睦が襲われたとき、信睦に扈従し奮闘した松本錬次郎と小薬平次郎の墓があるとされている。

 松堂院では松本家の墓域は探し当てたものの、そこに錬次郎のものと特定できる墓石はなく、残念ながらそのまま撤収することになった。

 

(大寶寺)

 

大寶寺

 

 その足で大宝寺の墓地を歩いたが、やはり小薬平次郎の墓に出会うことはできなかった。翌朝も早朝にホテルを出て大寶寺の墓地を再度歩いて見たが、結局発見に至らず。

 小薬(こぐすり)平次郎は天保十年(1839)生まれ。いわゆる坂下門外の変の折、刀番として駕籠の先頭におり、奮戦して藩主安藤信睦の危急を救った。戊辰戦争では隠居していた信睦(鶴翁)に随行して仙台に難を避けた。維新後、新政府に出仕。明治三十六年(1903)、年六十五にて没。

 

 大寶寺には、藩儒室桜関、真木光の墓がある。

 

櫻関室直養墓(室櫻関の墓)

 

 室櫻関は、文政元年(1818)、磐城平城下に生まれた。藩儒神林復所に就いて学び、のち水戸の弘道館に入って水戸学を学んだ。また藩命によって長沼流兵法を修めた。十八歳のとき藩主安藤信睦の儒者となり、江戸と磐城平を往復した。この間、藩主の侍講を勤め、帰藩しては藩校施政堂を中興して、名称も佑賢堂と改称して拡張した。藩主信睦が幕末外交に手腕を振るうことができたのは櫻関に負うところが大きいといわれる。戊辰戦争では主戦論を廃して、非戦の正しいことを進言した。維新後、培根塾を開いて子弟の教育に当たった。明治十八年(1895)、年六十八歳で没。

 

真木光之墓

 

 真木光は、文政十一年(1828)の生まれ。藩校施政堂にはいり神林復所の教えを受け、助教頭取となった。戊辰戦争では非戦を唱えたが軍事掛として戦い、戦後の収拾にも尽くした。明治二年(1869)に磐城平藩文学大助教を命ぜられ、のちに学監となった。明治二十六年(1893)、六十五歳にて没。

 

(飯野八幡宮)

 

飯野八幡宮

 

 飯野八幡宮の近くに藩校施政堂があったと推定されている。

 

櫻関室先生碑

 

 飯野八幡宮には施政堂で多くの子弟の教育に当たった室櫻関の顕彰碑が建てられている。篆額は最後の平藩主安藤信勇。書は巌谷一六。桜関の七回忌にあたる明治二十四年(1891)、かつての門人たちにより建立された。

 

(小太郎町公園)

 二日目は土砂降りの雨であった。梅雨なので当たり前のことではあるが、やはり大雨の中を歩くのは気が重い。それでも貴重な日本滞在時間を無駄にするわけにはいかない。日の出とともに活動を開始した。

 駅前のビジネスホテルから歩いて八分ほどの場所に小太郎町公園がある。公園内に白井遠平の胸像がある。

 

白井遠平翁の像

 

 白井遠平は、弘化三年(1846)の生まれ。父幸助が浅草寺末、下野国芳賀郡真岡の名刹円林寺の寺代官を務めたときに真岡で生まれた。その後、一家は常陸の傑物西丸帯刀を頼って常陸大津に移り魚問屋を開業した。安政三年(1856)十月、望まれて磐城郡上小川村庄屋白井家に一家をあげて入家養子となった。遠平十一歳のときであった。上小川に移ってから遠平は平藩儒臣神林復所の塾に学び、長じて菊多郡長をはじめ磐前、磐城、西白河郡長を歴任した。のち自由民権運動家として福島事件にも参加した。県会議員、衆議院議員としても活躍。また磐城炭田の開発にも貢献した。昭和二年(1927)、年八十二にて没。

 

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いわき Ⅳ

2020年05月02日 | 福島県

(鮫川橋ポケット公園)

 JR常磐線植田駅から徒歩八分。鮫川橋の手前に小さな公園があり、そこに吉田松陰が当地を来訪したことを記念する石碑がある。もとは後宿児童公園にあったものを、平成二十三年(2011)、新しい鮫川橋の建設を機に、最初の建立予定地であった河畔に移設したものである。石碑裏面には、松陰の「東北遊日記」の一部が刻まれている。

 

 

殉國 吉田松陰先生遊歴之地碑

 

 松陰が植田を訪れたのは、嘉永五年(1852)正月二十三日の夜であった。松陰二十一の時である。

 松陰は、浪人松野他三郎と名を変え、同志とともに江戸から北上、磯原に泊まり正月二十三日に出立し、その日の夕刻植田宿に到着して泊まった。翌朝は、番所地点まで戻り、道標を右折して山田、上遠野から御斎所街道に出て。竹貫(古殿町)で宿泊して会津へ旅立った。松陰はその行程を「東北遊日記」に記し、このうち鮫川越えに関しては「大島を過ぎ、鮫川を渡り、植田に宿す」と記録し、同志との別れの心情を七言古詩に託した。そして最後に「夜、雨」と結んでいる。

 

 この石碑が建てられたのは、昭和十七年(1942)のこと。日に日に戦争の色が濃くなる中、住民を鼓舞するために計画され、寄付金を募って建設された。当初は、植田駅前にあった植田小学校の講堂脇に建てられたが、校舎移転により昭和四十一年(1966)に後宿児童公園に移築された。

 

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浅川 Ⅱ

2020年04月18日 | 福島県

(永昌寺つづき)

 

畠山源三郎の墓

 

 畠山源三郎の墓石は、山門を入って左手の無縁墓石の中にある。

 畠山源三郎は仙台藩士。慶應四年(1868)七月十六日、岩代浅川にて戦死。

 

 

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棚倉 Ⅱ

2020年04月18日 | 福島県

(長久寺)

 

長久寺

 

本立院道全日忠信士(本橋久兵衛の墓)

 

 長久寺の墓地に棚倉藩本橋久兵衛の墓がある。

 本橋久兵衛は銃卒。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

 竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、長久寺にはやはり棚倉藩から出陣し、白河にて戦死した奥原三吉の墓もあるはずだが、墓地を四~五周見て回ったが発見できず。

 

(蓮生寺)

 

蓮生寺

 

植村半蔵の墓

 

 植村半蔵は棚倉藩士。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

(降福寺)

 慶応四年(1868)五月六日に奥羽二十五藩と越後六藩から成る奥羽越列藩同盟が成立する。当時、棚倉藩は白河合戦中の後方基地の役割があった。隆福寺では、奥羽越列藩同盟軍各藩隊長の軍議が開かれ、棚倉落城の六月二十四日まで続いたとされる。

 

 隆福寺には墓地らしい空間がなく、境内の片隅に無縁となった墓石が積み上げられているのみである。その中に太田友治と権田東左衛門という二人の棚倉藩士の墓石がある。

 

降福寺

 

太源院儀道了忠居士(太田友治の墓)

 

 太田友治は副軍目付。慶應四年(1868)五月二十六日、白河合戦坂にて戦死。

 

権田東左衛門の墓

 

 権田東左衛門は銃士小隊長。慶應四年(1868)六月十二日、白河にて戦死。

 

(蓮台寺)

 隆福寺に隣り合う蓮台寺は、本堂の手前まで民家が建てられており、墓地らしい墓地は見当たらず、参道脇に古い墓石が並べられているのみである。その中に武川(たけかわ)子之吉の墓石がある。

 

蓮台寺

 

力戦院武勇軍功居士(武川子之吉の墓)

 

 棚倉藩武川子之吉は銃卒。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。

 

(常隆寺)

 

常隆寺

 

髙刃院忠顯義勇居士(本多九右衛門の墓)

 

 常隆寺の無縁墓石の最前列に本多九右衛門の墓が置かれている。

 本多九右衛門は、棚倉藩銃卒小隊長。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。

 

奥原三吉墓

 

 常隆寺墓地を歩いていて偶然奥原三吉の墓を発見した。平成三十年(2018)十月吉日に長久寺から移設されたことが傍らの石板に刻まれている。

 奥原三吉は、棚倉藩銃士。慶應四年(1868)五月二十八日、白河合戦坂にて戦死。

 

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白河 東 Ⅱ

2020年04月11日 | 福島県

(釜子陣屋跡)

 

釜子陣屋跡

 

 越後高田藩の釜子陣屋跡である。釜子陣屋は、文化六年(1809)から明治維新前までの約六十年間存続した。

 慶応四年(1868)の戊辰戦争時、陣屋の奉行は吉田茂右衛門であった。会津藩への援軍を八木傳五郎が三十人ほどを率いて出兵した。陣屋は西軍の攻撃を受ける前に、奉行自ら火を放ち、建造物、藩士の住宅等一切が焼失した。そのため陣屋に関する書物等は極端に少ない。

 

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白河 Ⅳ

2020年04月11日 | 福島県

(妙徳寺)

 妙徳寺には、市川方静の墓がある。

 市川方静(ほうせい)は、白河藩士の子として天保五年(1834)に生まれた。通称は運八郎。不求庵と号した。天文学や数理学を学び、測量術を習得した。明治には、師範学校の算術教授となったが、研究のため辞し、明治十九年(1886)には自らの測量器「方静儀」が工部省に採用された。私塾では多くの弟子を教え、外務大臣を務めた後藤新平もその一人であった。諸芸にも通じ、特に和歌は毎週歌会を催したという。明治二十年(1887)には、国家事業として行われた白河での皆既日食観測に地元学者として協力した。明治三十六年(1903)七十歳にて没。

 

妙徳寺

 

徳潤院釋意裕居士 潤法院釋妙誠大姉

(市川方静の墓)

 

(妙関寺)

 

妙関寺

 

内儀家之墓(内儀茂助の墓)

 

 妙関寺には棚倉藩士内儀(ないぎ)茂助の墓がある。

 内儀茂助は、弾薬方。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。墓石側面には、「義則院勇猛日立信士」という法名とともに「内儀茂助明鄰」という名前が刻まれている。

 

(白河第三小学校)

 白河第三小学校の道路を挟んで東側に戊辰役戦死之碑が建てられている。この日は、大正元年(1911)に白河町の四名が発起人となり、有志の賛助を得て建立した碑で、蛇石・文殊山、桜町付近に仮埋葬されていた東軍側(奥羽越列藩同盟軍)の戦死者十二名を合葬したものである。

 

戊辰役戦死之碑

 

(米山越)

 

仙臺 斎藤善次衛門戦死供養

 

 激戦地となった稲荷山に近い米山越の八雲神社の近くに古い墓石のみがある墓地があり、その中に戦死した仙台藩士の供養塔がある。中央には「斉藤善次右衛門」の名前が刻まれている。

 斎藤善次右衛門は、陸前桃生郡前谷地村の富豪。しばしば仙台藩に軍費を献上。戊辰役仙台藩軍に加わり、慶応四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十二歳。

下段に三名の名前が刻まれているが、摩耗が激しく読み取れない。竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、三名は桜井伊勢松、本田三十郎、山口七三郎。いずれも斉藤善次右衛門の家来で、五月二日に白河で戦死したとなっている。

 

(大村温泉)

 

戦死数名埋葬塔

 

 大村温泉の大村旅館の片隅に、戊辰戦争における同盟軍の戦死者供養塔がある。これも摩耗が激しくほぼ一文字も読めない。

 

(搦目)

搦目のバス停のそばに「廿三夜碑」があり、その背後に「戊辰戦死之碑」と「戦死数名埋葬塔」という二つの東軍戦死者を慰霊する碑がある。

 

戊辰戦死之碑

 

戦死数名埋葬塔

 

(双石)

 

戦死霊魂供養

 

 双石(くらべいし)の県道11号線沿いにある戦死者供養塔である。

 

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白河 Ⅲ

2020年04月11日 | 福島県

(専念寺)

 白河を訪ねるのは実に七年振り、三回目となる。戊辰戦争の激戦地であり、これだけ歩いてもまだ新しい関連史跡と出会うことができる。

 この日、最初の訪問地は専念寺である。墓地に戊辰殉難者会津藩の渋井小次郎の墓がある。

 

専念寺

 

渋井家之墓(渋井小次郎墓)

 

 渋井小次郎は、小太郎の弟。墓石によれば、小太郎は明治二十二年(1889)、三十八歳にて死亡したとなっている。小次郎は、遊撃三宅隊嚮導。慶應四年(1868)、八月十四日(十六日とも)、越後赤谷にて戦死。十六歳。墓誌によれば、七月一日没。十七歳。白虎隊士となっている。

 

(大統寺)

 

大統寺

 

當寺玉鳳賢邦哲長〇〇禅師(賢邦の墓)

 

 賢邦は大統寺住職。薩摩出身ということもあり、戊辰戦争の際、両軍の間に立って斡旋した。西軍参謀の使となって棚倉藩に恭順を勧めたとも伝えられている。明治二十二(1889)、五月十四日没

 

(脇本陣柳屋跡)

 白河本町の脇本陣柳屋は、柳下源蔵が経営していた。慶應四年(1868)の戊辰戦争では、白河口の戦闘に参戦した斉藤一隊長率いる新選組百七名が宿泊し、五月一日の激戦にもここから出陣した。

 

脇本陣柳屋跡

 

明治天皇白河行在所附御膳水

 

 明治十四年(1881)、明治天皇の東北巡幸の際に往路は休憩所、復路は天皇の宿泊所となり、玉座と呼ばれる書院や御膳水跡(つるべ井戸)などが今に伝えられている。

 

柳屋旅館跡

 

 この蔵は、柳屋旅館で使用されていたもので、明治天皇の行在所である。内部には違い棚や書院などを備えた床の間と座敷があり、玉座と呼ばれている。

 

(旅館久下田屋)

 旅館久下田屋のホームページによると、「吉田松陰逗留の宿」と謳っている。確かに嘉永五年(1852)、松陰は宮部鼎蔵とともに一月二十五日から二十七日まで白河に滞在しているが、どこに宿泊していたかはよく分からない。

 

旅館久下田屋

 

(小峰寺)

 小峰寺を入ると、本堂の前に赤い頭巾をかぶった六体の地蔵が置かれている。竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、この中の一つが住職善澄和尚を表しているそうである。善澄は、城下に戦火が迫るのを早鐘を打って町民に知らせたため、会津藩のために銃撃されたという。

 

小峰寺

 

善澄墓?

 

戦死供養碑

 

 戦死供養碑は、やはり白河における戦死者を供養するもの。

 

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本宮 Ⅲ

2020年04月11日 | 福島県

(石雲寺)

 

石雲寺

 

 石雲寺の墓地を歩いていて転倒してしまった。正確にいうと、墓地の縁石に足をひっかけて一瞬宙を飛んだあと、上半身から地面にたたきつけられた。首から下げていたカメラが無事だったのは幸運であったが、その代わり両手両膝を擦りむくケガを負ってしまった。

 

小田井蔵太一成之碑

 

 小田井蔵太は、天保元年(1830)、江戸の生まれ。幼くして父を失い、母にともわれ二本松鈴石(現・二本松市)に移り住んだ。長じて江戸にでて幕臣・川窪駿河守の学僕となる。   斎藤弥九郎について剣術を修めた。嘉永六年(1853)、幕臣に取り立てられ、安政二年(1855)、箱館奉行堀織部正に従って北辺警備に派遣された。慶應四年(1868)、彰義隊に加盟し、副隊長に推挙された。上野戦争後、残党を率いて東北に下り、会津藩を助けて戦った。明治四年(1871)、水戸県大参事に任ぜられたが、間もなく帰農。安達太良山開発などに従事した。明治二十二年(1889)、死去。五十九歳。

 

糠沢直之允の墓

 

 糠沢家は本宮有数の商家で郷士であったが、直之允は幼少のころから不幸が続き、苦難のうちに成長し、二十六歳の時、志を立て仙台で薬種商の見習いとなった。後に二本松で薬種商を開き、元治元年(1864)、本宮に帰り、糠沢家を再興した。直之允は和歌を好み、仙台において藩の侍医錦織即休(千柳亭綾彦)について学び、綾尚と称した。明治九年(1876)六月十七日、明治天皇本宮通過の際、雷神清水の歌などを奉献し、有名になった。

 

 大君のわきて仕うる真清水の

 そこを思へばたふとかりけり

 

 また、公共に尽くし、明治十一年(1878)、第一回県会議員に選ばれ、各種の名誉職も勤め、地域社会の発展にも尽くした。明治四十二年(1909)、死去。七十九歳。

 

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福島 飯野

2020年04月04日 | 福島県

(東栄寺)

 

東栄寺

 

大久保村(現・福島市飯野大久保)は「海を渡った幕末の曲芸団」(宮永孝著 中公新書)の主役高野広八の故郷である。明治二十一年(1888)頃、高野広八は、日蓮の仏像二体をもって帰郷し、うち一体を東栄寺に寄進した。もう一体は今も曽孫の家にあるという。

東栄寺本堂はガラス張りになっているので、目を皿にして中を覗いてみたが、仏像らしきものは見当たらなかった。

 

(住吉神社)

 

住吉神社

 

高野広八は、文政五年(1822)一月十七日、百姓甚兵衛とその妻うんの長男に生まれた。慶応二年(1866)十月二十九日、横浜を出帆し、二年余りの間、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどを巡業した「帝国日本芸人一座」の後見人である。一座は足芸・手品・こま回しなど計十八名から成っていた。我が国における民間人パスポート(当時は「御印章」と呼んだ)第一号である。広八は、海外巡業中、日々の出来事を簡単ながらまめに記録していた。「広八日記」は市井の日本人が残した貴重な海外見聞録となっている。約三年の欧米巡業から帰った広八は、東京で過ごした後、明治三年(1870)の春、初めて故郷大久保村に帰った。広八、四十九歳であった。村に残る言い伝えによれば「広八は東京から大久保村に帰るとき、毛布をした白馬に乗ってきた」という。

広八の生家は百姓のほか「住吉屋」を号して生糸や絹織物の取引を行っていたという。住吉屋は、住吉神社の入り口にあった。住吉屋は雑貨商として大正初年まで続いたとされる。住吉屋は約三反五畝の田を所有していた。たまに野良仕事もしたようだが、口碑によれば広八は羽織を着て、コウモリ傘をさし、下駄ばきで田まわりをしていたという。当時、洋傘は珍しく、犬に吠えらえたというエピソードも伝わっている。

 

(大桂寺)

 

大桂寺

 

大高廣儀居士(高野広八の墓)

 

大桂寺墓地に高野広八の墓がある。明治二十三年(1890)九月二十日、広八は大久保村にて息をひきとった。享年六十九。

大桂寺墓地には古い墓石がゴロゴロしており、同姓高野家の墓も数えきれないくらいあって、この中から広八の墓を見つけ出すのは相当大変だと思ったが、何のことはない、彼の墓の横には「高野廣八の墓」と記した石柱が建てられており、比較的簡単に出会うことができる。

 

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福島 Ⅲ

2020年04月04日 | 福島県

(陣屋跡史績公園)

 当初の計画では伊達市内の史跡までであったが、竹さんから福島市内の史跡をご紹介いただいたので、時間の許す限り、福島市内を探索することにした。

 

陣屋跡史績公園

 

足守藩瀬上陣屋跡

 

 寛政十二年(1800)十二月、幕府より信夫、伊達両郡内二十五ヶ村に二万石余の村替を命じられた備中足守藩は、その分領支配のため陣屋を宮代村に設置した。

 以後、七十年間、この地を支配し、明治三年(1870)十二月、分領は県に渡され解体した。

 

(八島田駐在所)

 

八島田陣屋跡

 

 寛政元年(1798)、越後国新発田藩溝口氏は幕領二万石との村替を命じられ、信夫・田村・楢葉三郡のうち、二十三ヶ村は新発田藩の飛領となった。新発田藩は八島田村に陣屋を置いて支配した。初めは藩の役人が来ていたが、実際の仕事は三郡大庄屋吉野家に任されていた。文政十二年(1829)の村替により信夫郡八ヶ村のみとなったが、この陣屋は明治四年(1871)まで八十二年間続いた。陣屋の北隣に大庄屋吉野家があった。

 現在跡地は駐在所となっているが、建物は陣屋をイメージして設計されたそうである。

 慶応四年(1868)の戊辰戦争では、新発田藩が西軍先鋒として会津藩領に攻め入ったことを受けて、米沢藩が八島田陣屋を占領し、陣屋の役人を全員連行したという。

 

(和光神社)

 

和光神社

 

溝口主膳正碑

 

元治元年(1864)の天狗党鎮圧のため新

発田藩が出兵したことを記念した石碑である。

和光神社と常光寺の碑は、いずれも水戸天狗党関係のものである。個人的には天狗党関係の史跡は回り切った感があったが、まだ関連史跡が残っていたことに小さな喜びを覚えた。

和光神社に溝口氏(新発田藩)関係の石碑があるのは、新発田藩が八島田に飛び地を与えられそこに陣屋を置いて藩士を派遣していたこととも関係があるだろう。

 

(常光寺)

 

常光寺

 

追善供養塔

 

 福島藩も天狗党や真忠組鎮圧に借りだされ、犠牲者を出している。彼らを供養するために建立された供養塔である。

 

英光院忠道釼元居士(渋川市十郎の墓)

 

 渋川家の墓域に渋川市十郎の墓がある。

 渋川市十郎は、福島藩士。慶應四年(1868)五月二十七日、白河大谷地にて戦死。

 

(岩谷墓地)

 

官軍 西島新蔵永重墓

 

 西島新蔵は、福岡藩銃隊。慶応四年(1868)秋、会津で負傷。十一月十六日、福島にて死亡。三十六歳。

 

 岩谷墓地は信夫山の斜面に広がる。場所が分からなくて岩谷観音から観音寺墓地辺りを歩き回った。結果からいえば観音寺墓地に隣接しているのである。ここだけで数千歩、歩き回ってしまった。

 

(福島護国神社)

 福島護国神社は明治十二年(1879)の造営。戊辰の役に従軍した殉難者で相馬・田村・会津の招魂場に祀られていた御霊と、西南の役に殉じた管内人の御霊が合祀されたのが、その始まりである。それ以来、国難に殉じた御霊を合祀している。

 

福島護国神社

 

招魂之碑

 

 本殿右手に建つ招魂之碑は、明治十九年(1886)十一月建立。

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