史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治維新史 自力工業化の奇跡」 石井寛治著 講談社学術文庫

2021年07月31日 | 書評

本書の原本は、平成元年(1989)に刊行されたもので、つまり今からざっと三十年前に書かれたものである。当時はまだマルクス的唯物史観の「砲煙」が残っている時代であり、本書も「ブルジョアジー」とか「市民革命」などといった言葉が頻繁に登場し、時代を感じさせる。

大久保政権について「君主専制を自称する大久保独裁体制は、その意味で世界史的にはブルジョア革命前の絶対王政に類比されうる権力形態であった」「特殊日本的な絶対王政であったというべき」と力説されているが、権力が一人の人物に集中していたという以外、私にはヨーロッパの絶対王政と大久保政権とは全く異質なものとしか思えない。

本書のもう一つの特徴は、筆者が経済学博士であり、専門が日本経済史の先生だということである。自ずと経済の話が中心になる。それにしても経済となると、途端に数字がゾロゾロと列挙されることになる。規模の大きさや拡大の度合いを知るにも、本来、数字の裏付けがあった方が分かり易いはずだが、どういうわけだか数字が並ぶとこんがらがってしまう。

さて、筆者の専門は、経済史であるが、本書は経済にとどまらず、政治・外交・文化・社会など多方面に渡って記述が及んでいる。その中で随所に筆者の独自の視点が光る一冊となっている。たとえば、廃藩置県の前夜、西郷隆盛を上京させ、薩長土三藩の献兵による親兵八千の東京への集結を実現させた。一般には、これは廃藩置県断行のためと解釈されている。筆者によれば、この目的は飽くまでも中央政府の改革・強化であった。しかし、当時政府の様々な改革がいっこうに進まず、親兵八千の維持費の捻出さえ困難になっていた。残された道は、廃藩の断行による全国貢租の中央集中と政府予算の抜本的再編を通じて、親兵の維持費をひねり出すしかなかったというのである。「親兵八千の存在は、廃藩置県を可能ならしめた条件であるとともに、それを要求する直接的契機でもあった」という指摘には意表を突かれた。筆者は「文庫版あとがき」で、石井説は「今日でも通用する一例」と自画自賛している。

 

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「歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか」 笠原英彦著 中公新書

2021年07月31日 | 書評

高校生の頃、試験に出ないことは重々承知していたが、とにかく歴史的知識に飢えていて、歴代天皇をひたすら暗記したものである。歴代天皇だけでなく、歴代の足利将軍や徳川将軍も当たり前のように諳んじていた。今となっては、朝会った人の名前が、夜には思い出せないほど著しく記憶力が低下してしまったが、あの頃は暗記することにストレスはなく、歌をうたうように歴代天皇の名前を覚えたのである。

あれから四十年以上が経ったが、

桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上・・・

と続く一節は今も口をついて出てくるくらい脳裏に刷り込まれている。

本書は神武天皇から平成の天皇に至る歴代天皇の生涯と事績を記述したもので、(2001)に初版が発刊されて以来、二十年が経った今年、「増補版」として更新された。昔、覚えた歴代の天皇の名前に懐かしさを覚えつつ、ページをめくった。

神話時代には、百歳を越えて亡くなったという天皇が登場する。第十代崇神天皇に至っては「日本書記」によれば百二十歳、「古事記」によれば百六十八歳で崩御したことになっている。要するにこれはフィクションだよ、というメッセージなのだろう。神武天皇の父の名前は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎたけうがやふきあえずのみこと)というらしいが、こんな長たらしい名前で日常呼びあっていたとは到底思えないし、第一本人が自分の名前を覚えられないだろう。こういう名前が登場すること自体、フィクションであることを物語っている。

本書を読んで、天皇が政治に関与すると世が乱れるという一定の傾向があることを確認した。後鳥羽上皇が北条執権打倒を目指して挙兵した承久の乱(1221)では、後鳥羽上皇が隠岐へ、土御門、順徳両上皇はそれぞれ土佐、佐渡へ流された。鎌倉幕府との対決姿勢を鮮明にした後醍醐帝の時代、正中元年(1324)には討幕計画が事前に漏れて多数の天皇方の武将が殺害された。それでも討幕の意思を変えなかった後醍醐帝は、楠木正成、新田義貞、名和長年そして足利尊氏といった武将を味方につけ、ついに鎌倉幕府を倒して親政を実現した。しかし、建武政権への批判は日増しに高まり、反政府運動が活発化した。後醍醐帝は吉野に移って南朝を樹立し、都奪回を夢見ながら崩御した。これ以降、南北朝並立の時代が六十年近く続き、その間争乱が絶えなかった。

再び天皇が政治の表舞台に立ったのが幕末であった。孝明天皇は強烈な攘夷主義者であると同時に親幕的であった。こうした孝明天皇の存在が幕末の混乱に拍車をかけたことは間違いない。

昭和天皇は決して統帥権を乱用するようなことはしなかったが、天皇の存在を軍部に利用され、それが日本を戦争に走らせた。天皇は時代の流れに抗うことはできなかったし、基本的には平和主義者だったと言われるが、それでも天皇の戦争責任は免れないだろう。

本書の副題は「皇位はどう継承されたか」である。記憶に新しいところでは、平成二十八年(2016)、天皇(現・上皇)はビデオメッセージを通じて国民に「お気持ち」を表明し、高齢のため全身全霊で務めを果たすことができなくなった旨を伝えた。天皇の発言は多くの国民の共感を呼び、翌年には皇室典範特例法が成立し、平成三十一年(2019)四月三十日、退位に至った。江戸時代の光格天皇から仁孝天皇への譲位以来、実に二百年振りの出来事であった。

私などは四十年近くサラリーマンをやってきて、まだ六十を超えたところだというのに既に十分疲弊している。明仁天皇が八十歳を越えて、なお重責を担い続けるというのは、我が身に置き換えてみても大変なことだと想像する。これ以上、天皇の位に在り続けるよう強要するのは、非人道的であろう。

と、ごく自然に譲位に賛成していたが、「増補版あとがき」によれば、筆者は平成二十八年(2016)に首相官邸で開かれた有識者会議の専門家ヒアリングの場で退位に反対を表明したという。長い天皇家の歴史を見れば、上皇による院政の事例も枚挙に暇ないし、象徴天皇下にあっても政治利用や二重権威の可能性を完全に否定はできない。現在の上皇陛下と今上天皇の間にそのような心配はないといった反論もあろうが、ことは制度の問題である、として筆者は反対意見を述べたという。学者としての良心であろう。結果、明仁天皇の譲位は特例法によって例外的に認められたのである。

筆者の最大の懸念は皇位継承の危機である。筆者によれば、側室の子がその後即位した非嫡出子による継承は、全体の半数を占めているという。一方で、戦後に皇室には側室を置かなくなった。皇位継承資格は嫡出に限られ、さらに皇室典範では男系男子に限定されている。皇族男子が減少し、皇族女子の皇籍離脱により益々危機は深刻化している。

実は我が国の歴史上、十代八人の女帝が在位している。だったら女性天皇の誕生も良いのではないか、と私などは安易に考えてしまうが、ことはそれほど単純なものではないらしい。八人の女帝はいずれも寡婦か未婚の内親王で、在位中の結婚も出産もなかった。

皇位承継の問題は一時盛り上がりを見せたが、平成十八年(2006)に秋篠宮家に悠仁親王が誕生すると、議論も下火になってしまった。筆者は「皇統断絶の危機をいかに回避するかは、主権者たる日本国民に課せられた大きな課題」と警鐘を鳴らす。時間があるうちに議論を尽くして結論を出すべきであろう。

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那須 Ⅳ

2021年07月24日 | 栃木県

(寄居)

 

明治天皇山中御小休所

 

 那須町寄居まで来ると、福島県境が近い。旧奥州街道沿いの民家の前に明治天皇の小休所を示す石碑が建てられている。

 明治十四年(1881)、明治天皇の山形、秋田両県および北海道巡幸の際、同年八月七日、および還幸の際の十月七日、鈴木清次郎宅が小休所となった。当時は平屋建ての茅葺で、御座所となった八畳の座敷は旧状を今に伝えているという。

 

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大田原 Ⅲ

2021年07月24日 | 栃木県

(御殿山公園)

 大田原市佐久山の御殿山公園は、佐久山城跡に作られた公園で、四季折々の花が楽しめる。

 

御殿山公園

 

史跡 佐久山城跡

 

 佐久山城は、文治三年(1187)、那須資隆(すけたか)の二男泰隆が築城し、以後佐久山氏を称して居住した。子孫の佐久山義孝(すけたか)は、一族の福原資孝(大田原資清の次子)に滅ぼされ、廃城となった。天正十八年(1590)、福原資孝の子、資保(すけやす)は片布田館から佐久山四つ谷に陣屋を移したが、のち元禄十五年(1702)、福原資倍(すけます)が佐久山城の一部を補修し、山麓に陣屋を構え、四つ谷の地から移った。以降、福原氏が居住し、明治二年(1869)に福原資生(すけおき)が版籍を奉還するまで続いた。

 

明治天皇佐久山行在所跡

 

 明治天皇が明治九年(1876)に奥羽地方、明治十四年(1881)に山形・秋田および北海道を巡幸した際に、佐久山宿にあった宿屋「新玉屋」が行在所となった。それを記念して昭和十五年(1940)に佐久山町がこの碑を建立した。当初は「新玉屋」のあった場所(現・佐久山小学校入口付近)に設置されたが、その後道路改修工事などの事情により移転が続き、平成二十七年(2015)十月に御殿山公園内に移設された。

 

(乙連沢)

 

明治天皇御駐輦紀念碑 ①

 

明治天皇御駐輦紀念碑 ②

 

 大田原市乙連沢(おとれざわ)のセブンイレブンから東に五百メートルほど行った場所に明治天皇駐輦記念碑がある。訪れる人も少ないためか、石碑はほとんど雑草に隠れるような状態であった(写真①)が、周囲の雑草を足で踏み倒してようやく写真を撮影できるようになった(写真②)。撮り終わったときには脚に切り傷を負い、何故だか首筋がチクチクした。

 

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さくら Ⅱ

2021年07月24日 | 栃木県

(さくらミュージアム荒井寛方記念館)

 平成十七年(2005)三月、氏家町と喜連川町が合併し、さくら市が誕生した。それまで「ミュージアム氏家」という名前で運営されていた博物館も、「さくらミュージアム荒井寛方」と改名された。荒井寛方は、さくら市出身の画家である。その後も増築、リニューアルを繰り返し、現在に続いているが、地方には珍しいほど立派な施設である。

 

さくらミュージアム荒井寛方記念館

 

日露戦役紀念碑

 

 記念館の近くには慰霊塔があり、その傍らに日露戦役紀念碑、忠魂碑が置かれている。いずれも乃木希典の書。

 

 ミュージアムの西側に勝山城跡がある。

 

勝山城跡

 

鬼怒川

 

勝山城本丸跡

 

 勝山城は、鬼怒川の段丘に面して建てられた崖端城(がいたんじょう)である。氏家氏により鎌倉末期に築城され、その後芳賀氏によって防備が強化された。中世下野における宇都宮氏一族の北方防衛拠点であり、戦国時代には那須氏と激戦地となったが、一度も落城することはなかった。慶長二年(1597)、宇都宮氏が豊臣秀吉の命により改易したのに伴い廃城となった。

 城跡は維新後までよく保存されていたが、戦後の開発の波が押し寄せ、本丸跡も破壊された。現在、本丸跡は公有地となり、町指定史跡となっている。

 

明治天皇駐蹕之蹟

 

 勝山城跡の鬼怒川の見える場所に明治天皇の駐輦之碑が建てられている。

 

(瀧澤家)

 

瀧澤家長屋門

 

瀧澤家住宅(鐵竹堂)

 

 瀧澤家住宅は、旧奥州街道に面して、伝統的な板塀を巡らし、堂々たる長屋門を備え、今なお旧家の面影を留めている。明治になって紡績等の事業で財を成し、当主瀧澤喜平次は、貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓に尽力した人物である。鐵竹堂(てっちくどう)は、明治天皇の休息所として使用された建物で、喜平次の雅号鐵竹に因んで名づけられた。長屋門は、建設年代を特定する史料が残されていないが、鐵竹堂と同時期の建築と推定されている。

 

蔵座敷

 

 洋風望楼を備えた蔵座敷は、伝統的な土蔵造りの建物の屋根に、明治天皇行幸の際に望楼を増築したと考えられている。このような望楼は、明治初期から中期にかけて文明開化のシンボルとして流行し、旧奥州街道沿いにも洋風望楼を置いた建物が作られた。しかし、県内で現存しているのはこの建物のみとなっている。

 

天皇駐蹕之所

 

 明治天皇が当地を訪れたのは、明治二十五年(1892)に氏家で陸軍大演習が行われた際のことで、瀧澤家住宅は休息所として使われた。

 

(引田原)

 住所でいうとさくら市下河戸に二基の明治天皇聖蹟碑がある。いずれも明治九年(1876)の明治天皇巡幸の際、休憩所となったことを記念したものである。

 

明治天皇御休輦之處

 

天皇御小休之際御膳水

 

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中禅寺湖

2021年07月17日 | 栃木県

(中禅寺湖)

 

中禅寺湖・明治天皇御製

 

 日光まではこれまで何度も訪れているが、中禅寺湖や華厳の滝となると、記憶がない。ひょっとしたら高校時代の修学旅行以来かもしれない。

 中禅寺湖畔には、明治天皇の御製碑が建てられている。

 

 伊はねふみ のぼりて見れば 二荒山

 舟を浮かべる湖もありけり

 

(華厳の滝)

 

華厳の滝

 

 華厳の滝は中禅寺湖の水が、高さ九十七メートルの岸壁を一気に落下する壮大な滝である。有料(大人五百七十円)のエレベータを使えば、滝壺付近まで下りることができるらしいが、無料の展望台からでも十分その迫力を感じることができる。

 

華厳神社

 

 華厳の滝入口付近に華厳神社というつい最近創建された神社がある。この神社の近くに華厳瀑歌碑と明治天皇華巌瀑御観覧御野立所という二つの石碑がある。

 

華厳瀑歌碑

 

 華厳瀑歌は、小野湖山の作。華厳の滝を称えた漢文と付文から構成される。華厳の滝の偉大さを名文で綴り、仏教の経典の第一である華厳の名を滝の名にしているのは、偶然ではないと結んでいる。明治十一年(1878)の建碑。

 残念ながら華厳瀑歌碑は柵で隔てられている、近くで見ることができない。

 

 明治天皇が華厳の滝を観覧したのは、明治九年(1876)のことである。

 

明治天皇華巌瀑御観覧御野立所

 

(中の茶屋)

 

中ノ茶屋

 

 紅葉のシーズンになると毎年大渋滞となるいろは坂であるが、実は日光方面から中禅寺湖へ向かう上りと、日光に戻る下りとは別ルートになっている。つまり上り下りとも一方通行なのである。

 中の茶屋跡は、下りの途中にある。通り過ぎてしまうと逆戻りできなので慎重に運転せねばならない。ついでにいうと付近に駐車場らしいスペースはないので、他の車の邪魔にならないように停めなくてはならない。

 

明治天皇中茶屋御野立之所

 

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日光 Ⅲ

2021年07月17日 | 栃木県

(七里)

 

明治天皇七里御小休所

 

明治天皇七里御小休所

 

 明治天皇七里御小休所は、明治九年(1876)、東北巡幸の帰途、七里村に立ち寄った際に御小休所となった場所である。

 

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今市 Ⅳ

2021年07月17日 | 栃木県

(今市宿市縁ひろば)

 今市宿市縁ひろばと命名されているが、どこにでもありそうな観光駐車場である。その片隅に明治天皇小休所記念碑が建てられている。

 

明治天皇御小休之蹟

 

(大日堂跡)

 かつて菩提ヶ原には大日如来の堂があった。慶安二年(1649)、大楽院の恵海がこれを再建した。往時には美しい池のある庭園のある中に堂があり、そこに大日如来の石像が安置されていたという。明治三十五年(1902)の大洪水で流され、現在は堂跡にいくつかの礎石が残るのみとなっている。

 

大日堂跡

 

大日橋と大谷川

 

明治天皇駐蹕跡

 

 明治九年(1876)、明治天皇は東北巡幸の途中、日光に六月六日から九日に立ち寄り、同月八日、日帰りで中禅寺湖まで行幸している。中禅寺湖からの帰り、大日堂に立ち寄った。当時は、堂宇があり、池を囲んだ庭園が美しかった。

 大日堂跡は、無名のスポットかもしれないが、公園として整備された傍らを大谷川の清流が流れ、ずっと滞在していても飽きない空間となっている。お勧めのスポットである。

 

 

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栃木 Ⅴ

2021年07月17日 | 栃木県

(栃木高校)

 

養正寮

 

 栃木高校の正門を入って右手に洋風の建物がある。明治四十三年(1910)九月の東宮陛下(のちの大正天皇)の来校を記念して、大正三年(1914)に建てられた記念図書館(養正寮)である。

 一階は図書室、二階は同窓会の集会場として使用されたが、昭和十年(1935)、階上の和室は養正寮と名付けられ、ここで生徒の精神修養の場として校長の講話、漢籍の素読会などが開かれた。現在は自習室として利用されているという。

 

明治天皇栃木行在所址

 

 養正寮の東側には明治天皇が栃木に巡幸した際に行在所として使われたことを記念した石碑が建てられている。明治九年(1876)の東北巡幸、明治十四年(1881)の東北北海道巡幸をはじめ、栃木県には九度の明治天皇の行幸があった。栃木高校構内の石碑は、明治三十二年(1899)、近衛師団小機動演習の巡見のため明治天皇行幸の行在所となったことを記念したものである。

 

聖駕駐蹕碑

 

 聖駕駐輦碑は元帥侯爵山県有朋の書。

 

(大平町蔵井)

 栃木市大平町蔵井にある明治天皇の駐輦記念碑は、明治四十年(1907)十一月、常毛で開かれた陸軍大演習に際し、明治天皇がこの地で野立を楽しみ、諸兵を統監したことを記念したものである。

 

護国殿

 

天皇駐蹕之所

 

征清紀念之碑

 

 同じ場所にある征清紀念碑は、明治二十七年(1894)の日清戦争を記念して、明治二十九年(1896)に建立されたものである。

 

(兜山公園)

 栃木市岩舟町鷲巣の兜山公園から岩船町を見下ろすことができる。天気が良ければ、ここから遠く富士山も拝むことができるという。高台には明治天皇鷲巣野立所記念碑が建てられている。

 

兜山公園からの眺望

 

明治天皇鷲巣御野立所

 

御野立記念之碑

 

 明治三十二年(1899)十一月十六日、この地で明治天皇が、南軍北軍に分かれた近衛師団の激戦を交わす演習を観戦し、その後御野立所において御昼食を食したとされる。

 

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佐野 Ⅳ

2021年07月17日 | 栃木県

(洞雲寺)

 梅雨の晴れ間を狙って栃木県下の史跡を巡った。最初の目的地は佐野市船越町の洞雲寺である。洞雲寺には、西園寺公望篆額木村翁之碑銘がある。

 木村翁とは、木村高静(源兵衛)のこと。文化元年(1806)に生まれ、明治十六年(1883)没した。地域の子弟のために家塾を開き、また村役人を務めた。撰文は森保定鷗村、碑文の揮毫は吉田晩稼(ばんこう)。鷗村、晩稼とも江戸末期から明治の勤皇家である。

 

洞雲寺

 

木村翁之碑銘

 

木村家之墓

 

 洞雲寺には木村姓の墓所が複数ある。高静の墓を探したが、特定することはできなかった。一番立派な木村家之墓の写真を参考として掲載しておく。

 

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