史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治の技術官僚 近代日本をつくった長州五傑」 柏原宏紀著 中公新書

2018年07月28日 | 書評
 本書は、長州五傑(ファイブ)を題材として、その後有力な政治家となった伊藤博文、井上馨と高度な専門知識を活かして我が国の近代化に貢献した山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の足跡をたどり、技術官僚の果たした役割を明らかにしようというものである。
 のちに長州五傑と呼ばれる五人は、幕末、攘夷の総本山の様相を呈していた長州から、イギリスに密留学した。この洋行経験が、その後の彼らの飛躍に繫がったという事実は五人の共通項である。しかし、出発点を共有しながら、五人のその後の人生は、真っ二つに分岐した。長州藩が下関を往来する外国商船を砲撃したことを現地で知った伊藤と井上馨(当時は聞多)は、踵を返して攘夷に沸騰する長州藩に戻り、藩主に攘夷の非を諫言した。まさに命がけの政治的行為であった。
 一方、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の三名は、イギリスに残って勉学を続けることを選んだ。その結果、高度な技術を身に着け帰国することになった。
 この時、帰国したか残留したかで彼らの人生が決まったかの印象を受ける。しかし、技術官僚となった三名も、政治家に転身する機会はあったが、彼らは敢えて官僚にとどまり、鉄道の建設や造幣事業の発展に尽くしたのである。もとから彼ら三名には技術官僚としての素質があったということだろうし、政治に興味はなかったということかもしれない。
 明治初期、技術官僚だけでなく、政治家にとっても洋行体験は重要であった。明治十八年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に就いたとき、大臣に任命された山県有朋(内務大臣)、井上馨(外務大臣)、松方正義(大蔵大臣)、大山巌(陸軍大臣)、山田顕義(司法大臣)、西郷従道(海軍大臣)、森有礼(文部大臣)、谷干城(農商務大臣)、榎本武揚(逓信大臣)らはいずれも洋行経験を有し、外務大輔などの次官を経験しているという点も共通していた。専門性という意味では、榎本や谷はまったく畑違いの分野であり、それでも洋行経験が優先された(もちろん、当時の政情から、藩閥のバランスをとった色合いが濃い)。それほど当時、洋行は重要な意味を持ったのである。
 イメージとして、政治家、官僚の違いというのは理解するのだが、本書を読んでいて終始モヤモヤしていたのはそのことである。政治家というと、政策を立案し、自らの理想のために粉骨砕身し、その実現のために時に相手を説得(あるいは恫喝)し、異なる組織間の調整に奔走し、人事に執拗に介入する人種である。考えてみれば、企業においては、それはもっぱら事務系の仕事であるが、技術屋であっても、戦略やビジョンの設定、人事や組織間調整に長けた人は、いつしか技術屋から脱皮して経営者へと転身するのである。
 結局、政治家と技術官僚の違いというのも、企業における技術屋と経営者の違い(つまり紙一重)のようにも思うのである。現実には技術出身であっても、事務屋であっても、経営者になれるのはほんのひと握りでしかない。技術屋から経営者への壁は、相当に高い。同様に技術官僚と政治の間の壁も高いのである。
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「西郷隆盛と西南戦争を歩く」 正亀賢司著 文書新書

2018年07月28日 | 書評
 店頭でこの本を見付けた時、最初に思ったのは「このタイトルであれば、私でも書ける」ということであった。そもそも私が史跡を訪ねて回り始めたのは、今から二十二年前、鹿児島在住の頃である。南九州には「西南戦争での出来事を記す説明板や碑がいたるところに「あるわ、あるわ」の状態」「西南戦争を肌で感じることができる」と筆者がいうようのも、全く誇張は感じられない。以来、九州各地の西南戦争関連史跡を訪ね歩いてきたが、二十年以上経っても、まだ回り切れていないほどなのである(現実問題として、東京から九州は決して近くはないので、そう簡単に足を運ぶというわけにはいかない)。西南戦争関連の史跡を集めるだけでぶ厚い一冊の本になるだろう。
 タイトルから察して、本書は西南戦争の史跡を紹介する書籍かと思ってしまったが、どうやらそういう目的で書かれたものではない。「はじめに」に「この日本最後の内戦から我々は何を学ぶことができるのかを考えていきたい」という辺り、いかにもNHKの記者によるNHKの番組的書籍である。歴史から多くの教訓を得ることをできるのは間違いないが、真に有益な成功と失敗の法則を学んで実践で活かすことは、口でいうほど簡単ではない。
 西南戦争には謎が多い。筆者は「西郷は何故蹶起したのか」「西郷の暗殺計画は実在したのか」「熊本城天守閣炎上は、鎮台による自焼なのか、失火か、薩摩軍スパイによる放火か」「薩軍は何故熊本城を攻撃したのか?」「乃木希典の連隊旗強奪事件の真相は?」「政府軍は、可愛岳を越えた薩軍を何故やすやすと鹿児島に入れてしまったのか?」といった謎を挙げ、解説を加えている。本書では触れられていないが、個人的には最大の謎は「敗戦が確定的なのに、どうして西郷は最後まで戦い続けたのか?」だと思っている。
 「尋問のために東京に行くとの名分を掲げながら、熊本城を激しく攻め、そうかと思うとわずか一日で城攻めよりも政府軍迎撃に備えるとの方針変更する薩摩軍の朝令暮改ぶり。この行き当りばったりと見える薩摩軍の行動が、西南戦争の理解を難しくしている大きな要因の一つとなっている」という指摘は、さすがに長く西南戦争に関心を持ち、現場を回ってきた筆者ならではの慧眼である。
 両軍合わせて一万四千人もの死者を出し、多くの民衆が家屋を焼かれるなど甚大な被害を引き起こした西南戦争。たとえ「「担がれただけ」であっても神輿に乗った時点で、西郷は責任をのがれることはできない」と筆者は主張する。一方で、明治政府によって近代化を遂げた我が国であるが、その結末がアジア・太平洋戦争であった。明治維新の負の部分も強く認識すべきと警鐘を鳴らす。
 明治日本は驚異的なスピードで近代化を実現し、遂には強豪国ロシアを倒して列強の仲間入りを果たした。しかし、そのことが過信と驕りを生み、国が滅ぶまで暴走してしまった。
 戦後の日本も世界に類を見ない速度で経済成長を果たし、世界に冠たる経済大国となった。しかし、バブルがはじけて自信を失い、「失われた二十年」とも称される長い混迷に陥った。維新後の近代化と戦後の復興という二つの奇跡の背景には、日本人の「勤勉さ」と滅私奉公的「自己犠牲の精神」があった。三度目の奇跡はあるのか。
 労働人口の減少、グローバル化という逆風が吹く中、「勤勉さ」と「自己犠牲精神」だけでは如何ともし難い。歴史から混迷の時代の成長の秘訣を学ぶことができたら、とても素晴らしいことだと思うのだが…。

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本庄 Ⅱ

2018年07月21日 | 埼玉県
(本庄市立歴史民俗資料館)


本庄市立歴史民俗資料館

 本庄市立歴史民俗資料館は、明治十六年(1883)に本庄警察署として建てられた洋風建造物を利用したものである。


田村本陣門

 歴史民俗資料館の前に、本庄宿の北本陣と称された田村本陣の正門が移設されている。田村本陣は、現在の中央一丁目六辺りと推定されている。
 文久元年(1861)十一月十一日、江戸に下る皇女和宮は田村本陣に宿泊している。


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高崎 Ⅳ

2018年07月21日 | 群馬県
(頼政神社)


頼政神社

 頼政神社の境内に下仁田戦争以降、戊辰戦争、西南戦争における高崎藩戦死者の招魂碑が建立されている。


褒矣招魂碑

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倉渕 Ⅱ

2018年07月21日 | 群馬県
(小高用水)


小高用水

 倉渕町権田地区を訪ねたのは正確には十一年振りとなる。この日、早朝四時に起きて松代、長野、佐久を回って、権田に着いたのは午後三時過ぎであった。十一年前に探し切れなかった史跡を重点的に回った。
 小高用水は、水利に恵まれなかった小高地区のために小栗上野介が計画した用水路である。慶應四年(1868)四月十四日、小栗上野介は尾根向うの関沢川を見分し、器械測量でこの用水の水路を決め、村人の掘削により完成したものである。以来、小高の人々は交替で水番を務め、取り入れ口、水路の管理を行い、安定した実りを得る水田を確保してきた。

(十王堂)
 十王堂の周辺には墓地が広がっており、そこに塚越富五郎の略歴を記した塚越家の墓誌、佐藤家の墓所には佐藤銀十郎の墓がある。


十王堂


釼越冨清居士 俗名塚越富五郎

 塚越富五郎(塚越家家系史によれば冨吉)は、小栗上野介が斬首された後、道子夫人や母堂を護衛して、信州・越後・会津若松鶴ヶ城へと同行し、さらに会津藩朱雀四番士隊町野隊附属誠志隊に属して各地を転戦したが、慶應四年(1868)九月一日、敵弾を胸に受け、福島県耶麻郡高郷村一竿の地にて戦死した。行年二十一歳。


佐藤銀重郎信一墓

 佐藤銀十郎(銀重郎とも)は、権田字水有の出身。江戸の小栗家の歩兵としてフランス式の軍事訓練を受けた。慶応四年(1868)閏四月、小栗夫人道子らに同行して会津まで護衛した。会津では会津軍朱雀四番隊士中隊に加わって奮戦、喜多方市熊倉にて戦死した。二十一歳。

(塚越家墓地)


塚越市五郎夫妻之墓

 倉渕体育館の南側に隣接して塚越家の墓がある。そこに岩氷村の名主をつとめた塚越市五郎の墓がある。
慶應四年(1868)三月四日、暴徒に脅されて、近所の村人たちとともに小栗襲撃に加わり、自宅に近い本陣椿名神社に狩り出された。そこに小栗上野介と又一が指揮する歩兵二十余名が攻めて来て、暴徒側は壊滅、死者四名を出して潰走した。市五郎は烏川の左岸にはりついていたが、危険が迫ったため、川に飛び込み、潜水して右岸に逃れようとしたが、小栗方の射撃が命中し死亡した。

(地蔵峠)
 慶応四年(1868)閏四月六日、権田村に官軍が押し寄せ小栗上野介は斬首された。難を逃れるため、小栗上野介家臣の塚本真彦の母ミツとその娘チカ(八歳)は、七日市藩へ抜ける地蔵峠を目指したが、山中に道を失い、力尽きて閏四月八日、殉難碑の立つ場所から近い谷間において自害して果てた。


地蔵峠


殉難碑


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佐久 Ⅴ

2018年07月21日 | 長野県
(平賀宿)


平賀宿

 下仁田での戦闘を終えた天狗党は、隊伍を整えて西へ進んだ。元治元年(1864)十一月十六日、本宿に宿営するとさらに山道を進んで佐久平の平賀宿に出た。天狗党は十一月十七日の夜をここで過ごした。現在、平賀宿にほとんど昔の姿をとどめている家屋はなく、少々残念である。


(長土呂)


神津九一墓

 長土呂の街の中心地に墓地があり、そこに神津九一の墓がある。この墓地には神津家の墓がたくさんあるが、側面に「野州宇都宮ニテ戦死 二十五歳」とあるのが目印である。
 神津九一は岩村田藩軍夫。慶応四年(1868)四月十九日、宇都宮にて戦死。二十五歳。

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立科

2018年07月21日 | 長野県
(笠取峠)


笠取峠の松並木

 元治元年(1864)十一月十七日、中山道を西へ進む天狗党一行は、立科、芦田宿を過ぎて、笠取峠にかかった。天狗党の隊列を見守った松並木を今も往時のまま美しい姿を見せている。翌十八日、天狗党は四里を進み、十九日は朝から大雨になった。この日の夜、ここまで行動をともにしてきた薄井督太郎(飯田出身)が脱走し、十九日の夜にも脱走者が続出した。

 笠取峠は芦田宿と長窪宿の間にあって、小諸藩が幕府から下賜された数百本の赤松を近隣の村人とともに街道沿いに植樹したものである。その後も植樹、保護、管理を続けた結果、大正時代に二百二十九本が確認された。今は百十本から七十三本(平成二十年時点)に減っているが、往時の中山道をしのぶ貴重な文化財となっている。


和宮レリーフ石碑

 峠に近い場所は公園として整備されており、そこに和宮東下の行列の銅版画を石碑にしたものがある。和宮の行列が笠取峠を通過したのは、文久元年(1861)十一月八日であった。

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長野 Ⅳ

2018年07月21日 | 長野県
(正覚寺)
 正覚寺は、長野市安茂里大門の集落の一番高い場所に位置する。周辺の道は狭いので自動車の運転には注意を要する。正覚寺には、戊辰戦争で戦死した松代藩士青木熊平とその供養塔がある。


正覚寺


先祖累代之墓(青木熊平の墓)

 青木熊平は、青木源五衛門の長男。銃卒。六番小隊所属。慶應四年(1868)九月四日、福島の小土山戦にて負傷。十一月二十日、新潟(越後柏崎)の病院にて死亡した。行年十八。戒名靚檥院熊平忠政居士が墓誌に刻まれている。


供養塔

 青木熊平および一族で太平洋戦争において戦没した青木薫氏(行年二十四)を供養するために建立された供養塔である。

(昌龍寺)
 長野市稲里町田牧の昌龍寺も周囲の道路はとても狭い。危うく車輪が溝にはまりそうになった。


昌龍寺


松代藩故小林源助墓

 小林源助の墓は、何故だか官修墓のように木製の柵で囲われている。
小林源助は源之助とも。銃兵卒。更科郡広田村の農。二番小隊。慶應四年(1868)六月十二日、越後久田村にて戦死。三十歳。

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松代 Ⅶ

2018年07月21日 | 長野県
(長明寺)


長明寺

 長明寺の本堂近くに小林喜五之助、小林孝太郎、宇敷垣右衛門という三名の松代藩士の墓がある。墓石題材にはいずれも「遺骨埋」とある。


松代藩士の墓
(松代藩小林孝太郎(左)宇敷垣右衛門(中)小林喜吾之助(右)墓)

 小林孝太郎は銃兵卒。二番小隊。慶應四年(1868)七月二十五日、越後御経塚にて戦死。二十七歳。
 宇敷垣右衛門は銃卒。五番小隊。慶應四年(1868)七月二十六日、越後三楯山にて戦死。二十四歳。
 小林喜吾之助は軍使付。銃卒。東寺尾村の農。慶応四年(1868)閏四月二十六日、越後芋坂口雪峠にて戦死。二十一歳。


高照院觀譽順教忠道居士(宇敷垣右衛門の墓)

 三名の墓の向かって左手に宇敷家の墓所があり、そこに宇敷垣右衛門の墓がある。こちらが本墓ということであろう。正面には垣右衛門とその妻と思われる女性の戒名。墓石の側面には垣右衛門忠正が戦死した日付・場所などが刻まれている。

(萬法寺)
 萬法寺のちょうど本堂に向い合う場所に松代藩奥村柳之輔の墓がある。官修墳墓さながらに玉垣で囲まれ、小高い石壇の上に置かれている。


萬法寺


松代藩奥村柳之輔墓

 奥村柳之輔については「幕末維新全殉難者名鑑」に記載がないが、墓石側面の記載によれば、明治元年(1868)北越戦争で各地を転戦し、九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村にて戦死。二十一歳。

(明徳寺)


明徳寺

 明徳寺は、豊栄小学校の裏にある。ちょうどこの日は小学校の校庭でゲートボール大会か何かが開かれており、学校を取り囲むように自動車が無秩序に駐車されていた。駐車されている自動車の脇を辛うじて通り抜けて、明徳寺に行き着く。


高坂弾正の墓

 明徳寺には、武田信玄の二十四将の一人、高坂弾正の墓がある。ほかにも松代町西条出身の軍人で、映画「硫黄島の手紙」で一躍有名になった栗林忠道大将の墓も明徳寺墓地にある。


陸軍大将栗林忠道之墓


松代藩栗林吉彌源直英墓

 栗林吉弥の墓は、栗林家の墓所内にある。まずは栗林家の墓を捜せばよいが、墓地内は栗林家の墓がたくさんあるので、そう単純ではない。墓地の中ほどの栗林家墓所内にある。
 栗林吉弥は銃卒。小荷駄方付。西条村の出身。慶応四年(1868)七月二十五日、越後長岡四郎丸口にて戦死。五十一歳。平均年齢が三十代という時代にあって、五十歳過ぎという年齢は老人と呼んでよい。恐らく、壮年を迎えた当主は家において敢えて老齢に達した彼が召集に応じたのであろう。


清靈齋神宗越光居士
(神戸清右衛門清成墓)

 神戸清右衛門は銃卒。小銃五番隊。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉村にて負傷。十月八日、新潟病院にて死亡。三十九歳。

 これにて本日の松代の探索は終了。松代を歩いたのはこれが三回目であるが、まだまだ新しい発見がある、奥の深い街である。

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松代 Ⅵ

2018年07月21日 | 長野県
(長谷川家)


長谷川家

 代官町の長谷川家はエノキダケの人工栽培法の確立者として知られる、長谷川五作の住居跡である。長谷川五作は、トウモロコシの交配実験を行い、メンデルの遺伝法則の追試実験に成功し、昭和六年(1931)苦心の末にエノキダケの人工栽培を確立したという人物である。

(龍泉寺)

 
龍泉寺

 龍泉寺は、願行寺、蓮乗寺と軒を並べて松代の中心部に所在している。墓地に松代藩士佐川彦之丞の墓がある。


佐川彦之丞源重東神位

 佐川彦之丞は城下士。六番狙撃隊。慶應四年(1868)、七月二十五日、越後蔵王口にて戦死。

(旧前島家住宅)
 前島家は代々真田家に仕える家臣の家柄である。家屋は、宝暦九年(1759)に建築されたもので、現存する藩士の屋敷としては最古のものである。入場無料。


旧前島家住宅

(大信寺)
 大信寺の本堂横に松代藩士古川嘉栄治、村沢高五郎の墓がある。少し高い土台が築かれており、その上に二基の墓が置かれている。


大信寺


松代藩士の墓
(松代藩村澤高五郎墓
松代藩古川嘉栄治墓)

 村澤高五郎は銃兵卒。一番隊。埴科軍清野村の人。慶應四年(1868)六月、越後半蔵金にて負傷。七月二十五日、長岡の病院にて死亡。三十六歳(三十歳とも)。
 古川(吉川とも)嘉栄治は大砲方徒士。慶應四年(1868)七月二十四日、越後亀崎村にて負傷。長岡病院にて死去。二十二歳。

(西念寺)


西念寺

 西念寺周辺も道幅が狭い地域である。やっとのことで駐車場まで行きつくことができた。ひと通り写真を撮って、車に戻ったところ、檀家の方だろうか、一人の男性が近寄ってきて西念寺のパンフレットなどを「参考に」と手渡してくださった。
 パンフレットによれば、西念寺は貞治四年(1365)の開山。当初は埴科郡海津(松代城の辺り)にて西應寺という名称で創建された。天文二十三年(1554)、信玄の命を受けた山本勘助によって寺を替え地に移された。以後、六十年にわたって無住の時代が続いたが、慶長五年(1600)、城主森右近大夫忠正が現在地に移した。
 慶長八年(1603)、徳川の時代になると、家康の六男松平忠輝が川中島六万石の領主となり、花井遠江守吉成が松代城代に任じられた。吉成は堂宇の再建造営を行い、西念寺中興開基と称されている。墓地には吉成の宝篋印塔型の墓が建てられている。


故松代藩小沼長兵衛墓


故松代藩小山朝重(新蔵)墓
故松代藩杉村市郎左衛門墓

 小沼長兵衛は銃兵卒。慶応四年(1868)四月二十五日、信州水内郡安田村にて戦死(病死とも)。四十二歳。
 小山新蔵は大砲方徒士。慶應四年(1868)七月二十五日、越後長岡(二十日、妙見とも)にて負傷。九月三日、十日町病院にて死亡。二十歳。
 杉村市郎左衛門「幕末維新全殉難者名鑑」に記載がない。墓石側面によれば、慶応四年(1868)九月十一日、会津熊倉村で戦死。四十六歳。

(真勝寺)


真勝寺

 真勝寺は長国寺に隣接しており、やはり広い墓地を有している。そこに松代藩士牧野功一郎の墓がある。


故松代藩牧野功一郎墓

 牧野功一郎は軍監。明治元年(1868)九月十七日、会津小土山にて負傷。五泉病院にて死亡。三十三歳。

(浄福寺)
 浄福寺の本堂横に、岡澤要之助と浅井徳三郎という二人の松代藩士の墓がある。


浄福寺


松代藩士の墓
(松代藩岡澤要之助墓(左)
松代藩浅井徳三郎墓)

 岡沢要之助は銃卒。慶応四年(1868)七月十三日、越後与板原村にて負傷。のち死亡。十八歳。
 浅井徳三郎は埴科郡清野村の人。五番小隊。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉村にて戦死。二十歳。

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