幕末の動乱は、嘉永六年(1853)のペリー来航から始まる。「ペリー」という名前を聞いたとき、人格をもった一人の外国人というより、歴史上の記号のような印象を受ける。しかし、ペリーは実在の人物であり、感情を持った紛れもない人間である。
開国の経緯を我々は様々な書籍で知ることができる。その大半は日本から見た歴史である。本書は、ペリーの視点で日本開国を描いたという点で、ユニークな小説である。
ペリーが日本遠征を思い立ったのは、一つには太平洋航路の開拓という壮大な目的があった。アラスカ、アリューシャン、カムチャッカを経由して、日本を上海への中継基地にすれば、ニューヨークと上海間は僅か二十五日に短縮できる。因みに当時のイギリスと上海間の航路は、片道九十七日。日本を抑えることで、アメリカはアジアへの近道を手に入れることができる。
また、よく知られていることに、当時のアメリカは灯火用または潤滑油用に鯨油の需要が急速に高まっていた。乱獲が祟って近海の鯨はいなくなってしまった。アメリカの捕鯨船は、アフリカに向い、さらにインド洋に抜け、終には南太平洋に繰り出した。その大洋はしばしば大荒れとなり、捕鯨船が日本に漂着することが頻繁であった。鎖国政策をとる日本による漂流民の扱いは劣悪であった。これを改善し、日本を捕鯨船の拠点とすることができれば、鯨油の供給はもっと安定するという思惑もあった。
ペリーの日本遠征には、ペリー自身の個人的動機もあった。当時、ペリーは六十歳を目前とし、退役を控えた軍人であった。彼はこのまま朽ちていきそうな自身を奮い立たせて、「もう一花」咲かせたいと考えた。その情熱の向け先が、神秘の国日本であった。
ペリーには、アメリカの歴史に名を残す、オリバー・ハザード・ペリーという偉大な長兄がいた。オリバー・ハザード・ペリーは、イギリスとの戦争で五大湖岸まで戦艦を分解して運び、それを組み立てて、さらに大砲を積んでエリー湖上にアメリカ艦隊を出現させた。長兄は激戦の末にイギリス艦隊を敗退させた英雄となった。しかも、戦後間もなく黄熱病で逝ってしまったため、醜く老いることもなく、不滅の存在となった(享年三十四)。ペリーの日本遠征には、アメリカの歴史に名を残す長兄への対抗心もあったのである。
ペリーの日本遠征にかける情熱はただならぬものがあった。やはり歴史に名を残す大事を為すには、人並はずれた情熱が不可欠である。日本遠征を阻害する政治家を説得し、太平天国の乱により中国への軍艦の派遣を要請する役人を罵倒する。黒船を率いて二段階に分けて交渉するのは、事前に検討された用意周到な作戦であった。
浦賀や横浜に上陸して日本と交渉する場面はお馴染みであるが、ペリーの心理描写は秀逸である。ペリーは遠征記を残しているが、逐一時々の心理状態を書き残したわけではないので、筆者の想像の所産であろう。イライラしたり、焦ったりという人間臭い反応は、小説でなければ描けなかったものである。
日本人は、ペリーがこれまで見て来たほかのアジアの国民と違って、狂おしいばかりの好奇心にあふれていた。交渉の場面でも、堂々とした態度で、交渉術も巧みであった。ペリーも砲艦外交を控え、信義を重んじて対等な存在としてその場に臨むしかなかった。林大学頭の誠実かつ論理的な姿勢は、同朋として大変誇らしく感じる。
日本ではペリーを知らぬ者はいないが、本国アメリカでの知名度はあまり高くない。やはりペリーといえば、兄のオリバー・ハザードの方が知名度は高いのだそうだ。百五十年前にジャパンという極東のちっぽけな国と和親条約を結んだというだけで、それほど高く評価されていないというのは、ペリー自身にとっても、我々日本人にとっても少々残念なことである。
開国の経緯を我々は様々な書籍で知ることができる。その大半は日本から見た歴史である。本書は、ペリーの視点で日本開国を描いたという点で、ユニークな小説である。
ペリーが日本遠征を思い立ったのは、一つには太平洋航路の開拓という壮大な目的があった。アラスカ、アリューシャン、カムチャッカを経由して、日本を上海への中継基地にすれば、ニューヨークと上海間は僅か二十五日に短縮できる。因みに当時のイギリスと上海間の航路は、片道九十七日。日本を抑えることで、アメリカはアジアへの近道を手に入れることができる。
また、よく知られていることに、当時のアメリカは灯火用または潤滑油用に鯨油の需要が急速に高まっていた。乱獲が祟って近海の鯨はいなくなってしまった。アメリカの捕鯨船は、アフリカに向い、さらにインド洋に抜け、終には南太平洋に繰り出した。その大洋はしばしば大荒れとなり、捕鯨船が日本に漂着することが頻繁であった。鎖国政策をとる日本による漂流民の扱いは劣悪であった。これを改善し、日本を捕鯨船の拠点とすることができれば、鯨油の供給はもっと安定するという思惑もあった。
ペリーの日本遠征には、ペリー自身の個人的動機もあった。当時、ペリーは六十歳を目前とし、退役を控えた軍人であった。彼はこのまま朽ちていきそうな自身を奮い立たせて、「もう一花」咲かせたいと考えた。その情熱の向け先が、神秘の国日本であった。
ペリーには、アメリカの歴史に名を残す、オリバー・ハザード・ペリーという偉大な長兄がいた。オリバー・ハザード・ペリーは、イギリスとの戦争で五大湖岸まで戦艦を分解して運び、それを組み立てて、さらに大砲を積んでエリー湖上にアメリカ艦隊を出現させた。長兄は激戦の末にイギリス艦隊を敗退させた英雄となった。しかも、戦後間もなく黄熱病で逝ってしまったため、醜く老いることもなく、不滅の存在となった(享年三十四)。ペリーの日本遠征には、アメリカの歴史に名を残す長兄への対抗心もあったのである。
ペリーの日本遠征にかける情熱はただならぬものがあった。やはり歴史に名を残す大事を為すには、人並はずれた情熱が不可欠である。日本遠征を阻害する政治家を説得し、太平天国の乱により中国への軍艦の派遣を要請する役人を罵倒する。黒船を率いて二段階に分けて交渉するのは、事前に検討された用意周到な作戦であった。
浦賀や横浜に上陸して日本と交渉する場面はお馴染みであるが、ペリーの心理描写は秀逸である。ペリーは遠征記を残しているが、逐一時々の心理状態を書き残したわけではないので、筆者の想像の所産であろう。イライラしたり、焦ったりという人間臭い反応は、小説でなければ描けなかったものである。
日本人は、ペリーがこれまで見て来たほかのアジアの国民と違って、狂おしいばかりの好奇心にあふれていた。交渉の場面でも、堂々とした態度で、交渉術も巧みであった。ペリーも砲艦外交を控え、信義を重んじて対等な存在としてその場に臨むしかなかった。林大学頭の誠実かつ論理的な姿勢は、同朋として大変誇らしく感じる。
日本ではペリーを知らぬ者はいないが、本国アメリカでの知名度はあまり高くない。やはりペリーといえば、兄のオリバー・ハザードの方が知名度は高いのだそうだ。百五十年前にジャパンという極東のちっぽけな国と和親条約を結んだというだけで、それほど高く評価されていないというのは、ペリー自身にとっても、我々日本人にとっても少々残念なことである。