史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小諸

2011年09月18日 | 長野県
(懐古園)


小諸城址

小諸城址は、むしろ「懐古園」という名称の方が通りが良いだろう。廃藩後、小諸城は荒れるにまかされていたが、明治十三年(1880)に整備され、懐古園として開園された。


千曲川

幕末の小諸は牧野氏一万五千石の城下であった。戊辰戦争に際して、小諸藩は新政府軍に帰順したが、本藩である長岡藩との戦争を避けるため、北越戦争への従軍は拒否した。


小諸神社


懐古園之碑

本丸跡に小諸神社が建立されている。小諸神社境内に懐古園之碑が建てられている。題額は勝海舟、撰文と書は中村敬宇である。


佐々木如水先生碑

佐々木如水は享和三年(1803)小諸藩に生まれた。幼時より学問武芸に精励し、成長するにつれ文武両道に優れ、門弟千人を数えたという。文久三年(1863)、上京して新徴組に参加した。この石碑は明治に入って門弟らが北国街道入口に建てたもので、山岡鉄舟の題額、高橋泥舟の書が刻まれている。


藤村記念館

小諸は明治三十二年(1899)に島崎藤村が木村熊二の経営する小諸義塾の教師として赴任し、以来七年間を過ごした所縁の深い土地である。昭和三十三年(1958)懐古園内に藤村記念館が開設された。


島崎藤村胸像


牧野(康哉)公遺徳碑

九代藩主牧野康哉(やすとし)は、聡明で先進的な藩主だったといわれる。他藩に先駆けて種痘を奨励し、二宮尊徳の報徳仕法を取り入れるなどの藩政に実績があった。安政五年(1858)には若年寄に任じられ、大老井伊直弼のもとで活躍した。文久三年(1863)に四十六歳で死去し、跡を長男康済が継いだ。


徴古館

三の門近くにある徴古館は、小諸城ゆかりの武具や古文書類が展示されている。

(小諸義塾)


小諸義塾


小諸義塾跡碑

小諸義塾は、明治二十六年(1893)木村熊二によって開かれた私塾である。木村は明治初年にアメリカにわたり、十二年間留学によって近代西欧文明を身に付けた教育者であり、キリスト教の牧師であった。小諸義塾は島崎藤村(国語・英語)や三宅克己(図画)ら優秀な教師を得て、充実した中学教育へと発展したが、明治三十九年(1906)十三年という短い歴史を閉じた。



小諸義塾展示


木村熊二レリーフ

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長野 Ⅱ

2011年09月18日 | 長野県
(信叟寺)


信叟寺 山門

金箱の信叟寺には、飯山城の山門が移築されている。慶応四年(1868)三月の飯山戦争時のものと思われる刀傷が残っている。


刀傷

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飯山

2011年09月18日 | 長野県
(飯山城跡)


葵神社

飯山は唯一長野県下で戊辰の戦火が及んだ町である。堀、佐久間、松平、永井、青山と目まぐるしく藩主が交代したが、享保二年(1717)本多氏が糸魚川から転封されると、十代にわたって維新まで飯山藩主をつとめた。


飯山城跡


飯山城石垣

慶応四年(1868)三月、越後高田から侵入した旧幕軍の衝鋒隊の猛攻を受け、城下を焼かれた。飯山藩は、松代藩や上田藩、須坂藩等の支援を受け、衝鋒隊を撃退した。
本丸跡には葵神社が建てられている。飯山城の遺構としては、石垣や土塁が残っている。

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佐渡 Ⅱ

2011年09月12日 | 新潟県
(真野新町)
今回の佐渡の旅の一番の目的が真野新町の司馬凌海生家跡を訪ねることにあった。JA真野を目指せばすぐに発見できると高を括っていたが、なかなか見つけられない。市役所真野支局まで行って教えてもらい、ようやくたどり着くことができた。実際に生家があった場所は、JA真野の北側、今は道路になっている。


司馬凌海先生生家跡

司馬凌海は、天保十年(1839)にこの地に生まれた。幼名は伊之助(または亥之助)といった。姓の島倉の音から司馬と称した。通称は凌海。名は盈之(みつゆき)。十二歳で江戸に出て松本良輔、佐藤泰然について蘭医学を学び、のちに長崎に出てオランダ医師ポンペについた。語学の天才と言われ、六ヶ国語に通じた。維新後、ドイツ語の私塾「春風社」を開いた。我が国初の日独辞典「和訳独逸辞典」を出版したことでも知られる。明治十二年(1879)神奈川県戸塚にて死去。享年三十九。
以上の履歴を読んでも面白くも何ともないが、この人物が、司馬先生の小説「胡蝶の夢」に副主役として登場する。恐らく現代の精神科医に診断させれば、アスペルガー症候群もしくは発達障害という病名がつくであろう。歴史の波間に一種の奇人が紛れ込み、周囲の著名人を巻き込んで混乱させる様子が実に面白い。


山本邸

「胡蝶の夢」では、司馬凌海の生家のとなりに山本家があるという設定になっているが、実際には斜め向かいである。今も表札は「山本半右衛門」となっている。この家からは郷土史家の山本修之助、修巳(当主)のほか、実業家からのちに政治家に転じ、昭和初年に農林大臣を務めた山本悌ニ郎、戦前外務大臣を務めた有田八郎が出ている。

(真野小学校)
真野小学校の校舎傍らに司馬凌海の顕彰碑が建てられている。篆額は山県有朋、撰文石黒忠悳、山本半蔵の書。明治三十九年(1906)に建立されたものである。


司馬凌海顕彰碑

(佐渡奉行所跡)


佐渡奉行所跡

司馬遼太郎先生の「街道をゆく~佐渡のみち」では、佐渡奉行所について「建物はなに一つ残っておらず、学校の運動場のようにそっけない」と記録している。佐渡奉行所は昭和十七年(1942)に全焼したが、平成十二年(2000)に復原再建された。因みに司馬先生がこの地を訪れたのは昭和五十年代のことであった。

勝場(せりば)というのは、鉱石を粉砕して比重によって金銀分を分離採取する、いわゆる比重選鉱の工程である。


勝場(せりば)

佐渡は金を産出したため奉行所を置いて管理する天領であった。奉行所は、地方役、町方役、書役といった民政や財務を担当する部署のほか、山方役、筋金所役といった金山を管理する佐渡奉行所特有の組織を備えていた。公事方や御裁許所といった、現代でいうと裁判所的な機能も有していたので、奉行所内には白州もあった。


御白洲

天保十一年(1840)、幕末の名官吏川路聖謨が佐渡奉行として赴任している。川路の佐渡在勤は一年足らずの期間であったが、その間「佐渡奉行在勤日記」を残している。
幕末の佐渡奉行は、鈴木重嶺(しげみね)である。世情不安定な時期に佐渡を治められるのは彼をおいてほかはないと、勝海舟が推薦したという。慶応四年(1868)維新により免官となったが、相川県参事に任命され明治九年(1876)に新潟県に合併されて廃県となるまで在職した。鈴木は和歌・国学に秀いで、県参事時代に清楽社を結成して活発な作歌活動を行った。明治三十六歌仙の一人に数えられる。


北沢地区施設群

佐渡金山は、大立地区、高任地区(道遊の割戸がある)、間ノ山地区、北沢地区に製錬・選鉱施設が建設された。佐渡奉行所の駐車場から北沢地区の施設群を見下ろすことができる。奥に見えるのは五十㍍シックナ―、手前のレンガ造りの建物は発電所跡である。向かい合って立っている新しい建物は、相川技能伝承館。北沢地区の工場は、昭和二十七年(1952)まで稼働していた。

(佐渡金山)


道遊の割戸

佐渡奉行所から佐渡金山に向かう途中、「道遊の割戸」を遠望することができる。「道遊の割戸」は、佐渡金山発見の端緒となった主要鉱脈道遊脈の露頭堀跡である。山頂を真っ二つに割った採掘跡は佐渡金山の象徴となっている。道遊の割戸のことを司馬先生は酷評している。「ながめていて気持ちのいいものではない」「自分が無宿人ででもあるかのように、しかもこれら異様な空間の中に立たされているような思いに襲われる」。確かに不気味な造形ではあるが、長い時間をかけた人間の営みの結果だと思うと神々しくもある。


佐渡金山 宗太夫坑


佐渡金山 地下排水作業

佐渡金山は、観覧料を払って坑内に入ることができる。江戸時代に採掘された宗太夫坑コース、明治に入って近代的な方法によって掘進された道遊坑コース、いずれも大人八百円、小中学生四百円である。両コースを見学する場合は、千二百円と割引きが適用される。
宗太夫坑内の展示は、ある意味では予想とおりというか、日本人が鉱山と聞けば連想するような、「暗い」「汚い」「キツイ」さらに「危険」、すなわち4Kを忠実に再現している。実際に佐渡金山に連行されて強制労働をさせられた無宿人は、数年で珪肺になって死んだという。
――― 四十をこえたるはなく、多く三年、五年のうちに肉おち、骨かれて、頻りに咳出て、煤のごときもの吐きて死する(川路聖謨「島根のすさみ」)
無宿人というのは、江戸時代独自の存在である。人別帳から抜かれて、無戸籍者となって江戸や大坂といった都市に流入した人たちのことである。坑内に置かれた説明によれば、江戸時代に佐渡金山に連行された無宿人は千八百四十二名。「意外と少ない」と書いてあるが、誰にとって意外なのだろうか。罪もない人を千八百四十二人も連れてきたと考えれば、十分多い数のように思う。
佐渡金山の蝋人形展示は、予想とおりのものではあったが、著しく坑内労働のイメージを歪めていることも事実である。現在の坑内労働はずっと快適で安全である。日本人もそろそろ坑内労働の前近代的イメージを塗り替えて欲しいものである。
我が国で金山というと、この佐渡金山が抜きんでて有名であるが、産出金量でいえば江戸時代から平成元年(1989)の閉山まで採鉱されたのは七十八トンである。現在、国内で唯一稼働している金属鉱山である菱刈鉱山(鹿児島県)は昭和六十年(1985)の出鉱以来、既に百八十六トンを産出しており、その量は佐渡金山を大きく上回り日本一となっている。

(明治紀念堂)


明治紀念堂 開導館

レンタカーのカーナビで明治紀念堂を目指す。近くまで来ているのだが、見つけられない。市役所で聞いてようやく行き着くことができた。
明治紀念堂開導館は、日露戦争で戦死した佐渡出身者四十名の兵士を弔うために建てられた。堂内には大山巌元帥の書「忠魂」のほか、各種資料が展示されているというが、予め連絡をしておかないと開けてもらえない。


ロシア水兵の墓

日露戦争の後、佐渡の海岸に二名のロシア水平の遺体が流れ着いた。得勝寺の住職本荘了寛は、埋葬して墓標を建てた。

(宿根木)


三角形の家

佐渡の史跡訪問の旅、最後の訪問地は宿根木である。宿根木は、佐渡島の南西端に位置する小さな集落であるが、狭い空間にパズルをはめ込むように木造の民家が建てられている。
中でも最も目を引くのが三角形の家である。最大限に土地を活用するためにこのような形で家が建設されたものらしいが、船大工の技術が応用されているという。


柴田収蔵生家

「胡蝶の夢」の冒頭に登場する柴田収蔵の生家である。柴田収蔵は、文政三年(1820)に宿根木に生まれ、江戸で苦学の末、幕府に登用され蕃書調所絵図取締役に取り立てられた。当時としては極めて正確な世界地図「新訂坤與略全図」を作成して出版した。卵型をしたこの世界地図は、この時代としてはかなり正確に描かれているが、ロンドンやパリと並んで、佐渡島や宿根木が書き込まれているところがユニークである。安政六年(1859)江戸で死去。


称光寺

称光寺には、柴田収蔵の墓がある。墓は柴田家の墓域にあるが、深く苔むしており、文字はほとんど読み取れない。


柴田収蔵の墓


大浜

小木港に帰り着いたのは、予定とおり十八時であった。夕陽が山の向うに沈むところであった。

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佐渡 Ⅰ

2011年09月12日 | 新潟県
前回挫折した佐渡渡航に再挑戦である。
フェリーとレンタカーがセットになったツアーに申し込んだところ、最低二人でないと受け付けないと断られた。相棒を探したが、息子は鉄道研究会の合宿、長女はテニス合宿、次女は大阪の祖父母のところへ帰省と予定が入っていた。やむを得ず正規料金を払って一人で動くことになった。
佐渡へ渡るには、新潟、寺泊、直江津の三港から行く方法がある。前回の新潟行で取りこぼしの多かった上越、柏崎方面を回るため、直江津発着とした。直江津から佐渡の小木港まで片道二時間半の旅である。奇数日か偶数日によってフェリーの発着時間が異なっており、私が選んだ日は昼過ぎに小木に到着し、午後七時半に小木を出るという時刻表であった。つまり佐渡滞在時間は実質的に半日。限られた時間に効率よく史跡を回らねばならない。今回は観光を楽しんでいる時間はない。


こがね丸

気持ちの良い晴天であった。幸いにして波は小さく、フェリーに乗っていてほとんど揺れを感じなかった。しかし油断をしてはいけない。船酔いには人一倍弱い私は、事前に酔い止め薬を飲んで、リクライニング可能な一等椅子席を予約し、万全を期した。


直江津港

フェリーは「こがね丸」といって、五階建てのちょっとしたホテルのような内装の船である。下層二階は自動車を乗せる船倉となっている。乗客のほとんどは自家用車を乗せており、私のように島に渡ってそこでレンタカーを借りようという人はあまり多くないようであった。自家用車を島に運ぶのは非常にお金がかかる。私のように日帰りで往復しようという者には割高である。
フェリーが直江津を出ると、湧き出るようにカモメが現れ、フェリーのあとをついてくる。彼らのお目当ては乗客が投げるかっぱえびせんである。カモメはかっぱえびせんを見事に空中でキャッチする。そのたびに拍手喝采。出発からしばらくはカモメのショーで十分暇つぶしができる。


カモメ


佐渡島

やがて水平線の向こうに佐渡島が現れる。司馬遼太郎先生は「街道をゆく~佐渡のみち」で、佐渡といえば「日本海の荒海の上に浮かんでいる」というイメージがつよいと書いているが、この日は荒海というには程遠い穏やかな天候であった。佐渡は美しい楽園であった。かつて遠流の島だったという過去は極めて想像しにくい。


小木港

小木港は佐渡島の南端に開かれた港である。古くから本土からの物資はここで荷揚げされ、相川街道を運ばれた。

(真野御陵)


真野御陵(順徳天皇御火葬塚)

佐渡島の歴史は流人の歴史でもある。史上、最大の流人は順徳天皇であろう。
真野御陵の祭神は順徳天皇である。この天皇は討幕を企てた承久の乱(1221)に敗れて佐渡に流され、当地で崩御した。
順徳天皇の遺体は佐渡真野山で荼毘に付され、遺骨は京都に持ち帰られて京都大原に葬られた。真野御陵は厳密にいえば火葬塚であるが、当時より地元の民衆に御陵として崇敬を集めていたので、今も宮内庁の管轄下にある。


凛冽萬古存碑

真野御陵の前に一つの石碑がある。嘉永五年(1852)二月、東北旅行の途上、宮部鼎蔵とともに吉田松陰が真野御陵を訪れた。二人は順徳天皇を配流した時の北条執権に憤り、悲憤慷慨の詩を詠んだ。その時の漢詩が刻まれている。

異端邪説誣斯民 非復洪水猛獣倫
苟非名教維持力 人心将滅義與仁
憶昔姦賊乗国均 至尊蒙塵幸海濱
六十六州悉豺虎 敵愾勤皇無一人
六百年後壬子春 古陵来拝遠方臣
猶喜人心竟不滅 口碑於今傳事新
吉田松陰撰

陪臣執命奈無羞 天日喪光沈北陬                          
遺恨千年又何極 一刀不断賊人頭
宮部鼎蔵撰

(真野公園)


真野宮

真野御陵を五百メートルほど下がったところに真野宮がある。祭神は順徳天皇と日野資朝、菅原道真。
真野宮に近い場所に真野公園が広がっている。公園内には文学散歩道が整備されており、道沿いに佐渡に関係の深い文化人の文学碑が立てられている。


司馬遼太郎文学碑「胡蝶の夢」

昨今、「東京ではセミが減った」とまことしやかに囁かれているが、ここでは都会のセミがここに集まったのではないかと思えるほど繁殖している。残念ながら散歩道はほとんど手入れされておらず、雑草が生い茂り、至るところに蜘蛛の巣が張っている。せっかく施設を作ったからには、その維持まで気を配ってもらいたいものである。
散歩道の奥まった場所に司馬遼太郎先生の傑作「胡蝶の夢」の碑がある。石碑には「胡蝶の夢」の冒頭部分が刻まれている。


海音寺潮五郎文学碑

海音寺潮五郎も佐渡を訪れている。怪しからぬことに、石碑を雑草が覆いよく読めない。


司馬凌海漢詩碑

散歩道の入り口に近い場所に司馬凌海(島倉伊之助)の漢詩碑がある。新町の私宅から近所の知人を訪問したときの感懐を詠んだものである。


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上越 Ⅲ

2011年09月12日 | 新潟県
(観音寺)


観音寺

直江津の観音寺には、戊辰戦争の戦死者二名の墓がある。
一つの墓の主は、中山正路(石之助)という小浜藩の若者である。
その隣に、同じく小浜藩の農民伊助の墓もある。


中山正路之墓


墓 若州二方郡 伊助

(寺町)
東征軍は、極楽寺を会所(本部)とした。現在極楽寺は廃寺となっている。本願寺、浄興寺、長遠寺、善行寺、本誓寺、真宗寺を宿舎に、来迎寺を野戦病院とした。


浄興寺


長遠寺


善行寺


本誓寺


真宗寺


来迎寺

戊辰戦争後、敗れた会津藩の降人(捕虜)は、信州松代藩と越後高田藩に預けられることになった。財政窮乏していた両藩は、降人受け入れの免除を懇願した。しかし、新政府は松代藩の願いのみを聞き入れ、松代藩に預けられるはずの降人は、東京の講武所、護国寺等に収容されることになった。
一方、高田藩では、慶長年間に戦時の避難所として城下町に寺町が形成されていた。現在でも六十三の寺が、並行する二つの通り沿いに整然と並んでいる。往時は百三十を越える寺院が軒を並べていたという。寺院はほぼ宗派ごとにまとめられており、本堂が東向きに建てられたものが多く、しかもいずれも深い緑に包まれている。
新政府は戊辰戦争で高田に進駐したときに、寺町の規模と収容能力を知っていたため、高田藩の懇願を却下し、会津藩降人千七百四十二名(脱走者もいたようで人員には諸説あり)を高田藩に移送した。もともと譜代藩という負い目もあり、新政府から二万石の援助を条件に高田藩は、会津降人を受け入れることになった。下表のとおり寺町の各寺に降人を分宿させている。なお、二万石の援助は空手形に終わった。
高田藩は会津藩に同情的であり、降人はつかの間(明治三年(1870)五月までの一年半)平穏な日々を過ごした。それでも栄養不足から脚気や腫物が流行し、この間六十八人が命を落としている。彼らは金谷山の会津墓地に葬られた。
藩主松平容保以下藩士一同の赦免が決定されたのは、明治三年(1870)二月のことで、同年六月、高田に収容されていた藩士は新潟港から新政府が用意した外国汽船で下北半島の斗南へ送られた。会津藩の受難はこれからであった。

本願寺高田別院・本堂 114
 同 ・茶所 4
 同 ・五日講 44
 同 ・総会所 90
神宮寺 38
長恩寺(現・天宗寺) 19
称念寺 32
長遠寺 54
日朝寺 51
善行寺 61
本誓寺 95
本浄寺 14
了源寺 14
円福寺 16
長楽寺 18
高安寺 42
太岩寺 28
真宗寺 58
法林寺 19
常国寺 33
願重寺 33
天林寺 11
最尊寺 28
願念寺 27
念妙寺 8
長命寺 33
浄国寺 27
安傳寺 6
浄林寺 9
光国寺 9
光学寺 11
大巌寺 33
妙国寺 37
常顕寺 48
海隣寺 54
宗恩寺 10
浄興寺 104
善福寺 18
浄正寺 9
浄泉寺 20
玄興寺 17
西光寺 10
正念寺 5
正光寺 15
常敬寺 36
浄蓮寺 14
明善寺 8
常栄寺 22
その他廃寺16カ寺 210

半日をかけて現存する四十数か寺を訪ねて、寺町を歩いた。写真を全部紹介するのも芸がないので、ここでは東征軍が宿舎や野戦病院とした寺院のみ写真を掲載することとした。
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上越 Ⅱ

2011年09月12日 | 新潟県
(金谷山)


金谷山頂より上越市高田方面を臨む

金谷山(かなやさん)は高田の西方に位置する標高百四十五メートルの山である。山頂から上越市が一望できる。

明治四十四年(1911)、オーストリアのテオドール・フォン・レルヒ少佐が、金谷山でスキーを伝えたことから、この山はスキー発祥の地と呼ばれている。山頂には記念館がある。


レルヒ像

金谷山頂、スキーを履いたレルヒ像。ここから高田方面に山を下ると、裾野に墓地が広がる。

(医王寺)


医王寺 薬師堂

医王寺は、高田城の裏鬼門に当たることから、歴代藩主の篤い尊崇を得た。なかでも松平光長の母勝子は薬師如来を信仰し、医王寺境内に薬師堂を建立した。


高田藩士 明治戊辰戦死之碑

医王寺の墓地には二つの高田藩士の墓碑がある。戊辰戦死の碑は、旧幕軍に投じた神木隊の戦死者を弔ったものと言われる。


高田藩士 慶応丙寅戦死之碑

(官修墓地)
金谷山官修墓地には、各地で見慣れた台形の薩摩藩合葬墓がある。やはり侯爵松方正義の書。
墓の台座には、ここに葬られている薩摩藩の関係者の名前が記されている。西郷吉二郎、富山弥兵衛、中原猶介といった有名人の名前を見ることができる。


戊辰薩藩戦死者墓

中原猶介は、天保三年(1832)薩摩藩士の家に生まれた。長崎で公務のあいまに蘭学を修め、島津斉彬に見いだされて軍艦建造等の計画に関与した。その後江戸に留学して安井息軒に漢学、杉田成卿に蘭学を学んだ。帰藩して兵器軍制の改革、軍隊の調練に当たった。文久元年(1861)には再び藩命を受けて江戸に出て、江川英敏の塾に入って塾頭となった。帰藩後は海軍の整備、砲台の改造に従事した。戊辰戦争では海軍参謀となって北越に進軍したが、長岡にて戦病死した。年三十七であった。


官修墓地

山口藩、豊浦藩等の戊辰戦争戦死者の墓である。


御手洗噴水碑
西南戦争殉難者慰霊碑


高田藩士の墓

墓地には新政府軍に従軍した高田藩士も葬られている。その横には、明治十年(1877)西南戦争で戦死した高田藩士の合葬墓も建てられている。

(会津墓地)
金谷山の麓に会津墓地がある。
明治二年(1869)戊辰戦争に敗れた会津藩士千七百四十二名は降伏人として高田藩に預けられた。一年半の幽囚生活の末、越後の冬の厳しい寒さに六十八人がこの地で命を落とした。異郷で斃れた六十八名とともに、越後高田に在住した三十余名の会津藩出身者が合わせて眠っている。


会津墓地


会津墓地

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柏崎 Ⅳ

2011年09月12日 | 新潟県
(極楽寺)


極楽寺


石井家之墓

石井勇次郎の墓である。石井勇次郎は桑名藩士で、戊辰戦争が起きると、大鳥圭介の旧幕軍に投じて今市、会津を転戦した。仙台から蝦夷へわたり土方歳三が率いる新選組に入隊した。明治三十六年(1903)死去。五十八歳。

(龍泉寺)
鯨波の龍泉寺には、戊辰戦争戦死者で加賀藩夫卒長蔵の墓がある。正面には「釋還阿信士」と法名が刻まれ、右側面に「慶應四戊辰年閏四月二十七日 鯨波戦争之口中大砲玉死 加州人夫越中東水橋 長蔵」と記されている。


龍泉寺


加州藩 夫卒 長蔵

(多聞寺)


多聞寺

多聞寺は、笠島海水浴場を眼下に見下ろす高台にある。海に面した墓地に戦死した加賀藩士の墓がある。


金沢藩士戦死者の墓

(向山)


北越戊辰の役 当処戦没者 供養塔

慶應四年(1868)五月十四日、灰爪で水戸を脱出してきた諸生党と新政府軍が遭遇し、激戦となった。このときの戦闘では結城寅寿の子、結城七之助ら六十余命が戦死したと言われるが、昭和五十二年(1977)に四体の白骨が発見され、鑑定の結果、このときの犠牲者である可能性が高いとされた。遺骨は埋め戻され、この地に供養塔が建てられた。隣には水戸市が寄贈した石像が置かれている。


水戸市寄贈の石像

(椎谷陣屋址)


椎谷陣屋跡

柏崎市椎谷地区には、椎谷(しいや)陣屋跡が所在する。この陣屋は椎谷藩一万石のもので、丘陵の内側に廓状の三千坪の平坦地が確保され、そこに藩邸や砲術稽古場、馬場などが設けられていた。現在は石碑と神社などが点在しているだけである。


砲術稽古場跡

慶応四年(1868)、椎谷陣屋も戊辰戦争の戦場となり、陣屋は戦火により全焼した。椎谷藩は官軍についたが、水戸藩諸政党の急襲を受け一度は陣屋を明け渡した。椎谷藩では薩長軍の加勢を得て再び奪取した。このとき水戸諸政党は陣屋に火を放ち、陣屋と城下は大きな被害を受けた。


椎谷海水浴場

陣屋の下は美しい海水浴場となっている。


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柏崎 Ⅲ

2011年09月12日 | 新潟県
(妙行寺)


妙行寺

山県有朋、黒田清隆に率いられた新政府軍は鯨波での戦闘に勝利し、柏崎に進軍して妙行寺を本陣とした。


贈正五位星野藤兵衛之墓

星野藤兵衛は、文政十一年(1828)に柏崎に生まれた。柏崎の豪商である。勤王の志をいだき、同志を集めて兵器糧食を蓄えた。戊辰戦争がはじまると、高田に進駐した北陸道鎮撫総督兼鎮撫使高倉永祜と連絡をとり、桑名の恭順派吉村権左衛門と図って新政府軍のために探査活動に従事した。明治元年(1868)五月、民政局御用掛、ついで町村取締役を命じられて多大な功績があった。このために藤兵衛は家財を傾けたが、その功により終身三人扶持を賜った。明治九年(1876)年四十九で没。


加賀藩士戦死者の墓

妙行寺墓地には、加賀藩戦死者の墓がある。


勤王志士吉村君墓地

桑名藩の勤王派吉村権左衛門の墓である。吉村は桑名藩の家老職を務め、たびたび恭順を藩主定敬に説いたため、藩内抗戦派の反感を買い、慶応四年(1868)閏四月、斬殺された。

(聞光寺)


聞光寺


金沢藩士戦死者の墓

聞光寺には、明治元年(1868)五月から六月にかけてこの周辺で戦死した加賀藩士の墓が並べられている。

(勝願寺)


勝願寺


松平定敬公本陣跡

柏崎陣屋跡に近い勝願寺は、桑名藩主松平定敬が本陣を置いた。鯨波の戦いを皮切りに会津から函館五稜郭まで各地を転戦した。戦後、戦死した藩士の追悼に心を砕き、勝願寺にも生涯三度訪れている。


松平定敬筆 大藤山

勝願寺の山号額は松平定敬の揮毫したものである。


舊桑名藩士戦没墓

明治十七年(1884)桑名藩戦没者十七回忌を行った際に建立されたもの。碑面は松平定敬の書。


桑名藩士墓

戦死した桑名藩士三十三名の合葬墓である。


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柏崎 Ⅱ

2011年09月12日 | 新潟県
(柏崎招魂社)


忠魂碑

柏崎小学校の一角に柏崎招魂社がある。中央にそびえる忠魂碑は日露戦争の慰霊碑であるが、その両側に戊辰戦争官軍戦死者の墓が並ぶ。当初この地に葬られたのは各軍兵士五十八名であったが、現存する墓石は四十四基に過ぎない。その中に讃岐の俠客日柳燕石の墓がある。


日柳燕石先生御墓所

日柳燕石は、文化十四年(1817)に讃岐に生まれ、俠気で知られ、郷党浮浪の徒を集めてその首領となった。勤王の志篤く、天下の志士と交わった。中でも長州の高杉晋作は、文久年間に幕吏の追跡を受けて燕石の家に潜匿し、燕石もこれをよく庇護した。このため慶應元年(1865)に捕えられて高松の獄に投じられた。明治元年(1868)赦免されると、直ちに京都に上って書を奉じ、ついで仁和寺宮嘉彰親王に従って越後口に出征したが、永年の獄中生活で健康を損ねていたためか、柏崎で病没した。五十二歳であった。柏崎招魂社の墓には、大桜定居彦という諡が刻まれているが、これは仁和寺宮が贈ったものである。


柏崎招魂社

官軍墓地。山口藩、岩国藩、高知藩、松代藩および十津川郷の従軍者の墓である。柏崎招魂社の前に市の建てた説明板があるが、そこに薩摩藩の中原猶介が葬られていると記載されている。いくら探しても中原の墓が見つからない。小学校の向かい側に「ふるさと人物館」という施設があり、そこで中原猶介のことを尋ねてみたが、残念ながら分からない。近くに市立図書館があることを教わり、そこで調べてみることにした。結論からいうと、明確なことは分からないが、薩摩藩は戊辰戦争の戦死者について、個別にあった墓をまとめて合葬墓にしており、それにともなって中原の墓も撤去されたものと推定される。上越高田の金谷山官修墓地に薩摩藩合葬墓があり、そこに中原猶介の名前を見出すことができる。


明治天皇柏崎行在所

明治十一年(1878)九月、明治天皇北陸東海巡幸の際、柏崎で駐泊したことを示す石碑である。和風二階建ての木造家屋があったが、昭和四十八年(1973)柏崎小学校改築に際して解体された。


生田万の墓

柏崎招魂社には生田万の墓もある。生田万は天保八年(1837)天保飢饉による窮民の救済を求めて柏崎陣屋の討ち入り、破れて自刃した。彼の墓は長い間、世間を憚って建てられなかったが、明治三十二年(1899)になって招魂社の片隅に建てられた。

(柏崎神社)


柏崎神社


燕石翁碑

柏崎神社の境内に日柳燕石の追悼碑がある。越後出身の志士、高橋三寅の撰文。建立は明治三十七年(1904)。

(浄願寺)


浄願寺


竹内武雄紀猶斎墓

竹内武雄は新選組隊士。桑名藩の出身で大砲方として各地を転戦し、明治元年(1868)九月頃、仙台で新選組に加入したと見られる。蝦夷に渡って抗戦したが、負傷して明治二年(1869)四月死亡。

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