明治維新が成り、廃藩置県や徴兵制度、学制発布、太陽暦採用など、近代化政策を矢継ぎ早に実行し、後世から見れば順調に進行したかのように思われるが、封建制度を過去のものとし、文明開化を進める明治新政府にとって、最後まで頭を痛めたのが士族の家禄の処分であった。明治初年、士族は全人口のわずか五パーセントでありながら、歳出に占める家禄、賞典禄と社寺禄は実に三十七パーセントに達していた。家禄の処分は、富国強兵、殖産産業を進める上で避けて通れない道であった。
理屈の上では「廃藩置県で華士族が行政と軍事の職務を失った時点で禄制を廃止すること」も可能であった。しかし、急激な措置は士族の浮浪化を招く恐れがあった。それでなくとも、この時期、佐賀の乱や台湾出兵やその後始末など内政外交に多端であった。
廃藩置県以前、家禄は藩から支給されていた。維新直後、巨大な債務をかかえる諸藩にとって歳出の削減は避けられないものであったが、一方で君臣関係が根強く残る中で大胆な人員整理を行うことは困難であった。多くの藩では家禄を削減することで歳出を削ることで切り抜けようとした。それでも財政逼迫の末、自ら廃藩を申し出て他藩に併合されるところもあった(吉井藩、狭山藩など)。
諸藩では禄高が高いほど削減率が高い「上損下益」を基本として家禄を削減した。下士や卒はもとの受取高が維持されたケースも多かった。また、一部の藩ではさらに推し進めて帰農法や禄券法により、家禄と身分制を一気に解消しようという動きもあった。禄券法とは、家禄を大幅に削減した上で売買可能な禄券に改め、私有財産化(家産化)してしまうという方法で、削禄によって浮いた財源によって順次これを買い上げて償却するもので、この方法を最初に提案したのは、明治三年(1870)の岩倉具視の「建国策」が最初といわれている。なお、その起草には制度取調専務中弁江藤新平が関わっていたとされる。その後も士族の家禄処分では基本的にこの方法が踏襲されている。
明治四年(1871)、欧米の制度などの実情調査のために岩倉使節団が派遣された。廃藩置県後の後始末を引き受けたのが、いわゆる留守政府である。彼らにとって徴兵制度による常職(武士の軍事的義務)の廃止と禄券法による秩禄処分という、いずれも士族の処遇に関わる問題が最大の課題であった。秩禄処分を担当するのが大蔵省である。大蔵卿大久保利通は使節団に加わっているため、実権は次官(大蔵大輔)の井上馨が握っていた。
井上馨は、華族の家禄をランクごとに九十五~四十パーセント削減し、全体で七十五パーセントを削減し、士族は五十~十七パーセント削減し、全体で三分の一とする。削減後の家禄高の六ヵ年分を一割利付の禄券で一時支給するという禄制廃止案であった。廃藩前の時点で既に概ね四割を削減されていた士族にとって、かなり苛酷なものであったが、西郷隆盛は井上案に賛同していた。しかし、井上の急進案は、長州閥の重鎮木戸孝允の賛意を得られず、さらに明治六年(1873)四月十二日地方官会同を開くが、そこでも結論を出すことができなかった。結局、井上は同年五月、部下の渋沢栄一とともに辞表を提出し、ここに留守政府の秩禄処分策は頓挫する。
著者は、井上馨について「彼は先見の明がある政治家で、フィクサーとしては大いに手腕を発揮しているが、政策担当者としては、後の鹿鳴館外交や朝鮮の内政改革に見られるように、姿勢が強引な割に粘りがなく、挫折することが多かった」と評する。金銭に汚かったという世評もあるが、井上馨が遂に首相になれなかったのも、当人のこの性質に起因する部分が大きいのかもしれない。
明治政府がこの問題に終止符を打ったのが、明治九年(1876)八月の金禄公債証書発行条例であった。王政復古から実に約十年の歳月が経過していた。無論、この条例一本で全てが解決したわけではなく、その後も「家禄の不当処分」を訴える復禄運動が繰り返され、「大蔵省は昭和初期に至るまで家禄の修正要求に追われた」という。
金禄公債証書発行条例が出された明治九年(1876)の十月、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が立て続けに起こる。いかにも秩禄処分に不満を持った士族が反乱を起こしたように見えるが、著者によれば「反乱を起こした士族勢力は、金禄公債証書発行条例が出される以前から政府に敵愾心を示していた集団であり、食い詰めた末の暴動といった類ではない」と断定する。強いていえば萩の乱の首謀者である前原一誠が自白書において「禄制も亦一変し、怨声四方に囂然」と述べているのみである。
意外と大多数の士族が大人しく秩禄処分に従った背景には、華士族たちは家禄が廃止されなければならないことを基本的には理解していたことがある。
本書は平成十一年(1999)、中公新書から出版されたものの再版である。著者は、秩禄処分は「明治維新の三大改革」に匹敵する改革であるにもかかわらず、研究の成果ははるかに薄く、一般の知名度も決して高くない、と執筆の動機を語る。明治政府が長い時間をかけて取り組んだ秩禄処分の全容を語る力作である。
理屈の上では「廃藩置県で華士族が行政と軍事の職務を失った時点で禄制を廃止すること」も可能であった。しかし、急激な措置は士族の浮浪化を招く恐れがあった。それでなくとも、この時期、佐賀の乱や台湾出兵やその後始末など内政外交に多端であった。
廃藩置県以前、家禄は藩から支給されていた。維新直後、巨大な債務をかかえる諸藩にとって歳出の削減は避けられないものであったが、一方で君臣関係が根強く残る中で大胆な人員整理を行うことは困難であった。多くの藩では家禄を削減することで歳出を削ることで切り抜けようとした。それでも財政逼迫の末、自ら廃藩を申し出て他藩に併合されるところもあった(吉井藩、狭山藩など)。
諸藩では禄高が高いほど削減率が高い「上損下益」を基本として家禄を削減した。下士や卒はもとの受取高が維持されたケースも多かった。また、一部の藩ではさらに推し進めて帰農法や禄券法により、家禄と身分制を一気に解消しようという動きもあった。禄券法とは、家禄を大幅に削減した上で売買可能な禄券に改め、私有財産化(家産化)してしまうという方法で、削禄によって浮いた財源によって順次これを買い上げて償却するもので、この方法を最初に提案したのは、明治三年(1870)の岩倉具視の「建国策」が最初といわれている。なお、その起草には制度取調専務中弁江藤新平が関わっていたとされる。その後も士族の家禄処分では基本的にこの方法が踏襲されている。
明治四年(1871)、欧米の制度などの実情調査のために岩倉使節団が派遣された。廃藩置県後の後始末を引き受けたのが、いわゆる留守政府である。彼らにとって徴兵制度による常職(武士の軍事的義務)の廃止と禄券法による秩禄処分という、いずれも士族の処遇に関わる問題が最大の課題であった。秩禄処分を担当するのが大蔵省である。大蔵卿大久保利通は使節団に加わっているため、実権は次官(大蔵大輔)の井上馨が握っていた。
井上馨は、華族の家禄をランクごとに九十五~四十パーセント削減し、全体で七十五パーセントを削減し、士族は五十~十七パーセント削減し、全体で三分の一とする。削減後の家禄高の六ヵ年分を一割利付の禄券で一時支給するという禄制廃止案であった。廃藩前の時点で既に概ね四割を削減されていた士族にとって、かなり苛酷なものであったが、西郷隆盛は井上案に賛同していた。しかし、井上の急進案は、長州閥の重鎮木戸孝允の賛意を得られず、さらに明治六年(1873)四月十二日地方官会同を開くが、そこでも結論を出すことができなかった。結局、井上は同年五月、部下の渋沢栄一とともに辞表を提出し、ここに留守政府の秩禄処分策は頓挫する。
著者は、井上馨について「彼は先見の明がある政治家で、フィクサーとしては大いに手腕を発揮しているが、政策担当者としては、後の鹿鳴館外交や朝鮮の内政改革に見られるように、姿勢が強引な割に粘りがなく、挫折することが多かった」と評する。金銭に汚かったという世評もあるが、井上馨が遂に首相になれなかったのも、当人のこの性質に起因する部分が大きいのかもしれない。
明治政府がこの問題に終止符を打ったのが、明治九年(1876)八月の金禄公債証書発行条例であった。王政復古から実に約十年の歳月が経過していた。無論、この条例一本で全てが解決したわけではなく、その後も「家禄の不当処分」を訴える復禄運動が繰り返され、「大蔵省は昭和初期に至るまで家禄の修正要求に追われた」という。
金禄公債証書発行条例が出された明治九年(1876)の十月、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が立て続けに起こる。いかにも秩禄処分に不満を持った士族が反乱を起こしたように見えるが、著者によれば「反乱を起こした士族勢力は、金禄公債証書発行条例が出される以前から政府に敵愾心を示していた集団であり、食い詰めた末の暴動といった類ではない」と断定する。強いていえば萩の乱の首謀者である前原一誠が自白書において「禄制も亦一変し、怨声四方に囂然」と述べているのみである。
意外と大多数の士族が大人しく秩禄処分に従った背景には、華士族たちは家禄が廃止されなければならないことを基本的には理解していたことがある。
本書は平成十一年(1999)、中公新書から出版されたものの再版である。著者は、秩禄処分は「明治維新の三大改革」に匹敵する改革であるにもかかわらず、研究の成果ははるかに薄く、一般の知名度も決して高くない、と執筆の動機を語る。明治政府が長い時間をかけて取り組んだ秩禄処分の全容を語る力作である。



























