歴史作家クラブに属する作家九人が、それぞれ新選組から異なる人物を取り上げた短編小説集。子母澤寛、司馬遼太郎以来、新選組は多くの作家が取り上げてきたため、読者の頭の中にイメージが固定化している。たとえば、豪放磊落な近藤勇、冷徹非情な土方歳三、無邪気な天才剣士沖田総司、知性派の山南敬助、無口で不気味な斎藤一といった具合に。困ったことに、河合耆三郎や松原忠司、武田観柳斎、山崎烝といった、いわば「わき役」にまで一々イメージがこびりついているものだから、作家としてはこの固定観念をひっくり返すのに一苦労である。巻末の対談で語られているように、読者のイメージと異なるキャラクターを登場させると「それは違う」と読者からお叱りを受けてしまうというから、子母澤寛、司馬遼太郎の影響力は今もって絶大である。言ってみれば、司馬遼太郎以後の作家は、出来上がった人物設定という制約を受けながら、小説を組み立てなくてはいけなくなってしまった。この文庫に収録された九つの作品も、基本的には従来の人物設定を意識しながら、作家が工夫を凝らして書き上げたものである。作家それぞれの「工夫」が本書の読みどころとなっている。
本書は、昨年(平成二十六年)に他界された評論家松本健一氏が病床で手を入れたという、上下二巻に及ぶ渾身の大作で、松本健一氏の佐久間象山に対する傾倒ぶりが伝わってくる。
佐久間象山は、同時代人から「倨傲」「大法螺吹き」と評されている。残されている資料からも象山の強烈な自負や自信が見て取れる。松本氏はこれらの批判についても何とか正当化を試みる。幕末において、藩とか幕府という枠組みを超えてものごとを考えられたのは、佐久間象山と横井小楠と勝海舟くらいのもので、その一事をもっても佐久間象山の偉大さは超越している。だからといって、傲慢であることはいくら弁護しても正当化され得るものではないだろう。
ペリーが来航すると、吉田松陰などは「日本刀の切れ味を見せてやる」と息巻いた。恐らく同じような原始的な攘夷気分を師の象山も共有していたことであろう。一方で、象山の目はペリー艦隊の動きを冷静に見ていた。ペリー艦隊が浦賀沖に停泊したときも、江戸湾に入り込んで水深を測量していたときも、つねに陸地から二十町(約二㎞)以上の距離を取っていた。当時の和砲の飛距離は到底二十町も届かない。象山は「夷船を打沈め候」ことなどとても不可能であると指摘する。対して西洋の大砲では二十五町は届く。これでは戦いにならない。
これほど西洋の科学や軍事に興味と理解を示した象山だが、西欧に文明をもたらした議会制度や民主制といった社会システムにはほとんど興味を示さなかった。これは維新後に活躍した福沢諭吉と幕末に生きた象山との違いといえばそういえるかもしれない。
象山は、吉田松陰が海外密航を企てたとき後押ししたといわれるが、その一年前、密航は国禁だからジョン万次郎にならって漂流民として渡航するように助言している。吉田松陰が老中を暗殺することも辞さないという、体制破壊をも否定しない革命的姿勢であったのに対し、象山は体制を否定するような言動はしていない。
ペリー来航時には、いち早く御殿山をペリー艦隊撃退の拠点とするよう松代藩に提言している。これで藩の顔も立つというのである。いかにも現実家の象山らしい発想である。
ハリスが通商条約の締結を求めてきたとき、象山はまだ謹慎の身であったが、京都の梁川星巌に対して手紙を送っている。まず、ハリスが「天地公共之道理」に基づいて日本に開国と通商を求めていることに対して、そうだとすればシナの人民が阿片のために被害を受けているというのに、それを禁じたシナ政府に対して自国の利益のために相手国の法を犯し、さらに軍艦に大砲を積んで凶悪な行為を働いた。これを「天地公共之道理」と呼べるのか。
アメリカはこう反論するだろう。それはイギリスのことであって我が国は違うと。それでは問おう。我が国に使節を派遣した際、軍艦兵器を用意していたのはいかなる目的か。その時使節は幕府に「白旗等を贈り候無礼の事」をはたらいたではないか。アメリカはあの時だけ「干戈を用いない」というやり方を失ったのか。
アメリカとの条約を結んだ後、イギリスも同様に結びたいといってきたら、どうしたら良いのか。イギリスが阿片は売らないと約束しても、密売されてしまったら、彼我の国力の差を考えたら対抗できないだろう。
象山は決して頑迷な鎖国主義者ではない。むしろ開国して国力を強化し、その上で攘夷を断行しようという考え方である。しかし、外国に半ば脅迫される形で開国・通商するのは決して我が国のために宜しくない。対等の立場で交渉し、対等の条約を結ぶ。それができるのは自分だけだと象山は主張する。強烈な自負が感じられる。
元治元年(1864)七月十一日、京で象山は暗殺される。この八日後に蛤御門の変が起こる京都は、長州藩兵が押し寄せ、不穏な空気に覆われていた。天皇を彦根に動座させる計画があり、その首謀者が象山だという噂があった。長州尊攘派の人間が確かめると、象山はそれを否定しなかった。象山には「自分は我が国のために三十年来尽くしてきた。その自分を襲う人間などいない」という過信があった。恐らく暗殺団には象山の深淵な思想など理解されていなかっただろう。単なる西洋かぶれの学者の一人としか見られていなかったのではないか。
この頃、象山は朝廷を開国に転換させるための工作に関わっていた。弁舌には自信のある象山のことだから、ある程度勝算はあっただろう。その目的を果たさないまま凶刃に倒れた象山の胸のうちはさぞかし無念だったと察する。
佐久間象山は、同時代人から「倨傲」「大法螺吹き」と評されている。残されている資料からも象山の強烈な自負や自信が見て取れる。松本氏はこれらの批判についても何とか正当化を試みる。幕末において、藩とか幕府という枠組みを超えてものごとを考えられたのは、佐久間象山と横井小楠と勝海舟くらいのもので、その一事をもっても佐久間象山の偉大さは超越している。だからといって、傲慢であることはいくら弁護しても正当化され得るものではないだろう。
ペリーが来航すると、吉田松陰などは「日本刀の切れ味を見せてやる」と息巻いた。恐らく同じような原始的な攘夷気分を師の象山も共有していたことであろう。一方で、象山の目はペリー艦隊の動きを冷静に見ていた。ペリー艦隊が浦賀沖に停泊したときも、江戸湾に入り込んで水深を測量していたときも、つねに陸地から二十町(約二㎞)以上の距離を取っていた。当時の和砲の飛距離は到底二十町も届かない。象山は「夷船を打沈め候」ことなどとても不可能であると指摘する。対して西洋の大砲では二十五町は届く。これでは戦いにならない。
これほど西洋の科学や軍事に興味と理解を示した象山だが、西欧に文明をもたらした議会制度や民主制といった社会システムにはほとんど興味を示さなかった。これは維新後に活躍した福沢諭吉と幕末に生きた象山との違いといえばそういえるかもしれない。
象山は、吉田松陰が海外密航を企てたとき後押ししたといわれるが、その一年前、密航は国禁だからジョン万次郎にならって漂流民として渡航するように助言している。吉田松陰が老中を暗殺することも辞さないという、体制破壊をも否定しない革命的姿勢であったのに対し、象山は体制を否定するような言動はしていない。
ペリー来航時には、いち早く御殿山をペリー艦隊撃退の拠点とするよう松代藩に提言している。これで藩の顔も立つというのである。いかにも現実家の象山らしい発想である。
ハリスが通商条約の締結を求めてきたとき、象山はまだ謹慎の身であったが、京都の梁川星巌に対して手紙を送っている。まず、ハリスが「天地公共之道理」に基づいて日本に開国と通商を求めていることに対して、そうだとすればシナの人民が阿片のために被害を受けているというのに、それを禁じたシナ政府に対して自国の利益のために相手国の法を犯し、さらに軍艦に大砲を積んで凶悪な行為を働いた。これを「天地公共之道理」と呼べるのか。
アメリカはこう反論するだろう。それはイギリスのことであって我が国は違うと。それでは問おう。我が国に使節を派遣した際、軍艦兵器を用意していたのはいかなる目的か。その時使節は幕府に「白旗等を贈り候無礼の事」をはたらいたではないか。アメリカはあの時だけ「干戈を用いない」というやり方を失ったのか。
アメリカとの条約を結んだ後、イギリスも同様に結びたいといってきたら、どうしたら良いのか。イギリスが阿片は売らないと約束しても、密売されてしまったら、彼我の国力の差を考えたら対抗できないだろう。
象山は決して頑迷な鎖国主義者ではない。むしろ開国して国力を強化し、その上で攘夷を断行しようという考え方である。しかし、外国に半ば脅迫される形で開国・通商するのは決して我が国のために宜しくない。対等の立場で交渉し、対等の条約を結ぶ。それができるのは自分だけだと象山は主張する。強烈な自負が感じられる。
元治元年(1864)七月十一日、京で象山は暗殺される。この八日後に蛤御門の変が起こる京都は、長州藩兵が押し寄せ、不穏な空気に覆われていた。天皇を彦根に動座させる計画があり、その首謀者が象山だという噂があった。長州尊攘派の人間が確かめると、象山はそれを否定しなかった。象山には「自分は我が国のために三十年来尽くしてきた。その自分を襲う人間などいない」という過信があった。恐らく暗殺団には象山の深淵な思想など理解されていなかっただろう。単なる西洋かぶれの学者の一人としか見られていなかったのではないか。
この頃、象山は朝廷を開国に転換させるための工作に関わっていた。弁舌には自信のある象山のことだから、ある程度勝算はあっただろう。その目的を果たさないまま凶刃に倒れた象山の胸のうちはさぞかし無念だったと察する。
(観音教寺)
三里塚の御料牧場記念館の展示で、芝山の観音教寺に吾妻号の碑があることを知ったので、芝山町まで足を伸ばすことにした。

観音教寺仁王門
山武市松尾で触れたように、維新後掛川藩が転封されたとき、最初に藩庁を置いたのが、芝山の観音教寺であった。当時は芝山藩と称していた。
観音教寺の周辺には芝山公園や本堂の横には芝山はにわ博物館などがあり、恐らくもっと暖かくなったら家族連れで賑わうのであろう。私が訪れたとき、梅も一分咲で駐車場にも車はまばらであった。
観音教寺の総欅造り、銅板葺きの豪壮な仁王門は一見の価値がある。現在の建物は明治十五年(1882)に建造されたものである。

瘞駿塚
名馬 吾妻之塚(右)
文久元年(1861)、フランスの主産業である養蚕業が、蚕の病気蔓延により大打撃を受けた。徳川幕府はこれを救済するために日本産の蚕を贈った。フランスはその返礼として皇帝ナポレオン三世の名で第十四代将軍徳川家茂にあてて七頭の馬を贈った。そのうちの一頭にアラブ種受胎の名牝がおり、幕府はこれを高砂と命名した。高砂は牝馬を生み、吾妻と名付けられた。その後、さらに牡二頭、牝九頭を産し、我が国アラブ種の名牝馬といわれた。明治二十九年(1896)、下総御料牧場で死亡した。推定年齢三十三歳。その業績を称える記念碑が大正十一年(1922)牧場内に建立されたが、成田空港建設に伴い当寺に移された。
三里塚の御料牧場記念館の展示で、芝山の観音教寺に吾妻号の碑があることを知ったので、芝山町まで足を伸ばすことにした。

観音教寺仁王門
山武市松尾で触れたように、維新後掛川藩が転封されたとき、最初に藩庁を置いたのが、芝山の観音教寺であった。当時は芝山藩と称していた。
観音教寺の周辺には芝山公園や本堂の横には芝山はにわ博物館などがあり、恐らくもっと暖かくなったら家族連れで賑わうのであろう。私が訪れたとき、梅も一分咲で駐車場にも車はまばらであった。
観音教寺の総欅造り、銅板葺きの豪壮な仁王門は一見の価値がある。現在の建物は明治十五年(1882)に建造されたものである。

瘞駿塚
名馬 吾妻之塚(右)
文久元年(1861)、フランスの主産業である養蚕業が、蚕の病気蔓延により大打撃を受けた。徳川幕府はこれを救済するために日本産の蚕を贈った。フランスはその返礼として皇帝ナポレオン三世の名で第十四代将軍徳川家茂にあてて七頭の馬を贈った。そのうちの一頭にアラブ種受胎の名牝がおり、幕府はこれを高砂と命名した。高砂は牝馬を生み、吾妻と名付けられた。その後、さらに牡二頭、牝九頭を産し、我が国アラブ種の名牝馬といわれた。明治二十九年(1896)、下総御料牧場で死亡した。推定年齢三十三歳。その業績を称える記念碑が大正十一年(1922)牧場内に建立されたが、成田空港建設に伴い当寺に移された。
(三里塚記念公園)
三里塚交差点の近くに三里塚記念公園があり、公園内には三里塚御料牧場記念館や貴賓館などがある。

三里塚御料牧場記念館
三里塚御料牧場記念館は、御料牧場のありし日の姿をしのび、御料牧場の名を長くこの地にとどめることを目的として、昭和五十六年(1981)に開設されたものである。外観は当時の御料牧場の事務所の概観を復元したもの。入館無料であるが御料牧場の歴史や皇室の使用した馬車など貴重な資料が展示されている。
明治天皇御野立所
記念館の前に明治天皇御野立所の小さな石碑がある。明治天皇は明治十四年(1881)および十五年(1882)の二回、三里塚まで行幸している。
屋外に石碑が複数立っているが、特に注目したいのは、「獣医学実地教育開始記念碑」である。この碑は、下総御料牧場の前身である取香種畜場において、日本で初めて獣医学実地教育が行われたことを記念して建てられたものである。
江戸時代、この辺りは幕府の放牧地であった。明治になると羊毛の需要が急増し、国産の羊毛や牛馬の生産が急務となっていた。明治八年(1875)内務大臣大久保利通は富里市十倉の「高野牧」や三里塚の「取香牧」など広大な牧草地を視察し、この地に牧羊場と種畜場を設置することを決定した。同年九月には下総牧羊場と取香種畜場が開設された。
下総牧羊場では、綿羊の飼育を全国に普及させるために、全国から牧羊生を募集し、高度な技術を身に付けさせるための教育が実施された。貴重な輸入家畜を伝染病から守るため、陸軍に獣医の派遣を要請し、病畜の治療に当たらせていたが、やがて常勤の獣医を雇うことになった。明治十年(1877)には、牧羊生の中から適任者八人を選抜し、獣医の下で助手として教育を施した。翌明治十一年(1878)には取香種畜場に獣医科を発足させることになった。
獣医学実地教育開始記念碑

貴賓館
貴賓館は、下総牧羊場の最高責任者として雇われたアメリカ人アップ・ジョーンズの官舎として十倉村両国高堀(現・富里市)に建てられたものである。明治十二年(1879)、彼の退職後は下総牧羊場の事務所として使用されていたが、下総牧羊場と取種畜場が合併されて宮内省下総御料牧場と改められた明治二十一年(1888)に三里塚に移築された。大正八年(1919)に新しい事務所が完成したのを機に、貴賓館として改装して、各国の公使を招く園遊会場や皇族を迎えるための宿舎として利用された。
三里塚交差点の近くに三里塚記念公園があり、公園内には三里塚御料牧場記念館や貴賓館などがある。

三里塚御料牧場記念館
三里塚御料牧場記念館は、御料牧場のありし日の姿をしのび、御料牧場の名を長くこの地にとどめることを目的として、昭和五十六年(1981)に開設されたものである。外観は当時の御料牧場の事務所の概観を復元したもの。入館無料であるが御料牧場の歴史や皇室の使用した馬車など貴重な資料が展示されている。

明治天皇御野立所
記念館の前に明治天皇御野立所の小さな石碑がある。明治天皇は明治十四年(1881)および十五年(1882)の二回、三里塚まで行幸している。
屋外に石碑が複数立っているが、特に注目したいのは、「獣医学実地教育開始記念碑」である。この碑は、下総御料牧場の前身である取香種畜場において、日本で初めて獣医学実地教育が行われたことを記念して建てられたものである。
江戸時代、この辺りは幕府の放牧地であった。明治になると羊毛の需要が急増し、国産の羊毛や牛馬の生産が急務となっていた。明治八年(1875)内務大臣大久保利通は富里市十倉の「高野牧」や三里塚の「取香牧」など広大な牧草地を視察し、この地に牧羊場と種畜場を設置することを決定した。同年九月には下総牧羊場と取香種畜場が開設された。
下総牧羊場では、綿羊の飼育を全国に普及させるために、全国から牧羊生を募集し、高度な技術を身に付けさせるための教育が実施された。貴重な輸入家畜を伝染病から守るため、陸軍に獣医の派遣を要請し、病畜の治療に当たらせていたが、やがて常勤の獣医を雇うことになった。明治十年(1877)には、牧羊生の中から適任者八人を選抜し、獣医の下で助手として教育を施した。翌明治十一年(1878)には取香種畜場に獣医科を発足させることになった。

獣医学実地教育開始記念碑

貴賓館
貴賓館は、下総牧羊場の最高責任者として雇われたアメリカ人アップ・ジョーンズの官舎として十倉村両国高堀(現・富里市)に建てられたものである。明治十二年(1879)、彼の退職後は下総牧羊場の事務所として使用されていたが、下総牧羊場と取種畜場が合併されて宮内省下総御料牧場と改められた明治二十一年(1888)に三里塚に移築された。大正八年(1919)に新しい事務所が完成したのを機に、貴賓館として改装して、各国の公使を招く園遊会場や皇族を迎えるための宿舎として利用された。
(内浜公園)
香取市の小見川の内浜公園は、佐藤尚中の生誕地を公園として整備したものである。佐藤尚中は、前名を山口舜海といった。山口家は小見川藩主内田候の侍医を務める家で、父は山口甫僊といった。文政十年(1827)、この地に生まれた。
史蹟 佐藤尚中誕生地
佐藤尚中は幼少期から儒学者寺門静軒、医学者安藤文澤に師事し、天保十三年(1842)十六歳のとき、シーボルトの弟子であった蘭方医佐藤泰然の門に入り、翌年には師とともに佐倉藩主堀田正睦の招きにより佐倉に移り、その偉材を認められて泰然の養子となった。
万延元年(1860)、長崎留学してポンペに就いて蘭学を学び、外科手術には特に優れた技量を示した。文久二年(1862)佐倉に戻り、佐倉順天堂の経営に佐藤泰然とともに当たった。明治二年(1869)には西洋医学所が改まった大学東校(のちの東京大学医学部)の主宰として迎えられ、大学大丞大博士大典医となった。因みに大学大丞とは、今でいう大学総長、大典医とは明治天皇の侍医頭。さらに当時日本で唯一の大博士であった。
明治六年(1873)には全ての官職を辞し、民間人の病院である東京順天堂(現・順天堂大学)を建て、医学界に多大な功績を残した。明治十五年(1882)七月、他界。墓は谷中の天王寺墓地にある。

大學大丞大博士 大典醫贈従五位
佐藤尚中先生誕生地
なお、内浜公園にあった旧宅は尚中の実弟山口星海(のちに甫仙)に継がれ、その子の翁助が東京に転出する明治二十三年(1890)まで続いた。
香取市の小見川の内浜公園は、佐藤尚中の生誕地を公園として整備したものである。佐藤尚中は、前名を山口舜海といった。山口家は小見川藩主内田候の侍医を務める家で、父は山口甫僊といった。文政十年(1827)、この地に生まれた。

史蹟 佐藤尚中誕生地
佐藤尚中は幼少期から儒学者寺門静軒、医学者安藤文澤に師事し、天保十三年(1842)十六歳のとき、シーボルトの弟子であった蘭方医佐藤泰然の門に入り、翌年には師とともに佐倉藩主堀田正睦の招きにより佐倉に移り、その偉材を認められて泰然の養子となった。
万延元年(1860)、長崎留学してポンペに就いて蘭学を学び、外科手術には特に優れた技量を示した。文久二年(1862)佐倉に戻り、佐倉順天堂の経営に佐藤泰然とともに当たった。明治二年(1869)には西洋医学所が改まった大学東校(のちの東京大学医学部)の主宰として迎えられ、大学大丞大博士大典医となった。因みに大学大丞とは、今でいう大学総長、大典医とは明治天皇の侍医頭。さらに当時日本で唯一の大博士であった。
明治六年(1873)には全ての官職を辞し、民間人の病院である東京順天堂(現・順天堂大学)を建て、医学界に多大な功績を残した。明治十五年(1882)七月、他界。墓は谷中の天王寺墓地にある。

大學大丞大博士 大典醫贈従五位
佐藤尚中先生誕生地
なお、内浜公園にあった旧宅は尚中の実弟山口星海(のちに甫仙)に継がれ、その子の翁助が東京に転出する明治二十三年(1890)まで続いた。
(諏訪神社)
東庄町は、「天保水滸伝」の舞台として知られる。諏訪神社には、天保水滸伝遺品館が併設され、「天保水滸伝」に登場する笹川繁蔵や平手造酒の遺品などが展示されている。遺品館の前には周辺の遺跡案内図があり、ここで情報を仕入れてから、市内探索に出ると良い。

諏訪神社
天保水滸伝遺品館
(延命寺)

延命寺
諏訪神社近くにある延命寺には、笹川繁蔵や勢力富五郎の顕彰碑や平手造酒の墓などが一カ所に集められている。
左から勢力富五郎の碑、天保水滸伝発祥之地碑、中央に笹川半蔵之碑。その手前にサイコロの形をした「笹川繁蔵乃勝負石」。そしてその右に平手造酒之墓がある。笹川繁蔵の碑には、昭和に入って銚子で発見された繁蔵の遺骨が葬られている。

勢力富五郎之碑 天保水滸伝発祥之地
笹川繁蔵之碑 平手造酒之墓
以下、東庄町のHPより抜粋
――― 笹川繁蔵は、文化7年(1810)下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け、笹川一家を張ることになる。
一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。
この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒でありながら十手持ちでもあった。
飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れることになった。
初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。
弘化4年7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。
笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。
(八幡神社)

八幡神社
平手造酒ゆかりの松
剣豪平手造酒は、八幡神社の傍らに住んでいたという。剣の腕を買われて、笹川繁蔵の用心棒として活躍した。お酒を飲んでは、八幡神社の鳥居側にある松の木に寄りかかっていたと伝わる。現在の松は、二代目のものである。
(笹川繁蔵最期の地)

笹川繁蔵最後之跡
千葉銀行笹川支店を過ぎて最初の角を左に曲がり、道なりに数分進むと右手に「笹川繁蔵最後之跡」碑がある。
笹川繁蔵は、飯岡助五郎一味の成田甚蔵、三浦屋孫治郎らの闇討ちに遭い、ビヤク橋のたもとで最後を迎えたという。ただし付近を見回しても、橋らしきものは見当たらない。
(西福院)
西福院

義大英空信士
(笹川繁蔵の遺髪墓)
笹川繁蔵は、本名を岩瀬繁蔵という。西福院は岩瀬家の菩提寺で、裏の墓地には岩瀬家一族代々の墓に並んで繁蔵も葬られている。
墓石に一番右に「義大英空信士」と記されているのが繁蔵の法名である。側面には「弘化四年 七月四日 三男岩瀬繁蔵行年三十八歳」とある。この墓には繁蔵の元服の際、剃り落した前髪を埋めたと言い伝えられる。
東庄町は、「天保水滸伝」の舞台として知られる。諏訪神社には、天保水滸伝遺品館が併設され、「天保水滸伝」に登場する笹川繁蔵や平手造酒の遺品などが展示されている。遺品館の前には周辺の遺跡案内図があり、ここで情報を仕入れてから、市内探索に出ると良い。

諏訪神社

天保水滸伝遺品館
(延命寺)

延命寺
諏訪神社近くにある延命寺には、笹川繁蔵や勢力富五郎の顕彰碑や平手造酒の墓などが一カ所に集められている。
左から勢力富五郎の碑、天保水滸伝発祥之地碑、中央に笹川半蔵之碑。その手前にサイコロの形をした「笹川繁蔵乃勝負石」。そしてその右に平手造酒之墓がある。笹川繁蔵の碑には、昭和に入って銚子で発見された繁蔵の遺骨が葬られている。

勢力富五郎之碑 天保水滸伝発祥之地
笹川繁蔵之碑 平手造酒之墓
以下、東庄町のHPより抜粋
――― 笹川繁蔵は、文化7年(1810)下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け、笹川一家を張ることになる。
一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。
この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒でありながら十手持ちでもあった。
飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れることになった。
初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。
弘化4年7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。
笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。
(八幡神社)

八幡神社

平手造酒ゆかりの松
剣豪平手造酒は、八幡神社の傍らに住んでいたという。剣の腕を買われて、笹川繁蔵の用心棒として活躍した。お酒を飲んでは、八幡神社の鳥居側にある松の木に寄りかかっていたと伝わる。現在の松は、二代目のものである。
(笹川繁蔵最期の地)

笹川繁蔵最後之跡
千葉銀行笹川支店を過ぎて最初の角を左に曲がり、道なりに数分進むと右手に「笹川繁蔵最後之跡」碑がある。
笹川繁蔵は、飯岡助五郎一味の成田甚蔵、三浦屋孫治郎らの闇討ちに遭い、ビヤク橋のたもとで最後を迎えたという。ただし付近を見回しても、橋らしきものは見当たらない。
(西福院)

西福院

義大英空信士
(笹川繁蔵の遺髪墓)
笹川繁蔵は、本名を岩瀬繁蔵という。西福院は岩瀬家の菩提寺で、裏の墓地には岩瀬家一族代々の墓に並んで繁蔵も葬られている。
墓石に一番右に「義大英空信士」と記されているのが繁蔵の法名である。側面には「弘化四年 七月四日 三男岩瀬繁蔵行年三十八歳」とある。この墓には繁蔵の元服の際、剃り落した前髪を埋めたと言い伝えられる。
(玉崎神社)
旭市の飯岡地区は、『天保水滸伝』で知られる飯岡助五郎の出身地である。助五郎ゆかりの史跡が点在している。

玉崎神社
玉崎神社の祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。社伝によれば景行天皇紀の四十年、西暦111年、日本武尊が東征の際、玉の浦の東端、玉が崎に創祀されたという。中世には龍王崎の地にあったが、天文年間に兵火に遭い、積年の海触を避けるために現在地に移された。とにかく古い歴史を持つ神社である。
上総一宮(玉前神社)とともに九十九里浜を鎮護する神社として広く崇められ、国学者の平田篤胤や大國隆正らも参拝している。境内には飯岡助五郎の碑や力石のほか、本殿の裏には平田篤胤の歌碑がある。
飯岡助五郎之碑
講談や浪曲で語られる飯岡助五郎は、笹川繁蔵と血みどろの抗争を繰り広げた侠客であるが、地元では堤防工事など地元振興や漁業の発展に尽くした名士でもあった。
玉崎神社の飯岡助五郎の碑の前の力石は、助五郎が力比べや雇用の際に使用したものと伝えられる。

平田篤胤歌碑
磐楠(いわくす)に 常盤の松の
より副(そ)ひて
千世(ちよ)を契りし ことの畏さ
この歌は、夫婦木(めおとぎ)と称され、楠の大樹に松の木がくっついた御神木を、文化十三年(1816)五月、平田篤胤が当神社を参詣したときに詠んだものである。この御神木は安政三年(1856)八月の大風で倒れてしまった。
歌碑は御神木の跡に、子息銕胤が書き、門人が建立したものである。
遊侠奇談 座頭市物語 子母沢寛執筆の宿
玉崎神社の門前には、「子母沢寛執筆の宿」の碑がある。勝新太郎演じる座頭市の映画は、子母沢寛の『座頭市物語』が原作とされる。
(定慶寺)
定慶寺には、飯岡助五郎が討ち果たした笹川繁蔵の首塚がある。

定慶寺
笹川繁蔵之首塚
(光台寺)

光台寺
飯岡(石渡)助五郎の墓
光台寺には飯岡助五郎の墓がある。
飯岡助五郎は、相模国三浦に生まれ、若い頃、飯岡へ来て漁師をしていた。義理人情に厚く、度胸が良いので人々にたてられ、やがて関東屈指の大親分と言われるようになった。笹川繁蔵との大利根河原における決戦は「天保水滸伝」として世に知られる。天保年間、この浦で海南事故が相次ぎ漁夫が全滅しかけたとき、自費で生地の三浦から漁夫を集め復興の礎を築き、飯岡町再生の恩人として町民から感謝された。安政六年(1858)四月、当町自宅で死去した。六十七歳。
墓石には本姓である「石渡助五郎」と刻まれている。
旭市の飯岡地区は、『天保水滸伝』で知られる飯岡助五郎の出身地である。助五郎ゆかりの史跡が点在している。

玉崎神社
玉崎神社の祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。社伝によれば景行天皇紀の四十年、西暦111年、日本武尊が東征の際、玉の浦の東端、玉が崎に創祀されたという。中世には龍王崎の地にあったが、天文年間に兵火に遭い、積年の海触を避けるために現在地に移された。とにかく古い歴史を持つ神社である。
上総一宮(玉前神社)とともに九十九里浜を鎮護する神社として広く崇められ、国学者の平田篤胤や大國隆正らも参拝している。境内には飯岡助五郎の碑や力石のほか、本殿の裏には平田篤胤の歌碑がある。

飯岡助五郎之碑
講談や浪曲で語られる飯岡助五郎は、笹川繁蔵と血みどろの抗争を繰り広げた侠客であるが、地元では堤防工事など地元振興や漁業の発展に尽くした名士でもあった。
玉崎神社の飯岡助五郎の碑の前の力石は、助五郎が力比べや雇用の際に使用したものと伝えられる。

平田篤胤歌碑
磐楠(いわくす)に 常盤の松の
より副(そ)ひて
千世(ちよ)を契りし ことの畏さ
この歌は、夫婦木(めおとぎ)と称され、楠の大樹に松の木がくっついた御神木を、文化十三年(1816)五月、平田篤胤が当神社を参詣したときに詠んだものである。この御神木は安政三年(1856)八月の大風で倒れてしまった。
歌碑は御神木の跡に、子息銕胤が書き、門人が建立したものである。

遊侠奇談 座頭市物語 子母沢寛執筆の宿
玉崎神社の門前には、「子母沢寛執筆の宿」の碑がある。勝新太郎演じる座頭市の映画は、子母沢寛の『座頭市物語』が原作とされる。
(定慶寺)
定慶寺には、飯岡助五郎が討ち果たした笹川繁蔵の首塚がある。

定慶寺

笹川繁蔵之首塚
(光台寺)

光台寺

飯岡(石渡)助五郎の墓
光台寺には飯岡助五郎の墓がある。
飯岡助五郎は、相模国三浦に生まれ、若い頃、飯岡へ来て漁師をしていた。義理人情に厚く、度胸が良いので人々にたてられ、やがて関東屈指の大親分と言われるようになった。笹川繁蔵との大利根河原における決戦は「天保水滸伝」として世に知られる。天保年間、この浦で海南事故が相次ぎ漁夫が全滅しかけたとき、自費で生地の三浦から漁夫を集め復興の礎を築き、飯岡町再生の恩人として町民から感謝された。安政六年(1858)四月、当町自宅で死去した。六十七歳。
墓石には本姓である「石渡助五郎」と刻まれている。
(松尾中学校)
寒い朝のことであった。駅に向かう道路も所々凍結していたので、嫁さんに「子供たちも注意するように」とメールをした。
会社で仕事をしていると、携帯電話に嫁さんから連絡があった。自動車がスリップしてガードレールに激突。幸いにして嫁さんに怪我はなかったが、マイカーは前部がぐしゃぐしゃになってしまったというのである。
翌日には息子のセンター試験というタイミングであった。最も滑ってはいけないときにスリップ事故を起こした嫁さんは、「身代わりで滑った」と弁解しているが…。
「修理は可能だが、かなり高額」とのことで、悩んだ末、修理は諦め新車を買い替えることにした。思わぬ出費であった。
新しい車が届いた翌週の土曜日、早朝五時に家を抜け出し、千葉県の山武、旭、東庄、香取、成田、芝山を日帰りで回ってきた。
カーナビやETCは使い回しなので、機能的には代わり映えしない。しかし、この六年間で燃費は飛躍的に改善していることを実感することができた。
この日の最初の訪問地は山武市松尾である。松尾は、明治元年(1868)、徳川家が駿府に移封されたことを受け、掛川藩主太田家が転封されて成立した藩である。
幕末の藩主は太田資美(すけよし)。大老井伊直弼の時に間部詮勝とともに老中に抜擢された五代藩主資始の子である(六代藩主資功(すけかつ)の子という説もある)。

松尾中学校
太田資美は当初芝山に藩庁を置いて芝山藩と称したが、明治四年(1871)正月に藩庁を松尾に移し、松尾藩と改称した。なお、松尾という地名は、掛川城の別称「松尾城」に因むものである。
資美は、藩学教授で算学者の磯辺泰(たい)に城郭の設計を命じた。磯辺は西欧風の稜堡式の四稜郭を計画した。稜堡式というのは、箱館の五稜郭をイメージすれば分かりやすいが、複数の稜堡(三角形の突起)を持ち、それぞれがお互いをカバーするように設計されている。強力な火砲に対抗するために西洋で生み出された築城法である。
要するにこの時代の最先端の築城法を取り入れたのであろう。しかし、実際に築城地として選ばれた台地は歪な形をしており、当初予定されていたような左右対称の綺麗な四稜郭にはならなかった。
藩主や磯辺泰の意気込みとは裏腹に、明治四年(1871)七月、廃藩置県により松尾城は築城から半年でその役割を終えてしまう。時代の流れは、彼らの想像を越えていたのである。
松尾城は「最後の城郭」と呼ばれているが、実は城郭も完成を見ないままであった。現在ほとんど遺構らしきものは残っていないが、松尾中学校を入って直ぐの植え込みの中に「太田城趾」と記された小さな石碑を見ることができる。

太田城趾
(松尾自動車学校)
松尾藩公庁跡
古図面と照らし合わせると、松尾中学校がある辺りには藩主(知藩事)の御住居が置かれていたらしい。
少し離れた松尾自動車学校辺りに、藩の公庁があった。教習コースの中に「松尾藩公庁跡」の石碑が建てられている。教習が始まってしまうと近寄って写真を撮ることはできないので、ここを訪問するのであれば、できるだけ早い時間の方が良いだろう。
(大堤)
国道126号線大堤交差点の北の民家の前に、松尾城の長屋門が移設されている。松尾城の数少ない遺構である。

松尾城長屋門
寒い朝のことであった。駅に向かう道路も所々凍結していたので、嫁さんに「子供たちも注意するように」とメールをした。
会社で仕事をしていると、携帯電話に嫁さんから連絡があった。自動車がスリップしてガードレールに激突。幸いにして嫁さんに怪我はなかったが、マイカーは前部がぐしゃぐしゃになってしまったというのである。
翌日には息子のセンター試験というタイミングであった。最も滑ってはいけないときにスリップ事故を起こした嫁さんは、「身代わりで滑った」と弁解しているが…。
「修理は可能だが、かなり高額」とのことで、悩んだ末、修理は諦め新車を買い替えることにした。思わぬ出費であった。
新しい車が届いた翌週の土曜日、早朝五時に家を抜け出し、千葉県の山武、旭、東庄、香取、成田、芝山を日帰りで回ってきた。
カーナビやETCは使い回しなので、機能的には代わり映えしない。しかし、この六年間で燃費は飛躍的に改善していることを実感することができた。
この日の最初の訪問地は山武市松尾である。松尾は、明治元年(1868)、徳川家が駿府に移封されたことを受け、掛川藩主太田家が転封されて成立した藩である。
幕末の藩主は太田資美(すけよし)。大老井伊直弼の時に間部詮勝とともに老中に抜擢された五代藩主資始の子である(六代藩主資功(すけかつ)の子という説もある)。

松尾中学校
太田資美は当初芝山に藩庁を置いて芝山藩と称したが、明治四年(1871)正月に藩庁を松尾に移し、松尾藩と改称した。なお、松尾という地名は、掛川城の別称「松尾城」に因むものである。
資美は、藩学教授で算学者の磯辺泰(たい)に城郭の設計を命じた。磯辺は西欧風の稜堡式の四稜郭を計画した。稜堡式というのは、箱館の五稜郭をイメージすれば分かりやすいが、複数の稜堡(三角形の突起)を持ち、それぞれがお互いをカバーするように設計されている。強力な火砲に対抗するために西洋で生み出された築城法である。
要するにこの時代の最先端の築城法を取り入れたのであろう。しかし、実際に築城地として選ばれた台地は歪な形をしており、当初予定されていたような左右対称の綺麗な四稜郭にはならなかった。
藩主や磯辺泰の意気込みとは裏腹に、明治四年(1871)七月、廃藩置県により松尾城は築城から半年でその役割を終えてしまう。時代の流れは、彼らの想像を越えていたのである。
松尾城は「最後の城郭」と呼ばれているが、実は城郭も完成を見ないままであった。現在ほとんど遺構らしきものは残っていないが、松尾中学校を入って直ぐの植え込みの中に「太田城趾」と記された小さな石碑を見ることができる。

太田城趾
(松尾自動車学校)

松尾藩公庁跡
古図面と照らし合わせると、松尾中学校がある辺りには藩主(知藩事)の御住居が置かれていたらしい。
少し離れた松尾自動車学校辺りに、藩の公庁があった。教習コースの中に「松尾藩公庁跡」の石碑が建てられている。教習が始まってしまうと近寄って写真を撮ることはできないので、ここを訪問するのであれば、できるだけ早い時間の方が良いだろう。
(大堤)
国道126号線大堤交差点の北の民家の前に、松尾城の長屋門が移設されている。松尾城の数少ない遺構である。

松尾城長屋門
(日本学園中学校・高等学校)
明大前駅から徒歩約五分。住宅街の中に日本学園がある。
日本学園は、杉浦重剛が明治十八年(1885)、神田錦町に開いた東京英学校に端を発し、その後、火災のため麹町に移転。その時日本中学校と改称した。現在地に移転したのは昭和十一年(1936)のことである。
正門を入って直ぐ右手にフロック・コート姿の杉浦重剛の像が置かれている。
日本学園中学校・高等学校
学祖 杉浦重剛
杉浦重剛は、膳所藩出身の教育家・思想家。若き日の昭和天皇に進講したことでも知られる。
明大前駅から徒歩約五分。住宅街の中に日本学園がある。
日本学園は、杉浦重剛が明治十八年(1885)、神田錦町に開いた東京英学校に端を発し、その後、火災のため麹町に移転。その時日本中学校と改称した。現在地に移転したのは昭和十一年(1936)のことである。
正門を入って直ぐ右手にフロック・コート姿の杉浦重剛の像が置かれている。

日本学園中学校・高等学校

学祖 杉浦重剛
杉浦重剛は、膳所藩出身の教育家・思想家。若き日の昭和天皇に進講したことでも知られる。
(理性寺)

理性寺
理性寺は、京王線西永福駅のすぐ近くにある。
理性寺は、承応三年(1654)、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当(ただまさ)夫妻を開基として、その菩提のために創立したものである。寺名は夫妻の法名法真院殿・理性院殿に因んで、法真山理性寺と名付けられた。当初は内藤新宿四ツ谷大木戸にあったが、大正三年(1914)現在地に移転した。

大久保家之墓
墓地のほぼ中央に幕臣大久保家の墓がある。このどれかに大久保忠恒が葬られているものと思うが、最後まで特定はできなかった。左から二番目の「大久保家之墓」の側面に「大久保忠恒長女登美建之」とあるので、恐らくこれが忠恒のものであろう。
大久保忠恒は文久元年(1861)使番より目付に登用され、翌年十二月に火付盗賊改に転じ、さらに翌年には神奈川奉行に進んだ。元治元年(1864)には作事奉行となった。慶応二年(1866)正月にはベルギーとの修好通商条約締結のため全権委員の一人に任命された。また米・英・仏・蘭との輸入税則改訂交渉の際には、フランス公使に会見して目下の国内事情を説き、改訂案に強硬な反対意見を主張した。慶応三年(1867)正月には禁裏付となり。同年十二月には目付に任じられたが、慶応四年(1868)二月職を辞した。しかし、戊辰戦争が起きると朝廷から官位を褫奪された。

理性寺
理性寺は、京王線西永福駅のすぐ近くにある。
理性寺は、承応三年(1654)、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当(ただまさ)夫妻を開基として、その菩提のために創立したものである。寺名は夫妻の法名法真院殿・理性院殿に因んで、法真山理性寺と名付けられた。当初は内藤新宿四ツ谷大木戸にあったが、大正三年(1914)現在地に移転した。

大久保家之墓
墓地のほぼ中央に幕臣大久保家の墓がある。このどれかに大久保忠恒が葬られているものと思うが、最後まで特定はできなかった。左から二番目の「大久保家之墓」の側面に「大久保忠恒長女登美建之」とあるので、恐らくこれが忠恒のものであろう。
大久保忠恒は文久元年(1861)使番より目付に登用され、翌年十二月に火付盗賊改に転じ、さらに翌年には神奈川奉行に進んだ。元治元年(1864)には作事奉行となった。慶応二年(1866)正月にはベルギーとの修好通商条約締結のため全権委員の一人に任命された。また米・英・仏・蘭との輸入税則改訂交渉の際には、フランス公使に会見して目下の国内事情を説き、改訂案に強硬な反対意見を主張した。慶応三年(1867)正月には禁裏付となり。同年十二月には目付に任じられたが、慶応四年(1868)二月職を辞した。しかし、戊辰戦争が起きると朝廷から官位を褫奪された。