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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「江戸東京の明治維新」 横山百合子著 岩波新書

2019年07月27日 | 書評

表題を見て、そこらへんの面白エピソードをかき集めたものかと思ったが、ページを開いてみて驚くことになった。筆者は現在国立歴史民俗博物館で教授を務められて長年維新期の江戸東京の変遷を研究されてきた方である。本書巻末に紹介されている参考文献の多さにも驚かされたが、かなり奥深く研究された成果なのである。

本書は、江戸から東京に名称が変わったこの時期に、市井、遊郭や賭場に押し寄せた変化の波をマクロとミクロの両方から立体的にアプローチしていたものである。たとえば、明治五年(1872)に芸昌妓解放令によって、遊女や飯盛女の解放令が出された。我々はこれで全ての遊女が解放され、「メデタシ、メデタシ」と単純に考えてしまうが、筆者は江戸時代を通じて営々として築かれた人身売買とそれにまつわる金融の実態を解き明かす。遊女は借金の担保物件であり、遊女の身体は商品なのである。貸主としては簡単に手放すわけにはいかない。

筆者はここで「かしく」という名の新吉原の遊女を紹介する。かしくは越後国蒲原郡巻野東汰上(ひがしゆりあげ)村の百姓の娘で、七歳のときに売られ、その後、遊女屋の間を転売され二十二歳のとき解放令を迎えた。解放令を知って藁にもすがる思いで東京府に嘆願書を提出した。かしくの嘆願書は、書式の整わない稚拙のものであったが、「遊女はいやだ」「素人にして結婚を認めてほしい」と切々と訴えるものであった。しかし、東京府はかしくの訴えを却下する。

その後、かしくは、別の結婚相手を見付けて再び東京府に訴え出る。残念ながらかしくのその後を語る史料は残されていないそうであるが、遊女屋は、借金のカタをそう簡単に手放すわけにはいかない。あの手この手で抵抗した。遊女がその境遇から脱するのは、そう簡単な話ではなかったのである。

第五章は「屠場をめぐる人びと」。江戸時代は、身分と職業が密接に結びついていた時代である。明治四年(1871)八月、賎民廃止令が布告され、賎民身分は廃止された。といった呼び方も廃止され、身分、職業ともに平民同様とすることとなった。では、身分制における最下層に位置付けられていた彼らはもろ手を挙げてこの法令を大歓迎したかというと、必ずしもそうではないらしい。旧来の身分制の枠組みが取り払われるとともに、身分に付随する「特権」まで失うことになったからである。

屠牛作業は旧賎民身分の人びとが担っていた。明治を迎え、食肉文化が日本に移入され、牛肉需要が急増すると、畜産、屠牛、卸売り、小売りというサプライチェーンが形成される。これを統括するのが官許の屠牛改会社であった。屠牛改会社は、屠牛商人から選ばれた数人の頭取と、そのうちの二名の取締世話方が中心となって運営された。屠牛商人らは官庁への牛肉納入や屠場での検査を御用としてとらえ、一方で屠牛手数料の徴収、買肉商人の取締り、独占的な屠場経営を、その反対給付の特権として得ていた。明治政府も、このような江戸時代の「仲間」に似た組織に疑問をもたず、斃獣肉や無検査の肉が販売されないよう、屠牛改会社が流通過程に睨みをきかせていることを公認していた。

そこへ、明治十年(1877)、警視庁が屠場を直轄すると宣言した。屠牛改会社は解散させられ、新設の浅草千束屠場以外の屠獣が厳禁された。さらにその二年後の明治十二年(1879)、警視庁は屠場の払下げを発表した。こうして身分と特権が結び付いた構造は、解体を余儀なくされていったのである。

本書では、最後に木村荘平というユニークでエネルギッシュな一人の実業家を登場させている。木村は、豊盛社という、食肉加工の過程で発生する臓物から試薬や肥料、染料等を製造する「獣類化製」を経営していた。やがて興農馬会社を設立し、天覧競馬を挙行するなど華やかな活動を繰り広げていた。木村は政府と結び付いた政商の一人として順調に業容を拡大していた。明治十三年(1880)頃から、屠場での手数料を巡って屠牛商人との激しい対立があった。警視庁の庇護のもとで特権を得ている木村は強気に屠牛商人の要求をはねのけた。結局、自由民権運動が盛り上がり、藩閥政治への批判が高まった明治十四年(1881)八月、これまで木村が独占していた屠場を、東京南部に新たに開くことが認可され、木村と屠牛商人の対立はようやく解決を見た。

これで政商木村荘平は没落していくのかと思いきや、この男はしぶとかった。屠牛商人が新たに開設した白金今里村の屠場に彼も参入し、牛鍋「いろは」一号店をオープン。その後もいろは牛鍋店を二十余も開店し、「いろは大王」との異名をとるに至った。今でいうチェーン展開である。

ところが、木村は経営拠点となっていた三田四国町の所有地を突然海軍に買収され、しかもその代金が支払われないという理不尽な仕打ちを受けた。かと思えば、逆に海軍から借地の買い取りを迫られ、その支払いが一時間遅れたことを理由に倒産の危機に追い込まれた。それでも彼は諦めず、観光業や葬祭業にまで手を伸ばし、事業の多角化を図った。

時代の波に翻弄されながらもしぶとく生き抜いた一人の男に圧倒された。

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「最後の将軍」 司馬遼太郎著 文春文庫

2019年07月27日 | 書評

本の裏表紙に貼られている値札を見ると、シンガポールの紀伊国屋書店のもので、シンガポール・ドルで9ドル45セントとなっている。三十年ほど前、現地に駐在していた折に日本国内価格の倍以上の値段で購入したものである。久しぶりに本棚から引っ張り出して、数日で読み終えた。

本書については、松浦玲教授が「歴史論にかかわるところではあまり賛成できない」「こまかな史実が意外に“事実離れ”している」と批判している。間違い探しをする気はないが、確かに鳥羽伏見の後、江戸に帰還した開陽丸の艦長榎本武揚が礼砲を放ったというのは、明らかに史実に反している。その気になって探せばほかにもこういった間違いは見つかるかもしれない。

誤謬はさておき、随所に司馬先生の人物眼が光る作品となっている。徳川慶喜という人物を理解するには、事実を積み上げるだけでなく、事実の裏にある彼の心情まで洞察しなければならない。これは歴史家ではなく、小説家の仕事である。

徳川宗家を継いだときの気分の高揚だとか、王政復古政変の前夜、京都を落ちて行く時の感傷などは、小説家司馬遼太郎の想像力の所産かもしれないが、慶喜の気分や心理をリアルに描きだしている。そこに至る人物描写により読者に徳川慶喜という人物の特異性が十分伝わっており、司馬先生の想像も自然に受け止めることができるのである。

司馬先生の慶喜評をピックアップしてみる。

 

「天性多芸で、できぬことのない男」「なにごとも自分でやらなければ気のすまぬ男」「大名育ちとは思えぬほどに機敏」

「ただひとつ、男として欠落している資質があった。それは物事に野望を感じられぬということ」

「その生涯の癖は好色」

「御智略、御智謀のみの人」「華やかすぎる頭脳」「あまりにも明敏な頭脳」

「うまれつき孤独をこわがらぬ性格」

「稀代の奸謀家」「古今無類といわれる権謀家」「権詐奸謀のひと」

「すぐれた役者」

「剛情公」「二心殿」「豚一」「ねじあげの酒飲み」

「慶喜の不幸は、さきがみえすぎること」「西洋風の法解釈をもっともよく理解できる頭脳をもっている」

「歴史主義者」「歴史の将来を意識しすぎていた。賊名をうけ逆賊になることをなによりおそれた」

「家康と吉宗をのぞけば、慶喜ほどの政治的頭脳をもった男もいまい。しかもその教養は、家康と吉宗をはるかにしのぐ」

「慶喜の行動は慶喜自身がつねに支持し、自分ひとりが支持しているだけでもう自足している」「胆気ではなく別のものであり、いわば本来の貴族というもの」

「つねに逃げ場所を設定してからでなければ入らない男」

「小心と剛胆が、一人格のなかに複雑に綯いまざっていた」

「腰抜けぞろいの幕人のなかで、これほどの凄文句をならべられる男がいようとは…」「反対派を粉砕する最強の論客」

「古来、これほど有能で、これほど多才で、これほど孤独な将軍もいなかった」「天下第一等といわれる雄弁家」

 

こうした数々の修辞を積み重ねて、徳川慶喜という複雑で難解な人格を浮かび上がらせている。慶喜という一人の個性が、幕末という時代を彩り、幕府と薩長の熾烈な政争を生んだ。凡庸な将軍であれば、さほど激しい主導権争いに発展することもなく、あっさり主導権は薩長に奪われてしまっただろう。何ごとも言いなりの将軍であれば、意外と倒幕運動には至らず、平和裏に政権移行が実現したかもしれないなどと、この小説を読みながら、勝手に夢想した。

 

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「会津の義」 植松三十里著 集英社文庫

2019年07月27日 | 書評

どちらかというと、歴史の波間に埋もれた無名の存在に光を当てて、その人生を切り取ってドラマに仕立てることを得意としている植松三十里が、松平容保という、言わば幕末史におけるスターを主役に取り上げた作品である。

この小説は、鳥羽伏見の敗戦直後、徳川慶喜に騙されるようにして大阪城を脱出し、軍艦で江戸に向かう場面から始まる。頭脳明晰でありながら、狡猾で何を考えているか分からない慶喜を対局に据えることにより、容保の誠実さや実直さが際立って描かれる。

慶喜が多くの将兵を置いて敵前逃亡したり、まったく根回しもなく突然大政奉還を決定したり、組織のトップに立つ人間としては有るまじき言道を繰り返したのは、どうしてだろうか。

この謎を解くカギは、慶喜が生まれついての貴人だったことにある。現代社会においては、たとえば天皇陛下であっても、人徳・人望を固持していないと世の中のバッシングを浴びてしまうだろう。ましてや、一般庶民が組織のトップに立とうと思えば、相応の人徳・人望を身に着けていなければ、その立場から転落するしかない。たとえば、時には部下の愚痴を聞いてやったり、食事をおごってやったり、部下のミスを一緒に謝ってやったりということをしないといけないのである。ところが、慶喜には部下に対してそのような気を使った形跡はない。そのような必要性もなかったのである。そのような配慮をしなくても、部下は絶対服従であったし、そういう時代でもあった。

幕末の会津藩を舞台にした小説では、会津籠城戦の悲愴さを強調するものが多いが、この小説ではこの場面は比較的あっさりと描いている。

一方、この小説でも容保と西郷頼母との確執が描かれている。「徳川第一主義」の容保と「会津藩ファースト」の西郷頼母が、ことある度に衝突するのは避けられなかった。その容保と頼母が、維新後、日光東照宮の宮司と禰宜という立場でまみえた。もはや、この時、両者の間の溝は消滅していたとはいえ、歴史の皮肉というべきかもしれない。

 

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「元老 近代日本の真の指導者たち」 伊藤之雄著 中公新書

2019年07月27日 | 書評

先日、同じ著者の「元老 西園寺公望」を読み終わったばかりだが、この本を読むと、「元老とは何か」「現代の民主主義において、元老などという憲法に規定のない制度は受け入れられないだろうが、当時の人はどう考えていたのか」「元老がいながら、なぜ日本は戦争を避けられなかったのか」と次々に疑問がわいてきた。その疑問全てに応えてくれるのが本書である。

著者伊藤之雄氏は京都大学名誉教授で、近代日本政治史の泰斗であるが、京都大学文学部の卒論に「元老」を取り上げ、以来四十年来「折に触れて元老のことを考察してきた」という筋金入りの元老研究家である。現在、元老に関してこの先生以上に精通した人はいないといっても過言ではなかろう。

元老制度は日清戦争前夜から日露戦争頃に形成された。当時、大日本帝国憲法が制定されたとはいえ、藩閥が最盛期であり、政党は未熟であった。現代であれば、最大政党の党主が首相に就くのが当然の流れであるが、最大政党がない時代、後継首相の選定は大きな課題であった。加えて、伊藤博文が欧州で学んだ君主機関説に従えば、後継首相の選任という政治的判断を天皇に委ねるわけにはいかなかった。天皇の諮問機関として、公正な判断ができる組織が必要とされた。ある意味では元老制度が形成されるのは時代の要請でもあったのである。

しかし、憲法に規定のない(しかも、政治を左右する権力を持つ)元老に対して、世間の批判が集まるのは不可避でもあった。特に政党が勢力をもってくると、藩閥政治家の集団でもある元老は、批判にさらされることになった。

元老になるには、ある程度の政治的な功績や首相経験も必要とされた。これによって、元老の正当性を確保したのであろう。本書では、大隈重信や桂太郎など、元老になる条件を満たしていても、元老になれなかった大物政治家についても解説されている。幾度もあった危機を乗り越え、元老制度は西園寺の死まで存続した。批判もあったが、相応の信頼感、納得感があったのも事実であろう。

元老西園寺、そして昭和天皇や木戸幸一内大臣らの尽力も及ばず、昭和の軍部の暴走を止めることはできなかった。元老西園寺は既に年を取り過ぎていたのかもしれない。もう少し西園寺が若くて鋭気を残していれば、あるいは西園寺に続く元老が何人か健在であれば…と、想像してしまうのである。

民主主義の発展した現代の日本で、しかも政党政治が定着した今日、一部に権力が集中する元老制度(言い方を変えれば黒幕政治)が受け入れられるはずもないことは百も承知であるが、一方で民主主義が必ずしも万能ではないことも見えてきた。アメリカ国民は人権問題や環境問題に理解のない(しかも品位に欠ける)人物を大統領に選んだ。イギリスは国民投票によってEUからの離脱を決定した。隣国韓国では「反日」によって大統領が民衆の支持を集めている。いずれも国にとって正しい選択だとは思えない。特に今回の選択は、イギリスの凋落の始まりになってしまうように思えて仕方ない。多数決によって必ずしも後世から見て正しい選択ができるとは限らないのである。

 

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仙台 泉

2019年07月20日 | 宮城県

(林泉寺)

 

林泉寺

 

 

千葉家之墓(佐川藤兵衛の墓)

 

 千葉家の墓に秋田藩の佐川藤兵衛が葬られている。

 佐川藤兵衛は、秋田藩。小鷹狩源太組下。慶応四年(1868)八月十一日、羽後横手にて戦死。四十九歳。墓石には「秋田藩家老」とある。

 

(実沢桐ケ崎屋敷)

 

 

櫻田迪君之墓(桜田良佐の墓)

 

 桜田良佐(りょうすけ)は、寛政九年(1797)、仙台藩士桜田景明の二男に生まれた。名は景迪。字は子恵。号は簡斎。幼少より叔父桜田欽斎に従って経史、兵法等を学んだ。初め仙台藩からの出向という形で下野佐野城主堀田正敦(第六代仙台藩主伊達宗村の子)に仕え、その推挙により本藩の大藩士に抜擢された。四十歳とのき召されて仙台藩に帰り、出入司に登用されたが、間もなく辞し、邸内に済美館を設けて文武の教育にあたった。その後、兵学の研究を深め、五十四歳のとき火器を重視した極めて近代的な大成流兵学を創始。六十歳で兵具奉行、翌年には講武所指南役に任じられて、藩の軍政改革に取り組んだが、度重なる飢饉等で極度に悪化していた藩財政はこれを許さなかった。この頃、名声を聞いて訪れた庄内の志士清河八郎と交友。次第に勤王思想に感化され、藩内勤王派の思想的指導者になったが、保守的な仙台藩にあっては少数派にとどまり、六十七歳の時、罰せられて松山村の茂庭氏邸に幽閉された。幽閉は明治維新前年までの五年間に及び、その間、「赧然居士(たんぜんこじ)」と自称してひたすら著述に努めた。維新後は、敗戦処理および旧佐幕派の一掃に努力、さらに藩の議事局議長、勤政庁外事局長として政体復古百度一新の政を実行しようとした。しかし、藩政時代の上層支配武士層を残した仙台においてその志を得ることは難しく、七十四歳の時、勤政庁組織の変更に伴い職を辞した。以降、根白石村に隠棲して世事を談ぜず、明治九年(1876)十月四日、没し自宅の裏山に葬られた。享年八十。明治四十一年(1908)、正五位を追贈された。良佐の墓の向かって右側には妻の墓が置かれている。

 

 少し離れた場所に息桜田景敬の墓がある。景敬は、投機隊の隊長として戊辰戦争に出征し、白河口で戦っている。

 

 

櫻田景敬君墓

 

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仙台 宮城野

2019年07月20日 | 宮城県

(善応寺)

 

 

善応寺

 

 

蒙古の碑

 

 嘉永四年(1851)十二月十四日に江戸を出立した吉田松陰と宮部鼎蔵は、翌年四月五日まで計百四十日に及ぶ東北の旅に出た。松陰が仙台に至ったのは三月半ばのことで、多賀城址の後、今町(現・仙台市宮城野区今市)を経て燕沢に至り、ここで蒙古の碑を見学している。

 蒙古の碑は、元寇の変の蒙古軍の死者を弔うため、鎌倉円覚寺開山、僧祖元(鎌倉時代の臨済宗僧侶。もと宋の明州の人。北条時頼の招きにて来日)が碑文を書いた。松陰は「怪奇読むべからず」と書き残しているが、国の忌諱に触れることを憚り、字画を省いて記したため、意味不明の文字が幾つか並んでいるためである。

 

 この石碑は同じ燕沢地区の安養寺跡にあったが、今は善応寺の境内に移されている。

 

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仙台 Ⅸ

2019年07月20日 | 宮城県

(常林寺)

 

常林寺

 

 常林寺の住所は仙台市若林区三百人町となっている。付近には六十人町、五十人町があり、いずれも藩政時代、足軽がこの辺りに住んでいた名残である。

 

 

戦死供養塔

 

 常林寺の門前に小さな祠(信夫神社)があり、その前に戊辰戦争の戦死供養塔が置かれている。俗名は読み取れないが、七人の法名が刻まれている。

 

(冷源寺)

 

 冷源寺

 

 

遠藤家之墓(遠藤東右衛門の墓)

 

 遠藤東右衛門は、慶応四年(1868)七月二十八日、岩代本宮にて戦死。墓石の記述によれば、法名は「釋浄蓮」。享年五十四。

 

(大安寺)

 

大安寺

 

大窪家歴代之墓(大窪徳衛の墓)

 

 大窪徳衛は慶應四年(1868)七月一日、磐城湯長谷にて戦死。(墓石側面の文字は読み取り辛いが、六月二十九日 二十 と読める)。

 

(佛眼寺)

 

佛眼寺 

 

 佛眼寺の本堂は見えているのだが、正門がどこにあるのか分からず、周辺をぐるぐると歩いて探す羽目になった。予想に反して佛眼寺の正門は北向きに設けられていた。

 仙台訪問の二日間で、万歩計は七万歩を越えた。特に初日は個人的に最高となる四万二千歩を記録した。文字通り「脚が棒」状態であったが、何とか新寺から連坊、愛宕橋周辺の寺院はほぼ踏破できた。

 

 

本内家之墓(本内幸三郎の墓)

 

 本内幸三郎は、銃士。慶応四年(1868)六月十二日、白河にて戦死。墓石によれば、法名は「誠忠院勇功賢才居士」。享年は二十四。

 

 

山家正蔵源頼季之墓

 

 山家正蔵は、小隊長。慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて戦死。二十七歳。この墓には遺髪が納められている。

 

(円福寺)

 

円福寺   

 

 

忠應良勇信士(金成十四郎の墓)

 

 金成十四郎は、慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて戦死。墓石には享年三十四とある。

 

 

菅野家之墓(菅野周蔵の墓)

 

 菅野(すがの)周蔵は、慶応四年(1868)七月から九月、磐城方面にて戦死。傍らの法名碑によれば、七月十三日、磐城平にて戦死。二十七歳。法名は、「良安義勇信士」。

 

 これまで見てきたように、仙台市内の戊辰戦争殉難者の墓は、多くが新しく建て替えられて、その家の墓に合葬されている。側面に法名と没年月日が記載されているので、比較的見つけ易い。

 

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仙台 Ⅷ

2019年07月20日 | 宮城県

(栽松院)

 新寺町には寺院が多い。寺院の数以上に戊辰戦争の戦死者の墓も多い。「戊辰戦争とうほく紀行」(加藤貞仁著 無名舎出版)によれば、仙台藩の戦死者は千二百六十六人。この数は、会津藩の二千八百余名には及ばないが、二本松藩の三百三十八人、長岡藩の三百九人の四倍となる。道理で県内至るところで殉難者の墓に出会うことができる。

 

栽松院 

 

及川家之墓(及川英之丞の墓)

 

 及川家の墓の側面に「義身良心信士」とあるのが、戊辰戦争で戦死した及川英之丞(英五郎養子)である。慶応四年(1868)八月七日、相馬にて戦死。三十才。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。

 

(正楽寺)

 

 

正楽寺

 

 佐々木三郎兵衛は羽後平鹿郡横手の人。横手城の戦いで住民が山中に避難していまい、兵器や食料の運搬に往生した仙台・庄内藩軍は、すみやかに村に戻り運搬を請け負わなければ村を焼き討ちをすると脅した。佐々木三郎兵衛は、子の康綱と謀り、陣営に赴き放火を止めるように請い、運搬を請け負うことを承諾する。三郎兵衛は康綱を督促して運搬にあたり、村は焼き討ちを免れる。その後、両藩が撤退するにあたり、汝はこのまま留まれば秋田藩から咎めを受ける、両藩いずれかに仕えるように促し、三郎兵衛は伊達家に仕えることになる。庄内藩は我が軍に協力したために代々の資産を失うことは惜しいことであるとして、千金を与えた。 明治元年(1868)九月十五日に一家を挙げて仙台に来て、藩は士籍に列し禄及び物若干を賜う。三郎兵衛は、先祖の近江国主佐々木承禎から佐々木氏を称した。明治七年(1874)十二月没。享年八十四。

 

 

佐佐木三郎兵衛壽綱夫妻墓

 

(孝勝寺)

 孝勝寺は、伊達政宗以来、歴代当主の厚い庇護により伊達家一門格寺院となった。当初、全勝寺と称したが、二代藩主伊達忠宗の正室振子姫の法号から孝勝寺と改められた。境内には本堂のほか五重の塔や釈迦堂などを備え、新寺においても一際広い境内を持つ寺院となっている。墓地も相当広い。

 

孝勝寺

 

中村權十郎藤原盛成墓

 

中村権十郎は参謀。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城木戸弁天山にて戦死。

 

 

柘植家先祖累代親縁諸精霊之墓

 

 墓石表面に五人の法名が並ぶが、そのうち向かって右にある「相如院亦然日實居士」が戊辰戦線で戦死した山形藩士柘植長左兵衛門忠晴(「幕末維新全殉難者名鑑」では柘植長左衛門)のものである。

 柘植長左兵衛門は、慶応四年(1868)四月十三日、山形城内火薬爆発にて殉職。三十六歳(墓碑によれば、三十九歳)。

 

 

相如院亦然日實居士

 

 同じ孝勝寺の墓地に、もう一つ柘植家の墓がある。こちらも五名の法名が並ぶ墓碑で、中央の大きな文字で記されているのが、柘植長左衛門である。背面に、慶応四年(1868)四月十三日に戦死と刻まれている。山形藩士であった柘植家は、昭和にはいって仙台に移住したらしく、その関係でここに墓碑が建てられている。

 

(洞林寺)

 

洞林寺

 

従六位遠藤温之墓

 

 遠藤温(おん)は、文政六年(1823)生まれ。郷士で農業・醸造業を兼ね、万延元年(1860)献金により大肝入格から進んで番外士の待遇を受けた。幼少期より儒者斎藤竹堂について学び、江戸に出て昌平黌に入り舎長を務めた。帰藩後、尊攘派の一人に数えられ、再三にわたって建言した。戊辰戦争に際して、増田繁幸と協力。維新後、挙げられて大学中助教に任じられ、仙台藩少参事・判事を兼ね、藩政改革の中心的役割を果たした。明治十二年(1879)、県会議員となり、副議長、議長、衆議員議員を歴任した。明治二十九年(1896)、年七十四で没。

 

 

廣田家霊塔(廣田琢治の墓)

 

 廣田琢治は、銃士。山家正蔵隊。慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて戦死。洞林寺には遺髪が収められた(墓誌によれば、七月二十三日没。三十五歳)。

 

 

坂元家之墓(坂元小四郎の墓)

 

 坂元小四郎は、大立目武蔵の手。農兵指揮役。慶応四年(1868)七月二十八日、岩代本宮にて戦死。墓誌によれば、場所は奥州高倉。二十九歳。

 

(瑞雲寺)

 

瑞雲寺 

 

浦川家之墓(浦川与五郎の墓)

 

 浦川家の墓に、浦川与五郎が葬られている。浦川与五郎は、杢之助の長男。銃士。慶応四年(1868)七月二十八日、岩代高倉にて戦死。二十五歳(墓碑では二十六となっている)。法名は、「清徳院義芳道水居士」。

 

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仙台 Ⅶ

2019年07月20日 | 宮城県

(芭蕉の辻)

 この場所は、仙台城の大手から城下を東西に貫く幹線大町と奥州街道が交差する十字路に当り、古くから「芭蕉の辻」と呼ばれてきた。名称の由来は、かつてここに芭蕉樹があったためとも、繁華な場所ゆえ「場所の辻」が訛ったものともいわれるが、定かではない。正式には「札の辻」であり、制札が掲げられていた。

 

芭蕉の辻     

 

 嘉永五年(1852)三月、東北を遊歴中の吉田松陰は、善應寺の蒙古の碑を見た後、原町を経て大街(現・大町)の芭蕉の辻に向かった。

 

(大聖寺)

 青葉区荒巻字仁田谷地の大聖寺に小野寺鳳谷の墓があるという情報を得て、足を伸ばしてみた。しかしながら、大聖寺墓地は新しい墓地に変貌しており、どこを探しても小野寺鳳谷の墓は見つけられなかった。大聖寺は、明治六年(1873)に廃寺となった定禅寺の末寺であり、小野寺鳳谷の墓はもともと定禅寺にあったらしい。残念ながらそれ以上のことは不明。

 

大聖寺

 

(林香院)

 

                     

東海林家之墓

 

 仙台市内に戻って、まず新寺小路の林香院の墓地を訪ねる。墓地入口には、地図があって何家の墓がどこにあるか掲示されているので、目当ての墓に迷うことなく行き着くことができる。

 

 東海林家の墓に東海林龍蔵が葬られている。新しい墓石の側面に「忠道勇義信士 明治元年八月二十日 龍蔵」とあるのが、それである。

 東海林龍蔵は、椙原十太夫手銃士。慶応四年(1868)八月二十日、磐城旗巻にて戦死。

  

(善導寺)

 

善導寺          

 

 続いて善導寺の芝多民部の墓を訪ねた。ところが善導寺に行ってみると、墓地そのものが見当たらない。この日の夜、ゴールデン・ウィークの旅以来、一週間ぶりに再会した竹さんご夫妻と夕食をともにしたが、そこでお聞きしたところによると、善導寺の墓地は、市内葛岡霊園に移設されているそうである。後日、再調査しなくてはならない。

 

 芝多民部は、文政五年(1822)の生まれ。安政二年(1855)、仙台藩奉行職につき、殖産興業、富国強兵策を打ち出し、城下町近江商人中井新三郎を蔵元に任じて全面的な専売仕法を試みた。一方で、改正手形と称し、領内流用の金券を発券させるなど、果断な改革政策を実施した。三浦乾也に軍艦を製造させる等開明的な政策を進めたが、物価高騰による不穏の責を負い、安政五年(1858)、退職。しかし、青年武士によるかつぎ出しの動きが政争化し、慶應元年(1865)十二月、御預け・減封、所替えを命じられ、翌年二月、絶食の末、死去。年四十五。

 

(松音寺)

 続いて、これも新寺の一角にある松音寺である。安田竹之輔と高橋陣伍の墓がある。

 安田竹之輔の墓は、直ぐにみつかったが、高橋陣伍の墓はいくら探しても見つからない。これも、夕食時に竹さんに確認したところ、松音寺の墓地は、寺の本堂をはさんで南北に分れており、高橋家の墓は北側の墓地にあるという。これも地元の人に教えてもらわないと気が付かない盲点であった。翌朝、再訪してようやく高橋陣伍の墓に出会うことができた。

 

松音寺      

 

忠勝院英俊道勇居士 源良知之墓

(安田竹之輔の墓)

 

 安田竹之輔は、六百石。二番座召出格。郡奉行から足軽頭。参謀として戊辰戦争を転戦。明治二年(1869)四月九日、戦犯として切腹。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、仙台八ツ塚長泉寺に葬、とある。

 

 

高橋家之墓(高橋陣伍の墓)

 

 墓石側面には「夏雲勇義信士」という高橋陣伍(または陣吾とも)の法名が刻まれている。高橋陣伍は銃士。山家正蔵指揮。慶応四年(1868)六月二十九日、磐城小名浜にて戦死。三十六歳。

 

(龍泉院)

 

龍泉院 

 

塩沼家之墓

 

 塩沼貞吉は卒。慶応四年(1868)八月二十日、磐城大戸浜にて戦死。墓石側面の記述によれば、法名は「心鏡祖月信士」。「慶応四年八月十一日 貞吉 五十才」とある。五十歳というと、当時でいうとかなりの老齢であるが、一家の働き手である壮年の息子に代わって出兵を決めたのであろう。

 

(光寿院)

 

光寿院

 

 

三國家歴代之墓(三國平八の墓)

 

 墓石によれば、法名は「本念良空信士」。慶応四年(1868)五月朔日、白河口にて戦死。二十九歳。「三國屋平八」と記されている。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載なし。

 

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仙台 Ⅵ

2019年07月20日 | 宮城県

(東昌寺)

 青葉町の東昌寺に和田織部の墓がある。これを探してさんざん墓地を歩き回ったが、出会うことができずに断念。今回は二回目の挑戦となる。東昌寺は、南北に墓地があり、和田織部の墓は、本堂裏手の墓地の端にあった。

 

東昌寺    

 

  

横田家累世之墓(横田官平の墓)

 

 横田官平一義は仙台藩士。慶応四年(1868)閏四月、奥羽越列藩同盟の結成に際して、但木土佐、坂英力らとともに藩を代表して尽力した。墓石側面に「仙鳳院徳翁一義居士」という法名が官平のもの。大正三年(1914)三月二十五日、年七十三で没。

 

 

和田織部為恭墓

 

 和田織部は、天保三年(1832)、伊達氏一門の家柄に生まれ、十三歳のとき和田氏を継いだ。邸内に道場を設け、家政を革新した。戊辰戦争では参謀となり奉行職に進み、海岸防備に努めた。維新後、額兵隊(多数は箱館へ脱走)の収束に当り、さらに奉行として藩政の中枢にあったが、性剛毅にして政府に媚びるのを潔しとせず、勤王派の指弾するところとなり、明治二年(1869)四月、鎮撫使派遣の事件に際し、切腹を命じられた。年三十八。

 

 

和田織部遺訓碑

 

 君の為 荷ふ命は惜しまねと

 こゝろにかゝる國の行末

 

(覚範寺)

この辺りは、香取神社、光明寺から始まり、東昌寺、青葉神社、覚範寺、資福寺、輪王寺と寺社が軒を連ねている。正門から入ろうすると、一つひとつ階段を上り下りしなくてはいけないが、横着をして墓地から隣に移ると、階段の昇降を省略することができる。

 

覚範寺             

 

 

遠藤允信(文七郎)顕彰碑

 

 遠藤允信(さねのぶ)は、天保七年(1836)の生まれ。十九歳で父元良に代わり奉行となった。藩内尊王攘夷派の領袖となり、性格的には「酷烈」といわれた。文久二年(1862)二月、主命により天機を伺い、独断攘夷決行の上書を成した。藩論を尊攘に導こうとしたが、文久三年(1863)正月、政争に敗れ、閉門を命じられた。維新後、奉行に復し、戊辰戦争後の処理に当たった。待詔院に出仕。藩大参事、神祇少佑、権少教正を歴任。のち神職に転じ氷川、都々古別、平野、塩釜各神社の宮司を勤め、明治三十二年(1899)退官後、六十四歳で没。この石碑は明治二十九年(1896)八月の建立。松平正直の題額。岡千仭撰文、佐々木舜永の書。

 

千葉源左衛門平常俊墓 

 

 千葉源左衛門は仙台藩士中村要人の家来。戊辰戦争の敗戦後、松本要人の逃亡を助け、その身代わりとなって明治元年(1869)九月二十七日、自害。今も源左衛門の墓は中村家の墓所内にある。ここに松本要人の墓もあると思われるが、特定できなかった。

 

(資福寺)

 資福寺には五日市憲法の起草で知られる千葉卓三郎の墓や顕彰碑がある。

 

資福寺          

 

 

千葉家之墓(千葉卓三郎の墓)

 

 一見すると何の特徴もないシンプルな墓であるが、ここに千葉卓三郎が眠っている。

 墓石側面に「霜照院観月宇音居士 明治十六年十一月十二日 年三十二」とあり、墓前の石碑には「ジャパネス国法学大博士タクロン・チーバー氏ここに眠る」とある。卓三郎は自らタクロン・チーバーと名乗っていた。

 

千葉卓三郎記念碑        

 

 記念碑には、千葉卓三郎が起草した五日市憲法草案の抜粋が刻まれている。

 千葉卓三郎は、仙台藩士千葉宅之丞の子に生まれ、藩校養賢堂に学んだ。慶応四年(1867)の戊辰戦争にも参加した。明治十四年(1881)、自由民権運動家として五日市憲法草案を起草した。その功績を讃え、昭和五十四年(1979)、有志相計って生地宮城県志波姫町(現・栗原市)、起草地東京都五日市町(現・あきる野市)、墓地仙台市の三ヶ所に記念碑を建てた。

 

(全玖院)

 通町一丁目の斎藤家の墓域に、戊辰戦争にも出征した斎藤安右衛門の墓がある。

 

全玖院   

 斎藤安右衛門は、二百石。斎藤九郎右衛門の養子。戊辰戦争では狙撃隊長として活躍した。明治二年(1869)、藩内訌の犠牲となり、理由不明のまま四月十四日、切腹刑。

 

 戊辰戦後、敗戦の責を負って幹部が自刃したのは他藩でも見られることだが、戦後処分で斎藤のような軽輩までもが切腹しているのが仙台藩の特徴である。

 

武道良雄居士 齋藤藤行一字子敬之墓   

 

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