(ニューカッスル駅)
岩倉使節団がニューカッスル(漢字では新城)に入ったのは明治五年(1872)九月十九日のことである。その日の夜九時半にニューカッスル駅(Neville St, Newcastle upon Tyne)に到着し、市長らの出迎えを受けた。
――― 「ニュー・カッソル」府ハ、新城ノ義ナリ、英倫ノ東北(蘇部ノ界)ノ大州、「ノルジュムベーラント」州ノ首府ニテ、此州ハ幅員千九百五十二方英里、三十八万六千六百四十六口ヲ有シ、此地ニ英国第一ノ石炭礦ヲ有シ、民口冨庶ノ源トナス、又牧羊ニ富ム、新城ハ東方ノ海岸ニ近ク、北洋ヨリ船舶ノ出入ノ口タリ、「タイル」河ニテ「ドルハム」州ニ分界ス、(中略)英国ニ於テ第十四等ノ都会ナリ、北海ノ西岸ニ於テ、第一ノ要港タリ、石炭其他ノ貿易盛ンニ、製造場モ亦少カラス、然レトモ礦山ノ業ニヨリ、繁昌セシ都府ナレハ、職人礦夫ノ群聚地ニテ、一体ノ人気風俗ハ美ナラストナン、
「タイル」河となっているのは、タイン(Tyne)河のこと。蘇部とはスコットランド、「ノルジュムベーラント」はノーサンバーランド(Northumberland)、「ドルハム」はダラム(Durham)のことと推定。

ニューカッスル駅

同右

ニューカッスル駅

同右
(ロイヤル・ステーション・ホテル)
岩倉使節団のニューカッスルにおける宿舎は、「ステイションホテル」であった。今も駅に近接してステーション・ホテルRoyal Station Hotel https://www.royalstationhotel.com/が現存している。

岩倉使節団も宿泊したステーション・ホテル

内装:百五十年前とあまり変わっていないのではないだろうか。

全景:四階の部屋に案内されたが、四階が最上階である。

室内
この旅行で初めて湯舟にお湯をためて肩まで浸かることができた。日本人としてはこれが一番リラックスできる。岩倉使節団は一年半以上に及んで欧米を旅したが、お風呂につかることはできたのだろうか。毎日シャワーだけだときつかっただろう。
(アームストロング記念公園)
ホテルに荷物を置いたら、地下鉄に乗って最初の目的地アームストロング記念公園に向かう。ニューカッスルの地下鉄はゾーンによって一日乗車券の料金が異なる。この日はゾーン2までしか行く予定がなかったので、A+Bの乗車券を購入した(£5・6)。
ニューカッスル大学の北側にアームストロング記念公園(Lord Armstrong Memorial)があり、そこにアームストロング氏の立像がある。

アームストロング立像

アームストロング氏

台座には、アームストロング氏の業績を表わすレリーフが刻まれている。
明治五年(1872)九月二十日、岩倉使節団はアームストロング卿の来訪を受けている。「米欧回覧実記」によれば、アームストロング氏は、背丈が七尺余というから、二メートルを超える長身だったようである。「言寡(すくな)ク温温タル老翁ニテ、容貌愚カナルカ如シ」と評している。氏の名前は幕末日本に輸入されたアームストロング砲の名前とともに当時の日本人にも馴染み深いものになっていた。
(ウイリアム・アームストロング・ストリート)
明治五年(1872)当時、アームストロング社の大砲製造所(William Armstrong Dr, Newcastle upon Tyne)は、タイン河の北側にあった。今は通りの名前に跡を見るのみである。岩倉使節団は、アームストロング氏自らの案内で同社の工場を見学している。
――― 製造場ハ、「タイル」河ノ上流ニヨリ、地域ノ幅七町、入リ二町モアリヌヘシ、漫坡(まんぱ)ヲ負ヒ、河流ニ臨ミ、両側ニ廨舎(ながや)ヲ列(つら)ネ、中ニ一条ノ路、及ヒ銕軌ヲシキ、廨舎スヘテ十余宇アリ、河岸ニ鶴頸秤(かくけいしょう)ヲ設ケ〈テレッククレイン〉、桟橋ヲ作リテ、河水ニ臨ミ、漕舟直ニ其下ニ著スヘシ、水力ヲ以テ輪ヲ転シ、「シリントル」ノ軸ヲ抽塞(ぬきさし)スル仕掛ヲ、橋下ニ施シテ、上ニ鶴頸秤二箇ヲ安ンス、皆河岸ニ荷物ヲ揚卸(あげおろ)シスル用ニテ、其一ハ一人ニテ十五噸ノ荷ヲアケ、其一ハ二十噸ヲアクル力アリ、アルムストロンク役夫ニ命シ、運動シテ示セリ、近来更ニ五十噸ヲアクル「クレイン」ヲ仕掛ントスト言ヘリ、「タイル」河ハ、此辺、アテ其流レ頗ル急ナリ、洲沙ヲ巻キ出シ、此桟橋ノ下ニ迫リテ流ル、
この後も延々とアームストロング社の工場の描写が続く。特に熱を帯びているのが大砲製造の場面である。
――― 「アルムストロンク」氏発明ノ大砲ハ、鍛鋼ノ長条ヲ、砲身ノ下部ニ螺旋巻キシテ、打立タルモノナリ、其砲身ハ舌非力(シェフィールド)ニテ鋳立ル、之ヲ此場ニ輸シテ、砲身ヲ巻ク、此技倆ヲ施スニ、仕掛ノ壮大ナル驚クヘシ、地ヲ掘リ、磚瓦(かわら)ヲ畳み、長サ十余丈ニ亙ル長罏ヲ塗リ、罏中ニ石炭瓦斯ヲ蓄ヘタル内ニ、鍛鋼条ノ幅四寸、厚サ一寸有半ニテ、長サハ十余丈ナルヲ、十分ニ烙煅(らくか)シ、白炎ニ至ラシメ、罏口ヲ開キ、其鋼条ノ端ヲ引出シ、砲身ヲ前ニ横ヘ、之ヲ輪転セシメ、鋼条ヲ螺旋ニ巻キ、十余匣ニテ尽キレハ、又他ノ鋼条ヲ引出シ、其一端ヲ接シテ巻ク、巻キ畢(おわ)ルノ後ニ、再ヒ砲身ヲ烙煅シ、鍛鎚ヲ加ヘテ成就ス、
「罏」は炉のことか。「烙煅」は金属を熱して焼くこと。

WILLIAM ARMSTRONG DRIVE
ここにアームストロング社の工場があったことを示すものは、道路の名称のみである。

道路に沿って建物があるが、企業のオフィスのようである。

目の前をタイン河が流れる。

少し上流に工場が見えたが、生コンクリート製造業者の工場のようである。
(エルスウィック墓地)
ウイリアム・アームストロング・ストリートから十五分ほど丘を登ったところにエルスウィック墓地(Elswick Cemetery (63 St John's Rd, Newcastle upon Tyne))がある。
ニューカッスルにはアームストロング社の造船所があった関係もあり、明治期に多数の海軍関係者が当地を訪れた。この地で命を落とした海軍関係者の墓がエルスウィック墓地にある。
関口英男氏の報告書(「明治初年英国北東部における留学生の活動」(日本英学史学会英学史研究(1995)))によれば、エルスウィック墓地には計五基の日本人の墓が確認できたとされている。しかし、それから三十年の歳月が流れ、私が確認できたのは三基までであった。
五人のうち四人は海軍関係者であるが、岩本勝之助は時期もほかの四人より早く、年齢も二十二歳と若いことから海軍が派遣した留学生と考えられる。

入口の墓地管理事務所

中央にあるチャペル:この直ぐ南側に深町多計三の墓がある。

深町多計三の墓:根元から折れている。

IN MEMORY IF JUSHICHII TAKEZO FUKAMOACHI
IMPERIAL JAPANESE NAVY WHO WAS BORN ON THE 18TH MAY 1856 4TH YEAR OF ANSEI AND DEPARTED THIS LIFE ON THE 19TH FEBRUARY 1886

岩本勝之助の墓
IN MEMORAY OF K.IWAMOTO NATIVE OF YAMAGUCHI-KEN
JAPAN DIED NEWCASTLE 21 JUNE 1877
AGED 20 YEARS
山口県士族岩本勝之助は、明治五年(1872)四月、海軍省よりイギリス留学を命じられている。当初はプロシアに派遣される予定であったが、急遽イギリスに留学先が変更になったようである。岩本はその時点で十五歳という年齢であった。明治十年(1877)、二十歳で病死。帝京大学ダーラム分校校長などを務められた関口英男氏の調査によれば、死因は結核(当時は労咳と呼ばれた)不治の病であった。
関口英男氏は、彼が死んだ1877年6月29日付ニューカッスル・クーラント紙(週刊)を引用し、「これを読むと、彼が英国人のあいだにかなり人気があり愛されていた人物であることが分る」としている。「日本人留学生の死」と題したその記事は、次のように岩本の死を報じている。以下、関口報告書より引用。
―― 日本国出身の岩本カツは、西洋の学術を学ばせるべく暫くのあいだ欧米に留学させようとする同国の賢明な統治者によって選抜された、地位のある名家の青年たちの一員だったが、このほどニューカッスルで亡くなった。彼は他の人びとと共に、サー・ウィリヤム・アームストロング、ホーソン家、ならびにタインがそれによって有名になった大工業の諸社に雇われて、ニューカッスルに渡来した。この地に彼は約4年住んだが、熱心に学業に励んだ。しかし彼の関心は技術的なものにのみとどまらず、あらゆる機会を把えてわが国の社会的・政治的生活知識の取得につとめ、知的な関心を以て臨んだ。彼は市内や近隣のさまざまな家庭を屡々訪ねたが、彼の知的で優雅で礼儀正しい態度はそれらの家庭でいつも歓迎されたもので、その早すぎる死は大層惜しまれている。
好意的な死亡記事というより、岩本の人柄をそのまましのばせる内容といっていい。

山﨑勝次郎の墓
KATSUJIRO YAMAZAKI
PAYMASTER IN THE JAPANESE NAVY
DIED 12TH NOVEMBER 1899
山﨑勝次郎の墓も仰向けに倒壊してそのままとなっている。深町(明治十九(1886)年没、二十九歳、海軍中主計)、岩本、山﨑(明治三十二年(1899)没、年齢不詳、海軍主計)のほかにエルスウィック墓地には大内末吉(明治二十六年(1893)没、年齢不詳、海軍主計)、伊東長太郎(明治三十九年(1906)没、三十九歳、海軍技手)が葬られたとされているが、いずれも発見できなかった。
同じ墓地には中国人水夫の墓があるが、こちらの保存状態は良好である。日本人の墓のうち二基が倒壊しているのとは対照的と言って良い。単に私が探しきれなかっただけかもしれないが、大内、伊東の墓も倒れたり、埋もれてしまった可能性もある。保存の手が入ることを切に希望する。


中国人水夫の墓