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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

妙高

2022年11月19日 | 新潟県

(関川)

江戸時代、江戸と地方を結ぶ主要な街道には関所が置かれた。北国街道沿いでは、越後と信濃の境を流れる関川に関川関所が置かれていた。

 

関川

 

北国街道は、軽井沢の追分で中山道から分岐して善光寺を経て越後高田に至る脇街道のことをいう。終点は出雲崎もしくは金沢ともいい、幕府はこの道を北国往還と呼んだ。佐渡から金銀を輸送する安全な道として、また北陸諸藩の大名が参勤交代で利用する道として重視され、庶民にとっても善光寺参拝等に欠かせない道として盛んに利用された。

 

関川関所道の歴史館

 

再現された関川関所

 

関所跡

 

関川関所は高田藩によって管理された。関川関所に常勤の藩士二名を派遣し、その下に足軽(下番)や人見女などを置いた。また大規模な大名行列などに備えて、近隣村々の百姓十名を郷足軽に任命して職務にあたった。

現在、関所跡には「道の歴史館」が開設され、関所に関する資料の展示、復元された番所建物などを見ることができる。入館料五百円。

 

明治天皇関川行在所阯

 

明治十一年(1878)、明治天皇は三回目の巡幸で新潟県を経由して北陸道、東海道を巡行した。随行員は、岩倉具視、大隈重信ら約八百人、乗馬は約百二十頭に及ぶ大規模なものであった。八月三十日に東京を出て、還幸は十一月二十九日、つまり七十二日におよび巡幸であった。

九月十日の午後四時過ぎ、関川関所跡で小休息をとり、その後、近くの旧加賀藩本陣大石邸で宿泊した。

 

加賀藩本陣跡(大石家)

 

加賀藩本陣大石家は、元文四年(1739)から加賀藩をはじめ九つの大名家の本陣として使われた。明治十一年(1878)の明治天皇北陸巡幸の際にも行在所となった。当時の建物は火災によって失われたが、建物の東側には池を中心とした庭園が残されている。

 

豊田家

 

高田藩本陣跡

 

 高田藩の専用本陣であった豊田家の建物は昭和に入って取り壊された。現在は、石の塀や銀杏の大木のみが往時を偲ぶものとなっている。

 

(関山)

 

北国街道 関山宿

 

 関山村は、高田藩と宝蔵院という寺院が分割して支配していたが、宿場の業務は高田藩領の役人が行った。関山宿は、関山権現社(関山神社)の門前町として栄えた。

 

関山神社

 

明治天皇駐輦碑

 

 関山神社の入り口近くに明治天皇駐輦碑が立つ。題字は元帥海軍大将東郷平八郎。

 

(二俣)

 

北国街道 二俣宿

 

明治天皇二俣御小休所阯

 

 二俣宿は田切宿と合宿で、大田切川と郷田切川に挟まれた交通の難所にあった。文化十三年(1816)、赤倉温泉開湯によって、温泉場入口の宿場として栄えた。

 

(君の井酒造)

 

君の井酒造

 

 本願寺新井別院に隣接する君の井酒造は、明治天皇巡幸の際、酒が献上されたという。せっかくだから、お土産に日本酒でも…と考えていたのだが、残念なことにこの日お店はお休みであった。

 

君の井

 

(東本願寺新井別院)

 東本願寺新井別院は、上越地方の東本願寺の末寺や門徒を統括するために、貞享二年(1685)に創建された。境内には樹齢五百年を超えるという一対の大イチョウが聳えている。

 明治十一年(1878)九月十一日、関川を出発した明治天皇は、二俣、田野、関山、二本木で小休を重ね、東本願寺新井別院で昼食をとった。この巡幸の直前、新井別院の本堂は落雷を受けて焼失してしまったため、宝蔵院から庫裏を移築して行在所に充てたという。

 

東本願寺新井別院

 

明治天皇新井行在所

 

明治天皇行在所聖蹟

 

森蘭斎 森蘭園 梅津祐齋 墓

 

 森蘭斎は本名を森田文祥といい、元文五年(1740)に新井村に生まれた。二十三歳のとき、長崎で神代熊斐の門人となった。やがて門人千余人の中から選ばれて師匠の家督を相続し、その時蘭斎という号を名乗った。のち江戸に出て師匠の画風を広めることを使命と考えていたが、安永三年(1774)、大阪に出て関西画壇で名声を博し、天明二年(1782)、四十二歳で「蘭斎画譜」八巻を京都、大阪、江戸で出版した。その後、江戸に出て当代一流の画家(後に南蘋派と呼ばれた)となり、徳川御三家の御用を勤めるようになった。また加賀前田藩のお抱え絵師にもなった。享和元年(1801)、江戸で六十二歳の生涯を閉じた。

 蘭斎の墓は、当初浅草の妙清寺にあったが、昭和五年(1930)、当時の新井町長をはじめ地元有志が資金を出して、当寺院に移築した。同じ墓に蘭斎の息で、やはり絵師となった森蘭園も葬られている。

 

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上越 Ⅴ

2022年11月19日 | 新潟県

(小猿屋)

 

笠松宗謙墓

 

史蹟 笠松宗謙住居跡

 

 小猿屋(こざるや)という集落に笠松宗謙の住居跡および墓がある。

 笠松宗謙は、天保九年(1838)の生まれ。諱は宗謙、通称は謙吾、源次郎、賀之吉。倉石侗窩に学び、嘉永六年(1853)、江戸に出て安積艮斎の門に学び、艮斎没後昌平黌に入り、文久元年(1861)、帰郷して塾を開き、勤王の士と交わって庇護した。慶應二年(1866)、まず会津を討つべしとして、下越の同志と語らい奥羽の諸藩に遊説したが、慶応三年(1867)、これが露顕して村松藩の七士が捕らえられると、宗謙も名を変えて仙台に出奔した。慶應四年(1868)の戊辰戦争には帰郷して政府軍を先導して活躍し、明治四年(171)、柏崎県庁に建言して川浦郷学を設け、教授として地方教育に尽くした。明治五年(1872)、年三十五で没。

 

(光明寺)

 光明寺には官軍に属して戊辰戦争で戦死した小浜藩士山田庫之進の墓がある。

 

光明寺

 

山田盛房之墓(山田庫之進の墓)

 

 山田庫之進は、慶応四年(1868)六月、越後出雲崎にて戦死。三十一歳。

 

(黒井)

 

明治天皇聖蹟

 

 黒井交差点近くの空き地の前に明治天皇聖蹟碑が建てられている。明治十一年(1878)九月二十五日、滞在。

 

(行野浜)

 県道129号線沿いの民家の前に明治天皇行野濱御小休所 附御膳水碑が建てられている。明治十一年(1878)九月二十五日の滞在。

 

明治天皇行野濱御小休所 附御膳水

 

明治天皇行野濱御小休所

 

(潟町)

 

明治天皇潟町行在所

 

 潟町郵便局近くに明治天皇潟町行在所碑がある。背後の建物は往時の面影を伝えている。

 

(浄福寺)

 柿崎の浄福寺には御座所跡が保存され、その前に「明治天皇御駐輦所」碑が立つ。寺には下賜されたと伝わる明治天皇の足袋やお茶碗、行在所と墨書された木札などが保存されている。

 

浄福寺

 

明治天皇御駐輦所

明治天皇御座所

 

(頚城酒造株式会社)

 

頚城酒造株式会社

 

 頚城酒造の歴史は、元禄十年(1697)まで遡る。上杉謙信の家臣八木家の分家が大地主となり、五代目八木善六郎によって八木酒造が創業されたのがその起源である。

 明治十一年(1878)の明治天皇の北陸巡幸において、柿崎の浄福寺が行在所に指定された。明治天皇に献上された御膳水には八木家と縁戚関係にあった小松酒造の水が選ばれた。

 昭和十一年(1936)、小松酒造は八木酒造に譲渡され、頚城酒造が誕生した。

 

(二本木)

 

明治天皇二本木御小休所

 

 二本木地区の白山神社の隣に明治天皇二本木御小休所碑が立ち、その背後に天皇が滞在した建物が保存されている。

 

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上越 Ⅳ

2022年11月19日 | 新潟県

(榊神社つづき)

 

琴臺東條先生之碑

 

 琴臺東條先生之碑は、大正九年(1920)九月の建碑。篆額の揮毫は西園寺公望。撰文は森林太郎(鴎外)。東條琴臺は、江戸生まれの漢学者であったが、高田藩主榊原家に仕え、藩士の教育にあたった。西園寺公望は北越戊辰戦争で高田に滞陣した際に琴臺と出会った。当時、西園寺は二十歳、琴臺は七十五歳であった。

 

(善導寺)

 

善導寺

 

善導寺は、会津降人の会所として用いられた。善福寺のみ写真を撮影し損ねた。

 

室孝次郎夫妻之墓

 

室孝次郎は天保十年(1839)の生まれ。倉石侗窩の門に学び、勤王の志をいだいて慶應二年(1866)、京都に上り広く志士と交わった。慶應四年(1868)正月の戊辰戦争では北陸道官軍御用掛に任じられ転戦したが負傷。明治三年(1870)、高田藩聴訴掛となり、また同志と高田病院を興した。明治八年(1875)、弥彦神社宮司、明治十一年(1878)、第八大区長、高田中学校長、明治十二年(1879)、西頚城郡長となり、明治十四年(1881)、辞して信越鉄道の敷設を計画し、また鈴木昌司らと頚城自由党を組織したが、改進党が結成されると上越立憲改進党を興し、明治二十三年(1890)より衆議院議員となり、明治三十年(1897)には愛媛県知事となった。明治三十五年(1902)、議員を辞め、憲政本党頚城支部長となった。明治三十六年(1903)、年六十五で没。

 

(石沢)

 

明治天皇石澤御小休所阯

 

 明治十一年(1878)九月十一日、厳しい残暑の中、関川行在所から南下した明治天皇は、石澤で小休を取り、この日の宿所である高田行在所に向かった。

 

明治天皇駐輦之碑

 

 駐輦之碑の題字は、宮内卿や侍従長などを歴任し、長く明治天皇の側近として仕えた徳大寺実則。

 御小休所根切松碑は、明治天皇の通行に備えて、道に露出していた根が断ち切られた松の巨樹を偲ぶものである。

 

御小休根切松

 

(高橋孫左衛門商店)

 

高橋孫左衛門商店

 

 上越市の南本町の商店街に高橋孫左衛門商店という粟飴の老舗がある。高田を代表する名物の一つが栗飴である。砂糖が貴重だった江戸時代、粟などの穀物に麦芽を加え、糖化させたものが粟飴である。

 高橋孫左衛門商店は、寛永元年(1624)創業。高橋家は越前藩主松平忠直の家臣といわれ、忠直の子光長が高田藩主として入府した際にこれに伴って高田に移り、当地で粟飴を販売したという。

 

十返舎一九ゆかりの地

 

 文化十一年(1814)には、「東海道中膝栗毛」で有名な戯作者十返舎一九が高田を訪れ、高橋家に世話稲荷、自著に粟飴のことなどを紹介した。

 

粟飴

 

 明治十一年(1878)、明治天皇北陸巡幸の際には、明治天皇が昭憲皇太后、英昭皇太后への土産に粟飴や翁飴を買い求めたという。

 

(大杉屋惣兵衛本店)

 本町の商店街にある大杉屋惣兵衛も、文禄二年(1592)の創業という老舗である。粟飴を固めた翁飴は、歴代高田藩主の御用を命じられた。

 

大杉屋惣兵衛本店

 

翁飴

 

 ここでお土産に翁飴を購入。上品な甘さが特徴である。

 

翁飴

 

(長徳寺)

 長徳寺には以下の六名の金沢藩士が葬られている。奥田九左衛門、大矢鍵太郎、上山兵蔵、北村和右衛門、堀井曽左衛門、今村栄次郎。いずれも越後戦線で戦死した金沢藩士であるが、今村栄次郎のみは明治二年(1869)五月十三日、箱館津軽陣屋にて戦死。

 

長徳寺

 

金沢藩士の墓

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糸魚川 Ⅱ

2022年11月19日 | 新潟県

(水前神社)

 

水前神社

 

 糸魚川行在所となった池原家の建物は、上刈の水前(みずさき)神社に移設され、神殿として使われている。

 

上刈地区

 

JR大糸線

 

 水崎神社の真下をJR大糸線(糸魚川―大町を結ぶ)が走る。民家の庭先を電車が走るという、鉄道マニアには堪らない環境である。

 

(池原印刷所)

 

池原印刷所

 

糸魚川行在所となった池原家(現・池原印刷所)には巡幸に随行していた杉孫七郎の漢詩を刻んだ石碑や明治天皇糸魚川行在所阯 附御膳水碑があるが、残念ながら非公開。

 

(鶴来屋)

 

鶴来屋

 

 平成二十八年(2016)、糸魚川市街を焼く大火災が発生し、この火災で老舗日本料理店「鶴来屋」も焼失した。

 鶴来屋は文化二年(1805)の創業。明治十一年(1878)には、明治天皇が糸魚川に行幸した際に料理を提供する栄誉を担った。

 由緒ある鶴来屋は、平成三十年(2019)一月、建物を一新して営業を再開した。

 

(菊池邸)

 

明治天皇市振小休所阯

 

 明治十一年(1878)九月二十八日、親不知・子不知の天険を通過した明治天皇は、新潟県域最後の小休所である市振小休所(菊地邸)で休憩をとった。その後、県境の境川を渡って、富山(当時は石川県)へ入った。新潟県における巡幸は十九日に及んだ。

 

(富岡邸跡)

 

明治天皇聖蹟碑

 

 青海小休所に指定された富岡邸跡には東郷平八郎揮毫による明治天皇聖蹟碑が建てられている。

 

(梶屋敷)

 

明治天皇御駐輦之碑

 

 糸魚川行在所に入る前、明治天皇は梶屋敷小学校で小休をとった。明治天皇御駐輦之碑の傍らにはもう一つ「明治天皇御駐輦碑」があったらしいが横倒しになったまま放置されている。

 

(齊藤邸)

 

明治天皇藤崎小休所阯

 

 明治十一年(1878)九月二十六日、あいにくの雨の中、明治天皇は筒石学校と藤崎小休所(齋藤邸)を経由して、能生の大島邸で昼食をとった。斉藤氏、大島氏ともに加賀藩の本陣を務めた家柄である。

 

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湯沢

2016年08月19日 | 新潟県
(大野原墓苑)


「悠遠」
吉村昭の墓

 関越自動車道を湯沢ICで降りると出口の手前左手に墓地が見える。これが大野原墓苑である。そこに見えているからといって、直ぐに行き着けるというわけではなく、辺りを走り回ってようやく到着した。ここに作家吉村昭が眠る。
 吉村昭は、綿密な史料調査と自らの足で現地を徹底的に歩く取材をもとに、埋没していた史実を掘り起こし、多彩な作品を残した。幕末を題材とした「桜田門外の変」や「生麦事件」「天狗騒乱」「ふぉん・しーぼるとの娘」など、いずれも繰り返し読んでも新たな感動を受ける名作ばかりである。
 吉村昭は小説を描くために全国を旅したが、湯沢町だけは仕事を忘れ、憩いを得るために訪れたという。湯沢をこよなく愛した吉村昭は、生前からこの場所を自分の墓所と定め、ここに眠っているのである。
 平成十八年(2006)、七月三十一日、延命治療を拒み、自らカテーテルを引き抜いて尊厳死を選んだ。享年七十九。作品と同じく、強烈な自己を貫いた生涯であった。

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佐渡 Ⅱ

2011年09月12日 | 新潟県
(真野新町)
今回の佐渡の旅の一番の目的が真野新町の司馬凌海生家跡を訪ねることにあった。JA真野を目指せばすぐに発見できると高を括っていたが、なかなか見つけられない。市役所真野支局まで行って教えてもらい、ようやくたどり着くことができた。実際に生家があった場所は、JA真野の北側、今は道路になっている。


司馬凌海先生生家跡

司馬凌海は、天保十年(1839)にこの地に生まれた。幼名は伊之助(または亥之助)といった。姓の島倉の音から司馬と称した。通称は凌海。名は盈之(みつゆき)。十二歳で江戸に出て松本良輔、佐藤泰然について蘭医学を学び、のちに長崎に出てオランダ医師ポンペについた。語学の天才と言われ、六ヶ国語に通じた。維新後、ドイツ語の私塾「春風社」を開いた。我が国初の日独辞典「和訳独逸辞典」を出版したことでも知られる。明治十二年(1879)神奈川県戸塚にて死去。享年三十九。
以上の履歴を読んでも面白くも何ともないが、この人物が、司馬先生の小説「胡蝶の夢」に副主役として登場する。恐らく現代の精神科医に診断させれば、アスペルガー症候群もしくは発達障害という病名がつくであろう。歴史の波間に一種の奇人が紛れ込み、周囲の著名人を巻き込んで混乱させる様子が実に面白い。


山本邸

「胡蝶の夢」では、司馬凌海の生家のとなりに山本家があるという設定になっているが、実際には斜め向かいである。今も表札は「山本半右衛門」となっている。この家からは郷土史家の山本修之助、修巳(当主)のほか、実業家からのちに政治家に転じ、昭和初年に農林大臣を務めた山本悌ニ郎、戦前外務大臣を務めた有田八郎が出ている。

(真野小学校)
真野小学校の校舎傍らに司馬凌海の顕彰碑が建てられている。篆額は山県有朋、撰文石黒忠悳、山本半蔵の書。明治三十九年(1906)に建立されたものである。


司馬凌海顕彰碑

(佐渡奉行所跡)


佐渡奉行所跡

司馬遼太郎先生の「街道をゆく~佐渡のみち」では、佐渡奉行所について「建物はなに一つ残っておらず、学校の運動場のようにそっけない」と記録している。佐渡奉行所は昭和十七年(1942)に全焼したが、平成十二年(2000)に復原再建された。因みに司馬先生がこの地を訪れたのは昭和五十年代のことであった。

勝場(せりば)というのは、鉱石を粉砕して比重によって金銀分を分離採取する、いわゆる比重選鉱の工程である。


勝場(せりば)

佐渡は金を産出したため奉行所を置いて管理する天領であった。奉行所は、地方役、町方役、書役といった民政や財務を担当する部署のほか、山方役、筋金所役といった金山を管理する佐渡奉行所特有の組織を備えていた。公事方や御裁許所といった、現代でいうと裁判所的な機能も有していたので、奉行所内には白州もあった。


御白洲

天保十一年(1840)、幕末の名官吏川路聖謨が佐渡奉行として赴任している。川路の佐渡在勤は一年足らずの期間であったが、その間「佐渡奉行在勤日記」を残している。
幕末の佐渡奉行は、鈴木重嶺(しげみね)である。世情不安定な時期に佐渡を治められるのは彼をおいてほかはないと、勝海舟が推薦したという。慶応四年(1868)維新により免官となったが、相川県参事に任命され明治九年(1876)に新潟県に合併されて廃県となるまで在職した。鈴木は和歌・国学に秀いで、県参事時代に清楽社を結成して活発な作歌活動を行った。明治三十六歌仙の一人に数えられる。


北沢地区施設群

佐渡金山は、大立地区、高任地区(道遊の割戸がある)、間ノ山地区、北沢地区に製錬・選鉱施設が建設された。佐渡奉行所の駐車場から北沢地区の施設群を見下ろすことができる。奥に見えるのは五十㍍シックナ―、手前のレンガ造りの建物は発電所跡である。向かい合って立っている新しい建物は、相川技能伝承館。北沢地区の工場は、昭和二十七年(1952)まで稼働していた。

(佐渡金山)


道遊の割戸

佐渡奉行所から佐渡金山に向かう途中、「道遊の割戸」を遠望することができる。「道遊の割戸」は、佐渡金山発見の端緒となった主要鉱脈道遊脈の露頭堀跡である。山頂を真っ二つに割った採掘跡は佐渡金山の象徴となっている。道遊の割戸のことを司馬先生は酷評している。「ながめていて気持ちのいいものではない」「自分が無宿人ででもあるかのように、しかもこれら異様な空間の中に立たされているような思いに襲われる」。確かに不気味な造形ではあるが、長い時間をかけた人間の営みの結果だと思うと神々しくもある。


佐渡金山 宗太夫坑


佐渡金山 地下排水作業

佐渡金山は、観覧料を払って坑内に入ることができる。江戸時代に採掘された宗太夫坑コース、明治に入って近代的な方法によって掘進された道遊坑コース、いずれも大人八百円、小中学生四百円である。両コースを見学する場合は、千二百円と割引きが適用される。
宗太夫坑内の展示は、ある意味では予想とおりというか、日本人が鉱山と聞けば連想するような、「暗い」「汚い」「キツイ」さらに「危険」、すなわち4Kを忠実に再現している。実際に佐渡金山に連行されて強制労働をさせられた無宿人は、数年で珪肺になって死んだという。
――― 四十をこえたるはなく、多く三年、五年のうちに肉おち、骨かれて、頻りに咳出て、煤のごときもの吐きて死する(川路聖謨「島根のすさみ」)
無宿人というのは、江戸時代独自の存在である。人別帳から抜かれて、無戸籍者となって江戸や大坂といった都市に流入した人たちのことである。坑内に置かれた説明によれば、江戸時代に佐渡金山に連行された無宿人は千八百四十二名。「意外と少ない」と書いてあるが、誰にとって意外なのだろうか。罪もない人を千八百四十二人も連れてきたと考えれば、十分多い数のように思う。
佐渡金山の蝋人形展示は、予想とおりのものではあったが、著しく坑内労働のイメージを歪めていることも事実である。現在の坑内労働はずっと快適で安全である。日本人もそろそろ坑内労働の前近代的イメージを塗り替えて欲しいものである。
我が国で金山というと、この佐渡金山が抜きんでて有名であるが、産出金量でいえば江戸時代から平成元年(1989)の閉山まで採鉱されたのは七十八トンである。現在、国内で唯一稼働している金属鉱山である菱刈鉱山(鹿児島県)は昭和六十年(1985)の出鉱以来、既に百八十六トンを産出しており、その量は佐渡金山を大きく上回り日本一となっている。

(明治紀念堂)


明治紀念堂 開導館

レンタカーのカーナビで明治紀念堂を目指す。近くまで来ているのだが、見つけられない。市役所で聞いてようやく行き着くことができた。
明治紀念堂開導館は、日露戦争で戦死した佐渡出身者四十名の兵士を弔うために建てられた。堂内には大山巌元帥の書「忠魂」のほか、各種資料が展示されているというが、予め連絡をしておかないと開けてもらえない。


ロシア水兵の墓

日露戦争の後、佐渡の海岸に二名のロシア水平の遺体が流れ着いた。得勝寺の住職本荘了寛は、埋葬して墓標を建てた。

(宿根木)


三角形の家

佐渡の史跡訪問の旅、最後の訪問地は宿根木である。宿根木は、佐渡島の南西端に位置する小さな集落であるが、狭い空間にパズルをはめ込むように木造の民家が建てられている。
中でも最も目を引くのが三角形の家である。最大限に土地を活用するためにこのような形で家が建設されたものらしいが、船大工の技術が応用されているという。


柴田収蔵生家

「胡蝶の夢」の冒頭に登場する柴田収蔵の生家である。柴田収蔵は、文政三年(1820)に宿根木に生まれ、江戸で苦学の末、幕府に登用され蕃書調所絵図取締役に取り立てられた。当時としては極めて正確な世界地図「新訂坤與略全図」を作成して出版した。卵型をしたこの世界地図は、この時代としてはかなり正確に描かれているが、ロンドンやパリと並んで、佐渡島や宿根木が書き込まれているところがユニークである。安政六年(1859)江戸で死去。


称光寺

称光寺には、柴田収蔵の墓がある。墓は柴田家の墓域にあるが、深く苔むしており、文字はほとんど読み取れない。


柴田収蔵の墓


大浜

小木港に帰り着いたのは、予定とおり十八時であった。夕陽が山の向うに沈むところであった。

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佐渡 Ⅰ

2011年09月12日 | 新潟県
前回挫折した佐渡渡航に再挑戦である。
フェリーとレンタカーがセットになったツアーに申し込んだところ、最低二人でないと受け付けないと断られた。相棒を探したが、息子は鉄道研究会の合宿、長女はテニス合宿、次女は大阪の祖父母のところへ帰省と予定が入っていた。やむを得ず正規料金を払って一人で動くことになった。
佐渡へ渡るには、新潟、寺泊、直江津の三港から行く方法がある。前回の新潟行で取りこぼしの多かった上越、柏崎方面を回るため、直江津発着とした。直江津から佐渡の小木港まで片道二時間半の旅である。奇数日か偶数日によってフェリーの発着時間が異なっており、私が選んだ日は昼過ぎに小木に到着し、午後七時半に小木を出るという時刻表であった。つまり佐渡滞在時間は実質的に半日。限られた時間に効率よく史跡を回らねばならない。今回は観光を楽しんでいる時間はない。


こがね丸

気持ちの良い晴天であった。幸いにして波は小さく、フェリーに乗っていてほとんど揺れを感じなかった。しかし油断をしてはいけない。船酔いには人一倍弱い私は、事前に酔い止め薬を飲んで、リクライニング可能な一等椅子席を予約し、万全を期した。


直江津港

フェリーは「こがね丸」といって、五階建てのちょっとしたホテルのような内装の船である。下層二階は自動車を乗せる船倉となっている。乗客のほとんどは自家用車を乗せており、私のように島に渡ってそこでレンタカーを借りようという人はあまり多くないようであった。自家用車を島に運ぶのは非常にお金がかかる。私のように日帰りで往復しようという者には割高である。
フェリーが直江津を出ると、湧き出るようにカモメが現れ、フェリーのあとをついてくる。彼らのお目当ては乗客が投げるかっぱえびせんである。カモメはかっぱえびせんを見事に空中でキャッチする。そのたびに拍手喝采。出発からしばらくはカモメのショーで十分暇つぶしができる。


カモメ


佐渡島

やがて水平線の向こうに佐渡島が現れる。司馬遼太郎先生は「街道をゆく~佐渡のみち」で、佐渡といえば「日本海の荒海の上に浮かんでいる」というイメージがつよいと書いているが、この日は荒海というには程遠い穏やかな天候であった。佐渡は美しい楽園であった。かつて遠流の島だったという過去は極めて想像しにくい。


小木港

小木港は佐渡島の南端に開かれた港である。古くから本土からの物資はここで荷揚げされ、相川街道を運ばれた。

(真野御陵)


真野御陵(順徳天皇御火葬塚)

佐渡島の歴史は流人の歴史でもある。史上、最大の流人は順徳天皇であろう。
真野御陵の祭神は順徳天皇である。この天皇は討幕を企てた承久の乱(1221)に敗れて佐渡に流され、当地で崩御した。
順徳天皇の遺体は佐渡真野山で荼毘に付され、遺骨は京都に持ち帰られて京都大原に葬られた。真野御陵は厳密にいえば火葬塚であるが、当時より地元の民衆に御陵として崇敬を集めていたので、今も宮内庁の管轄下にある。


凛冽萬古存碑

真野御陵の前に一つの石碑がある。嘉永五年(1852)二月、東北旅行の途上、宮部鼎蔵とともに吉田松陰が真野御陵を訪れた。二人は順徳天皇を配流した時の北条執権に憤り、悲憤慷慨の詩を詠んだ。その時の漢詩が刻まれている。

異端邪説誣斯民 非復洪水猛獣倫
苟非名教維持力 人心将滅義與仁
憶昔姦賊乗国均 至尊蒙塵幸海濱
六十六州悉豺虎 敵愾勤皇無一人
六百年後壬子春 古陵来拝遠方臣
猶喜人心竟不滅 口碑於今傳事新
吉田松陰撰

陪臣執命奈無羞 天日喪光沈北陬                          
遺恨千年又何極 一刀不断賊人頭
宮部鼎蔵撰

(真野公園)


真野宮

真野御陵を五百メートルほど下がったところに真野宮がある。祭神は順徳天皇と日野資朝、菅原道真。
真野宮に近い場所に真野公園が広がっている。公園内には文学散歩道が整備されており、道沿いに佐渡に関係の深い文化人の文学碑が立てられている。


司馬遼太郎文学碑「胡蝶の夢」

昨今、「東京ではセミが減った」とまことしやかに囁かれているが、ここでは都会のセミがここに集まったのではないかと思えるほど繁殖している。残念ながら散歩道はほとんど手入れされておらず、雑草が生い茂り、至るところに蜘蛛の巣が張っている。せっかく施設を作ったからには、その維持まで気を配ってもらいたいものである。
散歩道の奥まった場所に司馬遼太郎先生の傑作「胡蝶の夢」の碑がある。石碑には「胡蝶の夢」の冒頭部分が刻まれている。


海音寺潮五郎文学碑

海音寺潮五郎も佐渡を訪れている。怪しからぬことに、石碑を雑草が覆いよく読めない。


司馬凌海漢詩碑

散歩道の入り口に近い場所に司馬凌海(島倉伊之助)の漢詩碑がある。新町の私宅から近所の知人を訪問したときの感懐を詠んだものである。


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上越 Ⅲ

2011年09月12日 | 新潟県
(観音寺)


観音寺

直江津の観音寺には、戊辰戦争の戦死者二名の墓がある。
一つの墓の主は、中山正路(石之助)という小浜藩の若者である。
その隣に、同じく小浜藩の農民伊助の墓もある。


中山正路之墓


墓 若州二方郡 伊助

(寺町)
東征軍は、極楽寺を会所(本部)とした。現在極楽寺は廃寺となっている。本願寺、浄興寺、長遠寺、善行寺、本誓寺、真宗寺を宿舎に、来迎寺を野戦病院とした。


浄興寺


長遠寺


善行寺


本誓寺


真宗寺


来迎寺

戊辰戦争後、敗れた会津藩の降人(捕虜)は、信州松代藩と越後高田藩に預けられることになった。財政窮乏していた両藩は、降人受け入れの免除を懇願した。しかし、新政府は松代藩の願いのみを聞き入れ、松代藩に預けられるはずの降人は、東京の講武所、護国寺等に収容されることになった。
一方、高田藩では、慶長年間に戦時の避難所として城下町に寺町が形成されていた。現在でも六十三の寺が、並行する二つの通り沿いに整然と並んでいる。往時は百三十を越える寺院が軒を並べていたという。寺院はほぼ宗派ごとにまとめられており、本堂が東向きに建てられたものが多く、しかもいずれも深い緑に包まれている。
新政府は戊辰戦争で高田に進駐したときに、寺町の規模と収容能力を知っていたため、高田藩の懇願を却下し、会津藩降人千七百四十二名(脱走者もいたようで人員には諸説あり)を高田藩に移送した。もともと譜代藩という負い目もあり、新政府から二万石の援助を条件に高田藩は、会津降人を受け入れることになった。下表のとおり寺町の各寺に降人を分宿させている。なお、二万石の援助は空手形に終わった。
高田藩は会津藩に同情的であり、降人はつかの間(明治三年(1870)五月までの一年半)平穏な日々を過ごした。それでも栄養不足から脚気や腫物が流行し、この間六十八人が命を落としている。彼らは金谷山の会津墓地に葬られた。
藩主松平容保以下藩士一同の赦免が決定されたのは、明治三年(1870)二月のことで、同年六月、高田に収容されていた藩士は新潟港から新政府が用意した外国汽船で下北半島の斗南へ送られた。会津藩の受難はこれからであった。

本願寺高田別院・本堂 114
 同 ・茶所 4
 同 ・五日講 44
 同 ・総会所 90
神宮寺 38
長恩寺(現・天宗寺) 19
称念寺 32
長遠寺 54
日朝寺 51
善行寺 61
本誓寺 95
本浄寺 14
了源寺 14
円福寺 16
長楽寺 18
高安寺 42
太岩寺 28
真宗寺 58
法林寺 19
常国寺 33
願重寺 33
天林寺 11
最尊寺 28
願念寺 27
念妙寺 8
長命寺 33
浄国寺 27
安傳寺 6
浄林寺 9
光国寺 9
光学寺 11
大巌寺 33
妙国寺 37
常顕寺 48
海隣寺 54
宗恩寺 10
浄興寺 104
善福寺 18
浄正寺 9
浄泉寺 20
玄興寺 17
西光寺 10
正念寺 5
正光寺 15
常敬寺 36
浄蓮寺 14
明善寺 8
常栄寺 22
その他廃寺16カ寺 210

半日をかけて現存する四十数か寺を訪ねて、寺町を歩いた。写真を全部紹介するのも芸がないので、ここでは東征軍が宿舎や野戦病院とした寺院のみ写真を掲載することとした。
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上越 Ⅱ

2011年09月12日 | 新潟県
(金谷山)


金谷山頂より上越市高田方面を臨む

金谷山(かなやさん)は高田の西方に位置する標高百四十五メートルの山である。山頂から上越市が一望できる。

明治四十四年(1911)、オーストリアのテオドール・フォン・レルヒ少佐が、金谷山でスキーを伝えたことから、この山はスキー発祥の地と呼ばれている。山頂には記念館がある。


レルヒ像

金谷山頂、スキーを履いたレルヒ像。ここから高田方面に山を下ると、裾野に墓地が広がる。

(医王寺)


医王寺 薬師堂

医王寺は、高田城の裏鬼門に当たることから、歴代藩主の篤い尊崇を得た。なかでも松平光長の母勝子は薬師如来を信仰し、医王寺境内に薬師堂を建立した。


高田藩士 明治戊辰戦死之碑

医王寺の墓地には二つの高田藩士の墓碑がある。戊辰戦死の碑は、旧幕軍に投じた神木隊の戦死者を弔ったものと言われる。


高田藩士 慶応丙寅戦死之碑

(官修墓地)
金谷山官修墓地には、各地で見慣れた台形の薩摩藩合葬墓がある。やはり侯爵松方正義の書。
墓の台座には、ここに葬られている薩摩藩の関係者の名前が記されている。西郷吉二郎、富山弥兵衛、中原猶介といった有名人の名前を見ることができる。


戊辰薩藩戦死者墓

中原猶介は、天保三年(1832)薩摩藩士の家に生まれた。長崎で公務のあいまに蘭学を修め、島津斉彬に見いだされて軍艦建造等の計画に関与した。その後江戸に留学して安井息軒に漢学、杉田成卿に蘭学を学んだ。帰藩して兵器軍制の改革、軍隊の調練に当たった。文久元年(1861)には再び藩命を受けて江戸に出て、江川英敏の塾に入って塾頭となった。帰藩後は海軍の整備、砲台の改造に従事した。戊辰戦争では海軍参謀となって北越に進軍したが、長岡にて戦病死した。年三十七であった。


官修墓地

山口藩、豊浦藩等の戊辰戦争戦死者の墓である。


御手洗噴水碑
西南戦争殉難者慰霊碑


高田藩士の墓

墓地には新政府軍に従軍した高田藩士も葬られている。その横には、明治十年(1877)西南戦争で戦死した高田藩士の合葬墓も建てられている。

(会津墓地)
金谷山の麓に会津墓地がある。
明治二年(1869)戊辰戦争に敗れた会津藩士千七百四十二名は降伏人として高田藩に預けられた。一年半の幽囚生活の末、越後の冬の厳しい寒さに六十八人がこの地で命を落とした。異郷で斃れた六十八名とともに、越後高田に在住した三十余名の会津藩出身者が合わせて眠っている。


会津墓地


会津墓地

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柏崎 Ⅳ

2011年09月12日 | 新潟県
(極楽寺)


極楽寺


石井家之墓

石井勇次郎の墓である。石井勇次郎は桑名藩士で、戊辰戦争が起きると、大鳥圭介の旧幕軍に投じて今市、会津を転戦した。仙台から蝦夷へわたり土方歳三が率いる新選組に入隊した。明治三十六年(1903)死去。五十八歳。

(龍泉寺)
鯨波の龍泉寺には、戊辰戦争戦死者で加賀藩夫卒長蔵の墓がある。正面には「釋還阿信士」と法名が刻まれ、右側面に「慶應四戊辰年閏四月二十七日 鯨波戦争之口中大砲玉死 加州人夫越中東水橋 長蔵」と記されている。


龍泉寺


加州藩 夫卒 長蔵

(多聞寺)


多聞寺

多聞寺は、笠島海水浴場を眼下に見下ろす高台にある。海に面した墓地に戦死した加賀藩士の墓がある。


金沢藩士戦死者の墓

(向山)


北越戊辰の役 当処戦没者 供養塔

慶應四年(1868)五月十四日、灰爪で水戸を脱出してきた諸生党と新政府軍が遭遇し、激戦となった。このときの戦闘では結城寅寿の子、結城七之助ら六十余命が戦死したと言われるが、昭和五十二年(1977)に四体の白骨が発見され、鑑定の結果、このときの犠牲者である可能性が高いとされた。遺骨は埋め戻され、この地に供養塔が建てられた。隣には水戸市が寄贈した石像が置かれている。


水戸市寄贈の石像

(椎谷陣屋址)


椎谷陣屋跡

柏崎市椎谷地区には、椎谷(しいや)陣屋跡が所在する。この陣屋は椎谷藩一万石のもので、丘陵の内側に廓状の三千坪の平坦地が確保され、そこに藩邸や砲術稽古場、馬場などが設けられていた。現在は石碑と神社などが点在しているだけである。


砲術稽古場跡

慶応四年(1868)、椎谷陣屋も戊辰戦争の戦場となり、陣屋は戦火により全焼した。椎谷藩は官軍についたが、水戸藩諸政党の急襲を受け一度は陣屋を明け渡した。椎谷藩では薩長軍の加勢を得て再び奪取した。このとき水戸諸政党は陣屋に火を放ち、陣屋と城下は大きな被害を受けた。


椎谷海水浴場

陣屋の下は美しい海水浴場となっている。


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