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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ベトナム戦記」 開高健著 秋元啓一写真 朝日文庫

2025年04月19日 | 書評

今年はベトナム戦争終結50年の節目の年である。昨年はフランス軍を撃退したディエンビエンフーの戦いから70年ということで、そのことを祝うイベントや看板がハノイの街にあふれたが、今のところベトナム戦争終結記念日(サイゴンが陥落した四月三十日)に向けた機運はさほど高まっていない(最近になって、統一公園の北側に大きなステージが設営されているのを確認した。恐らくサイゴン解放記念日に向けたものだろう)。

ベトナム赴任を機にベトナム戦争のことを知っておきたいと思って、赴任直前に購入したのがこの一冊である。着任して三年が経とうという今ようやく読了した。

開高健が1964年から1965年にかけて約百日間にわたって最前線を取材した迫真のルポルタージュである。1964年8月のトンキン湾事件をきっかけに米軍が増強され、アメリカによる全面的な軍事介入が始まった時期と重なる。開高健特有のとっ散らかしたような文体と多彩な修辞が、この戦争の混沌とした空気感をよく伝えている。同行した秋元カメラマンの写真が随所に挿入されていて、戦争の実態を視覚的にもリアルに伝えている。フエ(Hue)で撮影されたベトコンの戦士の死体を無表情に見つめる子供たちの姿は、戦争が日常と化した戦場の一場面を見事に切り取っている。

ベトナム戦争といえば、南ベトナムを支援する米軍とホーチミンの率いる北ベトナムの戦争というイメージが強いが、実態はもっと複雑である。開高健は「この国には四つの政府がある」としている。「内閣と、将軍たちと、仏教徒と、ベトコン」である。内閣と将軍は南ベトナム政府だが、一方仏教徒とベトコンは、反政府勢力である。反政府という意味では共通の敵を持っているが、彼らが連携することはなく、むしろ互いに警戒しあっている。

開高健は、ベトナム語で「私ハ日本人ノ記者デス」「ドウゾ助ケテ頂戴」と書かれた日の丸の旗をポケットに入れて、これを身分証代わりに戦線の奥深くまで潜入した。仏教徒のリーダーに接触し、時に「従軍僧を通じて全軍の兵士に直ちに武器を捨てろと号令してはどうですか」とか、「仏教徒と解放戦線(ベトコン)のあいだに平和共存または協力体制が生まれる可能性はないだろうか」などと、かなり立ち入った話をしている。もはや一従軍記者の分際を越えた介入であり、一つ間違うと命を狙われかねない行為である。

悪評高い枯葉剤も登場する。この時期枯葉剤による健康被害や奇形児出生率の上昇は問題になっておらず、ベトコンが身を隠す森林を荒野化するために広範囲にわたって使用された。ベトコンのゲリラ活動に手を焼いたアメリカ軍が考案した枯葉作戦である。枯葉剤の被害はベトナムの次世代にまで及び、今なおベトナム社会に影を落とす。アメリカも罪深い置き土産を残したものである。

本書の後半、開高健は秋元氏を伴いベンキャット(Ben Cat)にあった米軍基地に潜り込み、作戦に従って戦場を経験している。ベトコンに包囲され、銃弾から身を隠すため「倒木のかげに頭をつっこみ、顔で土を掘った」という場面は本書でも頂点を成す。このとき生き残ったのはわずか十七名。その中に開高健と秋元氏が含まれていたのは奇跡的であった。秋元氏はベンキャットに赴いたときの思いを「卒業論文」と表現している。このような危険な地域で取材をしようというジャーナリストの方々には毎度頭が下がる。小心者の私にはマネのできない行為である。「卒業論文」という言葉の奥には、使命感やら功名心やら好奇心などが入り混じっているのだろう。

開高健は、キャンプで出会った米軍兵士と酒を酌み交わしながら、彼らの本音を引き出している。ある米国兵士は「おれもベトコンのことはよく知らぬ。しかし彼らは何か百姓に訴えるものを持っているらしい。だからこんなに広がったんだ。おそらくこの戦争は結局のところベトコンの勝ちで、インドシナ半島はコミュニストの手におちるだろうと思う。おれはいいことだとは思わぬが、どうしようもない」と語っている。

さすがにこの米国兵士もその後十年もこの戦争が続くとは予想し得なかっただろうが、歴史が物語るように、その後の経緯はほぼこの兵士の予言通りに推移した。インドシナ半島には、ベトナム、ラオス―――さらにいえばクメール・ルージュが猛威をふるったカンボジア―――と次々と社会主義国家が誕生した。ただしアメリカが恐れるほどの脅威にはならなかったが…。

開高健は、ベトコンは「コミュニストのほかに民族主義者や自由主義者左派など、さまざまなグループ」から構成されていて、「農民のほかに学生、知識人、ある場合には仏僧も入っている様子」であり、彼の聞いたところではコミュニストは一パーセントか二パーセント、最高でも三〇パーセントだったという。

コミュニスト以外のベトナム人をベトコンに走らせたのは、アメリカの傀儡であった南ベトナム政府の中世的な独裁政治と、アジアを理解できないワシントンと、それをつきあげる将軍連中の作戦計画だと喝破する。米軍が空から叩きこむ砲弾にたまりかねてベトナム人は反米・民族主義に傾いた。つまりアメリカ自身が負けることを嫌って戦争に深入りすればするほど敵が増えていくという構図である。戦争に負けたことがなく、異民族に踏みにじられた経験もなく、戦争があるたびに豊かになったアメリカには遂にその仕組みが理解できなかった。せめて1965年に発表された「ベトナム戦記」をかの国の指導者が読むことがあれば、その後泥沼化したこの戦争の経緯も多少変わったかもしれない。

紛争地に取材に赴いたジャーナリストが国費を使って救助されるたびに「自己責任論」が叫ばれる。私も半分は自己責任論に同意である。一方で、現場において取材しないと分からない情報があるし、その実態の中に紛争を早期に解決したり、次の紛争を回避するヒントが潜んでいる可能性もある。

ベトナム戦争におけるベトナム側の犠牲者は民間人を合わせて三百万人にも及ぶ。対するアメリカの戦死者は五~六万人といわれる。ベトナムは戦争に勝利したが、犠牲者の数だけを見ればどちらが勝者か分からない。これだけ多くの犠牲を払って、ベトナムは独立と南北統一と社会主義国家体制を手に入れたが、果たして犠牲に見合うものだったのか。二十世紀はイデオロギーで国家が対立した時代でもあった。今となっては社会主義国家と資本主義国家にさほどの違いなど見当たらないではないか。ベトナムは社会主義国家としてスタートしたが、戦後十年余りを経た1986年にドイモイ(刷新)政策を発表して資本主義経済を導入した。今もベトナムは共産党一党独裁体制ではあるが、中国のように強力な政府ではなく、言論や思想の統制や監視によって人々が束縛されていることもない。当地で生活していても社会主義国家特有の息苦しさを感じることはない。一方、民主主義国家であっても昨今は独裁者のようにふるまう大統領が生まれている。ここに至ってイデオロギーのために血を流すことなど愚だと世界中の人たちも思い知っただろう。ベトナム人によってベトナムの若者(本書によれば「やせた、首の長い、ほんの子供」)が処刑される様子を目撃した開高健は吐き気を催した末に「人間は何か《自然》のいたずらで地上に出現した、大脳の退化した二足獣」だと罵倒している。宗教や民族、歴史観・国家観の違いから戦争することは愚行だと「大脳の退化した二足獣」が理解できる日が来るのだろうか。

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江古田

2025年04月12日 | 東京都

(山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)

 江古田四丁目に山﨑記念中野区立歴史民俗資料館がある。「山﨑記念」とあるのは、名誉都民山﨑喜作氏より寄贈された土地に建設されたため。今も山﨑氏の庭園や茶室が保存されており、年に一回公開されている。

 今回、中野区立歴史民俗資料館を訪ねたのは、山﨑氏の寄贈した庭園にある椎の巨木を見るためであった。山﨑氏は代々この地で醬油屋や質屋を営んでいた。「醤油屋の椎の木」と称されるこの巨木は遠くからも見える目印となっていた。上野戦争の折、彰義隊の敗残兵が逃げ込んできたため当時の山﨑氏当主が匿って介抱したところ、礼として徳川斉昭の書を置いて行ったという言い伝えが残っている。

 

醤油屋の椎の木

 

 彰義隊の敗残兵が斉昭の書を持っていたというのはやや不自然で、天狗党の間違いではないだろうか。

 

山﨑記念中野区立歴史民俗資料館

 

常設展示

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水道橋 Ⅳ

2025年04月12日 | 東京都

(伝通院つづき)

 クロサカ様より大原重実の墓が伝通院にあるとの情報を頂戴し、一時帰国休暇で東京に戻った機会に伝通院を再訪した。

 

故外務少書記官正四位大原重實墓

 

 大原重実(しげみ)は、天保四年(1833)の生まれ。父は大原重徳。明治十年(1877)九月、自邸において強盗のため殺害された。年四十五。

 

従三位樋口静康之墓

 

 大原重実の向かいに樋口静康の墓がある。樋口静康は、天保六年(1835)の生まれ。父は樋口保康。慶應二年(1866)正月、従三位に叙任。明治七年(1874)、没。

 

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守口

2025年04月05日 | 大阪府

(来迎寺)

 

佐太陣屋跡

 

 佐太地区は、京都・大阪間の交通・軍事の要地であったことから、美濃国加納藩(三万二千石)の永井氏が、貞享年間(1684~1688)に渚(現・枚方市御殿山)からこの地に陣屋を移し、摂津・河内の一万二千石を領有支配した。この陣屋は、加納藩の大阪における蔵屋敷の役割を果たし、年貢米の納入のみならず、加納藩の特産物である提灯・傘等もここに一旦集積して、大阪の町人に売りさばき、金融や物資の調達などの役割を担っていた。

 

(佐太天神宮)

 地下鉄大日駅で下車して、寝屋川市駅行きのバスに乗って三つ目のバス停が佐太天神前である。そこから歩いて数分で佐太天神宮に行き着く。

 

佐太天神宮

 

明治天皇駐輦遺趾

 

 慶應四年(1868)三月二十二日、明治天皇が大阪に行幸の途中、佐太を通過した際、佐太天神宮を参拝したことを記念したものである。当時玉座として使用された畳は、当神社の神庫に所蔵されている。従二位伯爵清閑寺経房の書。

 

豪商淀屋寄進の石井筒

 

 境内には豪商淀屋が寄進した石井筒がある。慶安三年(1650)二月、淀屋四代目三郎右衛門重當によって寄進されたもの。重當は、淀城主永井尚政により拝殿造営にも願主となって協力している。

 

(盛泉寺)

 

盛泉寺

 

明治天皇聖蹟

 

 大久保利通は人心を一新するため大阪遷都の急務であることを進言した。岩倉具視は公卿がこれに異議を唱えることは必然と考え、表向きは大阪親征の行事として、遷都の意思を隠して行われた。慶應四年(1868)三月二十二日、明治天皇の大阪行幸の際、盛泉寺(じょうせんじ)本堂前に賢所(神鏡を祀る場所)が設けられた。

 

内侍所之跡

 

 題字は松方正義。役目を終えた内侍所は淀川の河原で焼却され、その灰が建物跡に埋められたという。

 

 盛泉寺の樹林は、松、銀杏、楠などの大木で構成されている。古いものは樹齢四百年を超えると推定されている。

 

八重桜

 

(難宗寺)

 

難宗寺

 

 難宗寺本堂は元和元年(1615)兵火によって焼失し、寛永十年(1679)再建されたが、その後、度重なる風水害により朽廃したため、文化四年(1807)に再々建されたのが現在の本堂である。

 境内には樹齢四百年と推定される大イチョウがある。樹高は二十五メートルを超え、幹の直径は一・五メートルに及ぶ大木である。

 

明治大帝聖蹟(題字は松方正義)

 

難宗寺のイチョウ

 

御行在所

御仮泊所

 

 寺の外壁沿いに二つの碑が建っている。左側の御仮泊所碑は、大正天皇の滞在を記念したもの。

 

(守口宿本陣跡)

難宗寺近くの駐車場の前に「守口宿本陣」を示す駒札が建てられている。

 

守口宿本陣跡

 

 守口は元和二年(1616)に東海道の宿場となった。守口は枚方・大阪への人馬継立や荷物の受け渡し場所であり、街道の幅は二間半(約四・六メートル)と定められていたが、守口宿では十五メートルもあった。明治五年(1872)に廃止された。

 

(マグドナルド一号線守口店)

 

大塩平八郎ゆかりの書院

門弟 白井孝右衛門屋敷跡

 

 マクドナルド一号線守口店のある場所には、かつて守口町の豪農として知られた白井孝右衛門の邸宅があった。

 白井孝右衛門は、大塩平八郎の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行っており、門弟の中心的な人物であった。大塩は、この白井家の建物内の一室で守口近郷の農民たちに講義したと伝えられる。

 

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大阪港

2025年04月05日 | 大阪府

(中央突堤)

 

明治天皇聖躅

 

 明治三十六年(1903)五月八日、明治天皇が大阪築港を視察したことを記念したもの。側面には「築港事務所跡」と刻まれている。背後の赤い鉄橋は、阪神高速4号線湾岸線である。

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谷町九丁目 Ⅳ

2025年04月05日 | 大阪府

(竹林寺)

 

竹林寺

 

 豪商殿村平右衛門の墓を探して竹林寺を訪問。竹林寺は立派なビルになっている。「御用の方はインターホンを押してください」と書いてあったが応答がなく、独りで墓地を歩いてみたが、殿村平右衛門の墓らしきものを見つけることはできなかった。

 

 幕末に活躍した殿村平右衛門は、寛政六年(1794)の生まれ。父は殿村家分家の米屋伊太郎。のちに殿村家の六代目を継いで平右衛門を称した。殿村家は五代目平右衛門茂乗のときに大両替商になっていたが、六代目平右衛門に至って十人両替に列し、交互に金相場所に出勤して相場の事務を処理し、蔵屋敷に出入りし蔵元または御館入となった。幕末には、御親征用途費や大監察使東下費などを山中・広岡・長田らの豪商とともに献金し、動乱期を切り抜けた。晩年は今宮村に隠棲して、村田春門について和歌を学び、著書も残した。明治三年(1870)、年七十七で没。

 

(顕孝庵)

 顕孝庵には大阪の豪商鴻池家の墓所がある。五輪塔形式の墓が整列する様は壮観である。本当は九代幸実、十代幸富当りの墓を特定したかったのだが、あまりにたくさんの墓が並んでおり、特定するに至らなかった。

 

 十代目鴻池善右衛門幸富は、天保十二年(1841)の生まれ。父は山中又七郎。弘化三年(1846)、六歳で鴻池新十郎(和泉町)の義弟となり、その身分で本家に入って九代幸実の養嗣子となり、八歳で篠崎小竹の門に入り勉学した。嘉永四年(1851)、幸実が没したため、十一歳で今橋二丁目の鴻池本家の相続人となり善右衛門を称した。やがて外国艦船の渡来が相次ぎ、幕府から海防費のための御用金の命が一再ならず下ったが、よくこれを調達した。御用金令による鴻池の出財は、万延元年(1860)には銀五ニ〇〇貫目、元治元年(1864)には銀一ニ〇〇貫目に及び、さらに慶應二年(1866)の御用金令にも応じた。文久三年(1863)には新選組の芹沢鴨に乗り込まれ。強引に金二百両を調達させられたこともあった。慶應二年(1866)には紀州家五ヶ国通用銀札の引替方となり、翌年商社御用の命が下り、肝煎の筆頭となった。明治元年(1868)、新政府が成ると、会計裁判所御用掛を仰せ付けられ、ついで明治天皇の東幸に随行して金銭出納の御用を勤めた。明治二年(1869)、通商為替会社が設けられると、その頭取として金札引替事務に当たった。明治三年(1870)、同志と貿易商社尽力組と結び、明治六年(1873)には三井組と組合にて堂島両替店を興した。明治十年(1877)、第十三国立銀行を設立、その社長に就いた。しかし、明治初年から健康を害し、明治十七年(1884)、家督を十一代幸方に譲り、明治二十年(1887)には喜右衛門と改称した。病床にあること五十余年。大正九年(1920)、八十歳で没した。

 

顕孝庵

 

清寛院閑翁梅都居士

 

鴻池家の墓

 

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玉造 Ⅲ

2025年04月05日 | 大阪府

(大應寺)

 

大應寺

 

 大應寺にて和田高英の墓を探したが、和田家の墓は見つけたものの高英が葬られているという確証は得られず。

 和田高英は安政五年(1858)の生まれ。明治維新後、上京して兵部少丞林謙三のもとに寄寓し、大学予備校に通う傍ら、イギリス人チェンバレンについて英語を修得した。のち海軍省に勤務したが、父が致仕したため帰省してその跡を襲い、以後、清堀村村長、大阪府会議員になり、明治三十二年(1899)には上本町外二十六ヶ町財産区会議員に選ばれ、さらに議長に就任するなど地方政治の発展に寄与した。大正八年(1919)、年六十六で没。

 

 大應寺には「浪速の知の巨人」木村蒹葭堂(けんかどう)の墓がある。

 

蒹葭翁之墓(木村蒹葭堂の墓)

 

 木村蒹葭堂は、元文元年(1736)、現在の西区北堀江に誕生。大阪の陣で勇名を馳せた後藤又兵衛の子孫と伝わる。幼少より大岡春卜、柳沢淇園、片山北海、池大雅、売茶翁、小野蘭山らに師事し、漢詩、書画、本草学、物産学、儒学、茶事などに精通。優れた才能を発揮し、大阪を代表する博学者となった。家業で酒造り(坪井屋)を営む傍ら、本草学者、文人、出版家でもあり、更に古今の珍しい書籍や地図、貝、石、茶道具などのコレクターとしても知られた。博物館のようであった居宅には、知識人が絶えず訪れ、その様子は約二十四年間に渡って綴られた「蒹葭堂日記」に記録されている。青木木米、伊藤若冲、上田秋成、太田南畝、司馬江漢、大典顕常、頼山陽らの名前が見られる。来訪者の記録は、彼が一大交流サロンの主であった証となっている。

 享和二年(1802)正月二十五日、没。享年六十七。墓碑は伊勢長島藩第五代藩主増山雪斎の撰。

 

木村蒹葭堂(谷文晁筆)

 

 木村蒹葭堂はいつも和顔愛語で温厚な人柄だったという。当時としては珍しい笑顔の肖像画(谷文晁筆)がそれを物語っている。

 

芝園川氏之墓(香川素琴の墓)

竹窓之墓(森川竹窓の墓)

香川氷仙之墓

 

 森川竹窓(1763~1830)は、書家・画家・篆刻家と多才な顔を持つ人。

 香川素琴(そきん)(1810年没)は、森川竹窓の妻であり、当時は珍しい女性画家。

 香川氷仙(かがわひょうせん)(生没年不明)は素琴の妹。氷仙もまた女性画家である。

 

(西念寺)

 

西念寺

 

熊谷直好翁之墓

 

 熊谷直好は、天明二年(1782)、周防国岩国の生まれ。香川景樹の門人。文政五年(1822)、景樹と香川家の衝突事件後、間に立った直好は苦境に陥り、文政八年(1825)、岩国を出て京都に上り、のち大阪に歌塾を開いた。木下幸文とともに桂園門の双璧と呼ばれ、学問の点では桂園門第一と称された。しかし、その学説は師景樹の祖述に終始した。著述に古今集研究と神楽・催馬楽注解の「梁塵後抄」がある。「梁塵後抄」は名著の誉れ高く、安政六年(1859)に完成し、万延元年(1860)に出版された。文久二年(1862)、年八十一で没。

 

宗讃(村井伊兵衛の墓)

 

 村井伊兵衛は、宝暦五年(1755)、大阪瓦町に生まれ、代々海産物を商う家に生まれ、昆布屋伊兵衛と称した。号は求林、宗矩。没後は釋名を宗讃といった。算数司天の学に長じ、和算の蘊奥を極め、後進の誘導啓発に務めた。著書八十冊は帝国学士院に寄贈され、学界の至宝とされている。文化十四年(1817)、六十三歳にて没。

 

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