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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「秩禄処分」 落合弘樹著 講談社学術文庫

2016年01月29日 | 書評
明治維新が成り、廃藩置県や徴兵制度、学制発布、太陽暦採用など、近代化政策を矢継ぎ早に実行し、後世から見れば順調に進行したかのように思われるが、封建制度を過去のものとし、文明開化を進める明治新政府にとって、最後まで頭を痛めたのが士族の家禄の処分であった。明治初年、士族は全人口のわずか五パーセントでありながら、歳出に占める家禄、賞典禄と社寺禄は実に三十七パーセントに達していた。家禄の処分は、富国強兵、殖産産業を進める上で避けて通れない道であった。
理屈の上では「廃藩置県で華士族が行政と軍事の職務を失った時点で禄制を廃止すること」も可能であった。しかし、急激な措置は士族の浮浪化を招く恐れがあった。それでなくとも、この時期、佐賀の乱や台湾出兵やその後始末など内政外交に多端であった。
廃藩置県以前、家禄は藩から支給されていた。維新直後、巨大な債務をかかえる諸藩にとって歳出の削減は避けられないものであったが、一方で君臣関係が根強く残る中で大胆な人員整理を行うことは困難であった。多くの藩では家禄を削減することで歳出を削ることで切り抜けようとした。それでも財政逼迫の末、自ら廃藩を申し出て他藩に併合されるところもあった(吉井藩、狭山藩など)。
諸藩では禄高が高いほど削減率が高い「上損下益」を基本として家禄を削減した。下士や卒はもとの受取高が維持されたケースも多かった。また、一部の藩ではさらに推し進めて帰農法や禄券法により、家禄と身分制を一気に解消しようという動きもあった。禄券法とは、家禄を大幅に削減した上で売買可能な禄券に改め、私有財産化(家産化)してしまうという方法で、削禄によって浮いた財源によって順次これを買い上げて償却するもので、この方法を最初に提案したのは、明治三年(1870)の岩倉具視の「建国策」が最初といわれている。なお、その起草には制度取調専務中弁江藤新平が関わっていたとされる。その後も士族の家禄処分では基本的にこの方法が踏襲されている。
明治四年(1871)、欧米の制度などの実情調査のために岩倉使節団が派遣された。廃藩置県後の後始末を引き受けたのが、いわゆる留守政府である。彼らにとって徴兵制度による常職(武士の軍事的義務)の廃止と禄券法による秩禄処分という、いずれも士族の処遇に関わる問題が最大の課題であった。秩禄処分を担当するのが大蔵省である。大蔵卿大久保利通は使節団に加わっているため、実権は次官(大蔵大輔)の井上馨が握っていた。
井上馨は、華族の家禄をランクごとに九十五~四十パーセント削減し、全体で七十五パーセントを削減し、士族は五十~十七パーセント削減し、全体で三分の一とする。削減後の家禄高の六ヵ年分を一割利付の禄券で一時支給するという禄制廃止案であった。廃藩前の時点で既に概ね四割を削減されていた士族にとって、かなり苛酷なものであったが、西郷隆盛は井上案に賛同していた。しかし、井上の急進案は、長州閥の重鎮木戸孝允の賛意を得られず、さらに明治六年(1873)四月十二日地方官会同を開くが、そこでも結論を出すことができなかった。結局、井上は同年五月、部下の渋沢栄一とともに辞表を提出し、ここに留守政府の秩禄処分策は頓挫する。
著者は、井上馨について「彼は先見の明がある政治家で、フィクサーとしては大いに手腕を発揮しているが、政策担当者としては、後の鹿鳴館外交や朝鮮の内政改革に見られるように、姿勢が強引な割に粘りがなく、挫折することが多かった」と評する。金銭に汚かったという世評もあるが、井上馨が遂に首相になれなかったのも、当人のこの性質に起因する部分が大きいのかもしれない。
明治政府がこの問題に終止符を打ったのが、明治九年(1876)八月の金禄公債証書発行条例であった。王政復古から実に約十年の歳月が経過していた。無論、この条例一本で全てが解決したわけではなく、その後も「家禄の不当処分」を訴える復禄運動が繰り返され、「大蔵省は昭和初期に至るまで家禄の修正要求に追われた」という。
金禄公債証書発行条例が出された明治九年(1876)の十月、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が立て続けに起こる。いかにも秩禄処分に不満を持った士族が反乱を起こしたように見えるが、著者によれば「反乱を起こした士族勢力は、金禄公債証書発行条例が出される以前から政府に敵愾心を示していた集団であり、食い詰めた末の暴動といった類ではない」と断定する。強いていえば萩の乱の首謀者である前原一誠が自白書において「禄制も亦一変し、怨声四方に囂然」と述べているのみである。
意外と大多数の士族が大人しく秩禄処分に従った背景には、華士族たちは家禄が廃止されなければならないことを基本的には理解していたことがある。
本書は平成十一年(1999)、中公新書から出版されたものの再版である。著者は、秩禄処分は「明治維新の三大改革」に匹敵する改革であるにもかかわらず、研究の成果ははるかに薄く、一般の知名度も決して高くない、と執筆の動機を語る。明治政府が長い時間をかけて取り組んだ秩禄処分の全容を語る力作である。
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「女たちの明治維新」 鈴木由紀子著 NHKブックス

2016年01月29日 | 書評
本書で取り上げられている女性は、高須久子(吉田松陰と野山獄で同囚)、杉滝(松陰の母)、江馬細香(頼山陽の愛人)、張紅蘭(梁川星厳の妻)、大浦慶(長崎の商人)、楢崎龍(坂本龍馬の妻)、楠本稲(シーボルトの娘、我が国初の女医)、新島八重(山本覚馬の妹、新島襄の妻)、大山捨松(山川浩の実妹、大山巌の妻)、若松賤子(『小公子』の訳者)、広瀬常(森有礼の先妻)、金田亮子(陸奥宗光の後妻)という面々。著者によれば「がけっぷちに立たされたときこそ、女性のそこ力が発揮される」「時代が激しく変動する動乱期はなおさらで、か弱い存在とおもわれていた女たちが意外にも雄々しく、命がけの行動をしている」という。確かにここで取り上げられている女性たちは、いずれも強靭かつ個性的である。
個人的に一番興味をひいたのは、吉田松陰が高須久子に惹かれたのは、「その偏見のないおおらかな人柄」とする下りである。高須久子は武士身分出身であったが、被差別民とわけ隔てなく付き合った。このことを憂いた親類は「乱心」という烙印をおして、野山獄に投じられたのである。松陰は、やはり被差別民の出身で、十二年もの歳月をかけて夫の敵を討った烈婦登波を絶賛し、一か月をかけて登波の顕彰文『討賊始末』を書き上げている。登波と久子という、封建社会の常識を破るような発想と行動が松陰の心をとらえて離さなかった。松陰が「革命をなしうるのは幕藩体制にすがって生きている武士ではなく、草莽(在野)の嗣子である」との「草莽崛起」論に至った背後には、「久子とのかかわりなくしてはありえなかった」と結論付ける。多分に推論と想像が入っているのでこの正否を判断するのは難しいが、面白い着眼である。なお、この下りは著者の独創ではなく、布引敏雄氏の「長州藩解放史」によるところが大きい。
ほかに森有礼との知られざる離婚の背景を詳述した広瀬常とか、明治時代を代表する美人妻金田亮子(陸奥宗光の後妻)についても ――― 若干、ワイドショー的ではあるが ――― 楽しめた。

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藤沢

2016年01月22日 | 神奈川県
(藤沢宿)


旧東海道 藤沢宿 蒔田本陣跡

 藤沢宿は東海道五十三次の六番目の宿場町。蒔田家は藤沢宿の本陣で、東海道を往来する大名や幕府の役人、公家などが宿泊した。また朝鮮通信使が宿泊した記録も残されている。


旧東海道 藤沢宿 問屋場跡

 本陣跡の向い側、消防署のある辺りが問屋場跡に当たる。問屋場とは、宿場町において人馬の継ぎ立てを行う場所をいい、問屋(責任者)や年寄(補佐役)の指示のもと、人馬と荷物の割り振り、賃金の記録、御用通行の武家等の出迎え、継飛脚(公用書状の逓送)などを受け持った。加えて近隣の村への助郷役や街道掃除役の割り当ても担当した。

(遊行寺)


遊行寺と大銀杏

 文久三年(1863)二月十三日、時の将軍家茂は上洛の途に就いた。その折、東海道五十三次の様子を描いた浮世絵百五十枚がイタリアのジェノヴァ市エドアルド・キヨソネ東洋美術館に保存されている。手元の「将軍家茂公御上洛図」(福田和彦 河出書房新社)でその全容を見ることができる。
 家茂の行列が藤沢宿に入ったのは同年二月十五日のこと。家茂はここで昼休みをとり、遊行寺(清浄光寺)に立ち寄って本堂を一覧し、さらに茅ヶ崎南湖の景勝を楽しんだと伝えられる。藤沢宿遊行寺の様子は、五雲亭貞秀が描いている。貞秀の絵には、遊行寺脇の街道を進む、長く伸びる行列が描かれているが、総勢三千人余、そのうち騎馬が百人余、砲術組大小(大砲・小銃)が七百人余であった。徒歩の者はすべて具足姿で、沿道筋は各藩の武装兵が防備を固めた。この物々しい武装と華やかな将軍家上洛の行列に沿道の人たちは目を見張ったであろう。


明治天皇御膳水

 遊行寺は東海道上にある大寺院なので、明治以降も度々要人の宿所となった。まず明治元年(1868)四月十二日には、東征軍有栖川熾仁大総督が西郷隆盛を伴って宿泊した。同年十月には明治天皇東幸の折、御宿泊行在所となった。この後も明治天皇は、同年十二月の還幸の際、さらに明治二年(1869)十一月の東幸、明治五年(1872)の行啓、同年八月の還幸のときにも休憩、宿泊している。明治十一年(1876)十一月には、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、井上馨、内務省大書記品川弥二郎、宮内省大書記官山岡鉄舟ら五十名を引き連れ、北陸還幸からの帰路、遊行寺を宿所とした。


真徳寺


当院四十二世 洞雲院弥阿列成和尚
(板割浅太郎の墓)

 真徳寺墓地に、板割浅太郎こと、大谷浅次郎の墓がある。
 板割浅太郎は、天保十三年(1842)、親分国定忠治と分れ、渡世の足を洗うために仏門に入ったといわれる。長野県佐久市にある金台寺の住職列外和尚の弟子となり、僧名を列成(れつじょう)と名乗った。後に遊行上人の手引きによりこの地に移り、遊行寺の堂守を務めた。朝夕の鐘撞き、札売り、参詣者へのお茶の接待、境内の清掃に精を出しながら、念佛三昧の日々を送り、自分が手を下した勘助・勘太郎父子の菩提を弔ったといわれる。明治十三年(1880)、遊行寺が炎上した折、既に六十を過ぎていた列成和尚は勧進僧となり、各地を巡って浄財を募り、本山復興に尽くし、仏恩に報いた。明治二十六年(1893)、七十四歳で生涯を閉じた。

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横須賀 Ⅴ

2016年01月22日 | 神奈川県
(横須賀市自然・人文博物館)


横須賀市自然・人文博物館

 京急横須賀中央駅から、道は若干入り組んでいるが、迷わなければ徒歩で十五分ほど。文化会館の敷地内に横須賀市自然・人文博物館がある。
 今年(平成二十七年)は、慶応元年(1865)から百五十年目になる。慶応元年といえば、天狗党が敦賀で大量処刑された年である。また坂本龍馬が長崎で亀山社中を結成したのもこの年のこと。同じ年に武市半平太が切腹している。
 亀山社中や武市の自刃と比べれば、あまり知られていないことであるが、同じ年に横須賀製鉄所が創設されている。
 横須賀市自然・人文博物館において、「横須賀製鉄所(造船所)創設百五十周年記念展 すべては製鉄所から始まった」が開催されている。入場は無料。ヴェルニー家に伝わる幕末から明治初期に撮影された写真を中心に、興味深い展示の数々に時間を忘れる。


曲彔

 常設展示でも横須賀の造船所創設に尽力した小栗忠順やヴェルニーらの業績、ペリー来航時の記録、万延元年(1860)の遣米使節団関係の資料など面白いものが展示されている。写真は曲彔といって、通常は法会の際に僧が使うものであるが、外国人を饗応するのに西洋式の椅子がなかったため、急遽近所の寺院からかき集められたものである。


小栗上野介忠順像


栗本鋤雲像

 博物館の前庭に小栗忠順と盟友栗本鋤雲の胸像が並べて置かれている。朝倉文夫の作。
 栗本鋤雲も幕臣で、学問所頭取、軍艦奉行、外国奉行などを歴任し、小栗ともに親仏政策推進者として知られた。慶応三年(1867)には渡仏して大使として活躍した。維新後は報知新聞等で健筆を振るい、明治三十年(1897)、死去。

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久里浜 Ⅱ

2016年01月22日 | 神奈川県
(ペリー公園)


ペリー胸像


ペリー記念館


ペリー胸像(記念館内展示)


記念館の展示


じょうきせんの碑

泰平のねむりをさます じょうきせん
たつた四はいで夜も寝られず

 という有名な落首を記した碑である。この落首は、老中松平下総守(間部詮勝 号松堂)の作といわれている。

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佐倉 Ⅳ

2016年01月16日 | 千葉県
(松林寺)


松林寺

 この日は、国立歴史民俗資料館で開かれている「大久保利通とその時代」展を見て、その足で佐倉市弥勒町の松林寺を訪ねた。松林寺は、初代佐倉城主土井利勝によって創建された寺で、墓地には土井利勝の妻、母、養父の供養塔がある。ここに蘭学者木村軍太郎の墓がある。


知能軒木村府君墓(木村軍太郎の墓)

 木村軍太郎は、文政十年(1827)、江戸渋谷の佐倉藩下屋敷にて生まれた。知能軒は雅号。父は佐倉藩士木村軍右衛門。長じて堀達之助、東条英庵、杉田成卿、杉田玄端、佐久間象山らに蘭学、兵学を学び、兼松繁蔵より高島流砲術を学んだ。嘉永四年(1851)八月、江戸徳丸原にて試砲。翌年亡父跡式二百石を継いだ。安政元年(1854)、浦賀に出張して米船を見届け、下田に詰めた。その際、吉田松陰と同宿したという記録が残っている。佐倉藩の兵制改革に当たり、また幕府天文台の蕃書和解御用を仰せ付けられた。安政三年(1856)、蕃書調所出役教授手伝となり、また藩主堀田正睦の外国事務総裁の任を補佐した。役書「砲術訓蒙」のほかに兵学関係の訳稿がある。文政二年(1862)八月、病没。三十六歳。

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上野 Ⅶ

2016年01月16日 | 東京都
(韻松亭)
 この日は、上野公園にある国立西洋美術館で開かれている「黄金伝説展」を見学するため、嫁さんと上野を訪れた。雨の強い日であった。


韻松亭

 韻松亭は、町田久成が命名したという日本料理屋である(台東区上野公園4‐59)。創業は明治八年(1875)。町田久成は晩年を滋賀園城寺で過ごしたが、上京したときには韻松亭で滞留したという。明治三十年(1897)九月十五日、久成は韻松亭で女主人に看取られながら六十年の生涯を閉じた。

(花園稲荷神社)
 慶応四年(1868)五月十五日、世にいう上野戦争の際、この場所で彰義隊最後の戦い「穴稲荷門の戦い」が繰り広げられた。花園稲荷神社は、正式名称を「忍岡稲荷」といい、俗称「穴稲荷」と呼ばれた(台東区上野公園4‐17)。


花園稲荷神社


狛狐


神徳惟馨

 花園稲荷神社境内には、伊藤博文揮毫の扁額「神徳惟馨(神徳これかぐわし)」が掲げられている。

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伊豆大島

2016年01月16日 | 東京都
 一年前の新島以来の伊豆諸島渡航である。前日の午後十時、新島のときと同じ大型客船サルビア号に乗り込む。前回と変わって乗客は少なく、二等船室でもゆったりと寝ることができた。
 伊豆大島到着は午前六時。てっきり元町港に着くものと思い込んでいたが、サルビア号は伊豆大島北端の岡田港に入った。念のために「元町港には行かないのですか?」と聞いてみたが、その乗員は、さも当然といった風で「今日は岡田港です」というだけであった。私が見落としただけかもしれないが、岡田に着くということはどこにも(少なくとも目に触れるところには)掲示されておらず、これは少々不親切と言わざるを得ない。
 事前に路線バスの時刻表を調べていたが、岡田港からは一時間半も待たなくてはならない。「弱ったな」と思案していると、元町港方面のバスが発車しますとのアナウンスが流れた。岡田港到着の船に合わせて臨時便が出るようである。これ幸いとこのバスに飛び乗った。
 大島にはレンタサイクルもあるが、岡田から元町まで六キロメートル、元町から波浮まで十二キロメートルあるので、自転車で移動するには無理がある。レンタカーか路線バスを活用するのが良いだろう。

 そのバスが動き出してから分かったことであるが、少し前に波浮港行のバスが発車したばかりという。運転手さんが波浮港行のバスに無線で連絡してくれ、途中で乗り換えをさせてくれた。おかげで、岡田から三十分ほどで目的地である波浮港に行き着くことができた。
 バスの車窓からは時々海が見える。遠く新島と利島の姿も見える。「伊豆」という名称がついているくらいだから、静岡県でも良さそうだが、ここも東京都である。自動車のナンバープレートは品川である。
途中、「地層切断面」というバス停があって、その付近では切り立った崖に鮮やかにバウムクーヘン状の地層が現れていた。地層マニアには堪らないだろう。
岡田が島の北に位置しているのに対し、波浮は南端にある。つまり伊豆大島を縦断したことになる。早朝からこのバスで波浮まで乗っていたのは、私一人であった。

(波浮港)
 波浮港はもともと火口湖であった。往時、波浮の池と呼ばれていたが、承和五年(838)の水蒸気爆発と元禄十六年(1703)の大地震、大津波により、東南の岸壁が崩れ、海に通じた。寛政二年(1790)、田村玄長の薬草調査に案内者として来島した上総の人、秋広平六は、幕府に願い出て工事の一式引受人として港口の開削に当たった。五か月の歳月をかけて、寛政十二年(1800)に竣工した。この後は波浮の港と呼ばれ、沿岸漁業の中心地として、また嵐の避難港として各地から船が集まり、隆盛を極めた。


波浮港

 波浮の街には「文学の道」が整備されている。波浮には、幸田露伴、林芙実子、与謝野鉄幹、与謝野晶子ら、多くの文人が訪れている。彼らが残した文章や詩歌が石碑となって出迎えてくれる。


与謝野鉄幹歌碑(波浮港見晴台にて)

 山めぐり 波浮の入江の青めるに
 影しぬ船と片側の町

(旧甚之丸邸)


踊子の里 甚の丸邸

 文学の道に沿って階段を上って行くと、「踊子の里 旧甚之丸邸」がある(大島町波浮港1)。
 この近辺は江戸末期から昭和初期にかけて、港町として全盛を極めた波浮港を支え、活気の原動力となった。網元の家々が立ち並ぶ石蔵の街である。石蔵は大谷石で造られ、なまこ壁を持つ家が並んでいた。網元の屋号には、港町特有の「丸」がつけられていた。現在も当時のままの姿を伝えるのは甚の丸屋敷のみとなっている。


踊子の里 旧甚之丸邸

(妙見山墓地)
 四基並んでいるうち、右から二番目が秋広平六の墓で、その左が夫人のものである。
 秋広平六は宝暦七年(1757)、上総に生まれた。寛政二年(1790)、幕府医官田村玄長の薬草調査案内人として大島を訪問。その頃、良港のなかった大島で、噴火口跡の崖を切り崩し、波浮港を開いた。その後も多くの殖産事業を行い、開拓者として伊豆大島の発展に功績を残した。文化十四年(1817)、没。六十一歳。


秋広平六の墓


徳島藩士の墓

 同じ妙見山墓地の、薄暗い一画に徳島藩士四名の墓がある(大島町波浮港16)。
 大島遠流は、寛政八年(1796)に廃止となっていたが、それから七十四年ぶりに流人船が波浮港に寄港した。その船に徳島藩士が乗っていた。
彼らは、明治三年(1870)に阿波徳島藩で起きた稲田騒動(庚午事変)で罪を得た一行であった。彼らは波浮の田中家に預けられた。付き添いの役人は、私闘の科人とはいえ、廃藩置県令に違反し、朝命に背いた藩内の分子に斬奸の刃をふるい、身命を賭して藩主の責任を代わって負った志士忠臣として丁重に遇した。手鎖監禁もなく、衣服も絹布が許され、什器も新調された。村の婦女等が交互に詰めて炊飯掃除洗濯の労に服したという。
 ところが、間もなく織田角右衛門(四十七歳)が急逝。次いで今田増之助(四十七歳)が病死。さらに平瀬所兵衛も病死。稲垣軍兵衛(五十歳)が翌年三月に病死した。彼らはいずれも当時全国的に流行していたコレラに罹患したものと見られる。


徳島庚午事変志士之墓

 今回の伊豆大島の旅の最終目的地がこの徳島藩士の墓であった。波浮港到着から三十分で行き着くことができて大いに満足であった。

(龍王岬鉄砲場)


史跡名勝 鉄砲場

 妙見山墓地から龍王岬灯台を目指して歩いていくと、途中で鉄砲場がある。この地に鉄砲場(台場)が築かれたのは、寛政年間、十一代将軍家斉の時代である。その頃、ロシアの船が北海道沿岸に出没するようになり、寛政四年(1792)には、ロシアのエカテリーナ号が根室に投錨したことが発端となり、海辺防備の令が発せられた。同年十二月には老中松平定信に房総豆相沿岸の巡視が命じられた。その後も文化三年(1806)、ロシア船が樺太で住人を捕え去ったり、翌年には択捉に上陸する事件が相次いだため、同年十二月に露国船撃払い令を発令した。この時には、島民にも防備のための任務が与えられた。文化五年(1808)には幕吏橋爪頼助一行十人が巡視した際、射撃の指導を受けた。この場所は、第二次世界大戦時にも陸軍によって陣営が置かれた。今も当時の防空壕や塹壕跡が残されている。


史蹟 「鉄砲場」

 ここに台場が設置された時、波浮は開港から間もなく、人家も少なかったため、隣の差木地村から応援を受けて、外国船に備えたという。

 岬からは遠く利島、新島を臨むことができる。この場所は朝日も夕日も見ることができる名所でもある。残念ながら、私が龍王岬を訪ねた時にはすっかり朝日は上りきった時間であったし、夕日が沈む時間まではとても待てなかった。

(波浮港見晴台)


波浮港見晴台から波浮港を見下ろす

 龍王岬を訪問した後、一旦港側に降りたが、見晴台に行くには妙見山墓地の前の道を真っ直ぐ行った方が近道だということが分かったため、再度「文学の道」の階段を昇ることになった。登山用の大きなリュックを背負って長い距離を移動するのは、オッサンにはキツかったが、何とか見晴台に行き着いた。ここに秋広兵六の銅像が建てられている(大島町波浮港見晴台)。


秋広平六翁之像

 見晴台には、都はるみの「アンコ椿は恋の花」の歌碑もある。この歌は、波浮港を歌ったものだそうだ。


「アンコ椿は恋の花」碑

 見晴台前のバス停から元町港へ向かうバスに乗る。島を出る船も、この日は岡田港から出るということなので、元町港でバスを乗り継いで岡田港に向かう。岡田港に着いたのは、午前十時半過ぎであった。十一時五十分発の高速船に乗ると、十二時三十五分に竹芝桟橋に着く。行きに八時間もかかったことを思えば、アッという間である。

(岡田港)


岡田港


力士 大島傳吉碑

 岡田港近くに力士大島傳吉碑がある(大島大岡田2)。大島傳吉は、明治期に活躍した大島岡田村出身の力士である。書は二代総理大臣黒田清隆による。

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足利 Ⅱ

2016年01月10日 | 栃木県
(足利学校)


史跡足利学校

 日本最古の学校として知られる足利学校は、もっとも古い説によれば奈良時代の創建といわれる。歴史上、明らかなのは、上杉憲実が現在国宝に指定されている書籍を寄進し、痒主(学長)制度を設けるなどして学校を再建したことである。
 天文十八年(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより「日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、当時学徒三千といわれるほどになったが、明治五年(1872)その幕を下した。


入徳門

 入徳の額は、天保十一年(1840)に掲げられたもので、現在の建物は裏門を移築したものという。吉田松陰が当地を訪れたとき、聖廟の右区の欄間にあったというが、もともと学校門の正門に掲げられていたものである。
 嘉永五年(1852)四月三日、吉田松陰は盟友宮部鼎蔵とともに栃木の宿を出た。富田、茂呂、犬伏、天明を経て足利に入った。松陰は足利学校の刻明な見学記を残している。


学校門

 松陰の見学記によれば、まず「学校」の扁額を掲げる正面の門をくぐり、継いで「杏壇」(講堂)の二字を掲げた「廟門」を通り、聖廟を拝した。往時門に掲げられていた「杏壇」と「学校」という扁額は、現在方丈に保存展示されている。


杏壇

 孔子廟の前には、寛文八年(1668)創建の杏壇門がある。杏壇とは、孔子が弟子たちに教えたところに杏の木が植えられていたことに由来する。こちらの額はレプリカである。


孔子廟

 松陰の見学記は続く。廟の中は三区に分れ、孔子の座像を安置し、左には学校の創始者とされる小野篁の像が置かれていた。
 松陰は、孔子像は宋代のものと聞いたというが、実際には室町末期の天文四年(1535)に作られたものである。



孔子座像


小野篁像


足利学校 方丈


市立足利学校遺蹟図書館


 松陰は、学校に附属する文庫を見学し、膨大な経史の諸書が網羅されていることに驚いた。市立足利学校遺蹟図書館に、一万二千冊の書が引き継がれている。

 松陰のみならず、多くの著名人がここを訪れている。古くは蒲生君平、亀田鵬斎、立原杏所、渡辺崋山、梁川星巌、紅蘭、広瀬旭荘、佐藤一斎、高杉晋作。維新後も、細川潤次郎、青山延寿、佐野常民、重野安繹、関口隆吉、東郷平八郎、上村彦之丞、大隈重信、渋沢栄一、井上馨、乃木希典らの名前が確認されている。

 この日の午後三時、圏央道の白岡菖蒲と桶川北本が開通した。少し遠回りになるが、足利からの帰路、東北道から圏央道を使うことにした。新たに開通した区間を通ったのは、直後の三時四十分であった。少し車の量は多かったが、これまで一時間近くかかっていた区間を、十分程度で走破できるのは快感であった。これで自宅から東北へのアクセスが格段に向上することになる。
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伊勢崎

2016年01月09日 | 群馬県
(養寿寺)
 国定町の養寿寺に国定忠治の墓がある。境内には、忠治の遺品を展示する記念館も併設されているが、シャッターが下りていて、拝観することはできなかった。事前に連絡しておく必要があるのかもしれない。


養寿寺


長岡忠治之墓

 墓地には国定忠治の本姓である長岡忠治之墓と刻んだ巨大な石碑が建てられているので、直ぐに場所は分かる。周囲には縁戚と思われる長岡家の墓が多い。
 巨大な石碑の左手に、鉄柵に囲われた墓があるが、これがホントの忠治の墓である。博才のあった忠治にあやかろうと墓石を削る人が続出したため、柵で囲ったらしいが、時既に遅し。墓石の表面は削られ、文字らしきものは何一つ読み取ることはできない。


長岡院法誉花楽居士
(国定忠治の墓)

 国定忠治は、関所破りや縄張り争いを繰り広げる一方で、飢饉の際には私財を擲って窮民に施したといわれる。小説や講談の世界で、虚実ないまぜの姿が伝えられており、本当の姿が見えにくい典型的人物である。もう少し勉強してみたい。

(善應寺)


善應寺


遊道花楽居士 情深墳
(国定忠治の墓)

 国定忠治の墓は、伊勢崎市内にもう一つある。JR伊勢崎駅に近い善応寺である。
 善応寺の墓は、忠治の愛妾であった菊池徳が刑場より遺体の片腕を持ち出し、この寺に埋葬したものと伝えられる。「情深墳」とよばれる墓石の表面には戒名「遊道花楽居士」、裏面には「念佛百万遍供養」とある。

(三ツ木墓地)
 忠治の命を受け、島村伊三郎を斬殺した三ツ木文蔵の墓である。


三明通達信士
(三ツ木文蔵の墓)

(島村伊三郎の墓)
 伊勢崎市境島村は、群馬県と埼玉県との県境に位置している。島村伊三郎の墓のある墓地に近づくと、カーナビが、頻りに「群馬県に入りました」「埼玉県に入りました」とアナウンスを繰り返した。


蓮清浄花信士
(島村伊三郎の墓)

 国定忠治と争った博徒島村伊三郎は、忠治の子分三ツ木文蔵に殺された。

(勘助勘太郎の墓)
出発の時点で何となく腹の調子がおかしかったが、ほどなく激しい下痢が始まり、パーキングエリアごとにトイレに駆け込むような状態であった。本当はもっと遠方へ向う予定にしていたが、急遽予定を変更して近くから回ることにした。天気予報では群馬県は曇となっていたのだが、途中から小雨が降り出した。体調も天気も悪い、最悪のコンディションであった。
中嶋勘助が浅次郎に襲われた時、その場にいた子の太郎吉(当時二歳)も斬殺されている。講談や芝居の世界では、太郎吉は勘太郎と名を変え、浅次郎(こちらも講談や芝居では浅太郎)に助け出される。このとき歌われるのが「赤城の子守唄」である。


勘助(左)勘太郎(中)の墓

勘助勘太郎父子の墓は、伊勢崎市上諏訪町の墓地にある。左手に勘助の墓。中央の小さな墓が太郎吉のものである。太郎吉の墓には「天保十三寅年九月八日、覚然童子三室村中島太郎吉」と記されている。右手の墓は、母親みきのものだろうか。父子の墓の周囲には、親子地蔵や赤城の子守唄碑が建てられている。幼くして凶刃に命を奪われた太郎吉の不運に涙を禁じ得ない。


勘助勘太郎 延命親子地蔵尊


赤城の子守唄

(長安寺)
この日の最初の目的地は、伊勢崎市西小保方町の長安寺である。墓地に歴代住職の墓が集められており、その中に考伝の墓がある。「国定忠治」(高橋敏著 岩波新書)によれば、その台座に三室の勘助こと中嶋勘助の名前が刻まれているとあるので確認してみたが、長年の風化と苔でよく読み取れなかった。


長安寺


竪者法印考傳大和尚位(考伝の墓)

中嶋勘助は、この土地の名士だったようで、考伝の跡を継いだ長安寺住職憲海が、商家の娘を寺中に入れて子供を産ませたり、先住考伝の法要を行わず、墓も建てないなど、目に余る行状の数々に、これを寺社奉行に訴えている。勘助は江戸まで出向いて訴訟を戦い、その結果憲海は罷免流罪となっている。
勘助はその後関東取締出役の道案内となり、浅次郎をゆすったり、関東取締出役に田部井の忠治の賭場を襲わせたりしたため、忠治の怒りを買うことになった。天保十三年(1842)九月、忠治の示唆を受けた板割の浅次郎に斬殺された。なお、勘助と浅次郎は伯父甥の関係であった。四十三歳。

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