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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「山県有朋」 小林道彦著 中公新書

2025年06月28日 | 書評

山県有朋は、萩の足軽以下の身分(蔵元付中間)に生まれ、そこから脱皮を重ねて晩年には明治国家において圧倒的な政治権力をふるった。

若き日の山県は槍術で身をたてることを志し、二十三歳頃には宝蔵院流槍術の使い手としてその名を知られるようになった。

高杉晋作が奇兵隊を組織すると、その軍監に就任した。奇兵隊はアウトローの集団であり、しばしば藩の正規軍とトラブルを起こした。藩では奇兵隊を厄介者扱いしたが、山県は奇兵隊のもつエネルギーを巧みにコントロールし、そのエネルギーを戦場で爆発させ、武勲を政治的パワーに変換した。奇兵隊の統帥はいつしか山県が握り、長州藩の藩内抗争や対外戦争を繰り返すその混乱の中で、山県の存在感は急速に拡大した。山県が「権力」の存在を意識するようになったのは、ここでの経験が契機となったであろう。

維新後の山県の権力基盤は陸軍であった。維新後、間もなくヨーロッパに留学した山県は、帰国すると兵部少輔に就き、その後も短期間に兵部大輔、陸軍大輔、陸軍中将、近衛都督、陸軍卿と昇進を続けた。この時期、山県が重用された背景には、近代軍建設の必要性が高まる中、ヨーロッパで最新の知識を身に着けた「開化派」的人材が求められたことに加え、陸軍の実権を握っていた山県の存在を無視できなくなっていた。明治五年(1872)、所謂山城屋事件が突発した。本来であれば、このスキャンダルに関わっていた可能性が高い山県にとって政治生命にも関わる事件であったが、西郷隆盛は山県に代わって近衛都督に就任して、山県自身は陸軍大輔の職にとどまった。山県が失脚を免れたのは、徴兵制を導入しようとする明治政府にとって、彼の存在はもはや不可欠な存在になっていたことがあるだろう。

西南戦争が終結すると、日本の政治地図は大きく塗り替えられた。高知県士族は武力討伐を免れたことでその勢力を温存し、彼らのエネルギーは自由民権運動へと流れていった。長州では木戸孝允が病没し、大久保利通も1878年(明治十一年)五月に不平士族の凶刃に斃れた。こうして伊藤博文と山県、大隈重信が政治の第一線に立つことになった。

明治十四年の政変を経て大隈が政権を追われると、山県は参議兼参謀本部長さらに参事院議長を兼任した(その後、参謀本部長を解かれて参謀本部御用掛に就いている)。もはや山県は「一介の武弁」から「有司」へと変貌を遂げていた。彼は参事院議長として、さまざまな法令・規則の制定・審査や府県会の紛争裁定にも関与するようになっていた。

明治二十二年(1889)十二月、山県は首相(兼内相)に就任する。翌年には陸軍大将に昇進している、第一次山県内閣は約一年半で終焉を告げたが、その後も第二次伊藤内閣での司法大臣、枢密院議長などの地位を得て、着々と権力基盤を固めていった。明治三十一年(1898)には二度目の総理大臣に就くが、山県にとってこれも通過点に過ぎなかった。

依然として彼の権力基盤は軍にあったが、同時に「山県系官僚閥」と呼ばれる強力な権力装置を備えていた。本書によれば、山県系官僚閥の勢力は中央省庁にとどまらず、貴族院や枢密院、さらには司法機関にまで広がっていた。「藩閥勢力は山県中心に再編され、長州閥という地縁的集団は山県系官僚閥へと純化・成長を遂げていった」という。

山県の下に人材が集まったのは、彼の政治的な個性と権力ポジションによるところが大きい。彼は外国語が苦手だったこともあり、自分の周囲に洋行帰りのエリートを集め、彼らから最新の専門知識を吸収することに努めた。明治初期においては、西周や桂太郎が代表的なブレーンである。

山県の守備範囲が、軍事から地方自治や治安問題、さらには外交へと広がっていくにつれ、山県のブレーン集団も、徐々に厚みと広がりを増していった。平田東助や清浦圭吾をはじめとする法制官僚、青木周蔵ら外務官僚、大浦兼武のような警察官僚らがその典型例である。山県は聞き上手であり、彼らの意見によく耳を傾けた。時には自らの影響力を駆使して部下の貢献に見合うだけの地位と名誉を与えた。山県の判断基準には縁故主義とは無縁の、純然たる実力主義が存在していたため、出身藩に関わらず人材が集まった。評価された部下は感銘を受け、彼に近侍した人々の忠誠心を堅固なものにした。こうして山県閥が形成されたが、これは山県のライバルと目される伊藤博文にはない権力基盤であった。現代でこそ政党内における派閥というのは当たり前となっているが、山県閥はその走りといっても良いだろう。

山県系官僚閥の権力中枢は、三人の陸軍軍人、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅によって占められるようになった。彼らはおもに陸軍省を中心に軍事行政部門に勢力を伸ばし、その実績を背景に内務省や外務省、文部省などの大臣職に進出していった。三人のうち、急逝した児玉を除き、二人はのちに首相に就任している。

明治三十四年(1901)、第一次桂内閣が成立すると、「小山県内閣」などと揶揄されたが、実は桂太郎は次第に山県から距離を置くようになる。本書によれば、組閣人事にも山県から距離を置こうという桂太郎の意図がうかがえるという。気が付けば桂による権力簒奪の脅威にさらされることになっていた。

大正元年(1912)十二月、第三次桂内閣が成立すると、翌年桂は自らを党首とする新政党(のちの立憲同志会)の結成を明らかにした。政党嫌いの山県に対するあからさまな叛旗であり、両者の決別は明確になった。

しかし、第三次桂内閣は組閣後わずか二か月で総辞職に追い込まれてしまう。この時山県は桂の末路を評して「雪隠で首を括ったようなものだ」と冷評したと伝えられる。桂との確執はここに終止符を打つことになったが、山県の官僚閥に対する統制力は明らかに低下していた。大正期に入って山県の政治権力は明らかにピークを越えていた。明治天皇の篤い新任を得ていた山県であったが、大正天皇との関係は微妙であった。政党勢力の台頭も押し止めようがなかった。本来であれば、ここらが潮時だっただろうが、なおも山県は権力に固執した。大正十年(1921)、のちに宮中某重大事件と呼ばれる事件が起こる。裕仁親王(のちの昭和天皇)と久邇宮良子(ながこ)女王との婚約を辞退させようとした山県は、民間右翼や国粋主義団体から強い反発を招き、山県個人へのテロル(天誅)へと発展しかねない状況に陥った。山県の政治的没落は避けられなかった。

大正十一年(1922)二月一日、山県は静かに息を引き取った。従来、山県の国葬は参列者も少なく、寂しいものだったといわれてきたが、本書によれば、「それはやや整理されすぎた嫌いがある」という。日比谷公園沿いの街路には数万の群衆が押し寄せ、「海嘯(つなみ)のような混雑」が起きていたとの報道を紹介している。最後の元勲に対する大衆の感傷もあったのかもしれない。

本書を一読すれば、山県有朋がどうやって権力を手に入れ、それを駆使し、強化していったかが理解できる。山県のために惜しまれるのは、彼が最期まで権力にしがみつこうしたように見えることである。子飼いの部下であった桂太郎や寺内正毅からも疎まれ、離反を招いたのも山県自身に理由がないとはいえない。老兵は自ら引き際を知らなくてはならない、と強く思った次第。

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