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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「徳川の幕末」 松浦玲著 筑摩選書

2020年05月30日 | 書評

政府の緊急事態宣言発令以降、終日パソコンに向かって在宅勤務が続き、週末も外出もできず、悶々と日々を過ごしている。本書は日々の退屈凌ぎのためネットで注文して手に入れた。

著者松浦玲氏は「勝海舟」や「徳川慶喜」(いずれも中公新書)といった著書のある幕末史の重鎮の一人。昭和六年(1931)十月生まれというから、私の父親と全くの同い年で、米寿を迎えてなお旺盛な執筆意欲には感嘆のほかはない。

幕末史は、二百五十年以上の長きにわたって我が国を支配してきた徳川幕府という権力を倒す物語である。自ずと幕府を倒した側(つまり薩長)中心に描かれることが多いが、本書は倒された徳川政府から見た幕末史である。

それぞれの時期に政権内で誰が権力を有していたのか。幕末の政局はめまぐるしく変化するが、それに応じて権力者も登場退場を繰り返す。ペリー来航時は若き宰相阿部正弘が権力の座にあった。阿部亡きあとは堀田正睦。堀田が失脚すると、井伊直弼が大老に就任する。安政の大獄、桜田門外の事変を経て、久世広周、安藤信正が引き継ぎ公武合体、和宮降嫁を推進した。しかし、文久二年(1862)の坂下門外の変以降、安藤・久世は相次いで退場に追いやられる。そのあとを継いだのが老中水野忠精(天保の改革で有名な忠邦の実子)と板倉勝静(備中松山藩主・伊賀守・周防守)である。水野政権とも呼ばれるという。

安藤・久世と入れ替わるように、松平春嶽が政事総裁職に、一橋慶喜が将軍後見職に就く。しかし、次第に両者の反目が顕在化して、春嶽・慶喜体制は破綻を迎える。本書によれば、春嶽は安政年間一橋派の最大の有力者であったが、ついには「慶喜嫌い」になったという。

本書には多くの幕府側の人材が登場するが、キーマンの一人が春嶽である。地元福井では名君という取り扱われ方であるが、本書では、怒ったり拗ねたり、実に人間臭く描かれている。

安政五年(1858)正月、島津斉彬が左大臣近衛忠煕や三条実万に向けて一橋慶喜支持への援助を賜りたいという書簡の写しを見た春嶽は動転した。近衛宛の文書には自分と老中の名前が出ている。三条宛の書簡には、慶喜を継嗣にせよという内勅を出してほしいとまで書いてある。焦った春嶽は、老中松平忠固、数日後には同じ老中の久世広周のところに行って、斉彬の書面を提出して、自分が関与していないことを釈明した。彼らは紀州派である。彼らに手のうちをさらけ出すというのはあまりに拙策であるが、彼としては同志を売ってでも身の潔白を訴えたかったのである。

筆者は「島津斉彬書簡を見て狼狽えた正月末から短期間で春嶽は随分成長」したと評する。紀州派が九条関白を陥したという情報を察知すると慶喜に有利な勅諚を引き出す運動に方針を切り替えた。

尾張家、水戸家の不時登城の後、春嶽も井伊大老に面会し、違勅調印を責めると同時に継嗣問題を論じた。筆者は違勅状態を「継嗣問題に活用しようという姿勢は慶永(春嶽)が特に強く、それを論じる力もあった」と評価する。

後年、幕府が朝廷から攘夷を迫られた時(文久二年(1862)十月)にも政権返上を主張したが、春嶽の論理は簡明であり、説得力があった。流石の慶喜も正面から反論することを避けた。春嶽はもともと頭脳の明晰な人だったのであろう。因みに文久二年(1862)の政権返上論は、のちの大政奉還の原型を成すものである。春嶽は慶應二年(1865)にも政権返上を慶喜に建言しているが、採用されることはなかった。

長州再征問題でも幕府内の意見は分かれていた。征長反対派は、春嶽、大久保一翁ら。これに対して積極派は老中小笠原長行を筆頭に在阪首脳。広島で長州の使者宍戸備後助の詰問を担当していた大目付永井尚志も推進派である。一方、水野忠徳(癡雲)は「玉之入替説」を唱えて第三極を形成した。玉の入替、つまり将軍家茂を辞職させ、慶喜を幕府トップに担ぎ出そうという案である。筆者は水野を高くかっていて、「資料が揃えば伝記を書いてみたい人物の一人」とまで惚れ込んでいる。春嶽と水野の離反は「徳川幕末の損失」とも評している。

ここで幕府内において征長の是非が議論されるような場面があれば、幕府の命運はもう少し長らえたのかもしれない。残念ながらそのような痕跡はなく、結果からみれば幕府の命運を縮めることになる第二次長州征伐が実行されることになった。家茂は小笠原長行を広島に派遣し、長行は長州藩の巧妙な開戦引き延ばし策にかかってしまい、幕府は散々待たされた挙句開戦に引きずり込まれた。その時点では長州はすっかり応戦体制を整えていたのである。

さて、政事総裁職という臨時的栄誉職は、春嶽のために作られたもので、一代限りのものかと思っていたが、その後、親藩の松平直克がこの職に就いていたということを本書で初めて知った。

直克は川越藩主(のちに前橋藩主)で、大和守を称した。幕閣には珍しい本心からの攘夷論者であった。直克が政事総裁職に就いたのは文久三年(1863)十月。翌元治元年(1864)六月までその職にあったが、横浜鎖港問題や天狗党鎮圧をめぐってほかの老中と対立して辞職した。何故、このタイミングで幕府が直克を登用したのか、誰の意向が働いたのかよく分からないが、八一八政変以降も天皇の攘夷思考が強いことを受けての人選かもしれない。「春嶽や(伊達)宗城らにとって鬱陶しい存在」だったという。

筆者松浦玲氏は勝海舟の研究者としても知られるが、決して海舟を神格化するのではなく、批判すべきところは容赦なく批判する。海舟の日記や記憶をもとにした談話は、自分に都合の悪いところは(意図的に?)書き飛ばしたり、忘れてしまっている傾向がある。

文久元年(1861)三月、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬を侵攻するという衝撃的事件が発生した。海舟は「氷川清話」において「いはゆる彼をもって彼を制するといふものだ」といかにも自らの人脈を用いて英国大使を動かし、ロシア軍艦を追い払ったかのように自慢している。しかし、ポサドニック事件において海舟が動いたという記録は「氷川清話」以外になく、疑問視されている。「勝海舟と幕末外交」(中公新書)の著者上垣外憲一氏は外国奉行に復帰した水野忠徳が海舟を長崎に派遣したと推論しているが、松浦玲氏は「真似ができない強烈な推論」であり「承服できない」としている。少なくとも海舟一人が動いて事件が解決したなどということはないだろう。

第二次長州征伐が進んでいる中、京都で会津と薩摩の調停を命じられた海舟は、後年「調停に成功した」と語っているが、筆者にいわせれば「大嘘」であり、海舟の説得は「かすりもしなかった」とする。

本書は部分を切り取っても非常に面白い読み物になっている。一つ紹介おきたいのは、筆者の改元に関する蘊蓄である。詳細は本書P.164以降「最後の甲子改元で「元治」」、P.191以降「慶應改元」を読んでもらえればと思うが、甲子改元時には「令徳」という元号が七つの候補の中の一つに挙がったという。特に天皇は「令徳」がお気に入りだったらしい。しかし、これは「徳川に命令する」と読み取れることから春嶽の運動によって闇に葬られ(ここでも春嶽の論破力がものをいった)、「元治」に決定したという。昨年の改元の際、元号に「令」の文字が採用されたのは「史上初めて」と報じられたことは記憶に新しいが、過去に採用されかかったことはあったのである。

なお、P.267に鳥羽伏見の敗戦後、東帰を命じられた開陽の副長を「伴太郎左衛門」と記しているが、これは「沢太郎左衛門」の誤りである。歴史書籍の校正は、それなりの知識がないと難しい。筑摩書房ほどの大出版社でもそういう人材は不足しているという証左かもしれない。

 

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「勝海舟関係写真集」 森重和雄 高山みな子 三澤敏博著 出版舎 風狂童子

2020年05月30日 | 書評

本書も三澤敏博氏より献本いただいたもの。写真集というと、グラビアアイドルかフリーアナウンサーのものと相場が決まっているが、この本は歴史上の人物が主役である。実は「西郷隆盛写真集」という西郷隆盛その人の写真は一枚も載っていない写真集を持っているが、こちらは勝海舟が残した写真を網羅した本格的なものである。

冒頭、勝海舟自身の肖像写真が紹介されている。いずれも「どこかで見たことがある」ものばかりであるが、感心するのは同じ写真のように見えても、写真の持ち主が違ったり(つまり現在への伝わり方が異なっていたり)、少し撮影角度が違ったりして、いくつかバージョンの違いがあるということである。本書は、一枚も漏らすまいという編者の執念が透けて見えるようなものとなっている。

勝海舟自身の肖像写真や葬儀の写真、土産写真に続いて、海舟の親族関係の写真が紹介される。勝海舟には、民子夫人のほかに梶玖磨(長崎時代の愛人、梶梅太郎の母)、増田いと、小西かね、清水とよ、森田よねという妾があり、それぞれの間に子供をもうけている。従って親族関係の写真といっても膨大な数になるが、これも丹念に追っている。

といっても写真だけでこの大部の書籍ができあがっているわけではない。第二章は勝海舟絵画集と題して海舟を描いた絵を紹介している。第三章は各地にある海舟の銅像。二年前に松代の象山神社に象山の弟子や知己ということで、海舟始め坂本龍馬らの像が建てられていたということを本書で初めて知った。

第四章では、海舟の玄孫高山(こうやま)みな子氏の手による「海舟逍遥」。高山みな子氏は、海舟と増田いととの間にできた三女逸と目賀田種太郎の娘正代(高山直純氏と結婚)の孫にあたる。ここでは伊勢松阪射和の豪商竹川竹斎のことが詳しく紹介されているのが嬉しい。竹斎は商人でありながら、海外に目を向け「海防護国論」を著わし、幕閣にも建言した。勝海舟との交わりも深く、経済的にも支援を惜しまなかった。海舟の先見性というのは、多分に竹斎の影響を受けている(極言すれば、受け売りだった)のではないか(これは私が勝手に思っているだけです)。海舟と比べれば世間的にはずっと知名度は低いが、同じくらいエライ人であった。

なお、海舟と西郷との無血開城の場に立ち会ったのを「薩摩藩士渡辺清」と書いているが、これは「大村藩士」の誤りであろう。高山みな子さんがおっしゃる「重箱の隅をつつ」くような話ですみません。

第五章は、三澤敏博氏お得意の「江戸東京に遺る勝海舟の足跡」というお題で、関連史跡を紹介している。毎度のことながら、この方の幕末に関する造詣の深さは圧倒的である。都内の史跡は行き尽くしたと思っていたが、まだ知らない史跡の存在を本書で知った。一日も早く外出自粛・在宅勤務が解除されることを待ち望むばかりである。

最後に、決して本書の価値を損なうものではないが、誤字・誤植が目立つのは残念であった。これだけ立派な装丁、充実した内容だけに校正はしっかりして欲しいものである(たとえば、象山の子息の名前恪二郎を格二郎(P360)、宮島誠一郎を宮沢誠一郎(P406)、西郷菊次郎を菊二郎(P406)、柴田衛守を柴田守衛(P413)と表記など)。

 

 

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「越後新潟幕末維新グルメ物語」 三澤敏博著 FTプラニンブハウス

2020年05月30日 | 書評

三澤敏博氏よりメールが届いた。

「ここ最近、二冊ほど幕末関係の書籍を出版したのですが、 なかなか一般の書店で入手できるものでなく、よろしければ、献本させて頂きたいのですが、いかがでしょうか。」

お断りする理由があるはずもなく、喜んでお受けさせていただく旨、返事を送ったところ、ほどなく二冊の分厚い本が届いた。「越後新潟幕末維新グルメ物語」と「勝海舟関係写真集」という二冊の書籍である。驚いたことに合わせて一万円という高額なものであった。お言葉に甘えて頂戴してしまったが、恐縮してしまった。これは心して読まなくてはいけない。

もとより、花粉が舞うこの時期はあまり外出できない体質の上に、折しも新型コロナウイルス感染拡大防止対策ということで、家にいる時間が長くなった。まず「越後新潟幕末維新グルメ物語」から手にとった。読み始める前は、そのタイトルから推して前書「江戸東京幕末維新グルメ」の続編かと思っていたが、その取材の深さ、こだわりの強さは、前作を遥かに凌いでいる。読む前には「せっかくだから、全国の幕末維新グルメ本を出せば」などと無責任なことを思ったが、「あとがき」によれば本書の取材には約五年を費やしたというから、このペースで四十七都道府県を取材していたのでは一生かかってもシリーズの完結を見ることはできないだろう。でも、東京編、新潟編に続く作品も読んでみたいところである。

結果からいうと、私は本書を一度読んだ後、もう一度読み返した。二回目は地図を見ながら精読した。それほどはまってしまった。

本書の舞台は新潟県である。県下では北越戦争の激戦が交わされた。今も至る所に史跡が残っている。本書はそういった史跡を紹介しつつ、その周辺に在る老舗の菓子屋や醸造元、料亭などを紹介する。私も小千谷を訪ねた際に、河井継之助と二見虎三郎が小千谷会談決裂の後、昼食をとったといわれる料亭「東忠」は訪ねたが、それでもその前で建物の写真を撮った程度であり、そこで食事をとるというところまで思いもよらなかった。

普段も、お昼は会社の地下の食堂で一杯二百四十円の蕎麦で済ませている。同僚からは「いつも同じものを食べているけどよく飽きないね」と呆れられているが、別に蕎麦が好きだというわけではなく、定食コーナーより行列が短いから並んでいるだけなのである。食事が終わったら、さっさと外に出て職場から行ける増上寺、愛宕神社、青松寺や浜離宮庭園などを歩いている。

こんな調子だから、史跡の旅でも食事抜きかコンビニのおにぎりで済ませてしまうのが常で、昼食に十分も時間をかけることはないし、二千円や三千円も払ったことなど一回もない。本書を読んで「それでは現地を訪ねる楽しみを半分捨てているようなものだよ」と教えられた気分である。

一章を割いてサッポロビールゆかりの中川清兵衛(与板出身)を紹介しているのも嬉しい。明治二十四年(1891)、中川清兵衛が札幌麦酒会社を退社した経緯は、本書で初めて知った。

本書では、明治天皇が明治十一年(1878)九月、新潟県下を行幸した際の足取りを細かく紹介しているのが特徴である。「明治天皇を崇敬し、研究をつづけている」という筆者の明治天皇への傾倒ぶりが伝わってくる。

明治十一年(1878)というと、明治政府は前年鹿児島の反乱を鎮圧し、戊辰以来ようやく一定の安定を迎えた時期である。天皇を中心とした国民国家の形成を急ぐ明治政府にとって、天皇巡幸は重要なイベントだったのである。同年五月には維新以来政府を支えてきた大久保利通が暗殺されるという非常にショッキングな事件が起きたが、それでも天皇の北陸・東海道巡幸は計画とおり敢行されたのである。

明治天皇はどこでも熱狂的な歓迎を受けたが、越後諸藩は大半が戊辰戦争で反政府側であった。それだけに明治天皇の聖蹟は他県と比べて数も多いし、丁寧に保存されている印象を受ける。

我々は歴史的事件や人物と時間を共有することはできないが、その場所に立つことで空間を共有することはできる。これが史跡を訪ねる楽しみである。所縁の店で明治天皇や河井継之助らが味わった料理やお菓子やお酒を食べることは、歴史的人物との「味覚の共有」というもう一つの楽しみがあるのである。久しく新潟県の史跡から遠ざかっているが、本書を片手に「もう一度新潟を歩いてみよう」という意欲が高まってきた。一日も早くコロナ騒動が収まってくれることを祈るばかりである。

なお、非常に細かいことで恐縮だが、明治十一年(1878)九月十二日に、三条市で明治天皇が休憩をとった場所は、「妙法寺」ではなくて「恕法寺」が正しいと思われる。細かいことですが…。

 

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高尾 Ⅴ

2020年05月09日 | 東京都

(上川霊園つづき)

 唐鎌松之助の墓の場所を知りたくて、ネット上で唯一松之助の墓の写真を掲載している「ようこそ幕末の世界へ」というホームページの掲示板に問い合わせを送った。このホームページは、多摩地方を中心に幕末の史跡を紹介しているサイトである。その一か月後に回答があったようだが、すっかり見逃していて二年以上が経過してしまった。たまたまその回答を発見し、さっそく行ってきた。

 もともと左入の高木家の個人墓所にあった松之助の墓であるが、いつしか上川霊園に移されたらしい。上川霊園であれば、自宅から車で二十分足らずの場所である。

 場所は上川霊園10区8番340号。周囲には比較的新しい墓石が並ぶが、この墓は昭和八年(1933)に建てられたものらしい。正面には唐鎌家の六文銭の家紋が彫られている。

 松之助は新選組の近藤勇を襲撃したことで知られるが、その後、唐鎌家を継ぎ、八王子で北辰一刀流の道場を開いた。昭和六年(1931)、七十八歳にて没。

 

剣士 唐鎌松之助村雨之墓

 

緊急事態宣言の発令以降、史跡訪問が途絶えている。ご紹介できる史跡は今回で一区切りとなる。しばらく掲載はお休みとさせていただきます。

 

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銀座 Ⅴ

2020年05月09日 | 東京都

(銀座6丁目スクエア)

 何かの本で「銀座六丁目の日産本社が東京商工会議所発祥の地」とあったのを見て、日産本社を訪ねたが、その時既に日産本社はここになく、そのまま諦めてしまった。今般、「勝海舟関係写真集」(出版舎風狂童子)にこの史跡が紹介されていたので、早速小雨の中、昼休みに職場から往復してきた。現在、当地は銀座6丁目スクエアというオフィスビルになっている(中央区銀座6‐17‐1)。

 

東京商工会議所発祥の地

 

 この地に商工会議所の前身となる東京商法会議所が開設されたのは明治十一年(1878)三月。この場所は、明治二十四年(1891)まで農商務省、次いで商工省が昭和十八年(1943)まで所在し、明治以来、日本産業発展のための官民協力の発信地であり続けた。建碑は、東京商工会議所創立百年となる昭和五十三年(1978)。当時の商工会議所会頭永野重雄の名前が刻まれている。

 

 「勝海舟関係写真集」(三澤敏博ほか共著 出版舎 風狂童子)によれば、当地はもともと森有礼の所有地で、森が商法講習所の講師としてウイリアム・ホイットニーを招待したことから、この敷地内にあった屋敷にホイットニー一家も暮らすことになったという。その後、商法講習所の校舎もこの場所に建設され、ホイットニー一家は引き続きここに住むことになった。なお、ホイットニーの三女クララは、勝海舟の三男梶梅太郎と結婚して一男五女をもうけている。当時としては珍しい国際結婚であったが、のちに離婚している。

 

 

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いわき Ⅳ

2020年05月02日 | 福島県

(鮫川橋ポケット公園)

 JR常磐線植田駅から徒歩八分。鮫川橋の手前に小さな公園があり、そこに吉田松陰が当地を来訪したことを記念する石碑がある。もとは後宿児童公園にあったものを、平成二十三年(2011)、新しい鮫川橋の建設を機に、最初の建立予定地であった河畔に移設したものである。石碑裏面には、松陰の「東北遊日記」の一部が刻まれている。

 

 

殉國 吉田松陰先生遊歴之地碑

 

 松陰が植田を訪れたのは、嘉永五年(1852)正月二十三日の夜であった。松陰二十一の時である。

 松陰は、浪人松野他三郎と名を変え、同志とともに江戸から北上、磯原に泊まり正月二十三日に出立し、その日の夕刻植田宿に到着して泊まった。翌朝は、番所地点まで戻り、道標を右折して山田、上遠野から御斎所街道に出て。竹貫(古殿町)で宿泊して会津へ旅立った。松陰はその行程を「東北遊日記」に記し、このうち鮫川越えに関しては「大島を過ぎ、鮫川を渡り、植田に宿す」と記録し、同志との別れの心情を七言古詩に託した。そして最後に「夜、雨」と結んでいる。

 

 この石碑が建てられたのは、昭和十七年(1942)のこと。日に日に戦争の色が濃くなる中、住民を鼓舞するために計画され、寄付金を募って建設された。当初は、植田駅前にあった植田小学校の講堂脇に建てられたが、校舎移転により昭和四十一年(1966)に後宿児童公園に移築された。

 

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水戸 水戸城周辺 Ⅲ

2020年05月02日 | 茨城県

(水戸城大手門)

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、在宅勤務そして外出自粛に突入することになった。本来であれば、ようやく暖かくなってきたこの季節は、私にとって史跡探訪のシーズン開幕であるはずだが、今年(令和二年(2020))はすっかり様子が違った。三月中旬には自動車で宮城県から福島県を訪ねたが、その後水戸といわき市を訪ねて以降、史跡訪問ができない状況で、ストレスのたまる日々を過ごすことになった。

三月一日には神奈川県立歴史博物館で開かれる特別記念講演会「井伊直弼の近代」に申し込んで当選したので楽しみにしていたのだが、直前になって講演会は中止となった。せめて、開催されている特別展示「掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜」だけでも見ておきたいと横浜に向かおうとしたところ、念のため電車の車内で博物館のホームページを確認すると、こちらも急遽休館となっており、結局再開されることはなかったのである。オリンピックが延期となり、甲子園での選抜野球大会が中止になり、大相撲が無観客で開かれるといった影響からすれば、私の受けた被害など微々たるものではあるが、それでも確実に日々の生活に変化は起きている。これから先日本はどうなっていくのだろう。

四月上旬には在宅勤務が始まり、その出口も見えていない。以下、今となっては外出自粛直前の貴重な旅の記録である。

 

水戸城大手門

 

 水戸城大手門は、ちょうど弘道館と向かい合うような位置にある。平成二十一年(2009)に坂東市の古刹で発見された水戸城の城門と伝わる扉が水戸市に寄贈されたことから始まった。水戸市は五年をかけて学術的な調査および検討を進め、工事は伝統工法を採用し、令和二年(2020)二月に復元大手門が竣工した。

 

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水戸 偕楽園 Ⅲ

2020年05月02日 | 茨城県

(偕楽園つづき)

 好文亭の前に建つ偕楽園記碑は、偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されたものである。碑の裏には、斉昭の定めた園内での禁止事項六箇条が刻まれている。今日の公園管理の先駆けを成すものといって良い。

 

偕楽園記碑

 

 好文亭の前に建つ偕楽園記碑は、偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されたものである。碑の裏には、斉昭の定めた園内での禁止事項六箇条が刻まれている。今日の公園管理の先駆けを成すものといって良い。

 

遺徳之碑

 

 遺徳之碑は、茨木県第六代参事で、旧佐賀藩士関新平の顕彰碑である。関新平は明治六年(1873)から八年(1875)まで茨木県参事(今でいう知事)を務め、その間、仁政を敷き人徳を残して去ったことに対して、多くの旧水戸藩士がその遺徳を偲び、明治三十年(1897)に建碑したものである。関新平は、江藤新平、大木民平(喬任)とともに「肥前の三平」と呼ばれた逸材である(関の代わりに古賀一平(定雄)をその一人とする説もある)。

 

菁莪遺徳碑

 

 菁莪とは、原市之進の号であり、市之進が経営した私塾の名前である。

 原市之進は、文政十三年(1830)水戸藩士原雅言の子に生まれた。藤田東湖とは従兄弟の関係にある。元治元年(1864)、一橋家の用人となり、慶喜に仕えた。慶喜のブレーン的な存在であったが、慶応三年(1867)、兵庫開港を計ったという理由で、幕臣に斬殺された。歳三十八。

 この菁莪遺徳碑は、徳川昭武の篆額、岡千仭(昌平黌の同学・仙台藩)の碑文、書は九州の吉田晩稼。明治三十年(1897)の建碑。

 

 御幸(みゆき)の松は、明治二十三年(1890)に明治天皇・皇后両陛下が茨木県に行幸されたのを記念して松を植樹した。しかし、昭和四十七年(1972)十月に松喰い虫の被害を受けて枯れてしまった。現在見られる二本の松は、昭和四十九年(1974)、昭和天皇・皇后両陛下が国民体育大会にご臨席された際に本園にお立ち寄りになったことを記念して植樹したものである。

 

御幸の松

 

(常磐神社つづき)

 

義公鑽仰碑

 

 義公すなわち光圀の顕彰碑は、昭和四十五年(1970)十二月の建碑。題字は徳川宗敬(一橋徳川家十二代)、安岡正篤の撰文。

 

 義烈館の前に一本の梅の木と歌碑が立っている。この梅の木は、光圀公が大阪(浪華)から取り寄せて彰考館の前庭に植えたもので、「浪華梅」と称される。

 歌碑に刻まれる歌は、斉昭が彰考館を訪れたとき、百年以上の歳月を経て「浪華梅」が香りを伝えていることに感動して詠んだもの。明治三十六年(1903)にそれを慶喜が書いたものが刻まれている。

 

浪華梅歌碑

 

 家の風 今もかをりのつきぬにぞ

 文このむ木の さかりしらるる

従一位公爵 徳川慶喜謹書

 

常磐神社 義烈館

 

 この石造りの門柱は彰考館文庫の門柱である。明治三十九年(1906)に「大日本史」が完成し、全国から蒐集した史料数万冊を保存するために当地に彰考館文庫が建設されることになった。明治四十三年(1910)に竣工したが、昭和二十年(1945)の水戸大空襲により常磐神社も全焼し、この門柱のほか能舞台、手水舎、神輿舎のみが焼け残った。

 

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箱根ヶ崎 Ⅱ

2020年05月02日 | 東京都

(狭山神社)

 JR八高線箱根ヶ崎駅から徒歩十分で狭山神社に行き着くことができる(瑞穂町箱根ヶ崎52)。百段余りの関段を上ったところに拝殿がある。拝殿の左手に「狭山茶場の碑」がある。

 

狭山神社

 

狭山茶場之碑

 

 狭山茶場の碑は、勝海舟の題字。明治十一年(1878)の建碑。

 

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