史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

いわき Ⅲ

2013-12-08 17:18:33 | 福島県
(立鉾鹿島神社)
 平第六小学校の近くにある立鉾鹿島神社には、昭和七年(1932)に建立された各藩戦没者の供養塔がある。


立鉾鹿島神社


為戊辰役各藩戦病歿者追福

(蔵福寺)
 鹿島町蔵福寺は少し小高い丘の上にある。急な坂を昇ると、墓地が広がる。その中に戦死した仙台藩士を供養するために、明治十五年(1882)に地元の人が発起人となって建立した供養塔がある。
 葬られているのは、慶応四年(1868)七月十日、磐城七本松にて戦死した仙台藩士五名という。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、七月十日に七本松にて戦死したのは、鎌田幸七、高橋幸之進の二名のみ。


蔵福寺


為戦死供養

(供養塔)


供養塔


仙台藩三名墓

 江名のV字路に建てられている供養塔は、言い伝えによれば、戊辰戦争の折、新政府軍に撃破された仙台藩兵の死体が付近の海岸に漂着したものをこの地に葬ったものという。左手の小さな墓石には、三名の法名が刻まれているが、被葬者の氏名は不明である。

(真福寺)


真福寺

 江名の真福寺の本堂前に長州藩の安田源左衛門の墓がある。


長藩 良城隊 安田源佐衛門藤原治壽墓


水子供養塔にて

 安田源左衛門は、良城隊所属。慶応四年(1868)七月二十五日、磐城磐前郡作戦中病死。三十九歳。

(浄光院)


浄光院

 本堂前の新しい墓地に中に柳河藩今村関之丞と十時仙之進の墓がある。
 今村関之丞、十時仙之進ともに慶応四年(1868)七月十三日、磐城平にて戦死。今村は三十一歳。十時は十七歳。


柳河藩 今村関之丞藤原泰孝墓


柳川藩 十時仙之進太神惟義墓

(二ツ橋古戦場)
 厳城氏小名浜の二ツ橋付近では、慶応四年(1868)六月二十九日にこの橋を挟んで新政府軍と仙台藩兵が対決し、仙台藩では三十二名の戦死者を出した。二ツ橋の東側には仙台藩士の慰霊碑や合葬墓などが集められた空間がある。


仙臺藩戦死者之碑


戊辰役戦歿者 仙臺藩士 為大内進冥福

 一人だけ立派な墓石に葬られているのは、仙台藩士大内進である。大内進は、慶応四年(1868)八月十一日、磐城駒ヶ嶺にて戦死。


戊辰役戦死者の碑

 二ツ橋の戦闘だけでなく、小名浜周辺まで広げると仙台藩士の戦死者は七十三名となる。身後の石碑は、戊辰戦争から百年目の昭和四十三年(1968)に建立されたものである。


三二 忠臣戦死墓

(子安観音堂)


子安観音堂


明治戊辰五月廿八日
北白川宮能久親王御遺蹟

 慶応四年(1868)、五月二十八日、平潟港から上陸した北白川宮能久親王は、休息ののち陸路北上していわき泉町玉露の子安観音堂にて宿泊した。


贈従五位松井秀簡墓

 松井兵馬は泉藩の松井平蔵秀茂の三男。代官、郡奉行などを務めた。慶応四年(1868)、奥羽越列藩同盟に反対し、藩論が佐幕に決したことに抗議して、六月二十二日、泉城外鹿島神社にて自刃。四十三歳。

 これで福島県の浜通りの史跡は一巡した。双葉町と浪江町にも戊辰戦争戦死者の墓や関連史跡があるが、原発事故の影響で現在立ち入りが禁止されている。私の命のある間に、この地域を訪問することができる日が来るだろうか。


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いわき Ⅱ

2013-12-08 16:44:27 | 福島県
(長源寺)


長源寺

 以前、いわきの街を歩いたのは四年前であった。前回訪ねきれなかった小名浜や四倉、江名方面の寺院を回る。
 長源寺の無縁墓石の前には薩摩藩士の墓が十二基並べられている。中には表面が磨滅して読み取れないものもある。
 一つ目は「薩州知覧産」までは読めるが、肝心の名前がほとんど不明。二つ目は私領第一隊に属し十九歳で病死した富松善十郎のもの。その隣は同じく私領第一隊の瀬戸山源兵衛のもの。四つ目は夫卒戦死墓と記された合葬墓である。その隣は植村伝兵衛(同じく私領第一隊。六月二十八日、)磐城新田坂にて戦死。二十歳)のもの。さらにその隣には、同日同処で戦死した竹内伊左衛門の墓が並ぶ。その次の墓には「藤崎」という姓は読み取れたが詳細不明。次いで七月二十七日に二本松領糠沢村にて負傷して、八月一日に岩城平で死亡した江田喜平次の墓。その隣も「久木田」と読めるが詳細不明。


薩摩藩士の墓

奥の二つはいずれも墓石に刻まれた名前を読み取るのは困難である。一番奥に建てられた自然石の墓は田中源蔵のもの。田中源蔵は小銃第十二隊に属し、六月二十九日に磐城小名浜中之作にて戦死した。二十五歳。

(末續寺)


末續寺

 末續寺は海岸に近い場所にあるが、高台に位置しているために津波の被害は免れたようである。広島藩士林熊太郎の墓がある。


藝州 林熊太郎髙貞墓

 林熊太郎は豊田郡本郷村の人。慶応四年(1868)七月二十二日、末續村にて戦死。二十四歳。

(庚申堂)
 久ノ浜の庚申堂には、久ノ浜周辺で戦病死した広島藩士の墓が三基ある。
 手前は小川伊之松の墓。小川伊之松は第二小隊。八月一日、久ノ浜病院にて病死。二十歳(十八歳とも)。
中央は石垣新三郎。第四小隊卒。八月十五日、磐城平久ノ浜にて戦死。二十四歳。
一番奥の小さ目の墓は築山進之助のもの。法隊長補。七月二十六日、磐城広野で負傷。二十七日、久ノ浜病院にて死亡。二十四歳。


庚申堂


広島藩士の墓

(龍光寺)


龍光寺

龍光寺の墓地には筑前藩、因州藩等の戦死者の墓がある。


長州藩 藝州藩士の墓


筑前藩井上新蔵包道墓

 後列左は、筑前藩井上新蔵の墓。慶応四年(1868)、東北で陣没。


因藩 永本甚助 村澤伊八郎正知 梶山運八定暉 墓

 因州藩三名の合葬墓である。
 永本甚助は、森川久之丞隊。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城広野にて戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば姓は「長本」と記載されている。
 村澤伊(亥)八郎は、支藩である若桜藩士。同年同日同所にて戦死。二十二歳。
 梶山運八は若桜藩池田相模守人数。石川豊太郎隊付属。元長岡藩士。同年同日同所にて戦死。二十六歳。


磐城郡四倉村 甚之助墓

 「幕末維新全殉難者名鑑」には「甚七」と記載されている。弾薬夫。池田摂津守人数。同じく七月二十六日に広野にて戦死。


因州砲隊長近藤類蔵孝俊墓

 近藤類蔵も同じく七月二十六日に広野で戦死した一人。

(薬王寺)
 薬王寺は大同年間(806~809)に開山されたという古刹で、往時は堂塔四十八、末寺百六十二を数える奥州における一大名刹であった。戊辰戦争の戦火により全焼した。門前に戊辰戦蹟之碑が建てられている。


薬王寺


戊辰戦蹟之碑


笠間藩士 山下鶴三郎清伸墓

 薬王寺の本堂から少し離れるが、山を開いた墓地に笠間藩士山下鶴三郎の墓がある。「幕末維新殉難者全名鑑」によれば、山下鶴三郎は四両二人扶持。勘定方。慶応四年(1868)、六月二十一日、磐城戦線にて自刃。三十五歳。墓石は黒ずんで読みにくいが「於宿陣死」と刻まれている。


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広野

2013-12-08 16:03:24 | 福島県
(二ツ沼古戦場)


戊辰戦役 二ツ沼古戦場

 常磐道広野ICを出て国道6号と交わる交差点にあるそば屋の駐車場の片隅に二ツ沼古戦場碑が立っている。
 二ツ沼における戦闘(別に弁天坂の戦いとか、広野の戦いと呼ばれる)は、平潟に上陸した新政府軍と同盟軍(この方面の主力は仙台藩、中村藩)との当地における会戦である。慶応四年(1868)七月二十二日、同盟軍の夜襲から幕を開けた。これにより一旦後退を余儀なくされた新政府軍だが、翌日には態勢を立て直し反撃に出た。増援部隊により増強された新政府軍の勢いを止められず、同盟軍は熊町方面まで撤退した。

(修行院)


修行院


長州藩士藝州藩士の墓

 修行院の墓地に長州藩士、芸州藩士の墓が集められている。
 墓石は全部で七基。長州藩士のものが三つ、広島藩士のものが四つで、いずれも広野における戦いでの戦死者である。



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富岡

2013-12-08 15:57:07 | 福島県
(龍台寺)
 いよいよ福島県浜通りも残すところは、富岡、広野、いわきの一部のみとなった。この日は朝四時に家を出て、富岡に着いたのは午前八時前であった。福島原発の立入禁止地域まであと一㎞というこの場所が現時点の限界である。
 ちょうど福島原発の工事に向かう車両が続々と北に向かう時間帯であった。昨今、東電の管理の杜撰さが連日のように報じられているが、一方で身を挺して放射線の漏洩防止のために働く人たちがいる。あまり報じられることはないが、銘記しておくべき事実である。


龍台寺

 龍台寺には岩国藩精義隊の碑がある。精義隊は、幕末の岩国で結成された洋式軍隊の一つで、戊辰戦争でも活躍した。
 精義隊の碑は仰向けに転倒しており、その周囲に並べられた精義隊士の墓もことごとく倒れたままであった。
 龍台寺の墓地は、私がこれまで見てきた被災地の墓地の中で最も激しく損壊していた。墓石は大半が崩落して、足の踏み場もない。震災の揺れはこれほどまでに激しかったのである。寺は(おそらく)無住となっており、墓地も二年半前から手が付けられていないままである。この寺はこのまま朽ちていくのだろうか。


精義隊碑と精義隊士の墓

 この周りではほとんど人の姿を見ることがない。田畑も放置されたままで、セイタカアワダチソウが伸び放題となっている。この場所が昔の姿を取り戻す日が来るのだろうか。

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南相馬

2013-12-08 15:50:26 | 福島県
(小高神社)


小高神社


小高城址

 小高神社のある丘は、中世の小高城址であり、参道脇に石碑が建てられている。相馬中村城に移るまで、相馬氏の居城であった。


戊辰戦死之神霊碑台座

 小高神社の戊辰戦死之神霊碑を見るために、南相馬へ向かった。ところが、恐らく先年の東日本大震災の被害であろう、神霊碑は台座を残して消え失せており、虚しく引き返すしかなかった。

 この日は三連休の二日目であった。当初の計画では南相馬のあと、広野・いわき方面まで足を伸ばすつもりであったが、福島原発事故の影響で浪江、双葉は依然通行止めとなっており、南相馬からいわきへは、かなり迂回せねばならない。とてもその時間はなかったので、そのまま帰宅することにした。帰りの高速道路は激しく渋滞した。宇都宮から都心にかけて、五十㎞に及ぶ渋滞が発生して、それを聞いただけで家に帰るのをやめようかと思ったほどであった。


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相馬 Ⅱ

2013-12-08 13:58:44 | 福島県
(洞雲寺)


洞雲寺


因藩 太田清左衛門墓

 太田清左衛門は鳥取藩士。建部半之丞隊。慶応四年(1868)八月十一日磐城原釜で負傷、九月九日同国中村病院で死亡。


荒井又蔵政明之墓 鳥取藩五人墓(倒壊) 因藩 村松幸三郎墓

 無縁墓地の前に戊辰戦争の犠牲者の墓が四基まとめて置かれている。
 荒井又蔵も鳥取藩士。慶応四年(1868)九月十六日磐城中村城外で戦死。二十四歳。
 村松幸三郎も鳥取藩。慶応四年(1868)八月十一日磐城原釜で戦死。
 荒井と村松の墓の間に横たわる墓石は、鳥取藩の戦死者五名の合葬墓である。これも二年半前の大震災の影響と思われるが、倒壊してそのままとなっている。


堀内興長(覚左衛門)墓

 堀内覚左衛門は、中村藩士。番頭。慶応四年(1868)、六月二十四日、白河金山にて戦死。


伊藤半七郎(左) 中川源八郎墓

 伊藤半七郎は、徴兵七番隊。名古屋の人。慶応四年(1868)八月九日磐城駒ヶ峰で負傷、二十九日死亡。三十歳。
 中川源八郎は、加納藩の人。源八とも。徴兵七番隊。美濃岩手山出身。慶応四年(1868)八月九日磐城駒ヶ峰日尻口で負傷、二十五日同国中村で死亡。四十九歳。


尾州藩 津金甲太墓

 津金甲太は尾張藩出身。慶応四年(1868)年八月十一日磐城駒ヶ峰で負傷、二十一日相馬城内病院で死亡。十八歳。地震の被害と思うが墓石が横転したままとなっている。


官軍墓地

 ほとんどが久留米藩出身者の墓である。


長藩 美和内蔵主之墓

 美和内蔵主は、長州藩士。第一大隊補助長官。佐波郡伊賀地住。慶応四年(1868)九月十日、磐城旗巻峠にて負傷。同月十四日、中村病院にて死亡。


土田衝平之墓

 羽後矢島藩出身の天狗党田中愿蔵隊参謀土田衝平の墓である。一旦、南相馬の小高神社へ行った後、土田衝平の墓を見落としていたことに気づいて、三十㎞余りの道を引き返した。洞雲寺の古い墓域の一番奥にある。
 田中愿蔵隊から離れた土田衝平は相馬藩士らとともに海路相馬を目指した。しかし、当地で捕えられ処刑された。この墓は、土田衝平の処刑から数年の後、戊辰戦争の前後に建てられたもので、相馬藩が勤王か佐幕かの選択を迫られた際に、勤王の証を立てるために苦し紛れに建立されたものであろう。


正禮藤原氏墓
(松脇後左衛門の墓)

 薩摩藩士松脇後左衛門の墓が、土田衝平の墓と並べて建てられている。松脇は土田に従って相馬に逃れた天狗党員の一人で、やはり土田と同じく相馬で処刑されている。
 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)には、土田衝平の名前は掲載されていないが、何故だか松脇後左衛門(同書では五左衛門)が記載されている。以下、同書の記述。
――― 勤王の志厚く、元治元年春、名を新宮半次郎と改めてひそかに関東に行き、田中愿蔵と共に、藤田小四郎、武田耕雲斎らの筑波挙兵に参加したが敗れ、その主力は西上の途中越前国敦賀郡で加賀藩の監軍に降伏して幕命によって処刑された。五左衛門は土田衝平と共に奥羽に逃れ、再挙を図ろうとしたが、事成らず、幕吏に捕えられて同年十一月五日斬首の刑に処せられた。年二五。


大信院忠山義功居士
(草野正辰の墓)

 草野正辰の墓である。草野正辰は通称を半右衛門といい、武田流軍学の家に生まれた。江戸家老のとき、富田高慶を通じてその師二宮尊徳と知り合い、尊徳の興国安民の法を聞いて感激した草野正辰は、藩主充胤を説いて報徳仕法の導入に尽くした。弘化二年(1845)、晴れて相馬に御仕法が導入されたが、そのわずか二年後の弘化四年(1847)、江戸にて没した。七十六歳であった。正辰は、聞二という俳号を持つ俳人としても有名であった。

(愛宕山)


地蔵堂


金蔵院跡

 相馬中村藩では、天明・天保の大飢饉により農村が疲弊し、藩財政も窮乏した。そこで二宮尊徳の説く報徳仕法を導入し、農村の立て直しを図った。二宮尊徳自身は、相馬を訪れて直接指導することはなかったが、中村藩士で尊徳の弟子であった富田高慶が全体の指導に当たった。相馬藩における報徳仕法は、弘化二年(1845)から明治四年(1871)の二十七年間に渡って施行され、大きな成果を挙げた。


誠明先生(二宮尊徳)墓(右)
慈隆尊師墓

 慈隆尊師は、元日光浄土院の住職であるが、中村藩に招かれ、政事の最高顧問として報告仕法の推進を担った。戊辰戦争では戦争による被害を最小限にとどめるよう藩に進言した。愛宕山の金蔵院は慈隆尊師の住まいであり、ここで学塾を開いて子弟の教育にも力を尽くした。明治五年(1872)、東京の相馬邸にて死去。
 愛宕山地蔵堂の背後には、二宮尊徳と慈隆尊師の墓が並べて置かれている。尊徳の墓には遺髪が納められている。墓碑銘は幕臣筒井政憲。


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相馬 Ⅰ

2013-12-08 13:23:53 | 福島県
(中村城址)
 中村藩の石高は六万石。王政復古の大号令を受けて新政府に恭順したが、隣接する諸藩の圧力を受けて奥羽越列藩同盟に参加した。しかし、新政府軍が藩境に迫るとすぐに降伏した。このため戦後減封を逃れた。


相馬中村城址

 中村城の歴史は古く、平安時代まで遡ることができるという。江戸時代は相馬氏六万石の居城となった。残念ながら構築物はあまり残されていないが、大手一ノ門や堀は往時の雰囲気をよく伝えている。


大手門一ノ門

 この大手門は、二代相馬義胤のとき、川越城番を務めた義胤はその城門の堅固なことに感心し、それに模して造らせたものといわれる。慶安二年(1649)の完成。

(慶徳寺)


慶徳寺


長州藩士、館林藩士らの墓
右は「官軍 九州戦死墓」

 慶徳寺山門横には西軍の戦死者の墓が集められている。館林藩、長州藩、福岡藩といった藩名が見える。
 手前の楕円形の大きな墓石は、中村藩出身の西南戦争の戦病死者の碑で、裏面に氏名と死亡日が刻まれている。

(圓應寺)


圓應寺


目迫新佐衛門墓

 目迫新左衛門は、中村藩城下士。慶応四年(1868)、七月十三日、平城六間門付近で戦死。


集功院殿忠巌維良居士
熊川兵庫墓(村田半左衛門墓)

 熊川兵庫は、村田半左衛門易隆ともいい、中村藩士。御用人郡代頭取徒士頭大目付兼帯、郡代家老職、家老職を歴任。藩政全般の指導に当たった。慶応元年(1865)には報徳仕法施行二十年に際して功労者として表彰を受けた。
 同家墓地に墓のある同姓同名の村田半左衛門は名を一隆といい、中村藩番頭。慶応四年(1868)七月二十六日、広野で負傷。八月二日、死亡。

(興仁寺)


興仁寺

 興仁寺の墓地には、戊辰戦争の戦死者の墓六基がまとめられている。うち二基は中村藩士、四基は広島藩士のものである。


戊辰戦争戦死者の墓

(旧蒼龍寺墓地)


亜屈小次郎墓

 水戸藩士。元筑波党。鳥取藩堀博厚勢に属し、慶応四年(1868)八月十一日、磐城原釜にて戦死。二十六歳。


齋藤高行 二宮文の墓

 旧蒼龍寺墓地には、二宮尊徳の門人の一人で相馬における報徳仕法を推進した齋藤高行、尊徳の娘で相馬の高弟富田高慶に嫁いだ二宮文の墓がある。
齋藤高行は、通称久米之助。相馬において報徳仕法を導入した富田高慶の甥であり、二宮尊徳四大門人の一人に数えられる。富田高慶の後を継いで相馬における報徳仕法を指導し、これを完成させた。晩年は原町の大原に隠棲して、大原仙人と称した。明治二十七年(1894)、七十六歳にて没した。
二宮文は、桜町(現・栃木県)に生まれ、まれにみる才女と言われた。嘉永五年(1852)富田高慶に嫁ぎ中村に移り住んだ。嘉永六年(1853)、出産のために実家に戻ったが、死産であった。自身も産後の肥立ちが悪く、三十歳の若さで世を去った。

(佛立寺共同墓地)


佛立寺跡


義俊院全心雄忠居士 (岡源右衛門墓)

 岡源右衛門は中村藩城下士。軍使役。別名臼井喜邦。慶応四年(1868)七月二十九日、浪江で戦死。


脇本喜兵衛墓

 脇本喜兵衛は中村藩の用人。慶応四年(1868)七月二十九日磐城浪江で戦死。官軍に捕えられて斬首されたとも。

(百槻共同墓地)


門馬先生之墓

 門馬伝兵衛常驥(弥五郎)は、相馬中村藩の御馬方を務め、大坪流馬術師範として多くの弟子を育てた。言うまでもなく相馬は「野馬追い」で有名な場所であるが、その発展に大きく寄与した。

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新地

2013-12-08 13:02:03 | 福島県
(龍昌寺)


龍昌寺


貞宗院威徳道義居士 佐藤貞助墓

 龍昌寺の駐車場脇に仙台藩士佐藤貞助の墓がある。
 佐藤貞助は、新地村の人。慶応四年(1868)、八月十一日、磐城駒ヶ峰にて負傷。十月二日、死亡。

(観音寺共同墓地)


戦死四十人合葬墓(左) 鈴木一郎左衛門墓

 鈴木一(市)郎左衛門は、仙台藩士。茂庭周防家老。志田郡松山住。隊長。慶応四年(1868)、八月二十日、磐城旗巻にて戦死。
 その横には仙台藩兵と仙台松山隊の戦死者四十名の合葬墓がある。


観音堂からの眺め

 ここまで来ると、海は目の前である。平成二十三年(2011)の大震災の津波の爪痕が生々しい。道路は寸断され、海岸線沿いの土地はほとんど更地となっている。この状況下で観音寺共同墓地に行き着けるのか、さらにいえば鈴木一郎左衛門の墓や戊辰戦争戦死者の合葬墓が残っているのか甚だ不安であったが、この墓地は高台にあり、津波の襲撃を奇跡的に免れていた。

(御殿岬)


仙台藩松山隊勇戦地碑

 新地は仙台藩と官軍の最後の戦場となった。仙台藩は駒ヶ嶺城を中心として山手は菅谷、高田から丸森の旗巻峠、浜手は今泉今神方面一帯に警備を固めた。戦闘は慶応四年(1868)八月七日より行われ、官軍の激しい攻撃に同月十一日には駒ヶ嶺城が陥落した。その後、反攻作戦がとられ、特に浜手の亘理隊と松山隊は積極的に前進して激戦となった。折からの俄か雨と官軍の激しい逆襲のため敗勢となり、今泉周辺では多くの死傷者を出した。御殿岬では退路を断たれた松山隊員が壮烈な戦死を遂げている。

(今泉薬師堂)


今泉薬師堂


戦死塚

 今泉薬師堂の背後に墓地が広がる。その一角に戊辰戦争の戦死塚が建立されている。今泉周辺における仙台藩士の犠牲者を葬ったものである。

(駒ヶ嶺城跡)


報恩碑(駒ヶ嶺城跡)

 駒ヶ嶺城(別名臥牛城)は、相馬盛胤が伊達氏への対抗のために永禄年間(1558~1569)に築いたものであるが、天正十七年(1589)に伊達政宗に攻め落とされている。その後、伊達氏は国境の防御点として駒ヶ嶺城を重視し、重臣を城代として配置した。
 慶応四年(1868)、八月十一日、戊辰戦争における官軍の攻撃により炎上し、その歴史を閉じた。現在、建物等は一切残っていないが、当時の土塁や空堀などを見ることができる。


仙台藩士戊辰戦没之碑

 駒ヶ嶺城址から下ってくると、石碑が林立する広場があり、そこに戊辰戦争の戦死塚や仙台藩士戦没者の慰霊碑などが建立されている。


戦死塚


戊辰戦没者碑

 戊辰戦没者碑は、駒ヶ嶺の戦いで戦死した仙台藩兵四百四十名の氏名を刻んだものである。


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小野

2013-07-14 22:03:13 | 福島県
(普賢寺)


普賢寺


薩摩藩吉井甚之助墓

 薩摩藩士の戊辰戦争戦死者は、概ね合葬墓にまとめられている。単独の墓が立てられているのは珍しい。普賢寺には、慶応四年(1868)七月二十八日、十九歳で磐城仁井町にて戦死した薩摩藩士吉井甚之助の墓がある。

 今回のGWの旅行は以上で終了である。総走行距離は二千三百㎞におよび、撮影した写真は六百枚を超えた。毎日、昼食もとる時間もなく、日の出から日没まで走り回ったが、実に充実した時間であった。これにて福島県下でいうと、いわゆる浜通りだけが残されることになった。浜通りの大半の地域は、現状では福島原発事故により立ち入りが許されない。この場所で史跡廻りができるのはいつのことか分からないが、その日を夢見て当面は調査に時間を費やすことにしよう。
小野から磐越自動車道、常磐自動車道経由、三時間余りで八王子に帰り着いた。

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郡山 Ⅲ

2013-07-14 21:59:39 | 福島県
(大久保神社)
 今回の旅では、福島県会津方面と宮城県仙台周辺の史跡を回ったが、それで終わりではない。帰路郡山の大久保神社に立ち寄る計画であった。東北自動車道を郡山南ICで降りて二㎞ほど南の牛庭に向かう。


大久保神社

 牛庭公民館の敷地内に大久保神社がある。神社と名づけられているが、鳥居や神殿があるわけではない。中央に「大久保公追遠碑」が据えられているだけである。鹿児島や酒田の南洲神社は、西郷隆盛を神格化したものであるが、当地の大久保神社は安積疎水の開削に尽力した大久保利通に感謝しようという地元の人たちの厚意の結晶のように感じる。


牛庭原 旧松山藩士族 入植者の碑

 この地は牛庭原と呼ばれる原野であったが、明治十五年(1883)、安積疎水の開通とときを同じくして、十五戸の旧松山藩士族が入植して開拓した場所である。

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