史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「元老 西園寺公望」 伊藤之雄著 文春新書

2019年04月28日 | 書評
嘉永二年(1849)生まれの西園寺公望は、慶応四年(1868)の時点で十九歳という青年公家であった。戊辰戦争では、山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北国鎮撫使、会津征討越後口大参謀として出征した。公家の岩倉具視に見出され、当人の強い希望もあってフランスに留学して見聞を広めたが、西園寺が政治家として飛躍できたのは、伊藤博文の憲法調査のための訪欧の随行員に選ばれたことが大きい。これ以降、伊藤博文の腹心として存在感を高めていった。
明治二十七年(1894)に伊藤内閣で文部大臣を務めたことを皮切りに、外務大臣や枢密院議長などの要職を歴任し、明治三十九年(1906)と明治四十四年(1911)、二度に渡って総理大臣に就いた。公家出身では初めてのことであった。桂太郎と交互に総理大臣を務めたことから、「桂園時代」とも称される。
首相辞任後、昭和十五年(1940)に九十歳で薨去するまでの長きにわたり、元老として政界に隠然たる影響力を持ち続けた。
元老というのは、大日本帝国憲法には規定のないポストであるが、内閣総辞職の際に天皇からの諮問を受けて、後継の内閣総理大臣を奏薦することを主な権能とした。史上元老と認められるのは、伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、大山巌、そして西園寺公望ら、ごく限られた面々である。松方正義が大正十三年(1924)に亡くなると、西園寺は最後の元老として存在感を放った。
本書で紹介されている元老西園寺公望は、興津の坐漁荘や京都の清風荘にいて、東京とは距離をとりながら、秘書を通じて情報を入手し、常に公正を意識して、その時々に最善の人選に努めた。
その西園寺を悩ませたのが、軍部の台頭であった。二二六事件では西園寺自身も暗殺のターゲットとなった。天皇からの下問を受けた西園寺は、体調不良を押して上京した。
個人的には西園寺公望と聞いて特段の印象をもっていなかったが、筆者によれば従来の西園寺のイメージは、「聡明で広い国際的視野を持つが」「政治家としては気力・意欲に欠ける」というのが一般的な評価なのだそうである。しかし、本書を通じて描かれる西園寺は、「古希を過ぎても理想を失わず、情熱的で粘り強く、老獪」でもあった。さらにいえば、健全な愛国心を持ち、常に元老として日本の政治を真摯に考えた人物であった。
晩年、体力の衰えが明らかになってくると、さすがに「政治への意欲と緊張感をなく」し、「後継首相推薦にも投げやりになった」。その裏には満州事変以降の日本を思うような方向に導けなかったという無念さ、最後まで尽力してみたがどうにもならなかったという達観、政治的な提案をしてもほとんど無視される現実、時勢を転換することが期待された近衛文麿や宇垣一成内閣への失望…そういったものがない交ぜになったのであろう。
昭和十五年(1940)十一月二十四日、ついに永眠。日本が英米に宣戦を布告し、転落するように破滅へ向かう、その一年前のことであった。思えば、明治初年から昭和に至るまで間近に政治に関わり続けたような政治家は、西園寺公望以外にいない。日本の破滅を見ることなくこのタイミングで世を去ったのは、せめてもの救いだったかもしれない。
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「住友を破壊した男 伊庭貞剛伝」 江上剛著 PHP研究所

2019年04月28日 | 書評
財閥解体前の住友には七人の総理事がいた。初代総理事広瀬宰平は、その中で最も著名で、カリスマ的存在といえるだろう。広瀬宰平は維新直後、政府に接収されそうになった別子銅山を守り、フランスから鉱山技師を招いて別子銅山の近代化を進めた。それまで人力に頼っていた鉱石の輸送を、牛車化さらに鉄道化したのも広瀬の功績である。
本書は、広瀬宰平の甥で、二代目総理事となった伊庭貞剛を扱った小説である。カリスマ経営者は、時に暴走して誰の諫言も耳に入らなくなる。まさに「猫の首に鈴をつける」役割を果たしたのが伊庭貞剛であった。思えば、絶対的存在となった広瀬に対して、引退を勧告できたのは貞剛以外にいなかったであろう。
――― 事業の進歩発達に最も害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈である。
という伊庭貞剛の言。直接、宰平に投げつけたものではないが、彼の存在が念頭にあったことは間違いないだろう。貞剛自身は五十八歳で経営から身を引くと、その後、一切口を出すことはなかった。私も今年ちょうどその五十八歳になった。今日的には、老人というにはまだ早いかもしれない。広瀬宰平のようにカリスマ性があるわけでも、会社に功績を残したわけでもないので、比較するのもおこがましいが、社内に仕事もないのに、未練がましく会社にしがみつくことだけは止めようと心に決めている。世の中には仕事が大好きな高齢者がいるが、自分しかできないと勘違いしないことだ。電車内で老人が座席を譲ってもらう代わりに、会社組織では若者に席を明け渡した方が良い。
本書には「住友を壊した男」という、一見すると逆説的な副題がつけられている。確かに、煙害被害の補償額と比べものにならないほどの高額な投資をしてまで、沖合の無人島である四阪島に製錬所に移転するというのは、経済性からすれば暴挙かもしれない。今日であれば株主や投資家が黙っていないだろう。
結果的に製錬所から吐き出される亜硫酸ガスは拡散して、煙害被害はさらに拡大してしまった。補償額は新居浜に製錬所があったときよりも高額になるし、真水の無い四阪島には毎日水を運ばなくてはならないので、ランニング費用も上昇している。まったく経済的には見合わない投資であった。
しかし、経済性を度外視してでも地域との共存共栄を優先するという経営姿勢は、住友の大事な財産として受け継がれることになった。
貞剛は、伐採と煙害のために禿山となってしまった別子の山に年間数百万本という植林をした。当然ながら、貞剛が生きている間、植林の成果を見ることはできない。これも短期的にはまったく経済的に見合わない行為であった。
百年後の今日、別子の山が緑に覆われていることを我々は目にすることができる。ついでにいえば、植林部門が企業として独立し、現在の住友林業株式会社に受け継がれている。「住友を壊した」どころか貞剛が今日の住友を作り上げたといっても過言ではなかろう。
企業経営は、十年二十年という単位ではなく、百年という単位でみて評価されるべきものだという事実をこのことは物語っている。

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日暮里 ⅡⅩⅨ

2019年04月20日 | 東京都
(瑞輪寺 つづき)


鶴林先生之墓(大沼鶴林の墓)

 枕山の墓の前には養嗣子鶴林の墓がある。大沼鶴林は漢詩に長じ、枕山の娘嘉年を娶って大沼家を継いだ人である。

 河鍋暁斎は、幕末から明治時代にかけて活躍した画家。天保二年(1831)、下総古河に生まれた。幼名は周三郎。はじめ浮世絵の歌川国芳に入門し、のち狩野派の前村洞和・狩野洞白に師事した。嘉永二年(1849)に修業を終え、洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を授かった。また、「狂斎」などと号して狂画・浮世絵など多様な絵を描いたが、明治三年(1870)書画会で描いた絵が政府高官をからかうものとして逮捕された(諸説あり不明)。翌年放免された後、狂斎を改め暁斎とした。明治十四年(1881)には第二回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図」を出品。日本画の最高賞(妙技二等賞牌)を受賞した。


河鍋暁斎の墓

暁斎は長く本郷区湯島四丁目(現・文京区湯島一丁目)に住んだが、晩年は北豊島郡金杉村に住居した(現・荒川区東日暮里五丁目)。台東区内の寺院や料亭にも作品が現存している。明治二十二年(1889)五十九歳で歿し、瑞輪寺の塔頭であった正行院に葬られた。暁斎は蛙を大変好んだため、墓石にも蝦蟇の形をした自然石が用いられている。法名は「本有院如空日諦居士」。

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目黒 Ⅷ

2019年04月19日 | 東京都
(ホテルプリンセスガーデン)
 目黒駅から北へ徒歩五分程度のところにあるホテルプリンセスガーデンは、三条実美の旧邸跡である(品川区上大崎2‐23)。敷地内の日本庭園は、三条邸時代の名残だというが、あいにく工事中であった。


ホテルプリンセスガーデン
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東京 Ⅸ

2019年04月19日 | 東京都
(丸の内二重橋ビル)


初代会頭 渋沢栄一像

 東京商工会議所の一階ロビーに初代会頭渋沢栄一の像がある。商工会議所の前身である東京商法会議所が設立されたのが明治十一年(1878)三月。初代会頭に渋沢栄一が就き、明治三十八年(1905)四月までその職にあった(千代田区丸の内3‐2‐1)。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅸ

2019年04月12日 | 茨城県
(常磐共有墓地 つづき)


多治見家墓(多治見荒次郎墓)

 多治見荒次郎は、奥番四郎次郎国重の二男。遊撃隊。明治元年(1868)九月二十九日、常陸石塚村で戦死。十六歳。

 時間の限り墓地を歩いたが、この日の常磐共有墓地での収穫はこれだけであった。嫁さんから、午後五時半までに自宅に戻るように厳命を受けていたので、三時前には水戸を出発し、ひたすら八王子を目指した。まるで「走れメロス」だな…と自嘲しつつ、約束の十分前に帰り着くことができた。
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城里 Ⅳ

2019年04月12日 | 茨城県
(カフェとき)


カフェとき

 かつては「そば処とき」といったが、現在はカフェとして営業中。黒沢止幾顕彰館を併設しており、黒沢止幾の日記や書簡などを展示している(城里町北方2137)。
 今回ここに立ち寄ったのは顕彰館を拝見することもさることながら、ここで黒沢止幾の墓の正確な場所を教えていただこうという魂胆があったからである。ちょうど昼食時だったので、ビーフカレーを注文し、支払いの際に黒沢止幾の墓の場所をマスターに尋ねてみた。「難しい場所なので、生家の近くで聞いてみてください」という答えであった。その後、生家まで行って近所で確認したが、確かに極めて分かりにくい場所にあった。


黒沢止幾子顕彰館

(黒沢止幾の墓)
 「カフェとき」で教えていただいたとおり、黒沢止幾生家の近所で黒沢止幾の墓を聞いてみることにした。ところが、行ってみると尋ねるにも相手がいない。ようやく近くに檜山商店というお店を発見した。声をかけると、奥から腰の曲がった老婆がでてきた。一見して老婆は、軽く八十歳は越えていると思われたが、受け応えは極めてしっかりしていて、店の外まで出て、丁寧に場所を教えていただいた。
 黒沢止幾の墓は、生家近くの錫高野(すずごや)の交差点から県道112号線を南に進み、三本目の左折可能な道を曲がって直ぐの場所にある栗林が目印である。そこが墓地への入り口になっている。老婆は、「止幾さんの墓は、墓の天辺にある」と教えてくれた。「山頂にあるんですか」と確認すると「いや、天辺」という。行ってみれば分かるが、墓地は斜面にあり、その一番高いところに黒沢止幾の墓があり、墓地はそこで途切れているのである。


贈従五位大教正黒澤止幾子刀自之墓

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常陸太田 Ⅴ

2019年04月12日 | 茨城県
(天下野)
 天下野と書いて、「けがの」と読む。県道33号線を走って天下野地区に差し掛かると、交差点に「木村謙次の墓」を示す案内板が立っている。小さなものなので、見逃さないように注意を要する。あとはその案内に従って左折、右折すれば、墓の入口に達する。そこから森の中を二百メートル歩くと、そこに忽然と木村家の墓所が現れる。


木村謙次の墓 案内板


酔古館木村子虚之墓

 木村謙次は宝暦二年(1752)の生まれ。天下野の人で、資性闊達、胆略に富み、医者、儒者、漢詩人、農政家、探検家を兼ねた憂国の志士であった。寛政の三奇人蒲生君平、高山彦九郎、林子平らと交わり、国家の急務を論じ、また奇行でも知られた。幼時、東金砂山東清寺の僧大雲に読書を学び、次いで水戸の立原翠軒に儒学、谷田部東壑、原南陽および京都の吉益東洞に医術を学んだ。常に時勢の衰退を嘆き、民情を視察してその窮乏を救おうと「足民論」を著して藩に呈上した。郷里に産業を興そうと蒟蒻栽培、造林の奨励、和唐紙製法の指導等に尽力した。不時の凶作に備えて郷倉を設けることを建議し実現させる等数々の功績があった。寛政五年(1793)正月、翠軒の命を受け、武石民蔵とともに蝦夷地松前に渡り、約一週間滞在してロシアの兵勢とともに地勢、風俗など詳細を調査して報告書「北行日録」を著した。寛政十年(1798)、近藤重蔵、最上徳内、村上島之允らとともに東蝦夷の島嶼部探索を幕府に命じられた。彼らが苦心の末、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てたことは良く知られるが、この文字を書いたのが木村謙次(下野源助と変名していた)であった。帰藩後、その功績を賞され、武士の身分を与えられた。文化八年(1811)、六十歳で亡くなった。

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高萩 中郷

2019年04月06日 | 茨城県

(南中郷駅)
 JR常磐線南中郷駅の駅前に、地元出身の長久保赤水の顕彰碑が建てられている(北茨木市中郷町小野矢指238)。建碑は昭和四十五年(1970)。


南中郷駅


頌徳(長久保赤水頌徳碑)

(長久保赤水旧宅)


長久保赤水旧宅跡

 長久保赤水が幼時を過ごしたといわれる旧宅跡(松月亭跡)である(高萩市赤浜3)。赤水は祖父貞永の屋敷で成長し、享保八年(1723)、二歳の弟や両親とともに赤浜村北原に移った。駅の近くに現在も立派な門構えの屋敷が残っている。赤水九歳のとき母が没し、父は後妻咸(みな)を迎えた。ところが、ほどなく父が没してしまい、継母咸は再婚せずに、ひたすら赤水の養育に力を注いだ。赤水はその期待に応えるべく学問に精進し、次第に頭角を現すことになった。

(北原墓地)
 赤水旧宅跡からその前の道を五分ほど行くと、「従是東 贈従四位 長久保赤水之墓」と記した大きな石柱がある。ここが北原墓地の入口になる。この奥に広大な長久保家の墓地がある(高萩市赤浜955‐1)。


従是東 贈従四位 長久保赤水之墓

 現代の我々が江戸時代に作成された正確な日本地図といえば、真っ先に伊能忠敬の地図が思い浮かぶが、伊能図は幕府が非公開としたため、江戸時代から明治初期に至るまで赤水の作った「改正「日本輿地路程全圖」(赤水図)が広く使われた。幕末、全国を旅した吉田松陰も赤水図を頼りにしていた。この地を訪れた松陰は、赤水の墓をお参りしている。


長久保赤水の墓
水戸前講讀官赤水長久保翁碑

(長久保赤水誕生の地)
 北原墓地の前の道をさらに南下すると、赤浜の集落の中に長久保赤水誕生の地を示す石碑が建てられている(高萩市赤浜774)。
 長久保赤水は、享保二年(1717)、多賀郡赤浜村(現・高萩市)の旧家に生まれた。長久保家は代々赤浜村の庄屋を務める家柄であった。


長久保赤水誕生地

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高萩

2019年04月06日 | 茨城県
(高萩駅)
 JR高萩駅前に長久保赤水の銅像が建てられている(高萩市高萩1928)。建立は平成二十四年(2012)。甲府駅前の武田信玄像や佐原駅前の伊能忠敬像と比べると、かなり知名度は劣るかもしれないが、郷土が生んだ偉人であることに違いはない。


長久保赤水像

 長久保赤水は、地元松岡の鈴木玄洋や佐渡の柴田収蔵、水戸の名越南渓などの良き師友に恵まれ、学問に励んだ。安永六年(1777)には水戸藩第六代藩主徳川治保の侍講に抜擢され、江戸小石川の水戸藩邸に住まい、儒学、地理学、天文学などを教授した。東北や長崎への旅の経験をもとに、渋川春海、森幸安らの日本地図を参考にして、さらに奥州道を行き交う旅人や高山彦九郎、木村蒹葭堂、古川古松軒らから得た情報を整合させ、経線緯線を付した新しい日本地図を完成させた。測量することなく情報のみで作成されたこの日本地図は、大阪から発刊され、後世「赤水図」と呼ばれ、旅人や幕末の志士たちの大いなる道標となった。
 長久保赤水像の隣に赤水図が設置されているが、現代人の目から見てもかなり正確である。赤水没後のことになるが、かのシーボルトも赤水図を持ち出し、今も欧米の博物館や大学に大切に収蔵されている。


改正日本輿地路程全圖

 赤水が侍講として江戸に赴いた翌年、農民生活の窮乏を水戸藩主に命がけで上奏し、農政や藩政の改善にも尽くした。退官後も八十歳まで藩主の特命を受け、大日本史地理志編纂に専念した後、生まれ故郷である赤浜に隠居した。享和元年(1801)、八十五歳にて没。

(松岡小学校)


松岡小学校

 現在、高萩市立松岡小学校のある辺りが、松岡城(別名龍子山城)の三の丸跡、藩校就将館跡にあたる(高萩市下手綱43)。学校の裏側(北)に二の丸、本丸が連なっていたが、現在城郭と呼べるような遺構は残っていない。辛うじて土塁や堀切や井戸の跡が確認できる程度で、城は自然に帰ろうとしているかのようである。


松岡城古井戸跡

 正保三年(1646)、松岡城は水戸藩付家老中山信政に与えられたが、宝永四年(1707)、中山氏が常陸太田に移った後、約百年、空城となった。享和三年(1803)、中山信敬が再び松岡に戻され、以来明治維新まで中山氏が続いた。維新後、独立して松岡藩が成立したが、廃藩置県により茨城県に統合され、松岡城も廃された。


松岡城跡

 松岡城も松岡藩も、今やすっかり忘れられた存在になってしまったが、江戸中期には、長久保赤水や鈴木松江(玄淳)、柴田平蔵(愿恭)、大塚(重々院)祐謙、大塚玄説、福地東園(充宣)、朝日祐誠といった優れた学者を輩出した。彼らは「松岡七賢人」あるいは「松岡七友」と称された。彼らの名を慕って多くの塾生が集まり、この地方の教育の中心となっていた。


お屋敷通り

 松岡小学校の校門前は、「お屋敷通り」と命名され、雰囲気のある家並が続く。
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