史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

飯能 Ⅵ

2022年02月05日 | 埼玉県

(智観寺つづき)

智観寺には振武軍約百二十名が立てこもった。寺門は官軍の砲弾を受けた痕跡を留めている。

 

智観寺寺門

 

 智観寺は、中山氏の祖、丹治武信が元慶年間(877~885)に創建した寺である。以来、中山氏は智観寺を菩提寺とした。

 中山家範(いえのり)は豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、北条軍の拠点八王子城を守り、奮戦の末戦死を遂げた。家範の次男信吉(のぶよし)は徳川家康に取り立てられ、側近として活躍した。水戸家初代藩主徳川頼房の傅育を命じられ、水戸藩付家老となった。付家老というのは、幕府が親藩に対し(あるいは本藩が支藩に対し)、施政を監督・指導する目的で遣わした家老で、尾張藩における成瀬氏、竹腰氏、紀伊藩における安藤氏、水野氏が代表的である。

 中山氏は水戸藩の北の要地である多賀郡松岡(現・茨城県高萩市)および大田村周辺(現・茨城県常陸太田市)に二万五千石の領地を与えられ、代々水戸藩の付家老として活躍した。二万五千石となると、ちょっとした大名並みの家格である。

 それでも中山氏の父祖伝来の地飯能と菩提寺智観寺には格別なこだわりがあったらしく、初代中山信吉以下幕末まで代々の藩主および夫人の墓が、水戸から遠く離れた当地に葬られている。

 信吉の墓は、円墳上に設けられている。その墓前には、嗣子中山信正によって御影堂が建立され、その内部には宮殿や信吉寿像、木碑、燭台、位牌が安置されていた。御影堂は明治時代に解体され、木碑等は収蔵庫に移されている。

 

初代中山信吉の墓

 

 風軒(ふうけん)跡は、中山信吉の嗣子、二代信正の霊屋であり、信正の歯骨を埋めたとされる。信正の墓は、水戸の桂岸寺(常磐共有墓地に隣接)にある。

 

風軒跡(中山信正霊屋跡)

 

十二代中山信守の墓

 

 中山信守は文化四年(1807)の生まれ。文政十一年(1828)、家督を継ぎ、同年九月に家老に就き、十二月に従五位下に叙され、備後守に任じられた。天保八年(1837)、国政向取締並びに家事改革のため、領所下手綱へ暇を命じられた。弘化元年(1844)、老中阿部正弘は信守を招致して七ヶ条を詰問した。信守はこれを弁じ、さらに戸田銀次郎(忠則)と合議し、これに回答したが、同年五月六日、藩主斉昭は致仕謹慎を命じられ、信守も差控に処された。安政四年(1857)、年五十一で没。

 

十三代中山信宝の墓

 

 中山信宝(のぶとみ)は、弘化元年(1844)、信守の子に生まれた。安政五年(1858)、家督を継ぎ、同年十二月には従五位下に叙され、備前守に任じられた。安政六年(1859)、藩主慶篤、前藩主斉昭が謹慎閉居を命じられると、同じ日付で差控に処された。同年十二月、幕府普請のため五百両を献上した。万延元年(1860)、領地松岡に学校就将館を設けた。文久元年(1861)、十八歳で没。

 

(中山家範館跡)

 智観寺から近い住宅街の中に中山氏居館跡がある。天正十八年(1590)、八王子城で戦死した中山家範の館跡である。この館は小規模なもので、周囲には推定幅四~六メートル、深さ一~二メートルの堀を巡らせていたという。館の周辺には中山氏に仕える武士の居宅や田畑があり、中山氏は、日常は農業に従事しながら、武芸の鍛錬に励み、戦闘が起こると武士団の長として出陣した。現在、周辺は宅地化が進み、北西部隅に空堀が残されているのみとなっている。

 

中山家範館跡

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伊奈

2022年01月08日 | 埼玉県

(桂全寺)

 伊奈町の桂全寺の最寄駅は、埼玉新都市交通株式会社 ニューシャトルの終着駅内宿である。

 ニューシャトルは大宮駅から内宿までの12・7キロメートルを、約三十分余で結んでいる。大宮の次の駅が鉄道博物館駅である。まだ息子が小学校低学年だった頃、鉄道博物館がオープンしたばかりだったと記憶するが、この時初めてニューシャトルを利用した。その息子も今春から社会人になった。初めての鉄道博物館の前夜に高い熱が出てしまい、急遽取り止めになって、泣きながら寝床に行った姿がついこの間のように思い出される。

 鉄道博物館駅を過ぎると乗客は極端に減る。内宿に着いたとき、車両には乗客は私一人となってしまった。

 

桂全寺

 

 桂全寺には、春日家の墓地がある。春日家は、藤原氏の流れを汲み、足利尊氏から領地を与えられたと伝えられる。戦国時代に菅谷から小針内宿付近を本拠とし、岩槻太田氏に重臣として仕えた。春日下総守景定は、拠点としていた小針内宿に春日家の祖である祖父行忠の菩提を弔うため、桂全寺を開基した。

 岩槻に小田原から北条氏房が送り込まれると、景定は相模国にも領地を与えられ、直接北条氏の指示を受けた。北条氏が滅ぶと、景定とその子家吉は、徳川家康に仕え旗本となった。

 家吉の長男家春は、新たに家を興して、元禄十一年(1698)に旧領小針内宿を与えられ、以後幕末まで伝領された。

 幕末の当主左衛門顕道は、先代邦三郎顕恊(あきつぐ)の養子である。慶應四年(1868)、彰義隊が結成されると、天野八郎らとともに頭並に就いた。上野戦争で敗れると、磐城久之浜へ渡り、徳川陸軍を名乗って平潟口で戦った。のちに陸軍隊と称された。左衛門は仙台に転進し、そこで榎本艦隊に合流して蝦夷に渡った。明治二年(1869)の新年に旧幕軍は洋式に再編成されたが、その時、旧陸軍隊を主体とした第三列士満(レジマン=連隊)の第一大隊長となった。明治二年(1869)五月十一日、左衛門は重傷を負って五稜郭に収容された。この時、左衛門は新選組の田村銀之助を養子にしていたといわれるが、その田村の証言によれば、五月十六日、榎本から与えられた毒薬を服用して自死したという。

 

春日家の墓

 

 中央の五輪塔は、景定の祖父行忠の墓。左は左衛門の妻(顕恊の長女)の墓、右は顕恊の妻と左衛門顕道とその子の合葬墓である。

 

春日左衛門顕道の墓

 

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与野

2022年01月08日 | 埼玉県

(一本杉)

 

一本杉

 

一本杉の仇討跡

 

 与野駅(JR京浜東北線)近くを走る旧中山道沿いにKids Duoさいたま副都心という施設がある。その前に一本杉と刻まれた石碑が建てられている。

 万延元年(1860)、下総国津宮の沖合の船中で、水戸藩士宮本佐一朗と讃岐丸亀藩の浪人河西祐之助が口論の末、斬りあいとなり、宮本佐一朗が命を落とした。河西はこの斬り合いで負傷したが、同じ時期に起こった桜田門外の変の逃亡者と疑われ、吟味を受けた。そのため宮本佐一朗の息子である宮本鹿太郎が河西の居所を知るところとなった。鹿太郎は、四年後の文久四年(1864)一月二十三日、西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の三人の後見人とともに、仏門に入るため不動岡総願寺から江戸へ向かう河西を、針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごとに父の仇を討った。

 その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方に引き取られ、一月二十七日、浦和宿にて幕府に取り調べを受けた後、小石川の水戸藩邸に引き渡された。この事件は、「幕末最後の仇討ち」として、刷り物、はやり歌などで中山道界隈に広まり、語り継がれることになった。

 かつて、当地にあった一本杉は、樹高約十八メートル、周囲約三メートルという巨木で、松並木の中で一際秀でた大樹だったといわれる。

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北浦和

2022年01月08日 | 埼玉県

(廓信寺)

 

廓信寺

 

 一本杉で討ち取られた河西祐之助は、観音寺に葬られたが、その後、観音寺は廃寺となり、現在、墓石は廓信寺に引き取られて、供養されている。山門前に「観音寺縁故者供養塔」が建てられているが、その一番右端にあるのが河西祐之助の墓である。墓石表面は剥落し、辛うじて「川」という文字のみが確認できる。

 

河西祐之助の墓

 

小泉蘭斎の墓

 

小泉蘭斎

 

 小泉蘭斎は、文化八年(1810)、三上藩(現・滋賀県)藩士の子として江戸に生まれ、三十八歳のとき藩を辞し、別所村(現・さいたま市浦和区)に移り、寺子屋を開いた。当時の浦和県が浦和宿本陣に郷学校を開くに当り、石川直中校長のもとに蘭斎も招かれ、その教師となった。浦和郷学校は、明治四年(1871)二月、玉蔵院を校舎として正式に開校したが、蘭斎はその翌年の五月、病没した。明治十年(1877)、教え子たちが拠金して廓信寺に墓碑を建てた。背面には蘭斎の事歴を刻む。

 本堂の前に収納庫があり、そこに蘭斎の墓が保管されている。従って、墓石の側面や背面を確認することはできない。

 

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蕨 Ⅲ

2022年01月08日 | 埼玉県

(河鍋暁斎記念美術館つづき)

 二か月前に訪問した際には休館だった河鍋暁斎記念美術館を拝観することができた。蕨駅前から蕨市が運営しているコミュニティバスが通っているが、待てどもバスが来ない。時刻表には「15」と書いてあったので、てっきり十五分間隔でバスが運行されているのかと思ったが、それは全くの勘違いであった。一時間に一本、毎時15分に蕨市を出るということらしく、タイミングが合わなければ使い勝手はあまりよくない。あまり辛抱強い方ではない私は、待ちきれずに電車で一駅移動して、最寄りの西川口駅から歩いた。二十分くらいで到着する。

 西川口駅は、川口市に所在しているが、少し西に行くと戸田市である。河鍋暁斎記念館は市境の蕨市に位置している。西川口駅周辺には、タイ語や韓国語の看板が並び、街を行く人も外国語を話している人が多い。ひと言でいうと猥雑な印象の街であるが、何だか暁斎の多様で雑多な画風にも通じるところがある。

 河鍋暁斎は、狩野派の絵師に分類されているが、伝統的な日本画のみならず、水墨画風の絵も描けば、おどろおどろしい残酷絵や風刺画(現代でいえば、漫画に近い)まで、多様な作品を残した。その背後にはあらゆる技法に通じた暁斎の高度な技術があった。この記念館では暁斎の残した下絵(今風にいうと、デッサン)を中心に展示されているが、ほとんど描き直した形跡がなく、暁斎の確かなデッサン力を物語っている。

 ほかに客はいなかったので、一人占めであった。記念館にはミュージアム・ショップも併設されている。私はここで暁斎筆「百鬼夜行図屏風」と「蛙の人力車と郵便夫」の絵ハガキを購入した。いずれも「鳥獣戯画」を連想させるユーモラスな風刺画である。

 

「百鬼夜行図屏風」

 

(塚越稲荷神社)

 蕨駅から東へ徒歩十分。塚越稲荷神社の境内に高橋新五郎夫妻を祀る機(はた)神社がある。

 

塚越稲荷神社

 

機神社

 

 高橋新五郎は寛政四年(1792)の生まれ。高橋家は代々武蔵国足立郡塚越村の農家で、先代から農閑期には余業として機織りをしていた。新五郎は文化十三年(1816)から父の遺志を継いで鋭意機業の改良に着手し、各地の機織りを参考にして高機を工夫し、青縞織の製造を伝授し、爾来「東屋」の家号をもって栄え、天保八年(1837)には高機一〇二台、藍甕三〇〇余を備えた工場を構えた。その技術を聞いて遠近から伝習に来る者も多く、その人々が開いた弟子機屋、孫機屋と称するものが百数十に及んだという。没後、機祖神として祀られ、毎年七月七日の開業日には祭典が行われている。安政四年(1857)、年六十六で没。

 機神社には、高橋新五郎とその妻いせの座像が置かれているが、合わせて反物や糸取りの道具も納められ木綿糸が巻かれている。また前身は関東大権現社であり、徳川家の葵の御紋も本殿正面に掲げられている。家康の座像も祀られているという。

 

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狭山

2021年11月20日 | 埼玉県

(沢口上墓地)

 竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、狭山市笹井の国道468号狭山日高IC付近にある沢口上墓地に、飯能戦争で戦死した津志常蔵の墓がある。今回、伊勢崎、深谷、熊谷を回った帰路、狭山に立ち寄ってこの墓を訪ねることにした。

 

津志常蔵年行之墓

 

 墓誌背面に「慶應三年旧六月飯能戦於テ歿」とあるが、慶応四年(1868)の誤りであろう。昭和二十八年(1953)の彼岸に建立されたと記載されている。

 

 

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熊谷 Ⅶ

2021年11月20日 | 埼玉県

(元素楼)

 

行啓記念碑(元素楼跡)

 

 深谷市玉井に行啓記念碑が建てられている。明治二年(1869)、蚕糸業の先駆者である鯨井勘衛は屋敷内に三階建ての大蚕室「元素楼」を建て、清涼育と呼ばれる養蚕技術の指導を行った。元素楼には昭憲皇后と英照皇太后が訪れた。それを記念した碑である。

 

(集福寺)

 集福寺は、もともと臨済宗寺院として創建されたが、永正年間(1504~1520)に曹洞宗寺院に改められたという。広い境内を持つ寺で、いかにも禅の道場といった風情が感じられる。

 

集福寺

 

 集福寺は江戸時代中期から地域周辺の土木事業などを進めた慈善家吉田市右衛門家の菩提寺として知られる。当院には江戸時代から明治時代にかけて、吉田家を訪問した多くの著名人が訪れた。清水卯三郎や五代友厚も吉田家及び集福寺を訪れている。

 

(愛染堂)

 

愛染堂

 

 愛染堂には、尾高惇忠が揮毫した奉納額(熊谷市指定有形民俗文化財)がある。しかし奉納額は公開されておらず、無駄足になってしまった。今年二月には大河ドラマを記念して公開されていたそうだが、残念ながら実見することはできなかった。

 

共進成業唯頼冥護

尾高惇忠書

 

(長島記念館)

 小八林の長島記念館は、旧埼玉銀行(現・りそな銀行)頭取・会長を務め、埼玉県経済の発展に尽くした長島恭助の生家を利用して平成六年(1994)に開設された美術館である。入館料は三百円。

 入って右側には土蔵を改装した美術品展示室があり、長島恭助が収集した川合玉堂や横山大観らの絵画、渋沢栄一、高山彦九郎の書簡、掛軸、日記、刀剣、美術工芸品などが展示されている。

 

長島邸母屋

 

長島邸内

 

 母屋には懐かしい昭和のおもちゃや民芸品などが並べられている。

 ほかに客はおらず、心行くまで展示を楽しむことができた。受付の御婦人はとても親切で、各種パンフレットのほか、

「自分で漬けたので」

と梅干まで頂戴してしまった。

 

長島記念館

 

「温良恭謙譲」

渋沢栄一書

 

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深谷 Ⅶ

2021年11月20日 | 埼玉県

(岡部六弥太忠澄の墓)

 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ、猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に土着して岡部氏と称した。

 六弥太忠澄は、忠綱の孫で、源義朝(よしとも)の家人として、保元・平治の乱に活躍した。特に待賢門の戦いでは、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として有名を馳せた。木曽義仲の追討、一の谷の合戦、奥州藤原氏征討にも参加している。

 ここには六基の五輪塔が並んでいるが、中央の最も大きいものが岡部六弥太の墓で、その右側が父行忠、左側が夫人玉の井の墓といわれている。

 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳がでるようになるという迷信が伝わっており、五輪塔は削られて雪だるまみたいになっている。

 

岡部六弥太忠澄の墓

 

岡部六弥太の墓所を大正年間に修理した際、渋沢栄一は寄付をしている。石碑に名前が刻まれている。

 

寄進碑

 

 「一金七拾五円也 縣廰補助金 一金壱封 子爵渋澤栄一殿」と刻まれている。

 

(華蔵寺)

 華蔵(けぞう)寺には栄一お手植えの松(赤松)が植樹されている。残念ながら赤松は大雪のため倒壊してしまい、現在は初代の実から育った二代目が植えられている。

 

華蔵寺

 

子爵渋澤栄一翁御手植の松

 

 華蔵寺には美術館が併設されている。地元の渋沢栄一や尾高惇忠、金井烏洲らの書跡のほか、白隠、良寛、小林一茶、平山郁夫らの作品が展示されている。

 

(薬王寺)

 

薬王寺

 

直養院殿釋英法居士(神谷勝十郎の墓)

 

 薬王寺の本堂脇に神谷勝十郎の墓がある。この情報を吉盛智輝様(「但馬の殿様」の著者)よりいただいた。

 神谷勝十郎は幕末の旗本。神谷氏は黒田村と大谷村に二百十石余を知行する旗本であった。慶応四年(1868)三月、御用金の取立てに支配地黒田村名主宅を訪れた際に農民に竹槍で突かれて殺害された。吉盛様によれば「領内からきつく年貢や御用と称し臨時税を取立て、怨嗟の的となっており明治元年自ら出向き臨時税を取立てようとしたところ、領民からなぶり殺しに遭い口の中に石を詰められ、河原で火で炙られよってたかって切り刻まれ、その肉を領民達が食した。」というのである。何とも形容し難い陰惨な事件である。

 この墓は明治二十三年(1890)、つまり神谷が殺害されて二十年以上が経った頃、神谷家と住民の間に和解が成立し、住民の手によって建てられたものである。墓石の台座に住民の名前がぎっしりと刻まれている。

 

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神川 Ⅲ

2021年11月13日 | 埼玉県

(金讃神社)

 神川町二ノ宮の金讃(かなさな)神社は、延喜式神名帳にも名を残す古社である。かつては武蔵国二の宮と称され、地名の二の宮はこれに由来している。鬱蒼とした森に囲まれ、清浄な空気に包まれている。

 

金讃神社

 

木村(九蔵)翁頌徳碑

 

 最初の鳥居をくぐって右手の山に木村九蔵頌徳碑と九蔵の甥、木村豊太郎の顕彰碑が建てられている。

 木村九蔵は、弘化二年(1845)上野国緑野郡高山村(現・群馬県藤岡市)に生まれ、元治元年(1864)、新宿村寄島(現・上川町大字新宿)の木村家を継いだ。少年時代から養蚕法の改良に励み、火力を利用して換気乾燥する温暖飼育法を開発し、明治五年(1872)に「一派温暖育」と名付けて発表した。明治十年(1877)、「養蚕改良競進組」を結成して、温暖育の普及に努め、明治十三年(1880)には新品種の繭「白玉新撰」を世に出した。明治十七年(1884)には「養蚕改良競進社」と改称し、木村豊太郎、浦部良太郎を副社長として組織の充実を図り、養蚕伝習所を児玉町に開設して、養蚕技術の指導にあたった。また各地に支部を設けて指導員を派遣した。これにより競進社の飼育法と白玉新撰は全国に広まった、明治二十七年(1894)には農村振興に大きく貢献したことに対し緑綬褒章を受けている。明治三十一年(1898)、五十四歳で没。

 木村翁頌徳碑は、明治三十二年(1899)の建碑。題額は伊藤博文の書。

 

木村豊太郎君之碑

 

 この石碑は、伯父木村九蔵と競進社を作り副社長となった木村豊太郎の功績をたたえ、大正七年(1918)四月に金鑚神社境内に設置された。渋沢栄一の撰文および書。

 

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坂戸 Ⅲ

2021年11月13日 | 埼玉県

(大智寺)

 坂戸市石井の大智寺は広い境内を持つ寺院である。本堂は教会のような建物である。広い墓地の一番片隅に井上淑蔭(よしかげ)の墓がある。

 雨は降ってくるし、蚊の攻撃は容赦なく、極めてストレスフルな掃苔となった。井上淑蔭の墓の写真を撮り終えたら、逃げるようにしてこの場を立ち去ったが、それでも両腕、両脚を無数に蚊に噛まれてしまった。

 

大智寺

 

智性院権中教正顕徳泰譲居士

(井上淑蔭の墓)

 

 井上淑蔭は、文化元年(1804)の生まれ。文化十三年(1816)、十三歳のとき、比企郡中山村の小松庵鈴木氏の門に入り、十七歳で江戸に出て清水浜臣に入門。林信海とも親交があった。二十四歳のとき、「隠郷談」をかき、のち清河八郎門に入って尊王攘夷論者となった。西川練造、桜国輔らと活躍した。しかし、契沖(1640~1701)の著わした「古今余材抄」を読んで、考証・考古学者に転じた。明治二年(1869)、新政府に出仕し、大学中助教、明経・文章両局兼開校御用、二年後辞官し郷里石井に閉居した。権中教正まで上がった。明治十九年(1804)、八十三歳にて没。

 

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