史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「徳川慶喜」 家近良樹著 吉川弘文館

2017-04-29 22:46:53 | 書評
今年は大政奉還から百五十年というメモリアルイヤーである。「そうか、あれから百五十年か」と感慨に浸っているのは、少なくとも私の身の周りでは私だけであるし、世間もそのことで騒いでいる様子はない。大政奉還の関連史跡といえば、京都の二条城くらいのもので、空間的な広がりが少ないことが今一つ盛り上がらない原因だろうか。
せっかくなので、大政奉還の主役である徳川慶喜の本を一冊。「一会桑政権」という概念を確立した家近良樹先生渾身の慶喜伝である。必ずしも「一会桑」は一枚岩ではなく、次第に溝ができ、大政奉還の直後には「会桑」は帰藩するところまで亀裂が深まった。ところが、それを止めたのが他ならぬ慶喜であった。慶喜にとって、「会桑」の軍事力が必要だったのである。しかし、それが慶喜の命取りとなる。新政府のしかるべきポスト(議定職)への就任が決定的となっていた慶喜は、寸前で退場を余儀なくされる。
我々は歴史の結果を知っているものだから、どうしても結果から歴史を見てしまいがちである。我々の先入観を家近先生は次々と覆してくれる。本書は、心地よい意外性の連続である。
たとえば、文久三年(1863)禁門の変前夜の慶喜は、長州藩に対して「寛大」な姿勢だったという。慶喜は禁門の変では先頭にたって長州藩に対決し、その後も長州藩に対して強硬な姿勢を取り続けたため、どうしても最初から反長州的だったように思いがちであるが、彼は「長州側を手厚く遇し、理を尽くして、京都からの退兵と朝命を待つことを粘り強く説得」することを主張したというのである。
時期は少し下って慶応二年(1866)七月二十日、将軍家茂が大阪城で病死すると、しばらく将軍空位期が続いた。我々はこの後慶喜が十五代将軍に就くことを知っているので、「すんなり決まったものと思いがち」であるが、実はこの時、慶喜のほかに田安亀之助(のちの家達)、尾張藩主徳川義宜(よしのり)、紀州藩主松平茂承、前津山藩主松平斉民らが候補に挙がっていたという。ほかにも前尾張藩主徳川慶勝、茂徳、あるいは水戸藩主徳川慶篤らの名前も取り沙汰された。驚いたことに、慶喜の実家である水戸藩の関係者は、慶喜ではなく、尾張藩主や紀州藩主、津山藩主らを推していたというのである。背景には天狗党に代表される藩内の攘夷派と対立していた藩主や藩重役らは、本圀寺詰めの水戸藩士を重用する慶喜を心よく思っていなかったことがある。
大政奉還において、ちょうどその日(慶応三年(1867)十月十四日)、薩長両藩に対して討幕の密勅が下されたが、大政奉還により無力化したと従来よりいわれている。たとえば日本史リブレット「徳川慶喜」(松尾正人著 山川出版社)には「大政奉還は、朝廷内でひそかに進められていた討幕派の画策を後退させる意義をもった」「大政奉還は、まさに討幕派の足もとをすくったことになる」と解説されている。
しかし、大政奉還と討幕の密勅が同じ日に重なったという、あまりに劇的な展開に、慶喜は討幕派の動きを察知して、それを封じるために先手を打ったような印象があるが、果たしてどうだろうか。本書によれば、この時期の慶喜がもっとも恐れていたのは「内乱」の発生だったとするが、これは必ずしも薩長の討幕運動ではなく、「攘夷主義者の浮浪の徒や諸藩士および本圀寺に滞留している水戸藩士らによる」奸計であった。大政奉還により討幕の密勅を封じたのは、単に偶然の所産と考えた方が自然なのかもしれない。
著者の慶喜評は的確である。「周到な準備期間を経て決断をしない。関係者を時間をかけて説得し、その上で決断を発表することをしない。そのために衝撃も反発も大きくなる。」慶喜の独断専行は大政奉還の場面に限らず、何度も繰り返して出現するのである。そのため周囲は振り回され、想定外の離反を産むことにも多がった。
慶喜の個性は幕末史に様々な波乱を招いた。改めて慶喜の存在感を確認することができた。この人がいなければ、幕末史はどうなっていたのだろう。

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「横浜・山手の出来事」 徳岡孝夫著 双葉文庫

2017-04-29 22:44:37 | 書評
つい先日、横浜外人墓地でカリューの墓を訪ねたところである。傍らの銅板には「妻イーデスによって毒殺された」と解説されているが、詳しく知ろうと思えば、元サンデー毎日記者徳岡孝夫氏の手になる「横浜・山手の出来事」以上の本はないだろう。本書は、平成三年(1991)第44回日本推理作家協会賞受賞作であるが、純然たるノンフィクションである。
事件は明治二十九年(1896)十月、横浜居留地における社交の舞台であったユナイテッド・クラブの支配人ウォルター・レイモンド・ハロウェル・カリューが急死したことに始まる。解剖の結果、カリューの遺体の全ての臓器から砒素が発見された。直ちに検屍裁判が始まった。妻イーデスが丸善やノーマル薬局から砒素を含むファウラー溶液を大量に購入していたこと。夫人は看病のためにカリューにつきっきりで、毒を飲ませるチャンスがあったのは彼女だけであったことから、イーデスに嫌疑が向けられた。
翌年一月から裁判が始まった。毒殺か過失死かという裁判の行く末だけでなく、次々と明るみに出るスキャンダルに居留地の耳目は集まった。イーデスと若い銀行員ディキンソンとの間で交わされた恋文の存在が明らかになる。衆人の前でディキンソンはその恋文を朗読させられる。ディキンソンと一緒になるためにイーデスは夫を毒殺したのか。
さらにアニー・リュークという謎の女の存在。アニー・リュークは、カリューがイーデスと結婚する前に婚約関係にあったとされる。この謎の女が復讐のために横浜に現れ、カリューを殺害したというのか。
カリューの死に不審を抱き、主治医のホィーラー医師に密告したカリュー家の家庭教師(ガヴァネス)メアリー・エスター・ジェイコブが、逆に真犯人として訴追され、ジェイコブとカリューとの仲が疑われることに…。カリューが淋病をやんでいて、その痛みを和らげるために砒素を常用していたことが明らかになるなど、次々とスキャンダルが明らかにされる。因みに、現代の我々にとって砒素といえばとんでもない劇毒物であるが、当時は薬用として認識されていたという。
傍聴席は常に満席であった。最後まで謎は謎のまま、判決の時を迎える。辞退の相次いだ陪審員はわずかに五名。しかも三十分足らずの審議の結果、カリュー夫人に死罪が申し渡された。
本当にカリュー夫人が真犯人とすれば、何故ベルツ医師を呼んで瀕死の夫を救おうとしたのか。やはり謎は残る。筆者がいうように、人間は時として必ずしも合理的な行動をとらない。だから人間は面白いといえるのかもしれない。
五百ページ以上におよぶ本書は、三部から構成される。一部と二部は法廷の場面がほとんどを占める。三部では筆者がイーデスやカリューの出身地であるイギリスを訪ねる。まさに時空を越えた謎解きの旅である。現地の協力者を得て、筆者は当時の裁判では明らかにされなかった新事実やカリュー家・ポーチ家の家系図、カリュー家の家族写真、イーデスや二人の子供のその後等を解明してみせる。筆者は「数え切れないラッキーな偶然の上に成った」と謙遜するが、幾多の幸運を招いたのも筆者の執念のなせる結果であろう。
カリュー夫人の弁護人を務めたのはラウダー弁護士である。ラウダーは万延元年(1860)、十七歳の時、イギリス外務省領事部門の日本語通訳生として来日した。文久二年(1862)にブラウン宣教師の娘、ジュリアと結婚。大阪副領事、兵庫領事代理、新潟領事代理などを歴任し、二十六歳の時、横浜駐在領事に昇任した。明治以降も法律顧問として横浜税関の整備に貢献。横浜税関在任中にアヘン輸入を条約違反として摘発したり、座礁した外国船ノルマルトン号の日本人犠牲者への補償追及に功績があった。
本事件は領事裁判が廃止される直前の事件である(領事裁判権の廃止は明治三十二年(1899)のことである)。ラウダー弁護士は、手練手管を尽くしてイーデスの弁護に尽くした。ラウダーは、我が国の条約改正問題では、領事裁判権の廃止は時期尚早として強硬な反対論者であった。日本人に向かって「君たちにはまだこのような弁護はできないだろう」と主張しているかのようである。
それにしても、当時の領事裁判も決して十分なものではない。もし、彼女が現代の法廷で裁かれていたら、決定的な証拠がないまま無罪とされたであろう。

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「西郷隆盛の明治」 安藤優一郎著 洋泉社歴史新書

2017-04-29 22:41:34 | 書評
「勝海舟の明治」に続く安藤優一郎氏の本である。しかし、勝海舟と比べると、西郷隆盛の明治は遥かに複雑である。西郷隆盛はどうして遣韓使節を主張したのか。どうして西南戦争を起こしたのか。どうして戦闘の指揮を取らなかったのか。明治政府の首班として近代化政策を推し進めながら、最後は士族に担がれて賊として討たれた。維新後の西郷は謎に満ちている。司馬遼太郎先生は、長編「翔ぶが如く」で文庫本にして十巻に及ぶ紙面を費やして、結局確たる答えを見出せなかった。結論からいえば新書一冊で簡単に答えの出るものではない。
本書では①西郷は体調も悪く、死を意識する状態にあったことで、「最後の仕事という気持ちも募った ②戦争をひたすら回避しようとした徳川幕府の二の舞にならないよう強硬策を主張した ③開戦すれば士族の働き口が確保できる ④はからずも新政府のトップに立ち、批判を一身に集めることになってしまった。この重圧から逃れたいという気持ちが遣韓へ走らせた といった推定をしている。本書では維新以降、西郷と久光の確執を追い、西郷が久光から執拗に責められていた事実を明らかにしている。西郷の精神状態は推し測るしかないが、追い込まれていた側面はあったかもしれない。
明治十年(1877)、西郷は挙兵を決意する。戦争に至る経緯について、本書では薩軍に鎮台を侮る空気があったと指摘する。確かに徴兵によって集められた農民に軍事訓練を施して拵えた鎮台兵は、最強といわれた薩軍の敵ではないだろう。さらにいえば、熊本鎮台の参謀長樺山資紀は薩摩出身であり、帰順するのではと期待されていた。海軍大輔の川村純義にいたっては、西郷の遠い親戚でもあり、政府の軍艦を率いて帰順すると見られていた。西郷が進めば、政府に残っていた薩摩出身者も駆け付け、政府に不満をもつ士族も陸続と集まってくる。要するに楽観の上に楽観を重ねて、戦略もなく出兵したのである。
出兵にあたって、西郷は県令大山綱良に対し、尋問のため多数の兵を率いて東京に向かう。通過する地域の人民が動揺しないようにして欲しいという書面を届けた。大山県令はその旨を九州各県に通知した。
これを受けた政府の動きは迅速であった。早々に征討軍を結成した。大山県令は征討軍派遣に強く抗議する書面を有栖川総督に提出しようとするなど、思わぬ反応に困惑が広がった。これも西郷の誤算であった。
鹿児島県から熊本鎮台に向けて、西郷軍が城下を通過する際、兵は整列してその指揮を受けるように、という文書が届いた。司令長官の谷干城は激怒し、参謀長樺山資紀は使者に文書を突き返した。あまりに温度差が大きかった。帰順を期待していた熊本鎮台は、完全に敵に回ってしまったのである。
西郷の驕りと楽観が、全軍に、そして鹿児島県にまで蔓延していた。薩軍は戦略もなく蹶起し、無謀な戦争に挑んでしまった。それにしても維新前は的確な政局判断を積み重ね倒幕の立役者となった西郷が、どうして人が変わったように判断ミスを繰り返したのだろうか。この点は全くの謎である。
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菊池 泗水 Ⅱ

2017-04-22 09:56:12 | 熊本県
(西南戦争官軍第三旅団本営跡)


西南戦争官軍第三旅団本営跡

 これも前回の訪問時に発見できなかった石碑である。菊池観光協会に問い合わせして、場所を特定することができた。前回、光徳寺の西側ばかりを探していたが、この碑は東側三十メートルばかりの地点にあった。

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菊池 Ⅱ

2017-04-22 09:51:13 | 熊本県
(廣現寺)
 薩軍が宿営地とした廣現寺と音光寺を訪ねる。二つの寺は隣り合っている。


廣現寺

(音光寺)


音光寺

(妙蓮寺)


妙蓮寺

 妙蓮寺境内には推定樹齢六百年という大楠がそびえたっている。その根もとに古い墓石が置かれているが、その中の一つが神風連の乱に参加した吉村義節(のりとき)のものである。
 吉村義節は、神風連の部隊長を務め、県令安岡良亮邸に斬り込んだ中心人物である。小さな墓の横に大きな記念碑が建てられている。


吉村義節之墓


志士吉村義節之碑

(蘆花夫人生誕地)


蘆花夫人徳富愛子生誕之地碑

 徳富蘆花夫人愛子は、明治七年(1874)七月、この地で酒造業原田家の一番末の一人娘として生まれ、十一歳のとき一家は熊本市へ転住した。十七歳のとき御茶ノ水の東京女子高等師範学校へ入学した。卒業後、一年間小学校に勤務したが、縁あって二十一歳で蘆花(当時、二十七歳)と結婚し、その創作活動を助けた。蘆花の死後は、蘆花全集の出版や遺品展、記念講演会などを催し、東京には蘆花恒春園をつくるなど蘆花の顕彰に努めた。昭和二十二年(1947)没。

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山鹿 方保田

2017-04-22 09:48:49 | 熊本県
(金凝神社)
 一年前に山鹿の西南戦争史跡を案内していただいた際に漏らしてしまった金凝神社を訪ねる。境内に地元の人たちが軍夫として従軍し、無事に帰還したことを記念して建てられた祠がある。


金凝神社


軍夫の碑
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玉名 下 Ⅲ

2017-04-22 09:45:41 | 熊本県
(梅林児童公園)


松村大成 永鳥三平両先生顕彰碑

 これも前回訪ね当てられなかった松村大成、永鳥三平顕彰碑である。兄弟が生まれた梅林の児童公園内にある。
 児童公園と名付けられているが、実際に子供の姿はなく、老人がたくさん集まっていた。松村・永鳥顕彰碑の前はゲートボール場になっており、お年寄りがゲームを楽しんでいる。ゲートボール場に足を踏み入れないと、顕彰碑を正面から撮影することはできない。私は「済みません、済みません」と何度も頭を下げて、一時ゲートボールを中断してもらい、何とか写真に収めることができた。

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玉東 上白木

2017-04-22 09:44:07 | 熊本県
(薩軍三勇士の墓)


西南役薩軍戦没勇士之墓

 前回行き着けなかった薩軍三勇士の墓に再チャレンジである。山北保育園の南側の丘にある。
 この墓に葬られているのは、薩軍の藤坂吉左衛門宗隆、伊集院義兼、山倉文左衛門義種の三 士。このうち藤坂、伊集院の命日は、明治十年(1877)三月十日とされている。この日、薩軍は木葉の政府軍を襲う目的で三個小隊を木留の本営から出動させ、玉東町西安寺の辺りで政府軍と戦った。この戦闘で薩軍萩原隊に十余名の死傷があり、藤坂、伊集院、山倉の三士は、萩原隊に属していたと考えられている。山倉は三月十日、負傷し、近所の山野家に匿われたが、五月二十日落命。藤坂、伊集院の墓地に追葬された。この墓碑は、昭和六十三年(1988)に新しく建てられたもので、三士の位牌は今も山野家に祀られているという。

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植木 轟

2017-04-22 09:38:09 | 熊本県
(七本官軍墓地)


七本官軍墓地


陸軍少尉正八位河原林雄太之墓

 西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した官軍墓地は、全部で二十一カ所ある。七本官軍墓地は、西南戦争を通じて最激戦地となった田原坂や植木、滴水、木留などで戦死した東京、大阪、名古屋、広島および熊本鎮台の兵士三百余が葬られている。植木の緒戦で戦死し、あの軍旗紛失事件で有名な河原林少尉の墓もここに在る。
 墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所それに出身地などが刻まれている。


警視隊の墓

(柿木台場薩軍墓地)
柿木台場薩軍墓地には、三月十四日、七本で戦死した熊本隊三番小隊長の城市郎ほか約三百余基の薩軍兵士が眠る。
この周辺における戦闘は三月初めから吉次、田原坂付近で始まり、三月二十日に田原坂における戦いが終結すると、吉次、木留、植木に移った。


柿木台場薩軍墓地から吉次峠を臨む


薩軍慰霊碑


城市郎らの名を記した墓碑


熊本諸隊奮戦之處

 柿本台場薩軍墓地からは激戦地となった吉次峠、半高山を臨むことができる。三月四日以降、政府軍はこの峠を「地獄峠」と呼んで恐れた。

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植木 豊岡 Ⅱ

2017-04-22 09:32:45 | 熊本県
(田原坂資料館)
 映画や小説の舞台となった場所を訪ねる行為を「聖地巡礼」というらしい。私にとって史跡訪問は「聖地巡礼」と同じことかもしれない。数多い史跡の中で、個人的に「聖地」と呼ぶに相応しい場所が田原坂である。今回、二十年振りに田原坂公園を訪ねることができた。二十年というとかなり長い時間であるが、田原坂の景色や史跡は、ほとんど二十年前から変わっていない。
田原坂公園の中心は資料館である。激戦の中で銃弾に嵐に晒された民家が、「弾痕の家」として今に伝えられ、内部は現在資料館として利用されている。

資料館には、銃弾や砲弾、銃、衣類や食器などが陳列されている他、地元史家作成のビデオなどが上映されており、マニアは時間が経つのも忘れてしまう。


田原坂資料館 弾痕の家

 大楠の根もとに馬にまたがる美少年像がある。民謡田原坂に歌われる美少年は、一説に村田新八の長男岩熊がモデルともいわれるが、像には敢えて「この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である」と説明が加えられている。


美少年像

銃撃戦の凄まじさを物語る「ゆきあい弾」がこの付近でいくつも発見されている。敵味方の放った銃弾が空中で衝突したものである。


西南の役戦没者慰霊之碑

西郷隆盛を始め、万を超す西南戦争戦没者全ての氏名を刻む。その数は、官軍六九二三名、薩軍七一八六名、殉難者二九名に及ぶ。


崇烈碑

 崇烈碑には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子が刻まれている。田原坂の激戦の勝利の意義が官軍の立場から述べられている。撰文および篆額は有栖川宮熾仁親王、書は陸軍省秋月新太郎。


大綿や古道いまも越えがたき
辺見隊守りし嶮ぞ島瓜
吉次越狐の径となりて絶ゆ


伍長谷村計介戦死之地

宮崎県の寒村糸原出身の谷村計介の戦死の地の石碑が、田原坂資料館から程無い場所に立っている。単なる使者に過ぎない谷村計介が、どうしてこんなにもてはやされているのか不思議であったが、資料館の説明によると戦前の教科書に谷村計介が載っていたというのである。城から抜け出し、一度敵に捕らえられながら、機転をきかせて脱出し、見事使者の任を果たしたというお話である。


西南役戦没者慰霊碑


一の坂附近

 麓の豊岡眼鏡橋からの標高差はわずか八十メートル。一の坂、二の坂、三の坂を経て坂の頂まで約一・五キロメートルの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道幅があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本城に達することはできなかった。官軍にとってまさに勝敗を制する道であった。戦略上の重要地であったため、田原坂は激戦の舞台となったのである。
 両側が道路より高い凸状の道は、前方の藪や左右の高所から銃撃を受けやすく、攻め難い要地であった。

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