goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

ロンドン Ⅴ

2025年06月07日 | 海外

(ケンサル・グリーン墓地)

ケンサル・グリーン墓地(Kensal Green Cemetery(Harrow Rd, London))も広大な敷地を持つ墓地である。ここに柏木門三(明治十年(1877)、十八 歳、豊前国出身。)と鈴木敬作(明治二十年(1887)、三十五 歳、江戸出身。大蔵省。)という二人の日本人が眠るが、宛てもなく歩いて捜し当てるのは絶望的であった。事前にケンサル・グリーン墓地に問い合わせたが、残念ながら回答を得られなかった。

 

 

ケンサル・グリーン墓地

 

(クリスタル・パレス・パーク・水晶宮公園)

水晶宮(Crystal Palace)は1851年の第一回万国博覧会がロンドンで開かれたときに建造されたガラス製の建造物で、この万博を象徴する建物であった。当時は会場であるハイド・パークに建設されたが、万博終了後に解体され、1854年にロンドン南郊のシデナムの丘(現・水晶宮公園)に再建された。1936年に火事で全焼し、その後再建されることはなかった。

岩倉使節団がロンドンを訪れた際、明治五年(1872)八月十七日、賜暇帰国中の駐日公使パークスらの案内で水晶宮内の温室や水族館などを見学しているが、彼らが見たのは移設後の水晶宮である。

――― 午後三時ヨリ「パークス」氏、「アレクサンドル」氏ノ誘ヒニテ、蒸気車ニテ「サイヂンハム」ニ至リ、水晶宮ヲ回覧ス、〇水晶宮ハ原名ヲ「キリスタル・パレィス」ト云。総玻瑠(ガラス)ヲ以テ築キ成ス、是ハ一千八百五十一年ニ、倫敦ノ「バイトパーク」ニ於テ、万国博覧会ヲ設ケシトキニ、彼地ニ建築シテ、出品陳列スルノ場トナセルヲ、会畢(おわ)リテ後ニ、此ニ引移シ、美観ヲ存セルモノナリ、〇全院悉ク鉄ヲ骨トシテ、満面玻瑠ヲ以テ覆フ、風気ヲ遮リテ、日光ヲ遮ラス、其長サ一千六百〇八尺(即百六十八間ナリ)幅は凹凸一ナラス、上棟最モ高キ所ハ、百十尺、左右ノ端ニハ、各高サ二百四十尺(即十四間)ノ高塔ヲ建テ、前ニ広濶ナル、庭苑ヲ開キ、地形数層ニシテ上ル、岡丘ノ頂ニアリ、遥ニ近傍六郡ノ野ヲ見ル、院中ニハ珍ヲ列ネ奇ヲ飾リ、院外ニハ樹緑リニ草芳(かぐ)ハシク、明沙清池、終日盤桓スルモ、其一般ヲ概スルニ難シ、此ニ其略ヲ記セン、

 

アレクサンドル氏は、接伴係をつとめた将軍(ゼネラル)アレクサンダーのこと。「盤桓」とは歩き回ること。一尺は約三十センチ。

 

「米欧回覧実記」の水晶宮に関する描写は、まだまだ続く。余程筆者久米邦武に強い印象を残したのであろう。

 

スフィンクス

 

 クリスタル・パレスが造営されたときに設置されたものとされる。

 

全部で四躰ある。

 

公園内の鉄塔

 

クリスタル・パレス遺構

 

公園は少し高い丘にあり、遠くを望むことができる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トィイッケナム

2025年06月07日 | 海外

(トィイッケナム墓地)

ローレンス・オリファントの墓がトィイッケナム墓地(Twickenham Cemetery Section D, grave number 197. (Hospital Bridge Rd, Twickenham))にある。

 

ローレンス・オリファントの墓

 

LARENCE OLIPHANT

BORN AUG 3RD 1829

DIED DECR 23RD 1883

 

オリファント(Oliphant, Laurence)は、1829年英国ケープタウンの生まれ。インドおよび欧米各地を旅行。英国が日中両国と通商条約締結のために安政五年(1858)エルギン卿を使節として派遣したとき、秘書として来日、日英通商条約締結に当たった。一旦帰英後、万延元年(1860)十一月二十三日、在日公使館一等書記官に任命され、公使オールコックに従い来日。長崎から陸路江戸の高輪東禅寺の仮公使館に入った。その翌日、文久元年(1861)五月二十八日の夜、水戸浪士の襲撃を受けて重傷を負った。帰国して同年十二月二十六日、辞任。1888年、年五十九で没。こちらはほぼ迷うことなく行き着くことができた。【D区】

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルックウッド

2025年06月07日 | 海外

(ブルックウッド墓地)

 

Great Western Railway

 

ブルックウッド墓地入口

 

南側の墓地を奥に進むと教会が現れる。日本人留学生の墓は、この教会の近くである。

 

南無阿弥陀佛

 

日本人留学生の墓の手前に土饅頭型の塚がある。碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。この石碑は、浄土真宗正行寺住職竹原智明氏が願主となり、三輪精舎佐藤顕明氏が発起人となって、2007年に建立されたものである。

 

記念碑

 

山﨑小三郎 長州

有福次郎  徳山

福岡守人  土佐

袋 久平  佐賀

この四人の若者は日本の近代化を進めるためヨーロッパに来ましたが悲しくも勉学なかばにして斃れました。日英友好協会は彼らの勇気とその志を頌へるべくここに記念碑を建立します 一九九七年九月吉日

 

アレキサンダー・ウィリアムソン教授御夫妻を顕彰する会

顕彰碑建立 2013年7月2日

 

顕彰碑

 

ききいれば かたりくるこゑ しじまより

 

留学生の墓全景

 

留学生の墓は、SERBIAN ORITHODOX CEMETERYの中にある。

 

山﨑小三郎の墓

 

「長州ファイブ」は映画にもなって世間に広く知られるようになったが、井上聞多と伊藤俊輔が帰国した後、補充があったことはあまり知られていない。慶応元年(1865)、藩の海軍に所属していた山崎小三郎(戦艦「葵亥」の艦長)、南貞助、竹田傭次郎の三名がイギリスに追加派遣された。このうち山崎小三郎は栄養失調から肺炎を発症し、慶応二年(1866)、現地で死亡した。二十二歳。「長州ファイブ」は帰国して、各分野で活躍し歴史に名を残したが、彼らの華々しい活躍の裏には、遠く離れた異国の地で無念の死を迎えた山崎のような存在があったことも忘れてはならない。

慶応二年(1866)に没した山崎小三郎が、恐らく当地に葬られた最初の日本人と思われる。

 

有福次郎の墓

 

戊辰戦争で各地を転戦して戦功のあった有福次郎(徳山藩士)は、戦後イギリスへの留学生に選ばれ、ロンドンに渡ったものの、現地で病を得て没。二十二歳。【39区】

 

福岡守人の墓

 

福岡守人は土佐藩の出身。明治六年(1873)三月、没。二十一歳。【39区】

 

袋久平の墓

 

袋久平(ふくろ くへい)は佐賀県多久出身。佐賀藩校致遠館にて学んだ後、明治二年(1869)ベルリンに留学したが、肺病を患い帰国の途中、明治六年(1873)十一月、ロンドンで死亡した。二十四歳。【39区】

 

ALEXANDER WIILIAM WILLIANSON

F.R.S.

BORN MAY 1ST 1824

DIED MAY 6TH 1904

AND HIS WIFE

EMMA CATHERINE WILLIANSON

BORN JUNE 18TH 1831

DIED SEPTEMBER 27TH 1923

 

アレキサンダー・ウィリアムソン(Alexander William Williamson 1824~1904)は「長州ファイブ」らが留学したロンドン・ユニバーシティ・カレッジ(UCL)の化学教授であり。イギリス協会の会長も務める人であった。ウィリアムソン教授は、伊藤俊輔、野村弥吉(のちの井上勝)、遠藤謹助の三名を自宅に預かり、科学や数学を個人的に教授したのみならず、夫人とともに英語を教えた。

ウィリアムソン教授は、プロシアやフランスで化学を学び、1849年(二十五歳のとき)にUCLに迎えられ、1855年に同校の教授に就任した。「ウィリアムソン合成」の発見者としても知られる。英国王立学会会員になり、1863年には英国王立化学協会の会長に就任するなど、当時の英化学界における重鎮として知られた。その一方で東洋の島国からやってきた英語も不自由な若者たちを献身的にサポートした。ウィリアムソン教授の支援なしに長州ファイブのロンドンにおける留学は成り立たなかったであろう。【31区】

 

突然目の前を小鹿が横切った。小鹿にしてみれば、突然人が現れたのでびっくりしたのかもしれないが、びっくりしたのはこっちの方である。イギリスの墓地はどこも緑が多く、鹿だけでなくウサギ、リスなどが普通に棲息している。

 

松井菊治郎の墓

 

十八人から成る日本人曲芸師(帝国日本芸人一座)はパリ万博で好評を博し、そのままヨーロッパにとどまり各地を巡演している。このうちコマ回し師の松井菊治郎は、慶応四年(1868)、ロンドンで病を得て死亡している。三十三歳であった。宮永孝氏によって彼の墓がブルックウッド墓地にあることが確認された。表面に辛うじて松井菊治郎という文字が読み取れるが、ほかは摩耗が進んでおり解読できない。【107区】

 

杉浦譲、渋沢栄一共著「航西日記」(講談社学術文庫)には慶応三年(1867)七月二十九日、本邦の足芸人浜碇定吉の公演を見物したことが記載されている。さらに現地の新聞に日本の曲芸団のパフォーマンスが紹介された記事を転載している。

ここに松井菊治郎(「航西日記」では菊次郎)のコマ回し芸についても触れられている。以下、引用。

――― 独楽まわしの松井菊次郎が、思わず笑いをさそうような芸をしめした。この者はなかなか上手で、小さな独楽に縄をまきつけ、その身を転ずるはずみに独楽を空中になげうち、また手に戻し、腕より肩につたわし、脇腹から足に及び、またふたたびもとの道を戻るなど、みな自分の体をよじらして独楽を伝わらせることができる。また、その独楽を竿の先でまわし、刀の刃渡りをさせるなど、最後には独楽は激して止まらず、日本人がみな楽屋にはいったあとでも、独楽だけはひとりで舞台上でまわっていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビショップトン

2025年06月07日 | 海外

Scot Railでグラスゴーの中心部から五十分ほどでビショップトン駅に到着する。

 

(ビショップトン駅)

岩倉使節団は、明治五年(1872)九月七日から九月九日の間に三回、グラスゴー近郊のビショップトンBishopton駅を利用している。当時はハブ駅だったのかもしれないが、今はただの田舎の無人駅に過ぎない。周辺にも何もない。数枚写真を撮っただけで引き返した。

 

ビショップトン駅

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グラスゴー

2025年06月07日 | 海外

(ジョージ・スクエア)

岩倉使節団は、ロイヤル・エクスチェンジに続き、「チェンバル・オフ、コンメルス」に移動し、ここでも百人を超える人の歓迎を受けた。その日は午後三時になってようやく「コルポレーション・ガルリー」Corporation Galleryにて昼食。食後に「例ノ如シ」のスピーチがあった。

クィーン・ストリート駅を出たら目の前にジョージ・スクエア(George Square)と呼ばれる広場があり、現在、グラスゴー商工会議所はその広場に面した一角(Merchant House内)にある。グラスゴー商工会議所のホームページによれば、当地の商工会議所が設立されたのは1783年という、イギリスでも古い歴史を持つ組織である。1877年に現在地に移転したが、それまではバージニア・ストリート(Virginia St)にあったとされている。従って、岩倉使節団が訪問した商工会議所は、バージニア・ストリートにあったものと思われる。

 

現在、グラスゴー商工会議所の入る建物

 

 

グラスゴー市庁舎(Glasgow City Chamber)

ジョージ・スクエアの東側に建つ。

 

(ロイヤル・エクスチェンジ)

一行は、製鉄場や蒸気軸車製造場などを見学した後、「ロヤルエキステンヂ」Royal Exchangeで現地の商人たちの歓迎を受けている。Exchangeとは証券取引所のことである。現在、ロイヤル・エクスチェンジは、Royal Exchange Squareという地名に残っているのみである。跡地にはウェリントン侯爵公の像があるのが目印である。

 

現在のロイヤル・エクスチェンジ

現代美術館になっている

 

現代美術館前のアルバート公爵騎馬像

何故だか工事現場によくある赤いコーン(それも二つ)を帽子のように着用している。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エジンバラ

2025年06月07日 | 海外

我々はこの国のことをイギリスと呼んでいるが、厳密にいうとそのような国は存在していない。彼の国の正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandであり、そのまま訳すと「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」という長たらしい名称となる。この国は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという四つの国によって構成されている連合国なのである。特にスコットランドは独立志向の強い地域であり、十年ほど前にも独立を問う住民投票があって、僅差で独立が否決されたことがあった。スコットランドの首都はエジンバラである。

 

(聖ジャイルズ教会)

その日の午後、岩倉使節団は「チヨーナス教会」を訪ねているが、この「チヨーナス教会」がいったいどの教会を指しているのか分からない。ひょっとしたら聖ジャイルズ教会(St.Giles Cathedral)のことか。

「米欧回覧実記」によれば、高僧ドクトル・カントリー氏の法談を聴くため七百人もの人が集まっていたという。欧米の人は宗教心が篤い人が多いが、その中にあってスコットランド地方の人は格別と評している。

――― 此土ノ人ハ、遠賓異客ト雖トモ、礼拝ノ日ニハ、必ス勧メテ、共ニ寺ニ詣(いた)ラシム、

 

入場無料。期待せずに入ってみたが、これまで見てきた教会の中でも一二位を争うほど素晴らしい教会であった。

 

 

聖ジャイルズ教会

 

ウォルター・フランシス・モンタギュー・ダグラス・スコット(Walter Francis Montagu Douglas Scott)銅像

 

天井

 

ステンドグラス

 

精密な彫刻

 

聖ジャイルズ教会の見所の一つ、チャペル

 

オルガン

 

(セント・ジョンズ・エピスコパル教会)

明治五年(1872)九月十七日にエジンバラ(壱丁堡)に入った岩倉使節団は、その翌日、セント・ジョンズ・エピスコパル教会(Old Saint Paul's Scottish Episcopal Church(63 Jeffrey St, Edinburgh))に詣でている。この日、六百人もの男女が礼拝のためここに集まっていた。想像するに、礼拝だけでなく、妙な風俗を持った東洋人を見てみようという野次馬も相当数含まれていたであろう。

 

セント・ジョンズ・エピスコパル教会の正面側の道路が工事中で、北側の「裏口」のようなところから入らなくてはならない。ようやく入口を探し当ててドアを押し開けたら、中から青年と鉢合わせした。青年がいうには、今日はこれで鍵をかけて締めるという。翌日の開館時間を確認すると「八時」ということだったので、翌朝出直した。

 

朝八時ということもあって、ほかに誰も観光客はおらず、牧師が三人で聖書を輪読しているだけであった。小さな教会だが、心に残る場所であった。

セント・ジョンズ・エピスコパル教会は小さな教会で、本当にここに六百人もの人が集まったのか、やや疑問。

 

牧師さんが聖書を音読する声だけが響く厳粛な空間

 

ステンドグラス

 

THE SCOTTISH  EPISCOPAL CHURCH:この看板が目印

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンダーランド

2025年05月24日 | 海外

(ビショップウェアマウス墓地)

ニューカッスル市内からMetroで約四十分、サンダーランド(Sunderland)に至る。この日の目的地ビショップマウス墓地Bishopwearmouth Cemetery(Chester Road, Sunderland)の最寄駅Millfieldで下車し、そこから西へ一本道。約二十分で到着である。

早速Little Godieの墓を探す。三十分ほど墓地内を歩き回ってようやく出会うことができた。思ったより南側にあったので手間取ってしまった。近くまで来たら、墓の前には日本の国旗や人形などが供えられているので、直ぐにそれと分かる。

 

開国直後の海外渡航者といえば、公費で各藩から海外留学生が派遣された流れとともに、日本の曲芸師が海外公演のために海を渡っている。当時ヨーロッパを巡回して人気を博した曲芸団員の幼い子供の墓である。墓石には‘Little Godie’と刻まれている。明治六年(1873)没、生後十五ヶ月。【C-121】

 

チャペル

墓地を入って左手にチャペルを見ながら南に進む。最初の道を右に折れ、左を見ながら歩けばLittle Godieの墓を見つけられるだろう。

 

この墓地も樹木が多い。

 

墓石の歌

墓石には万葉仮名交じりの草書体で歌が刻まれている。日本人を親に持ちながら、一度も日本を見ることなく生を終えた子供への哀悼の歌である。

 

あはれなる こい志とをもふ

日本をゆめ尓しみぬ尓

お志て志ら作ゆ

 

現代仮名使いに置き換えると、

 

哀れなる 恋しと思う 日本を夢にし見ぬに 推して知らさゆ

 

HERE LIES

LITTLE GODIE

WHO DIED FEBRUARY 21ST 1873

AGED 15 MONTHS.

THE ONLY SON OF OMOTERSON AND GODIE

NATIVES OF JAPAN,

MEMBERS OF TANNNAKER’S JAPANESE

THIS IS THE FIRST JAPANESE MONUMENT ELECTED IN THIS COUNTRY

 

「当地に葬られた最初の日本人」となっているが、ブルックウッド墓地に葬られている山﨑小三郎の没年は慶應二年(1866)となっており、山﨑をイギリスに葬られた最初の日本人とすべきであろう。

墓碑に見えるタンナケルとはその名をTannaker Buhicrosanと綴るオランダ人興業師のことで、のちに八十名から成る日本人の軽業師たちを引連れるまでになるが、Little Godieが死んだ頃はほんの数人の日本人たちで旅興業を続けていた。

 

墓石の肩の部分に「COULSON」と刻まれている。

 

墓の全景

 

今でも母国を見ないまま亡くなった小さな子供へ同情を寄せる人が多いらしく、供え物が絶えない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タインマス

2025年05月24日 | 海外

(タインマス灯台およびタインマス城)

岩倉使節団は、タインマス灯台Tynemouth Lighthouse(Tynemouth, タインマス North Shields)も訪れている。「米国回覧実記」では「タインマウス」と表記されている。

 

――― 此処モ頗ル一庶村ニテ、岸上ニ男女群立シ、我輩ノ来ルヲ待テリ、燈台下ヨリ石岬ヲ築出シ、前岡ト相対シテ小湾トナス、此日難船救助ノ法ヲ試ミテ示セリ、抑(そもそも)此港ハ北海ニ控ヘ、洋海甚タ暴(あら)ク、難破ノ船多シ、甲比丹(キャピタン)某氏ハ此所ノ富豪ニテ、「バンク」ノ社中ニモ加ハリシ人ナリ、其救助ノ法ヲ思考シ、遂ニ此仕組ヲ始メタリ、之カ為メニ助命ヲ得タル船客モ甚タ多シ、此日燈台下ノ波戸ヲ、難船ニ比擬シテ、前ノ岡陵上ヨリ、一発ノ火矢ヲ射出セリ、此火矢玉ニ綱ヲ繋キテ波戸ニ達セシメ、是ヲ手繰リ、其端ニ巨緪(おおつな)ヲ繋キ送リ、此緪(つな)ニトリツキ、又種種ノ縄ヲ仕掛ケ、夫レニ兜状ノ銕体ニテ荷物ヲ載セ、船客ヲ乗スヘシ、是ニ綱ノ仕掛アリ、引テ前ヘ送リ、マタ繰(くり)テ後ヘ戻スヘシ、又一榻子(とうし)ヲ往来セシメル設ケモアリ、是ヲ難破船ニ繋キ、乗組ノ人ヲ載セ、尚時間アレハ荷物ヲ載セ移ス、

「榻子」とは腰掛または寝台のこと、

 

タインマス城

 

正式名称はタインマス・プライオリー・アンド・キャッスル(Tynemouth Priory and Castle)という。タインマスは国防戦略上の重要拠点で、軍港としても重要な役割を担っていた。第一次世界大戦の折、霧の中で砲台と間違えられたタインマス城はドイツ軍の砲撃のために破壊されてしまった。現在は、城門と城塞の一部が残っているだけである。

 

城の奥にはタインマス修道院跡がある。

 

開門時間が十時というのを確認せずに来てしまい、中に入ることはできなかった。例によって、私がここに着いたのは午前八時前のことだったので。

 

キング・エドワーズ・ベイ(King Edward's Bay)

まだ肌寒い時期であったが、水着で泳ぐ人の姿があった。夏場は海水浴客で賑わうらしい。

 

タインマス燈台

残念ながら燈台に通じる道は閉鎖されていて、近づくことはできない。

 

シールズ

 

タインマスより、タイン川河口のシールズの街を望む。岩倉使節団はヘップバーンで製鉛場を見学した後、タイン川を下ってシールズの街に入っている(「米欧回覧実記」では「シイルツス」と表記)。

――― 「タイル河」ヲ下ル、約四英里ニテ、「シイルツス」村ニ至ル、此ハ「タイル」河南岸ノ岬角(こうかく)ニテ、人家頗ル密ナリ、此辺ノ両岸ハ、スヘテ造船廠(ドック)多ク、舟船ヲ業トスル村ト覚エ、帆檣(はんしょう)林立シ蜘網ノ如シ、其盛ナルコト里味陂(リバプール)府ニ彷彿タリ、造船ヲナセル処甚タ多シ、ミナ尋常舟船ノ製造ニテ、大船ノ製造ニハアラス、

シールズでは、ソーダ製造工場を見学し、その後、タインマス灯台に移動した。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘップバーン

2025年05月24日 | 海外

 ニューカッスル周辺には地下鉄があって、ヘップバーン(Hebburn)やタインマス(Tynemouth)へはこれを利用するのが便利である。一日乗車券を買うのが経済的かつ便利。料金はゾーン制になっているので注意が必要である。

 

(ヘップバーン駅)

 明治五年(1872)九月二十一日、岩倉使節団は、ニューカッスルの商人集会所(エキステンヂ)を見学した後、タイン河の河岸から蒸気船でヘップバーン(Hebburn 「米欧回覧実記」では「ヘッポン」と表記)に移動し、そこで銅製錬の工場を見学している。

 その後、「ヘッポン・ステーション」のある岸に上陸。ここで浚渫船(「米欧回覧実記」では「濬泥船」)を目撃している。船上で昼食をとった後、ヘッポン・ステーション近くの製鉛工場を見学。その後、シールズ村(Shields = タイン河河口)へ移動し、ソーダ工場を見学した後、タインマスへ向かった。

 岩倉使節団が訪ねたヘッポン・ステーションは河岸にあった船着場のようであり、現在のヘップバーン駅とは別物のようである。

 

タイン河:現在のヘップバーン近くの河の様子。小さな船が係留されている

 

ヘップバーン駅:Metroもここまで来ると地上を走っている

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニューカッスル

2025年05月24日 | 海外

(ニューカッスル駅)

岩倉使節団がニューカッスル(漢字では新城)に入ったのは明治五年(1872)九月十九日のことである。その日の夜九時半にニューカッスル駅(Neville St, Newcastle upon Tyne)に到着し、市長らの出迎えを受けた。

 

――― 「ニュー・カッソル」府ハ、新城ノ義ナリ、英倫ノ東北(蘇部ノ界)ノ大州、「ノルジュムベーラント」州ノ首府ニテ、此州ハ幅員千九百五十二方英里、三十八万六千六百四十六口ヲ有シ、此地ニ英国第一ノ石炭礦ヲ有シ、民口冨庶ノ源トナス、又牧羊ニ富ム、新城ハ東方ノ海岸ニ近ク、北洋ヨリ船舶ノ出入ノ口タリ、「タイル」河ニテ「ドルハム」州ニ分界ス、(中略)英国ニ於テ第十四等ノ都会ナリ、北海ノ西岸ニ於テ、第一ノ要港タリ、石炭其他ノ貿易盛ンニ、製造場モ亦少カラス、然レトモ礦山ノ業ニヨリ、繁昌セシ都府ナレハ、職人礦夫ノ群聚地ニテ、一体ノ人気風俗ハ美ナラストナン、

「タイル」河となっているのは、タイン(Tyne)河のこと。蘇部とはスコットランド、「ノルジュムベーラント」はノーサンバーランド(Northumberland)、「ドルハム」はダラム(Durham)のことと推定。

 

ニューカッスル駅

 

同右

 

ニューカッスル駅

 

同右

 

(ロイヤル・ステーション・ホテル)

岩倉使節団のニューカッスルにおける宿舎は、「ステイションホテル」であった。今も駅に近接してステーション・ホテルRoyal Station Hotel https://www.royalstationhotel.com/が現存している。

 

岩倉使節団も宿泊したステーション・ホテル

 

内装:百五十年前とあまり変わっていないのではないだろうか。

 

全景:四階の部屋に案内されたが、四階が最上階である。

 

室内

 

この旅行で初めて湯舟にお湯をためて肩まで浸かることができた。日本人としてはこれが一番リラックスできる。岩倉使節団は一年半以上に及んで欧米を旅したが、お風呂につかることはできたのだろうか。毎日シャワーだけだときつかっただろう。

 

(アームストロング記念公園)

ホテルに荷物を置いたら、地下鉄に乗って最初の目的地アームストロング記念公園に向かう。ニューカッスルの地下鉄はゾーンによって一日乗車券の料金が異なる。この日はゾーン2までしか行く予定がなかったので、A+Bの乗車券を購入した(£5・6)。

ニューカッスル大学の北側にアームストロング記念公園(Lord Armstrong Memorial)があり、そこにアームストロング氏の立像がある。

 

アームストロング立像

 

アームストロング氏

 

台座には、アームストロング氏の業績を表わすレリーフが刻まれている。

 

明治五年(1872)九月二十日、岩倉使節団はアームストロング卿の来訪を受けている。「米欧回覧実記」によれば、アームストロング氏は、背丈が七尺余というから、二メートルを超える長身だったようである。「言寡(すくな)ク温温タル老翁ニテ、容貌愚カナルカ如シ」と評している。氏の名前は幕末日本に輸入されたアームストロング砲の名前とともに当時の日本人にも馴染み深いものになっていた。

 

(ウイリアム・アームストロング・ストリート)

明治五年(1872)当時、アームストロング社の大砲製造所(William Armstrong Dr, Newcastle upon Tyne)は、タイン河の北側にあった。今は通りの名前に跡を見るのみである。岩倉使節団は、アームストロング氏自らの案内で同社の工場を見学している。

 

――― 製造場ハ、「タイル」河ノ上流ニヨリ、地域ノ幅七町、入リ二町モアリヌヘシ、漫坡(まんぱ)ヲ負ヒ、河流ニ臨ミ、両側ニ廨舎(ながや)ヲ列(つら)ネ、中ニ一条ノ路、及ヒ銕軌ヲシキ、廨舎スヘテ十余宇アリ、河岸ニ鶴頸秤(かくけいしょう)ヲ設ケ〈テレッククレイン〉、桟橋ヲ作リテ、河水ニ臨ミ、漕舟直ニ其下ニ著スヘシ、水力ヲ以テ輪ヲ転シ、「シリントル」ノ軸ヲ抽塞(ぬきさし)スル仕掛ヲ、橋下ニ施シテ、上ニ鶴頸秤二箇ヲ安ンス、皆河岸ニ荷物ヲ揚卸(あげおろ)シスル用ニテ、其一ハ一人ニテ十五噸ノ荷ヲアケ、其一ハ二十噸ヲアクル力アリ、アルムストロンク役夫ニ命シ、運動シテ示セリ、近来更ニ五十噸ヲアクル「クレイン」ヲ仕掛ントスト言ヘリ、「タイル」河ハ、此辺、アテ其流レ頗ル急ナリ、洲沙ヲ巻キ出シ、此桟橋ノ下ニ迫リテ流ル、

 

この後も延々とアームストロング社の工場の描写が続く。特に熱を帯びているのが大砲製造の場面である。

――― 「アルムストロンク」氏発明ノ大砲ハ、鍛鋼ノ長条ヲ、砲身ノ下部ニ螺旋巻キシテ、打立タルモノナリ、其砲身ハ舌非力(シェフィールド)ニテ鋳立ル、之ヲ此場ニ輸シテ、砲身ヲ巻ク、此技倆ヲ施スニ、仕掛ノ壮大ナル驚クヘシ、地ヲ掘リ、磚瓦(かわら)ヲ畳み、長サ十余丈ニ亙ル長罏ヲ塗リ、罏中ニ石炭瓦斯ヲ蓄ヘタル内ニ、鍛鋼条ノ幅四寸、厚サ一寸有半ニテ、長サハ十余丈ナルヲ、十分ニ烙煅(らくか)シ、白炎ニ至ラシメ、罏口ヲ開キ、其鋼条ノ端ヲ引出シ、砲身ヲ前ニ横ヘ、之ヲ輪転セシメ、鋼条ヲ螺旋ニ巻キ、十余匣ニテ尽キレハ、又他ノ鋼条ヲ引出シ、其一端ヲ接シテ巻ク、巻キ畢(おわ)ルノ後ニ、再ヒ砲身ヲ烙煅シ、鍛鎚ヲ加ヘテ成就ス、

「罏」は炉のことか。「烙煅」は金属を熱して焼くこと。

 

WILLIAM ARMSTRONG DRIVE

ここにアームストロング社の工場があったことを示すものは、道路の名称のみである。

 

道路に沿って建物があるが、企業のオフィスのようである。

 

目の前をタイン河が流れる。

 

少し上流に工場が見えたが、生コンクリート製造業者の工場のようである。

 

(エルスウィック墓地)

ウイリアム・アームストロング・ストリートから十五分ほど丘を登ったところにエルスウィック墓地(Elswick Cemetery (63 St John's Rd, Newcastle upon Tyne))がある。

ニューカッスルにはアームストロング社の造船所があった関係もあり、明治期に多数の海軍関係者が当地を訪れた。この地で命を落とした海軍関係者の墓がエルスウィック墓地にある。

関口英男氏の報告書(「明治初年英国北東部における留学生の活動」(日本英学史学会英学史研究(1995)))によれば、エルスウィック墓地には計五基の日本人の墓が確認できたとされている。しかし、それから三十年の歳月が流れ、私が確認できたのは三基までであった。

五人のうち四人は海軍関係者であるが、岩本勝之助は時期もほかの四人より早く、年齢も二十二歳と若いことから海軍が派遣した留学生と考えられる。

 

入口の墓地管理事務所

 

中央にあるチャペル:この直ぐ南側に深町多計三の墓がある。

 

深町多計三の墓:根元から折れている。

 

IN MEMORY IF JUSHICHII TAKEZO FUKAMOACHI

IMPERIAL JAPANESE NAVY WHO WAS BORN ON THE 18TH MAY 1856 4TH YEAR OF ANSEI AND DEPARTED THIS LIFE ON THE 19TH FEBRUARY 1886

 

岩本勝之助の墓

IN MEMORAY OF K.IWAMOTO NATIVE OF YAMAGUCHI-KEN

JAPAN DIED NEWCASTLE 21 JUNE 1877

AGED 20 YEARS

 

山口県士族岩本勝之助は、明治五年(1872)四月、海軍省よりイギリス留学を命じられている。当初はプロシアに派遣される予定であったが、急遽イギリスに留学先が変更になったようである。岩本はその時点で十五歳という年齢であった。明治十年(1877)、二十歳で病死。帝京大学ダーラム分校校長などを務められた関口英男氏の調査によれば、死因は結核(当時は労咳と呼ばれた)不治の病であった。

関口英男氏は、彼が死んだ1877年6月29日付ニューカッスル・クーラント紙(週刊)を引用し、「これを読むと、彼が英国人のあいだにかなり人気があり愛されていた人物であることが分る」としている。「日本人留学生の死」と題したその記事は、次のように岩本の死を報じている。以下、関口報告書より引用。

―― 日本国出身の岩本カツは、西洋の学術を学ばせるべく暫くのあいだ欧米に留学させようとする同国の賢明な統治者によって選抜された、地位のある名家の青年たちの一員だったが、このほどニューカッスルで亡くなった。彼は他の人びとと共に、サー・ウィリヤム・アームストロング、ホーソン家、ならびにタインがそれによって有名になった大工業の諸社に雇われて、ニューカッスルに渡来した。この地に彼は約4年住んだが、熱心に学業に励んだ。しかし彼の関心は技術的なものにのみとどまらず、あらゆる機会を把えてわが国の社会的・政治的生活知識の取得につとめ、知的な関心を以て臨んだ。彼は市内や近隣のさまざまな家庭を屡々訪ねたが、彼の知的で優雅で礼儀正しい態度はそれらの家庭でいつも歓迎されたもので、その早すぎる死は大層惜しまれている。

好意的な死亡記事というより、岩本の人柄をそのまましのばせる内容といっていい。

 

山﨑勝次郎の墓

KATSUJIRO YAMAZAKI

PAYMASTER IN THE JAPANESE NAVY

DIED 12TH NOVEMBER 1899

 

山﨑勝次郎の墓も仰向けに倒壊してそのままとなっている。深町(明治十九(1886)年没、二十九歳、海軍中主計)、岩本、山﨑(明治三十二年(1899)没、年齢不詳、海軍主計)のほかにエルスウィック墓地には大内末吉(明治二十六年(1893)没、年齢不詳、海軍主計)、伊東長太郎(明治三十九年(1906)没、三十九歳、海軍技手)が葬られたとされているが、いずれも発見できなかった。

同じ墓地には中国人水夫の墓があるが、こちらの保存状態は良好である。日本人の墓のうち二基が倒壊しているのとは対照的と言って良い。単に私が探しきれなかっただけかもしれないが、大内、伊東の墓も倒れたり、埋もれてしまった可能性もある。保存の手が入ることを切に希望する。

 

 

中国人水夫の墓

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする