史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治維新草莽運動史」 高木俊輔 勁草書房

2014-03-29 13:54:30 | 書評
古本屋で書籍を漁っていて、たまたま出会った本である。ちょうど今から四十年前の昭和四十九年(1974)に刊行されたもので、ページは少し赤茶けているが、内容は新鮮である。
本書は、大学の授業で使うようなハードカバー本であるが、アカデミックな本に似合わず生野の変や相楽総三の赤報隊、花山院党の挙兵などを取り上げているので、(古本であっても決して安価ではなかったが)入手することにした。
タイトルにある「草莽」については、「大枠として草莽意識を荷担する下級武士から神官・僧侶・豪商農」と定義している。要するに藩や幕府といった背景を持たない活動家(本書ではしばしば「根なし草」と表現されている)というイメージであろう。
「草莽」といえば、直ちに連想するのが吉田松陰の「草莽崛起論」である。当然、本書でも松陰の「草莽崛起論」に触れているが、筆者の視線は意外と冷静・中正である。「時には幕吏の討滅を叫びながらも公武合体論者以外にはなりえなかった」という指摘は、松陰の限界を示すものであった。安政の段階で松陰の思想は突出していたが、それでもこの時期においてはこれが限界というべきであろう。
生野の変に参加した浪士を、脱藩していてもいずれ出身藩に復する志向性を持つグループとそうでないグループに分けたり、地元豪農を事変に積極的に参加したグループと消極的に参加グループ、関与しなかったグループに分類したりという手法は面白かった。実際、生野の変に参画した浪士は、ほとんど出身藩との連携はなかったので、(強いていえば薩摩藩出身の美玉三平が、挙兵直前に国元の有志に宛てて決起勧誘状を発信したくらい)、浪士を二つのグループに分ける意味は、こと生野の変に関しては希薄だと思う。実際、著者の分類でも出身藩との繋がりのない浪士は、膳所藩出身の本多素行一人となっている。
一方、地元豪農を類型化したのは有効であった。第一のグループの代表格が中島太郎兵衛であろう。彼らは質地を獲得するなどして、豪農化していったが、一方で養蚕に手を出し経済的に苦境に陥っていた。中島太郎兵衛は、文久三年一月の時点で妻と離別したが、「尊皇攘夷の実行に並々ならぬ決意」であったと言われる。実は中島太郎兵衛の妻は、大庄屋の正垣家の出身であった。正垣家は急激に家産を拡大しており、経済的にも安定していて、生野挙兵にも消極的だったと言われる。太郎兵衛が妻と離縁したのも、両家の置かれた状況を見れば故なきことではなかったと思われる。
相楽総三の赤報隊が、新政府から弾圧された理由を最終的に財政問題と結論付けている。そのこと自体に目新しさはない。本論で私が新鮮味を感じたのは、桜井常五郎に関する記述である。桜井常五郎は、「暴徒」「賊徒」と悪く評価されることが多いが、筆者は「桜井隊の動きの中に芽生えていた地域の変革の方向は、佐久郡の小前農民の郡中名主罷免運動などに引きつがれていった」と、その存在意義を評価している。
ほとんど触れられることのない花山院隊について詳述しているのも嬉しい。花山院隊は、ちょうど赤報隊と同じ時期、北九州で挙兵した草莽隊の一つである。天草陣屋や豊前四日市陣屋を襲撃し、一応の成功を収めたが、やはり赤報隊と同じく新政府の弾圧を受けて壊滅した。「花山院隊」と呼ばれているが、盟主に担いだ花山院家里が合流する前に、実に呆気なく鎮圧されている。しかも薩長両藩の手によってである。時期は鳥羽伏見の直後であり、旧幕府の陣屋を制圧するというのは、一見すると新政府の方針と合致しているように思うが、それでも薩長両藩が花山院隊を弾圧したというところに、彼らの草莽隊に対する姿勢が見て取れる。
文久三年(1863)から翌年にかけて、九十九里地方で発生した真忠組事件については、私も本書で初めてその概要を知った。あっという間に周辺の諸藩によって鎮圧されてしまったため、ほとんど小説等には取り上げられることのなかった事件である。著者は真忠組が「世直し」と結びついていたことを指摘している。
本書で取り上げられる草莽は、これまで紹介した以外にも、高松実村隊や第二奇兵隊のことにも及ぶ。著者の視点は常にこれら草莽諸隊が、民衆の動きや世直しと連携していたかに注がれている。いずれもユニークで新鮮な切り口であった。ただ、私の理解している限り、生野の変における農兵の打ち毀しは、変を指導した首謀者らの意図したものではなく、多分に武装化した農兵による偶発的なものである。著者は「単にそのような一時的な問題にかぎられたものではなく、但馬地方の社会的・経済的矛盾に根ざしていた」とするが、そういう側面も潜在していたにせよ、全面的に世直しを企図した打ち毀しとするのも抵抗がある。

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「幕末奇談」 子母澤寛 中公文庫

2014-03-29 13:53:06 | 書評
今から八十年近く前に発刊された子母澤寛の作品である。「幕末研究」と「露宿洞雑筆」の二編が収められている。これを読むと、子母澤寛という人は、根っからの小説家だったのだと実感する。本書でも随所に「小説にしたら面白かろう」といった子母澤寛のつぶやきに出会う。新選組三部作などを読んでも、どこまでが史実で、どこからが作者の創作なのか見分けがつかないが、ひょっとしたら子母澤自身も区別がつかなくなっているのかもしれない。
彼の興味の範囲は、幕末に起こった事件に留まらず、四谷怪談や番町皿屋敷といった、所謂怪談奇談の類にまで及ぶ。作家が小説を作るためのネタ帳のような側面もある小品集である。


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水天宮前

2014-03-16 15:38:18 | 東京都
(箱崎公園)


松陰先生像

 昭和十二年(1937)末、箱崎尋常小学校の当時六年生であった岩井光子さんが病死した。光子さんは、吉田松陰の生き方に深い感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で学校に吉田松陰の銅像を建てるよう両親に遺言を残した。両親は生活が苦しい中、この遺言を実現し、昭和十三年(1938)三月、盛大に除幕式が開かれた。当時この話は美談として東京日日新聞に掲載され、時の文部大臣や東京市関係者が列席した。台座の「松陰先生」の文字は、この話に感動した海軍大将高橋三吉の揮毫によるもの。戦前の松陰は、「憂国の忠臣」として神格化されていた。この銅像も時代の空気を今に伝えるものである。平成二十二年(2010)、箱崎公園(日本橋箱崎町18)に移設された。

 このところ、週末ごとに大雪となり、外出できない鬱憤がたまっていた。実は、その一週間前、雪かきで持病のギックリ腰を再発してしまい半日休みをもらって通院したが、ようやく回復してきたところである。晴天につられるようにして水天宮や茗荷谷を歩いた。特に無理をしたという意識はなかったのだが、その夜から腰痛が悪化し、翌日には起き上がれないほどになってしまった。嫁さんからは「無理をして出歩くから」と叱られることになってしまった。当面自粛します。


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西大井 Ⅱ

2014-03-16 15:31:10 | 東京都
(養玉院如来寺)


如来寺

 伊藤小学校の南、住宅街の中に養玉院如来寺がある。五体の大仏を安置する瑞応殿の裏手に墓地が広がる。墓地には高取藩植村家や対馬藩宗家の墓がある。


従四位巌光院殿智達映雲大居士(植村家教墓)

 高取植村家の墓地に十代藩主植村家教の墓がある。植村家教は、文政十一年(1828)家督を継ぎ、嘉永元年(1848)隠居するまで、藩主の座にあった。万延元年(1860)、七十五歳にて死去。
 植村家の墓は、奈良県高取の宗泉寺にもあって、幕末の藩主家保の墓はそちらにある。


宗家墓地

 対馬藩宗家の墓域に、義達の墓がある。


摂政院殿正二位普薫明徹大居士(宗義達墓)

 宗義達(よしあき)は、第十六代対馬藩主。元治元年(1864)の長州征伐の直後、佐幕派の起こしたクーデターにより、それまで藩の実権を握っていた義党(尊攘派)百名が処刑された。慶応元年(1865)には、義党の残党により佐幕派が暗殺されるなど、治世を通じて混乱が続いた。戊辰戦争では新政府軍に軍兵を送った。明治三十五年(1902)、死去。五十六歳であった。


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黄金町

2014-03-16 15:24:41 | 神奈川県
(東福寺)


東福寺

 京急黄金町駅から徒歩で六~七分。東福寺は、赤門が印象的な寺である。本堂の裏手の山の斜面にこびりつくように墓地が広がっている。この中に新選組隊士近藤芳助の墓がある。その位置は極めて分かりにくい。墓地に達するには、赤門を通って右と左にそれぞれ入口があるが、近藤芳助の墓を目指すのであれば、左手から入る方が分かりやすいだろう。墓地の高い場所、左手の奥に近いところに近藤芳助は眠っている。


清壽院徹心正澄居士(近藤芳助墓)

 近藤芳助は、江戸深川の幕臣川村家の三男に生まれた。次兄は、同じく新選組に所属した近藤隼雄。幕臣近藤芳三郎の養子となり、近藤芳助と改めた。維新後は旧姓に復して川村三郎と名乗ったため、東福寺の墓石台座には「川村家」と記されている。
 実家が試衛館のそばにあったため、近藤周齋の門人となった。元治元年(1864)の入隊。鳥羽伏見にも参戦したが、銃弾を浴びて重態に陥った。全快はしていなかったが甲陽鎮撫隊にも従軍している。流山から白河、会津と転戦して仙台で降伏した。明治三十九年(1906)、「近藤芳助書翰」を記し、貴重な証言を残している。大正十一年(1922)、八十歳にて病死。


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平塚

2014-03-16 13:55:04 | 神奈川県
(神奈川銀行平塚支店)


平塚宿本陣旧蹟碑

 平塚宿本陣は、代々加藤七郎兵衛家が担っていた。現在、神奈川銀行平塚支店のある場所に南面して本陣の建物が建てられていたという。記録によれば、徳川家茂は文久三年(1863)二月と慶応元年(1865)五月の二回、平塚本陣にて休憩をとっている。また、明治天皇は東京行幸と遷都の際、当地に小休している。


平塚宿脇本陣跡

 本陣跡から東に高札場跡、さらに脇本陣跡、見附跡があった。現在、それぞれ石碑が建てられている。


平塚宿高札場跡


平塚宿の江戸見附跡

 平塚宿の東西には、それぞれ江戸見附と京方見附が設置されていた。見附というのは、宿の出入りを監視するための施設で、同時に見附から正式に宿内であることを示すものであった。

(平塚商業高校)


成器塾跡

 平塚商業高校の東南角に成器塾跡碑がある。
 成器塾は、芳野金陵の高弟、宮崎拡堂が嘉永三年(1850)頃、相模国大住郡中原村に開いたもので、一時江戸御徒町に移ったが、文久二年(1862)、平塚に新築した。門下には大磯の伊東希元や上平塚の今井元啓などがいる。宮崎拡堂は、明治二年(1869)、五十一歳で死去。

(扇松)


扇松

 JR東海道線の北側には、旧東海道や国道が走り、賑やかな街が広がるが、南側は打って変わって閑静な住宅街である。平塚駅から海岸に向かって「扇松通り」と名付けられた道が伸びている。通りに沿って十五分ほど歩くと、道路を覆うように大きな黒松が植えられている。この黒松は扇松と呼ばれている。
 後藤象二郎は、この辺りに二扇庵と称する別荘を構えていた。この頃、後藤象二郎が詠んだ戯れ歌である。

 わが庵は 扇の松に ほど近く
 富士の高嶺を 軒端にぞ見る


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日野 Ⅳ

2014-03-16 13:44:43 | 東京都
(宝泉寺)
 日野駅側の宝泉寺には、新選組助勤六番隊長井上源三郎の記念碑と墓がある。


誠願元忠居士(井上源三郎墓)


井上家之墓(井上泰助の墓)

 井上家の墓に井上源三郎の甥、井上泰助が合葬されている。井上泰助は、鳥羽伏見の戦争に参加し、叔父源三郎が戦死すると、その首級と刀を持って引き上げようとしたが、あまりの重さに途中の寺院(欣浄寺といわれる)の門前に埋めたという。このとき泰助は十二歳であった。傍らの墓標によれば、泰助の法名は「泰岳宗保居士」、昭和二年(1927)二月十日、七十二歳にて死去している。


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茗荷谷 Ⅳ

2014-03-16 13:38:35 | 東京都
(播磨坂)


極楽水

 茗荷谷駅から五分ほど東へ進むと、播磨坂と名付けられた、妙に幅の広い道に出会う。中央分離帯は公園となっており、道の両側には桜並木が植えられている。きっと春は花見客で混雑するだろう。この地名は、江戸時代この場所に常陸府中藩松平播磨守の屋敷があったことに由来する。ほとんど遺構らしきものは見当たらないが、小石川パークタワーというマンションの一角に、極楽水という名水が復元されている(文京区小石川4-16)。


高橋泥舟 山岡鉄舟 旧居跡

 播磨坂公園内に高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡の説明が建てられている。実際に旧居跡があったのは、この場所から西側の一角、現在マンションのあるところに両家は並んでいた(文京区小石川5‐1‐8)。
 高橋家は享保五年(1720)、山岡家は文化八年(1811)以降、この地に移り住んだといわれる。
 高橋泥舟は、槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家、高橋家を継いで、二十五歳のとき幕府の開いた講武所の師範となった。
 山岡鉄舟は、旗本小野家の出身であったが、山岡静山の妹英子(ふさこ)を娶って山岡家を継いだ。

(喜運寺)
 喜運寺には小さな墓地があり、そこに思案橋事件で殉職した河合好直の墓標がある。思案橋事件で殉職した警察官は、寺本義久と河合好直の二人。寺本警部補の墓は染井霊園にあるが、河合好直巡査の墓は、喜運寺墓地の一番奥まった場所にある。川路利良大警視の手によるものである。


喜運寺


為川合好直君

(国際仏教学大学院大学)


慶喜公屋敷大銀杏

 国際仏教学大学院大学の敷地には、江戸期に荻野山中藩大久保家の下屋敷があった。
 徳川慶喜は、水戸藩小石川の上屋敷で生まれ、幼少期を過ごした。維新後、長らく静岡で謹慎生活を送ったが、明治三十年(1897)、東京に戻り巣鴨に居を構えた。さらに明治三十四年(1901)、思い入れの深い小石川に近い当地に移った。学校正門脇に、慶喜邸にあった大銀杏がある。慶喜が急性肺炎のため世を去ったのは、大正二年(1913)十一月二十二日のことであった。

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西麻布 Ⅱ

2014-03-09 14:43:09 | 東京都
(長谷寺)


橋本家之墓(橋本綱常の墓)

 橋本綱常は、橋本左内の実弟。長崎に遊学してポンぺに学び、ポンぺの帰国後は松本良順について西欧医学を修めた。維新後、ドイツに留学。外科や内科を学んだ。明治十年(1877)帰国したが、明治十六年(1883)再び欧州に渡った。帰国後は、軍医総監、陸軍省医務局長、日本赤十字病院初代院長、東京大学教授として、我が国医学の発展に貢献した。明治四十二年(1909)、六十五歳にて逝去。


正五位勲一等寺原長輝墓

 会津藩士の墓を集めた一角、その横に寺原長輝の墓がある。寺原長輝という名前にあまり馴染みはないが、実はこの人物は園田長照という名で、明治十年(1877)一月、物情穏やかならぬ鹿児島に派遣され、私学校党の離間を図った、いわゆる「東京獅子」の一人である。西南戦争終結後救出され、奈良県知事、茨城県知事、福岡県知事を歴任した。のちに貴族院議員に勅選された。大正元年(1912)死去。
 東京獅子と呼ばれる工作員は、二十三~四名と言われるが、今のところ墓を特定できたのは、高崎親章、安楽兼道と寺原長輝の三名のみである。


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南麻布 Ⅱ

2014-03-09 14:34:54 | 東京都
(天真寺)


天真寺

 南麻布の住宅街の中に忽然という感じで、天真寺がある(南麻布3-1-15)。墓地には歴史を感じさせる墓石が並ぶ。その中に戊辰戦争における福岡藩戦死者の墓がある。


舊福岡藩戊辰
戦役戦病死者 墓


戊辰役従軍福岡藩戦死者墓

 墓地中央の一番立派な墓は、小川団之助實輝のもの。慶応四年(1868)九月二十九日、磐城中村にて戦死。十七歳。
 その左は頭山左仲正方の墓。銃隊司令官。慶応四年(1868)八月二〇日、磐城中村方面にて負傷。一一月二十九日、東京にて死亡。四十二歳。
 向かって右は阿部政吉秀則の墓(『幕末維新全殉難者名鑑』によれば、姓は安部となっている)。慶応四年(1868)閏四月三日、下総船橋にて負傷。のち死亡。二十二歳。
 左手に並んでいる二基の墓石の奥の方は、二宮順之亟正保のもの。慶応四年(1868)六月十四日、江戸にて陣没。二十四歳。手前は大森小源太(『幕末維新全殉難者名鑑』によれば、小伝太)の墓。東京にて病死。
 右手中央は大森與左衛門兼文の墓。慶応四年(1868)東京にて病死。その手前は濱田正親とあるが、『幕末維新全殉難者名鑑』に記載されている浜田左七郎のことか。


従五位下藤原朝臣小出播磨守嫡男清兵衛之墓

 箱館奉行など、幕末の重職を歴任した小出秀実の墓を訪ねて天真寺の墓地を歩き回ったが、発見できたのは、同姓英道の嫡男の墓のみであった。墓地には大名墓や古い墓石がたくさんあったので、その中に小出秀実の墓もあるのかもしれないが、探しきれなかった。

(曹渓寺)
曹渓寺(港区南麻布2-9-23)には、土佐新田藩主山内家(土佐藩山内家の分家)の墓や、儒者藤森弘庵(天山)の墓がある。


曹渓寺

 さっそく墓地に向かおうとすると、住職に呼び止められた。最近、「墓荒らし」が出没しているらしく、檀家からも妄りに墓地に人を入れないように言われているそうである。ここを訪ねた主旨を申し上げると、お線香をいただき、墓地へ案内していただいた。


山内家累代之墓

 墓地中央に土佐新田藩山内家の墓がある。土佐新田藩山内家は、江戸定府で麻布に住んでいたため、麻布山内氏とも称された。幕末の当主、山内豊福(とよよし)は、安政三年(1856)、豊賢のあとを継いで藩主に就いた。徳川慶喜が鳥羽伏見に敗れ帰城すると、豊福は江戸城内で主戦論を主張したが、帰邸して本家山内家の情報に接して、進退に悩んだ。そのとき老臣堀越忠三郎から自重を諫言された。その夜、自刃。三十三歳であった。夫人典子もこれに殉じて自刃した。


天山藤森先生墓標

 藤森弘庵(雅号 天山)の父は、播磨小野藩士。父のあとを継いで小野藩の祐筆となったが、致仕した。天保五年(1834)、土浦藩に招かれ学政、郡務にあたった。嘉永六年(1853)には「海防備論」を著し、攘夷論を徳川斉昭に建白した。これにより名声が挙がった。安政の大獄では江戸追放に処され、のち許され江戸に戻ったが、文久二年(1862)病のため没した。


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