(源英寺)
前回訪問時に発見できなかった小河原多宮の墓を訪ねて、再度源英寺を訪ねた。竹様から小河原多宮の墓は、「墓地内ではなく、駐車場側の笹薮の中に数基立っている中の一つ」という情報を得たので、それを頼りに探すことにした。実際には、探すまでもなく、駐車場に到着した時点ですぐに分かった。
前橋執政小河原政徳墓
墓の側面には、小河原多宮(墓碑によれば左宮)が、慶応四年(1868)閏四月、「国難により死」んだことが刻まれている。小河原多宮は、前橋藩の家老(二千三千石)。慶応四年(1868)四月、上総富津陣屋を警備していたとき、旧幕軍の撤兵隊に陣屋の明け渡しを迫られた。陣屋には少数の兵しかいなかったため、小河原はやむを得ず無血開城に応じ、責任を負ってその場で自刃した。五十八歳であった。
(隆興寺)
隆興寺は、教会のような本堂を有した寺院である。
隆興寺
「明治維新人名辞典」によれば、前橋市三河町・隆興寺に鈴藤勇次郎の墓があるというので、墓地を歩いてみた。墓地を三周歩いてみたが、それらしい墓に出会うことはできなかった。もう一度、機会があれば挑戦してみたい(鈴木姓の墓はいくつもあるのだが…)。
鈴藤勇次郎は、本姓は鈴木。江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、江川の推挙を得て幕府に仕えるようになり、万延元年(1860)の遣米使節派遣では、咸臨丸の運用方として渡米した。木村芥舟に贈った太平洋上の咸臨丸の図が今日まで伝わる。慶応四年(1868)榎本武揚が幕府艦隊を率いて箱館に向った報に接したとき、鈴藤は病床にあり、参戦できないことを嘆いて自殺した。四十三歳。
前回訪問時に発見できなかった小河原多宮の墓を訪ねて、再度源英寺を訪ねた。竹様から小河原多宮の墓は、「墓地内ではなく、駐車場側の笹薮の中に数基立っている中の一つ」という情報を得たので、それを頼りに探すことにした。実際には、探すまでもなく、駐車場に到着した時点ですぐに分かった。

前橋執政小河原政徳墓
墓の側面には、小河原多宮(墓碑によれば左宮)が、慶応四年(1868)閏四月、「国難により死」んだことが刻まれている。小河原多宮は、前橋藩の家老(二千三千石)。慶応四年(1868)四月、上総富津陣屋を警備していたとき、旧幕軍の撤兵隊に陣屋の明け渡しを迫られた。陣屋には少数の兵しかいなかったため、小河原はやむを得ず無血開城に応じ、責任を負ってその場で自刃した。五十八歳であった。
(隆興寺)
隆興寺は、教会のような本堂を有した寺院である。

隆興寺
「明治維新人名辞典」によれば、前橋市三河町・隆興寺に鈴藤勇次郎の墓があるというので、墓地を歩いてみた。墓地を三周歩いてみたが、それらしい墓に出会うことはできなかった。もう一度、機会があれば挑戦してみたい(鈴木姓の墓はいくつもあるのだが…)。
鈴藤勇次郎は、本姓は鈴木。江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、江川の推挙を得て幕府に仕えるようになり、万延元年(1860)の遣米使節派遣では、咸臨丸の運用方として渡米した。木村芥舟に贈った太平洋上の咸臨丸の図が今日まで伝わる。慶応四年(1868)榎本武揚が幕府艦隊を率いて箱館に向った報に接したとき、鈴藤は病床にあり、参戦できないことを嘆いて自殺した。四十三歳。
情報有り難うございます。
納得しました。
お戻りになられたようですね。
小河原左宮の筆跡が実家に有って小河原家の墓所が気にかかっていたのですがお陰さまで知る事ができて喜んでおります。
駐車場の中と言うのが気がかりです。寺院が墓地を売却し縮小させたのでしょうか?
小河原家は今も健在なのでしょうか?
こちらこそご無沙汰しております。
一時帰国の機会に大阪・京都を訪ねただけで、まだハノイで勤務しています。
小河原家の墓は、駐車場の中ではなく「すぐ横」だったように記憶しています。小河原家が存続しているかどうかは、分かりません。
横から失礼いたします。
小河原家の墓地は駐車場から墓地入口に入る手前の壁沿いに笠塔婆が並べられています。
墓地入ってすぐ左にも新しい小河原家の墓があるので、子孫か分家のお墓だと思われます。
隆興寺にあるとされる鈴藤勇次郎ですが、前橋から青山霊園に移転しています。
1種イ11号7側に鈴藤家の墓がありますので、こちらに合葬されています。
毎度貴重な情報を有り難うございます。
次の機会に青山霊園に行ってみます。