goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治の大獄」 長野浩典著 弦書房

2025年05月31日 | 書評

「花山院「偽官軍」事件」に続く長野浩典氏の著書。明治初年の明治政府による一連の攘夷派弾圧事件を解明し、奇兵隊脱退騒動から久留米藩難事件(大楽源太郎暗殺)に至る様々な事件――― 日田県騒動や二卿事件、廣澤参議暗殺、雲井事件、初岡事件等々 ―――を見事に線で繋いで見せた傑作である。

「あとがき」によれば一連の攘夷派弾圧事件に関する研究の進化が見られず、言わば黙殺されている状況のようである。本書では、山口藩の脱退騒動から、大楽源太郎らの脱徒を九州諸藩(主に二豊両筑)が匿い、それを明治政府が厳しく追及し、最後は久留米藩難事件に至る経緯を明らかにした。廣澤参議暗殺事件を契機に明治政府は、反政府攘夷派の検挙に本腰を入れ、その結果、――― ほぼ廣澤参議暗殺とは無関係な人物まで含めて ―――三百人を超える反政府分子が捕らえられ、その多くが斬罪や長期の禁固刑に処された。その規模は、安政の大獄を遥かに凌ぐ。廃藩置県という革命が、ほとんど抵抗らしいものがなく成し遂げられた背景に、薩長土の兵力を東京に集約し、その武力を背景に実行されたことが従来指摘されてきた。その前に「不良徒」を根こそぎ一網打尽にした「明治の大獄」による地ならしがあったという主張は非常に説得力がある。

特に本書でページを割いて解説しているのが鶴崎(現・大分県大分市、熊本藩の領地)にあった有終館の存在である。現在、大分市の有終館跡には小さな石碑が建っているのみであるが、ここが反政府攘夷派の軍事拠点になっていたという事実は本書で初めて知った。有終館を反政府の拠点にしたのは、高田源兵(こうだげんべい)こと河上彦斎、それと鶴崎出身の儒学者毛利空桑である。

 

熊本藩 有終館跡

 

河上彦斎といえば、元治元年(1864)に佐久間象山を京都木屋町で斬殺し、「人斬り彦斎」の異名をとった人物である。ただし、記録に残る限り、彦斎が手を下した暗殺は象山のみである。「人斬り」と称された連中の多くが殺人マシーンと化していたのとは一線を画し、攘夷思想家として、或いはその実践家として存在感を高めていった。

本書では高田源兵と名乗った彼の人物像も紹介している。身の丈は「五尺(150センチほど)を超すか超さないかという短躯で、色は白くやせ型で、人と語るときは女のようなやわらかい声をだしていた」との証言もある。その一方で、突然激音で一喝し、部下や周囲の人間に恐怖感を抱かせることもあったようで、つまり硬軟併せ持った人物だったようである。山口藩の諜者と疑われた沢田衛守を斬るように命じられた中村六蔵(熊本藩士)が逡巡していると、「ヤッテシマエ」と怒鳴られ、中村は恐怖に駆られて衛守を斬殺した。この辺りの手法は、カルト教団の教祖に近いものがある。

高田源兵(河上彦斎)は、「大事業を成すには、長州奇兵隊や草莽・不良の徒の集合体では成功は覚束ない。本藩(熊本藩)の力を借り、熊本領内の郷士のうち、いわゆる鞠躬(きっきゅう=慎み深い様)の者を抜擢し、この者たちと協同して尽力しなければ、成功はしない」というのが持論で、軽々に挙兵しようとはしなかった。また幕末に薩摩の西郷隆盛と会談したことがあったが、その時「幕吏を除かねばならない」というところで意見は一致したものの、いざ実行という段になって西郷が尻込みしたことから、以来西郷および薩摩藩を信用していなかった。周囲が薩摩藩との連携を勧めても、それに関しては一切耳を貸さなかったという。頑固な一面もあったようである。高田源兵に限った話ではないが、結果的に九州各藩は最後まで藩の枠組みを超えることができなかった。

明治三年(1870)十一月から翌年初めにかけて東北と九州地方において農民一揆・騒動が多発した。当時政府の直轄地であった日田県でも、日田県騒動(もしくは日田県一揆、日田竹槍騒動)と呼ばれる騒動が発生した。この騒動と前後して、日田県では九州の攘夷派や草莽、浮浪、僧侶らによる「日田騒擾」が勃発する可能性も高まっている。参議木戸孝允は、攘夷派の目的は反政府攘夷派らが、農民一揆を扇動していると見て、直ちに攘夷派の弾圧に踏み切った。しかし、結果的には日田に潜入していた攘夷派側の間諜が日田県官に捕らえられ、それを契機に次々と関係者が捕縛され、日田騒擾は未遂のまま終わった。日田県一揆をおこした農民たちと攘夷派の接点はなく、計画は杜撰なものであった。ここでも農民らと攘夷派が「反政府」で結束し、組織的な動きができれば政府をもっと震撼させる事件に発展する可能性もあったが、彼らにそこまでの組織だった活動は見られなかった。

高田源兵が主催した有終館は解散させられ(明治三年(1870)七月)、彼が挙兵の謀議を行った形跡はあるものの具体的な反政府行動に出たわけではないし、大楽源太郎を匿ったのはごく短期間で武器供与も未遂に終わっているし、もちろん廣澤参議暗殺事件に関わりはない。高田源兵が反政府攘夷派の巨魁というだけで捕らえられ、彼を明確に処分する罪名はなかったにも関わらず、明治四年(1872)十二月、判決が下されると即日斬罪に処された。

本書では、高田源兵のほかにも毛利空桑、大楽源太郎、矢田宏、山本與一(村尾敬助)、小河一敏、小串為八郎、廣田彦麿、初岡敬冶、中村六蔵(平井譲之助、澤俊造)、木村弦雄、古荘嘉門、直江精一郎、古松簡ニといった歴史に埋もれた人物を丹念に拾って紹介している。「明治の大獄」で処分された不良の徒は三百人に及ぶというから、掘り起こせば興味深い人物がまだまだ出てくるだろう。今後この方面の研究がさらに進むことを期待したい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンダーランド

2025年05月24日 | 海外

(ビショップウェアマウス墓地)

ニューカッスル市内からMetroで約四十分、サンダーランド(Sunderland)に至る。この日の目的地ビショップマウス墓地Bishopwearmouth Cemetery(Chester Road, Sunderland)の最寄駅Millfieldで下車し、そこから西へ一本道。約二十分で到着である。

早速Little Godieの墓を探す。三十分ほど墓地内を歩き回ってようやく出会うことができた。思ったより南側にあったので手間取ってしまった。近くまで来たら、墓の前には日本の国旗や人形などが供えられているので、直ぐにそれと分かる。

 

開国直後の海外渡航者といえば、公費で各藩から海外留学生が派遣された流れとともに、日本の曲芸師が海外公演のために海を渡っている。当時ヨーロッパを巡回して人気を博した曲芸団員の幼い子供の墓である。墓石には‘Little Godie’と刻まれている。明治六年(1873)没、生後十五ヶ月。【C-121】

 

チャペル

墓地を入って左手にチャペルを見ながら南に進む。最初の道を右に折れ、左を見ながら歩けばLittle Godieの墓を見つけられるだろう。

 

この墓地も樹木が多い。

 

墓石の歌

墓石には万葉仮名交じりの草書体で歌が刻まれている。日本人を親に持ちながら、一度も日本を見ることなく生を終えた子供への哀悼の歌である。

 

あはれなる こい志とをもふ

日本をゆめ尓しみぬ尓

お志て志ら作ゆ

 

現代仮名使いに置き換えると、

 

哀れなる 恋しと思う 日本を夢にし見ぬに 推して知らさゆ

 

HERE LIES

LITTLE GODIE

WHO DIED FEBRUARY 21ST 1873

AGED 15 MONTHS.

THE ONLY SON OF OMOTERSON AND GODIE

NATIVES OF JAPAN,

MEMBERS OF TANNNAKER’S JAPANESE

THIS IS THE FIRST JAPANESE MONUMENT ELECTED IN THIS COUNTRY

 

「当地に葬られた最初の日本人」となっているが、ブルックウッド墓地に葬られている山﨑小三郎の没年は慶應二年(1866)となっており、山﨑をイギリスに葬られた最初の日本人とすべきであろう。

墓碑に見えるタンナケルとはその名をTannaker Buhicrosanと綴るオランダ人興業師のことで、のちに八十名から成る日本人の軽業師たちを引連れるまでになるが、Little Godieが死んだ頃はほんの数人の日本人たちで旅興業を続けていた。

 

墓石の肩の部分に「COULSON」と刻まれている。

 

墓の全景

 

今でも母国を見ないまま亡くなった小さな子供へ同情を寄せる人が多いらしく、供え物が絶えない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タインマス

2025年05月24日 | 海外

(タインマス灯台およびタインマス城)

岩倉使節団は、タインマス灯台Tynemouth Lighthouse(Tynemouth, タインマス North Shields)も訪れている。「米国回覧実記」では「タインマウス」と表記されている。

 

――― 此処モ頗ル一庶村ニテ、岸上ニ男女群立シ、我輩ノ来ルヲ待テリ、燈台下ヨリ石岬ヲ築出シ、前岡ト相対シテ小湾トナス、此日難船救助ノ法ヲ試ミテ示セリ、抑(そもそも)此港ハ北海ニ控ヘ、洋海甚タ暴(あら)ク、難破ノ船多シ、甲比丹(キャピタン)某氏ハ此所ノ富豪ニテ、「バンク」ノ社中ニモ加ハリシ人ナリ、其救助ノ法ヲ思考シ、遂ニ此仕組ヲ始メタリ、之カ為メニ助命ヲ得タル船客モ甚タ多シ、此日燈台下ノ波戸ヲ、難船ニ比擬シテ、前ノ岡陵上ヨリ、一発ノ火矢ヲ射出セリ、此火矢玉ニ綱ヲ繋キテ波戸ニ達セシメ、是ヲ手繰リ、其端ニ巨緪(おおつな)ヲ繋キ送リ、此緪(つな)ニトリツキ、又種種ノ縄ヲ仕掛ケ、夫レニ兜状ノ銕体ニテ荷物ヲ載セ、船客ヲ乗スヘシ、是ニ綱ノ仕掛アリ、引テ前ヘ送リ、マタ繰(くり)テ後ヘ戻スヘシ、又一榻子(とうし)ヲ往来セシメル設ケモアリ、是ヲ難破船ニ繋キ、乗組ノ人ヲ載セ、尚時間アレハ荷物ヲ載セ移ス、

「榻子」とは腰掛または寝台のこと、

 

タインマス城

 

正式名称はタインマス・プライオリー・アンド・キャッスル(Tynemouth Priory and Castle)という。タインマスは国防戦略上の重要拠点で、軍港としても重要な役割を担っていた。第一次世界大戦の折、霧の中で砲台と間違えられたタインマス城はドイツ軍の砲撃のために破壊されてしまった。現在は、城門と城塞の一部が残っているだけである。

 

城の奥にはタインマス修道院跡がある。

 

開門時間が十時というのを確認せずに来てしまい、中に入ることはできなかった。例によって、私がここに着いたのは午前八時前のことだったので。

 

キング・エドワーズ・ベイ(King Edward's Bay)

まだ肌寒い時期であったが、水着で泳ぐ人の姿があった。夏場は海水浴客で賑わうらしい。

 

タインマス燈台

残念ながら燈台に通じる道は閉鎖されていて、近づくことはできない。

 

シールズ

 

タインマスより、タイン川河口のシールズの街を望む。岩倉使節団はヘップバーンで製鉛場を見学した後、タイン川を下ってシールズの街に入っている(「米欧回覧実記」では「シイルツス」と表記)。

――― 「タイル河」ヲ下ル、約四英里ニテ、「シイルツス」村ニ至ル、此ハ「タイル」河南岸ノ岬角(こうかく)ニテ、人家頗ル密ナリ、此辺ノ両岸ハ、スヘテ造船廠(ドック)多ク、舟船ヲ業トスル村ト覚エ、帆檣(はんしょう)林立シ蜘網ノ如シ、其盛ナルコト里味陂(リバプール)府ニ彷彿タリ、造船ヲナセル処甚タ多シ、ミナ尋常舟船ノ製造ニテ、大船ノ製造ニハアラス、

シールズでは、ソーダ製造工場を見学し、その後、タインマス灯台に移動した。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘップバーン

2025年05月24日 | 海外

 ニューカッスル周辺には地下鉄があって、ヘップバーン(Hebburn)やタインマス(Tynemouth)へはこれを利用するのが便利である。一日乗車券を買うのが経済的かつ便利。料金はゾーン制になっているので注意が必要である。

 

(ヘップバーン駅)

 明治五年(1872)九月二十一日、岩倉使節団は、ニューカッスルの商人集会所(エキステンヂ)を見学した後、タイン河の河岸から蒸気船でヘップバーン(Hebburn 「米欧回覧実記」では「ヘッポン」と表記)に移動し、そこで銅製錬の工場を見学している。

 その後、「ヘッポン・ステーション」のある岸に上陸。ここで浚渫船(「米欧回覧実記」では「濬泥船」)を目撃している。船上で昼食をとった後、ヘッポン・ステーション近くの製鉛工場を見学。その後、シールズ村(Shields = タイン河河口)へ移動し、ソーダ工場を見学した後、タインマスへ向かった。

 岩倉使節団が訪ねたヘッポン・ステーションは河岸にあった船着場のようであり、現在のヘップバーン駅とは別物のようである。

 

タイン河:現在のヘップバーン近くの河の様子。小さな船が係留されている

 

ヘップバーン駅:Metroもここまで来ると地上を走っている

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニューカッスル

2025年05月24日 | 海外

(ニューカッスル駅)

岩倉使節団がニューカッスル(漢字では新城)に入ったのは明治五年(1872)九月十九日のことである。その日の夜九時半にニューカッスル駅(Neville St, Newcastle upon Tyne)に到着し、市長らの出迎えを受けた。

 

――― 「ニュー・カッソル」府ハ、新城ノ義ナリ、英倫ノ東北(蘇部ノ界)ノ大州、「ノルジュムベーラント」州ノ首府ニテ、此州ハ幅員千九百五十二方英里、三十八万六千六百四十六口ヲ有シ、此地ニ英国第一ノ石炭礦ヲ有シ、民口冨庶ノ源トナス、又牧羊ニ富ム、新城ハ東方ノ海岸ニ近ク、北洋ヨリ船舶ノ出入ノ口タリ、「タイル」河ニテ「ドルハム」州ニ分界ス、(中略)英国ニ於テ第十四等ノ都会ナリ、北海ノ西岸ニ於テ、第一ノ要港タリ、石炭其他ノ貿易盛ンニ、製造場モ亦少カラス、然レトモ礦山ノ業ニヨリ、繁昌セシ都府ナレハ、職人礦夫ノ群聚地ニテ、一体ノ人気風俗ハ美ナラストナン、

「タイル」河となっているのは、タイン(Tyne)河のこと。蘇部とはスコットランド、「ノルジュムベーラント」はノーサンバーランド(Northumberland)、「ドルハム」はダラム(Durham)のことと推定。

 

ニューカッスル駅

 

同右

 

ニューカッスル駅

 

同右

 

(ロイヤル・ステーション・ホテル)

岩倉使節団のニューカッスルにおける宿舎は、「ステイションホテル」であった。今も駅に近接してステーション・ホテルRoyal Station Hotel https://www.royalstationhotel.com/が現存している。

 

岩倉使節団も宿泊したステーション・ホテル

 

内装:百五十年前とあまり変わっていないのではないだろうか。

 

全景:四階の部屋に案内されたが、四階が最上階である。

 

室内

 

この旅行で初めて湯舟にお湯をためて肩まで浸かることができた。日本人としてはこれが一番リラックスできる。岩倉使節団は一年半以上に及んで欧米を旅したが、お風呂につかることはできたのだろうか。毎日シャワーだけだときつかっただろう。

 

(アームストロング記念公園)

ホテルに荷物を置いたら、地下鉄に乗って最初の目的地アームストロング記念公園に向かう。ニューカッスルの地下鉄はゾーンによって一日乗車券の料金が異なる。この日はゾーン2までしか行く予定がなかったので、A+Bの乗車券を購入した(£5・6)。

ニューカッスル大学の北側にアームストロング記念公園(Lord Armstrong Memorial)があり、そこにアームストロング氏の立像がある。

 

アームストロング立像

 

アームストロング氏

 

台座には、アームストロング氏の業績を表わすレリーフが刻まれている。

 

明治五年(1872)九月二十日、岩倉使節団はアームストロング卿の来訪を受けている。「米欧回覧実記」によれば、アームストロング氏は、背丈が七尺余というから、二メートルを超える長身だったようである。「言寡(すくな)ク温温タル老翁ニテ、容貌愚カナルカ如シ」と評している。氏の名前は幕末日本に輸入されたアームストロング砲の名前とともに当時の日本人にも馴染み深いものになっていた。

 

(ウイリアム・アームストロング・ストリート)

明治五年(1872)当時、アームストロング社の大砲製造所(William Armstrong Dr, Newcastle upon Tyne)は、タイン河の北側にあった。今は通りの名前に跡を見るのみである。岩倉使節団は、アームストロング氏自らの案内で同社の工場を見学している。

 

――― 製造場ハ、「タイル」河ノ上流ニヨリ、地域ノ幅七町、入リ二町モアリヌヘシ、漫坡(まんぱ)ヲ負ヒ、河流ニ臨ミ、両側ニ廨舎(ながや)ヲ列(つら)ネ、中ニ一条ノ路、及ヒ銕軌ヲシキ、廨舎スヘテ十余宇アリ、河岸ニ鶴頸秤(かくけいしょう)ヲ設ケ〈テレッククレイン〉、桟橋ヲ作リテ、河水ニ臨ミ、漕舟直ニ其下ニ著スヘシ、水力ヲ以テ輪ヲ転シ、「シリントル」ノ軸ヲ抽塞(ぬきさし)スル仕掛ヲ、橋下ニ施シテ、上ニ鶴頸秤二箇ヲ安ンス、皆河岸ニ荷物ヲ揚卸(あげおろ)シスル用ニテ、其一ハ一人ニテ十五噸ノ荷ヲアケ、其一ハ二十噸ヲアクル力アリ、アルムストロンク役夫ニ命シ、運動シテ示セリ、近来更ニ五十噸ヲアクル「クレイン」ヲ仕掛ントスト言ヘリ、「タイル」河ハ、此辺、アテ其流レ頗ル急ナリ、洲沙ヲ巻キ出シ、此桟橋ノ下ニ迫リテ流ル、

 

この後も延々とアームストロング社の工場の描写が続く。特に熱を帯びているのが大砲製造の場面である。

――― 「アルムストロンク」氏発明ノ大砲ハ、鍛鋼ノ長条ヲ、砲身ノ下部ニ螺旋巻キシテ、打立タルモノナリ、其砲身ハ舌非力(シェフィールド)ニテ鋳立ル、之ヲ此場ニ輸シテ、砲身ヲ巻ク、此技倆ヲ施スニ、仕掛ノ壮大ナル驚クヘシ、地ヲ掘リ、磚瓦(かわら)ヲ畳み、長サ十余丈ニ亙ル長罏ヲ塗リ、罏中ニ石炭瓦斯ヲ蓄ヘタル内ニ、鍛鋼条ノ幅四寸、厚サ一寸有半ニテ、長サハ十余丈ナルヲ、十分ニ烙煅(らくか)シ、白炎ニ至ラシメ、罏口ヲ開キ、其鋼条ノ端ヲ引出シ、砲身ヲ前ニ横ヘ、之ヲ輪転セシメ、鋼条ヲ螺旋ニ巻キ、十余匣ニテ尽キレハ、又他ノ鋼条ヲ引出シ、其一端ヲ接シテ巻ク、巻キ畢(おわ)ルノ後ニ、再ヒ砲身ヲ烙煅シ、鍛鎚ヲ加ヘテ成就ス、

「罏」は炉のことか。「烙煅」は金属を熱して焼くこと。

 

WILLIAM ARMSTRONG DRIVE

ここにアームストロング社の工場があったことを示すものは、道路の名称のみである。

 

道路に沿って建物があるが、企業のオフィスのようである。

 

目の前をタイン河が流れる。

 

少し上流に工場が見えたが、生コンクリート製造業者の工場のようである。

 

(エルスウィック墓地)

ウイリアム・アームストロング・ストリートから十五分ほど丘を登ったところにエルスウィック墓地(Elswick Cemetery (63 St John's Rd, Newcastle upon Tyne))がある。

ニューカッスルにはアームストロング社の造船所があった関係もあり、明治期に多数の海軍関係者が当地を訪れた。この地で命を落とした海軍関係者の墓がエルスウィック墓地にある。

関口英男氏の報告書(「明治初年英国北東部における留学生の活動」(日本英学史学会英学史研究(1995)))によれば、エルスウィック墓地には計五基の日本人の墓が確認できたとされている。しかし、それから三十年の歳月が流れ、私が確認できたのは三基までであった。

五人のうち四人は海軍関係者であるが、岩本勝之助は時期もほかの四人より早く、年齢も二十二歳と若いことから海軍が派遣した留学生と考えられる。

 

入口の墓地管理事務所

 

中央にあるチャペル:この直ぐ南側に深町多計三の墓がある。

 

深町多計三の墓:根元から折れている。

 

IN MEMORY IF JUSHICHII TAKEZO FUKAMOACHI

IMPERIAL JAPANESE NAVY WHO WAS BORN ON THE 18TH MAY 1856 4TH YEAR OF ANSEI AND DEPARTED THIS LIFE ON THE 19TH FEBRUARY 1886

 

岩本勝之助の墓

IN MEMORAY OF K.IWAMOTO NATIVE OF YAMAGUCHI-KEN

JAPAN DIED NEWCASTLE 21 JUNE 1877

AGED 20 YEARS

 

山口県士族岩本勝之助は、明治五年(1872)四月、海軍省よりイギリス留学を命じられている。当初はプロシアに派遣される予定であったが、急遽イギリスに留学先が変更になったようである。岩本はその時点で十五歳という年齢であった。明治十年(1877)、二十歳で病死。帝京大学ダーラム分校校長などを務められた関口英男氏の調査によれば、死因は結核(当時は労咳と呼ばれた)不治の病であった。

関口英男氏は、彼が死んだ1877年6月29日付ニューカッスル・クーラント紙(週刊)を引用し、「これを読むと、彼が英国人のあいだにかなり人気があり愛されていた人物であることが分る」としている。「日本人留学生の死」と題したその記事は、次のように岩本の死を報じている。以下、関口報告書より引用。

―― 日本国出身の岩本カツは、西洋の学術を学ばせるべく暫くのあいだ欧米に留学させようとする同国の賢明な統治者によって選抜された、地位のある名家の青年たちの一員だったが、このほどニューカッスルで亡くなった。彼は他の人びとと共に、サー・ウィリヤム・アームストロング、ホーソン家、ならびにタインがそれによって有名になった大工業の諸社に雇われて、ニューカッスルに渡来した。この地に彼は約4年住んだが、熱心に学業に励んだ。しかし彼の関心は技術的なものにのみとどまらず、あらゆる機会を把えてわが国の社会的・政治的生活知識の取得につとめ、知的な関心を以て臨んだ。彼は市内や近隣のさまざまな家庭を屡々訪ねたが、彼の知的で優雅で礼儀正しい態度はそれらの家庭でいつも歓迎されたもので、その早すぎる死は大層惜しまれている。

好意的な死亡記事というより、岩本の人柄をそのまましのばせる内容といっていい。

 

山﨑勝次郎の墓

KATSUJIRO YAMAZAKI

PAYMASTER IN THE JAPANESE NAVY

DIED 12TH NOVEMBER 1899

 

山﨑勝次郎の墓も仰向けに倒壊してそのままとなっている。深町(明治十九(1886)年没、二十九歳、海軍中主計)、岩本、山﨑(明治三十二年(1899)没、年齢不詳、海軍主計)のほかにエルスウィック墓地には大内末吉(明治二十六年(1893)没、年齢不詳、海軍主計)、伊東長太郎(明治三十九年(1906)没、三十九歳、海軍技手)が葬られたとされているが、いずれも発見できなかった。

同じ墓地には中国人水夫の墓があるが、こちらの保存状態は良好である。日本人の墓のうち二基が倒壊しているのとは対照的と言って良い。単に私が探しきれなかっただけかもしれないが、大内、伊東の墓も倒れたり、埋もれてしまった可能性もある。保存の手が入ることを切に希望する。

 

 

中国人水夫の墓

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダーリントン

2025年05月24日 | 海外

(ダーリントン西墓地)

ダーリントン西墓地での目的は、土佐藩から留学生に選ばれ、不慮の事故で命を落とした深尾貝作の墓を詣でることである。

 

深尾貝作は、馬場辰猪、真辺戒作、国沢新九郎、松井正水らとともに、明治三年(1870)七月に土佐藩の留学生に選ばれイギリスに派遣された一行の一人である。深尾、松井、馬場は海軍機関学の習得が目的だったと伝えられている。深尾はわずか十五~六歳という若年であった。一行は当初ロンドンに滞在したが、やがてロンドンの西約百マイルに位置するチッベナム(Chippenham)へ移動し、さらにラングレー(Langley)という小村に移っている。その六か月後にはウォーミンスター(Warminster)という地方に移ったが、その間、英語の学習に励んだものと思われる。その後、深尾は単独でダーリントン(Darlington)のウォールワース・ハウス・カレッジエート・スクールにて海軍機関学を修めた。その後、現地の造船会社(レイルトン・ディクソン社)で研修生として働いていた。明治六年(1873)十一月十四日の午後六時前、彼は同僚の設計技師とミドルズバラ(Middlesbrough)のドックを散歩していたとき、誤って水面に落下し、溺死した。十八歳であった。ミドルズバラはダーリントンからティーズ(Tees)川を下ったところにある街である。将来を嘱望された若者の実に呆気ない最期であった。

 

東に面した正面ゲート前でタクシーを下車

 

正面ゲートから見た墓地の風景

 

入って右側にある事務所

 

墓地は深い緑に覆われている。墓地というより、森林公園のような趣きである。

 

直ぐ左手に案内がある。Victorian Chapelの方向に進む

 

直ぐにChapelが現れる。深尾貝作の墓は、このチャペルの後方(北東に十数メートル)にある。

 

表面:日本高知県士族 深尾貝作之墓 西暦一千八百七十三年十一月十四日溺死

行年十八歳

 

裏面:SACRED TO THE MEMORY OF BYSAK FUKAO

OF TOSA SHIKOKU JAPAN

WHO WAS DROWNED AT MIDDLESBROUGH NOVEMBER 14 1873 AGED 18 YEARS

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シェフィールド

2025年05月24日 | 海外

(市庁舎)

シェフィールドは漢字で「舌非力」である。明治五年(1872)九月二十七日から十月一日まで、五日間に渡って岩倉使節団はシェフィールドを視察している。シェフィールドでは、鋼鉄製造場、刃物製造場、銀銅細工場などを見学しているが、いずれも現在地はよく分からない。彼らは市庁舎Sheffield Town Hall(Pinstone St, Sheffield City Centre, Sheffield)も訪ねて、知事や評議官(議員のことか)、また商会の人たちとスピーチを交わしている。

なお、現在の市庁舎は1932年に竣工したもので、岩倉使節団が訪ねた頃の建物とは別物と考えられるが、それでも歴史を感じる重厚な建物である。

 

 

シェフィールド市庁舎

 

シェフィールド市庁舎

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンチェスター Ⅱ

2025年05月17日 | 海外

(マンチェスター大学)

同日、使節団はオウン学校を訪問している。オウン学校とはオーウェン・カレッジ=現・マンチェスター大学(Oxford Rd, Manchester)のことと思われる。

――― 是ハ二十年前ニ建タルモノニテ、当今生徒三百余人アリ、先ツ教師ノ室ニ至リ、互ニ款語ヲナス、夫ヨリ案内シ、諸学寮ヲ回リ、化学講義ノ席ニテ、姑(しばら)ク聴聞シ、夫ヨリ化学ノ試所ニ至る、記スヘキコトナシ、当府ハ製作盛大ノ都ナレハ、理化ノ両学ヲ講スルコト、殊ニ人民ノ必要タリ、教師ノ会堂ニ帰テ、姑ク談話ヲナシ帰レリ、此学校ハ府中ノ繁華ニ比スレハ、規模甚タ小ナルヲ以テ、近来別ニ一学ヲ建起シテ、七百人ノ生徒ヲ教フルニ足ラシメント、経営中ナリト云、

 

マンチェスター博物館(Manchester Museum)

大学に挟まれるように建っているが、マンチェスター大学が所蔵するコレクションを展示するもの。入場無料だが、月曜日は休館日。入口に係の人がいたので、入れるか聞いてみたら、やっぱり今日は休館日とのこと。

 

大学図書館

 

The Queen's Arch

 

会議場

 

生物科学スクール

大学の施設だが、エステティックサロンやギフトショップが入っている。

 

キルバーン棟(Kilburn Building)

 

岩倉使節団がイギリスで注目したのは、その国力の源となっている大工場群であった。イギリスは鉄と石炭を活用して、産業革命の先頭を切って富を築いた。明治五年(1872)十月十五日、イギリス巡回を終えた大久保利通は、国もとの西郷隆盛、吉井友実に次の書簡を送っている。

――― 廻覧中ハ段々珍舗見物イタシ候、首府コトニ製作場アラサルハナク、其内就中盛大ナルハ「リバプール」造船所、「メンチェストル」木棉器械場、「グラスゴー」製鉄所、「グリノツク」白糖器械、「イヂンハロク」紙漉器械所、「ニューカツソル」製鉄所(是ハ「アルムストロング」氏ノ所建、アルムストロング小銃大砲発明ノ人ニテ、今ニ存在、同人案内ヲ以テ見ルヲ得)、「ブラツトホール」絹織器械所、毛織物器械所、「セツヒールド」製鉄所(是レハ汽車ノ車輪其外一切ノ道具ヲ製出ス)、銀器製作所、「バーミンハム」麦酒製作所(是ノ製作所ノ続キ十二里ニ達ストイフ)、玻瑠製作所、「チェスター」ノ内イースウヰキ塩山等ハ分テ巨大ニシテ、器械精工ヲ極メタリ、之ニ次クニ大小之器械場枚挙スルニ遑(いとま)アラス

 

「メンチェストル」はマンチェスター、「グリノツク」はグリーノック(Greenock)、「ブラツトホール」はブラッドフォード(Bradford)、「イヂンハロク」とはエジンバラのことである。大久保は、見学した各地の工場を長々と列挙しているが、印象に残った工場はこれに留まらないだろう。大久保はこの書簡を「英国ノ富強ヲナス所以テ知ルニ足ルナリ」としめくくっている。大久保は日本に残る西郷や吉井にイギリス資本主義のシンボルである大工場群を伝えたかったに違いない。欧米への理解の差が両者の路線の違いとなって現れ、明治六年の政変で両者が袂別する遠因となった。

 

マンチェスター大学を歩いて見れば、出会うのは若い中国人ばかりである。日本人とは一人も出会わない。これが現実である。悲観的なことを言うようだが、今後日本は中国には勝てないだろう。

 

(科学産業博物館)

所定のスポットは見て回れたので、一旦ホテルに戻って休憩をとった。それでもまだ時間はあったので、科学産業博物館の見学に行くことにした。ここで思わぬ収穫があった。

 

科学産業博物館(Science and Industry Museum)入口

 

自動車の展示も

 

マンチェスターで発展した重機械工業

 

マンチェスターの機械技師ウィットワース(Whitworth)の開発した機械

彼は機械の精巧さを追求し、「精密機械の父」と称される。ネジの規格の考案者としても知られる。

 

マンチェスターといえば紡績工業で発展した街である。広いスペースを割いて紡績機械を展示している。

 

屋外展示

 

大量生産を可能とした紡績機械

 

ワット氏の倉庫

この展示に釘付けとなった。マンチェスターの綿織物倉庫の模型である。この巨大でユニークな建物をマンチェスターのどこかで見た気がするのだが、思い出せない。ホテルへの帰り道、当時紡績業が盛んだった、ディーンズゲート(Deansgate)を経由して、この建物を探し当てることにした。

 

(ブリタニア・ホテル・シティーセンター・マンチェスター)

なかなか科学産業博物館で見たワット氏の倉庫と同じ建物が見つからない。半ば諦めかけて、ホテルに戻ろうとしたところ、目の前にブリタニア・ホテル・シティーセンター・マンチェスター(Britannia Hotel Manchester)が出現した。

「これだ!」

と、思わず叫んでしまいました。まさに博物館で見た模型とまったく同じ建物である。もちろん現在内装をリノベーションしてホテルとして営業しているが、かつてワット氏の倉庫として使われていたのは間違いない。

「米欧回覧実記」には以下のとおり記述されている。明治五年(1872)九月六日のことである。

――― 十時ヨリ駕シテ、布帛細貨等ノ卸売店ニ至ル、是ハ「ウァツ」氏ノ「ウェヤ、ハウス」トイフ処ナリ、「ウェヤ、ハウス」トハ布帛倉ノ義なリ、此店ハ石造ニテ、内面材木ヲ以テ、五階ヲ架シ、約二十間ノ大厦ニテ、財本一百万弗ヲ以テ、始メテ此店ヲ剏立(そうりつ)シタリト、倉中ニハスヘテ絹布、天鵝絨(ビロード)、綾羅、綢緞ヨリ、木綿、花布(さらさ)ノ類、男女ノ衣服、襦判(ヂバン)、帽子、織文(しょくぶん)、線締(レース)、剪綵花(つくりばな)ニ至ルマテ、部分ヲ以テ、五階ノ内ニ攤列シ、各数名ノ男女付添ヒテ、来客ニ応接ヲナス、各店ヲ一室中ニ設ケタルニ同シ、其貨物ハ当地ノ産モアリ、他ノ諸郡ヨリ仕入タルモアリ、軽絨ノ巧ハ、大抵仏国ノ巴黎府ヨリ仕入タルモノナリ、

「布帛」とは織物全般のこと、「綾羅」とは美しい衣服のこと、「綢緞」とは絹織物のこと、「花布」は更紗のことか。「織文」は模様のある布のこと、

 

ブリタニア・ホテル・シティーセンター・マンチェスター(Britannia Hotel Manchester)

 

(マンチェスター市立美術館)

マンチェスター市立美術館(Manchester Art Gallery)の建物は、「米欧回覧実記」で「同商人集会所」と紹介されているものと推定される。

 

マンチェスター市立美術館

 

(裁判所)

マンチェスター・ピカデリー駅から歩いて数分の場所にある裁判所(Manchester Crown Court)は、「米欧回覧実記」で「ポリス・コート」即ち府中警察の裁判所と紹介されている。当時新築だったことが分かる。

――― 全屋新造ニテ、甚ダ華麗ナリ、綵色(さいしょく)ノ玻瓈(ガラス)ヲ以テ窓ヲ開ク、恢濶ナルコト、粗(ほぼ)我邦ノ屋造ニ彷彿タリ、巡査(ポリス)ノ手ニテ捕縛シタル罪犯人、若クハ府中ノ市民ヨリ、吟味ヲ願出タル、スヘテ刑事告訴ノ手続キハ、先ツ此ニテ下吟味ヲナシテ、而後ニ裁判所ニ送付ス、一ノ大室ニ、其裁判ノ席ヲ設ケタリ、証人、「ヂュリー」ノ席ヲ備フ、三日ノ条ニ記セル、巡回裁判所ニ比スレハ、甚ダ簡易ナリ、

 

裁判所(Manchester Crown Court)

 

使節団は時計の窃盗をはたらいた夫婦の審問を聴聞し、その様子を刻銘に記録している。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンチェスター Ⅰ

2025年05月17日 | 海外

(マンチェスター駅)

岩倉使節団がリバプールからセントヘレンズを経て、マンチェスターに入ったのは、明治五年(1872)九月二日のことである。「米欧回覧実記」では「漫識特」と表記されている。マンチェスター駅(Piccadilly Station Approach, Greater, Manchester)にて、当時の知事の出迎えを受けている。

――― 英国ニテ第三ノ都会タリ、里味陂(リバプール)府美策爾(ミルシー)河ノ上流ニヨリ、運河ヲ開キ、漕舟互イニ運送スヘシ、四郊ミナ平野ニテ、河水ハ汚濁ナリ、之ニ加フルニ多霧多雨ヲ以テス、秋冬ノ間ハ日光ヲミルコト少シ、此府ニ製造所多ク、殊ニ木棉ノ紡織ハ、其盛ナルコト、欧洲ニ於テ別ニ比肩スル所ナシ、蒸気ノ力ヲ借テ機ヲ運(めぐら)ス、全府石炭ノ烟、天ヲ掩(おお)ヒテ、空気為メニ昏黒(こんこく)ナリ、八九年前ニ、米利堅合衆国、南北戦争アリシトキ、彼国ヨリ棉花ヲ仕入ルゝ口塞リケレハ、満市ノ製造場ニ、廃業ノ者多ク、職人男女糊口ノ途ヲ失ヒ、餓死ニ浜スルニ至ル、商会ヨリ東西印度ニ手ヲ配リ、棉花ヲ購ヒ、此頃ハ世界ノ棉花、為メニ価ヲ増加シ、此府中ノ困難ハ、日本ニテ連年ノ大飢饉トモ謂ホドノ景況ニテ、府庁ヨリ三千万磅(ポンド)ノ金ヲ集メテ、之ヲ救済セリトナリ、米国廃奴ノ論ハ、棉花ノ関係ニヨリ、米英共ニ異論多カリシ所以モ亦察スベシ、

ここに紹介されている通り、十八世紀後半に紡織機に蒸気機関が導入され大量生産が可能となると、マンチェスターの街の人口は爆発的に増加し経済も急成長した。1830年にはリバプールまでの鉄道が開通し、マンチェスターで生産された綿織物はリバプール経由で世界に輸出された。しかし、この頃がマンチェスターの最盛期で、岩倉使節団が訪れた十九世紀後半には陰りが見える時期を迎えていた。

 

 

 

 

マンチェスター・ピカデリー駅(Manchester Piccadilly Station)

 

(ポートランド・ストリート)

岩倉使節団はクィーンズ・ホテルに宿泊しているが、このホテルは現存していない。ホテルのあった住所は1 Portland St, Manchesterである。

 

岩倉使節団が宿泊したクィーンズ・ホテルの跡地

イビス・スタイル・ホテルの隣りである。

 

イビス・スタイル・ホテル

 

ホテルからポートランド・ストリートを見下ろす。

 

(市庁舎)

明治五年(1872)九月五日、岩倉使節団は紡棉工場や天然ゴム工場などを見学した後、午後四時、市庁舎(Town Hall, Albert Square, Manchester)に入り、市長の招宴を受けている。ここでも会食列席者は百数十人に及び盛大な宴会だったようである。「米欧回覧実記」では「スピーチ等例ノ如シ」と短く述べているのみである。

 

市庁舎(Manchester City Counsil)

改装工事中で、全体像を見ることはできなかった。

 

時計台のみ遠望できた

 

市庁舎の裏のアルバート・マンチェスター・スクエア(Albert Manchester Square)

いくつか興味深い銅像が立っているが、撮影できたのはグラッドストーン首相の銅像のみ

 

グラッドストーン像の周囲には、浮浪者がテントを張って生活している。

 

戦争記念碑(Manchester Cenotaph)

市庁舎前にある戦争記念碑。第一次および第二次世界大戦の慰霊碑

 

(ロイヤル・エクスチェンジ・シアター)

翌九月六日、使節団は、布帛細貨等卸売店・布疋卸売店(ウェア・ハウス)や市の警察裁判所(Police Court)などを見学している。色々調べてみたが、ウェア・ハウスもポリス・コートも現在地が分からなかった。彼らは王立取引所=Royal Exchange(Cross St, Manchester)も訪ねているが、恐らくマークス&スペンサーやロイヤル・エクスチェンジ・シアター(Royal Exchange Theater)のある辺りが跡地と推定される。

――― 屋宇甚壮大ナリ、スヘテ「ロヤル・エキステンヂ」ノ建築ハ、欧米各都ニテ、一定ノ形式アルモノノ如シ、其造構タル、層屋ヲ造ラス、高朗ナル広堂ヲ設ケ、市民集会スル、幾千人ニ及フトモ、妨ケ無(なか)ラシメ、左右ニ回楼アリ、正面ニ高壇アリ、当府ノ「エキステンヂ」ハ、尽ク新建ニテ美麗ナリ、一周日ニ三度ツゝ、開場ヲナシテ、貿易品、諸株証券ノ価ヲ入札ス、市中商売取組ヲ決スル所ナレハ、其相場ヲキキ色ヲ失ヒ帰ルモアリ、喜ヒ面ニ溢レテ去ルモアリ、

 

リチャード・コブデン像

Wikipedia情報「リチャード・コブデン(英語: Richard Cobden、1804年6月3日 – 1865年4月2日)は、イギリスの政治家、実業家。マンチェスターの実業家として成功し、熱心な自由貿易主義者となり、ジョン・ブライトとともに反穀物法同盟の中心人物となる。1841年に庶民院議員に当選し、自由主義者の中でも急進派(英語版)の政治家となる。反穀物法運動の機運を高めて、1846年の穀物法廃止への環境作りに貢献した。その後、クリミア戦争やアロー戦争の反戦運動を行った。1860年には英仏通商条約(英語版)の締結に尽力した。」

 

マークス&スペンサー

 

The Royal Exchange

現在は、名称にかつての証券取引所の名残をとどめているが、実態は商業施設となっている。

 

Royal Exchange Theatre

 

The Royal Exchangeの入り口

 

The Royal Exchangeの北面

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リバプール

2025年05月17日 | 海外

(ラディソン・レッド・リバプール・ホテル)

岩倉使節団は約一か月のロンドン滞在の後、汽車でリバプールに移動している。彼らがリバプールに到着したのは、明治五年(1872)八月二十七日、夜十時半のことであった。彼らは駅に近接するノースウェスタン・ホテル(「米欧回覧実記」では「ノースヴェストロンホテル」)に旅装を解いた。

ノースウェスタン・ホテルは、今もラディソン・レッド・リバプール・ホテル(Radisson RED Liverpool)と名称を変えて営業している。(7 Lime St, Liverpool)。円安の影響もあってどこのホテルも非常に高価なので、今回の旅行ではできるだけ安い宿を選んだが、リバプールだけはちょっと贅沢してラディソン・レッド・リバプール・ホテルに宿泊することにした。一泊£125・81(約ニ万四千円)。

 

ラディソン・レッド・リバプール・ホテル(Radisson RED Liverpool)

ロケーションやサービスの質を考えたら5つ星でも良いと思ったが、ランクは4つ星である。その訳は宿泊すれば分かる。建物が古いことに起因しているのだろうが、上の階の人が室内を歩くだけで、足音が響くのである。その物音で朝五時前に起こされた。

 

ラディソン・レッド・リバプール・ホテルの室内

 

「米欧回覧実記」ではリバプールのことを「里味陂」と表記している。

――― 里味陂府ハ英国蘭加斯達(ランカーシャ)州、南方ニアル要港ニテ、英国ニテ第二ノ都会ナリ(中略)美爾策(ミルシー)河ニヨリ、地勢平坦ニテ、河口ハ浅洲多シ、久ク以テ亜米利加ヘ往来ノ港トス、「キュナールト」「インメン」「ネショナルフイン」等ノ蒸気船会社アリテ、当港ヨリ新約克(ニューヨーク)〈合衆国〉加那他(カナダ)〈英領米利堅〉等ヘ出船ス、平均毎日ニ、新約克ヘノ出船三十四艘、波士敦(ボストン)ヘ八艘、外ニ十一艘ハ其他ノ港ヘ出ツ、スヘテ五十三艘ツゝ、日々連綿トシテ、圧瀾(アトラン)洋ニ出テ、西ニ向ヒ航スルトナリ、亜米利加ノ繁昌スルニ従ヒ、当港モ益昌(ますますさかん)ニ、港口ニ船廠(ドック)ヲ造リテ、北岸六英里ノ長サニ連リ、海ニ向ヒタル所ハ、城垣(じょうえん)ニ塞関ヲ開キシ如ク、石垣ヲ畳ミテ、内ニ縦横ノ船廠ヲ掘タルハ、城濠ヨリモ堅牢ナリ、出入ノ船舶、ミナ此ニ入リ碇泊ス、桅檣(きしょう)ハ灌木ノ叢立セルニ似テ、其綱条ハ漁村ノ網ヲ曝セルニ彷彿タリ、其盛ナル世界第一ナリト称ス、

「城垣」は城壁のこと。「桅檣」とは船のマスト、帆柱のこと。

 

(セント・ジョージズ・ホール)

明治五年(1872)九月一日、岩倉使節団は、ホテルの前にある「セントヂョーヂ」礼拝堂を見学している。この日、市民百余名もともに堂内に入っている。

――― 此日ハ楽器ノ機関ヲ押ヘテ、楽ヲ調スルコト二曲、一楽師ノ手ニテ調スル所、殷殷トシテ大音律ヲ発シテ堂ニ充ツ、

残念ながらこの文面だけでは、どのような音楽が演奏されたのか分からないが、「一楽師ノ手ニテ調スル」というところから想像するにオルガンが演奏されたのかもしれない。「米欧回覧実記」では珍しく音楽が描かれた場面なので、ここに紹介した。

セント・ジョージ礼拝堂は、どうやらその名前では現存していない。ラディソン・レッド・リバプール・ホテルの向かいにセント・ジョージズ・ホールという名のイベント会場があり、恐らく礼拝堂を引き継いだものだろう。

 

 

セント・ジョージズ・ホール・リバプール(St George's Hall)

暗くなってからホテルの窓からセント・ジョージズ・ホールを見てみたら、赤くライトアップされていた。想像するに、この日地元の強豪リバプールFCがイングランド・プレミアリーグで優勝を果たしたことで、そのチームカラーでライトアップすることで祝意を示したのであろう。この日のリバプール市内は、あちこちで歓声が上がり、酔っ払って歩けない奴とか、旗をもって大声で叫ぶ奴などが続出していた。こういう時は出歩かない方が賢明である。

 

セント・ジョージズ・ホール前に建つアルバート王子の騎馬像

 

同じくビーコンズフィールド伯爵像

 

(世界博物館)

明治五年(1872)八月三十日午前十時半、岩倉使節団は馬車で移動し、博物館を見学している。世界博物館(旧・ダービー博物館)World Museum(William Brown St, Liverpool)と見られる。

――― 館ハ白石ニテ高朗ニ築キ、凡テ四層ノ建築ナリ、首(はじめ)ニ海石ノ室アリ、夫(それ)ヨリ大小ノ禽鳥ヲ蓄ヘタル三室ヲ経テ、海獣鱗介ノ室、諸獣骨ノ室、四ヲ回リテ、陶器石器博古ノ室アリ、夫ヨリ蔵書室、名画ヲ集メタル室、古キ石雕像ノ像ヲ集メタル室ヲ歴観シテ、館ヲ出ツ、館ノ出口ナル広堂ニ、小学校ノ幼生男女六十人整列ヲナシ、女教師之ヲ指揮シ、ソノ容儀ヲ示セリ、

 

世界博物館のホームページによれば、1851年に第十三代ダービー伯爵が亡くなると、彼の自然史コレクションがリバプール市に遺贈された。市議会は、ドックからそれほど遠くないスレイター・ストリートとパー・ストリートの角に急遽建てられた建物にコレクションを移した。その後、1853年三月に新しいリバプール市ダービー博物館が開館したが、博物館にはダービー伯爵のコレクションのごく一部、いくつかの絵画、リバプールの模型、1851年にロンドンで開催された万国博覧会で展示された輸入品のサンプルなどが展示されていた。この博物館は大変人気があり、開館後七か月で 十五万人以上が訪れるほどで、建物が手狭となったため、改めてセントジョージ・ホールの近くに、新しい大規模な博物館と公共図書館を建てることになった。岩倉使節団が訪れたのは、この博物館が現在地に移設された後のことと思われる。

残念なことに世界博物館は月曜日休館。外観の写真を撮るだけで撤収することになってしまった。

 

 

 

 

(市庁舎)

岩倉使節団は、明治五年(1872)八月二十八日、小雨が降る中、馬車にて市庁舎Liverpool Town Hal(Town Hall, High St, Liverpool)を訪ねている。知事が出迎え、職員総出で出迎えを受けた。お互いにスピーチを交わした。その後、議員による会議の様子を見学した。会議のとき発言者が起立してスピーチのように発言しているのは彼らの目には少々奇異に映ったようである。

同じ日の夜、一行は市長に招かれ、その日二回目の市庁舎訪問を果たしている。官吏商人合わせて百六十人が列席する大宴席であった。音楽が演奏され、歌が披露された。宴の最後には、両国皇帝および使節のために祝杯が挙げられた。宴席はその日の十二時まで続いたというから、慣れない西洋式の宴会に結構疲れたのではないだろうか。

 

 

 

リバプール市庁舎(Liverpool Town Hall)

 

(リバプールのドッグ跡)

リバプールは、十七世紀まで小さな港町であったが、アメリカや西インド諸島との交易が盛んになると、その貿易港として大いに発展した。今もマーシー川(River Mersey)沿いにフェリーの発着場があり、かつてのドックを再利用したレジャー・コンプレックスが設けられ、賑わいを見せている。

 

古いドライドックをそのまま残している。

 

アルバート・ドック(Albert Dock)

 

アルバート・ドック

 

アルバート・ドック

 

カンニング・ドック(Canning Dock)

 

The Pomp House

かつてのポンプ建屋をパブとして利用したもの

 

サルゾウズ・ドック(Salthouse Dock)

 

1765年頃のリバプールの地図

これを見ると、十八世紀にはリバプールのマージー川沿いにはドックが設けられていたことが確認できる。このうちOld Dockは内陸部に食い込むように作られていたが、現在全て埋め立てられ、ホテルや商業施設が立ち並ぶお洒落なエリアに生まれ変わっている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする