史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末史」 半藤一利著 新潮文庫

2013年01月26日 | 書評
年末年始に実家に帰った際、父親から「読んでみるか」と渡されたのがこの本であった。少し前に評判になり、聞けば十万部を越えるベストセラーになったという本である。少し天邪鬼的かもしれないが、「売れた」と聞くとその途端読みたくなくなる。しかも、勝海舟に肩入れの激しい著者の描く「幕末史」である。読む前から中立な歴史を期待できないのは自明であった。
冒頭、筆者は「反薩長史観」であると吐露しているが、読み通してさほど強烈な「反薩長史観」だとも感じなかった。戦前の薩長史観教育に慣れた眼からすれば、「反薩長」ということになるのかもしれないが、むしろ「親・勝海舟史観」と呼ぶべき論調である。
たとえば、途中、「皇国」という言葉について筆者が語る場面があるが、当時の志士たちが、後の時代と比べればさほど天皇に対して敬意を抱かず、「玉」としか認識していなかったという説である。これについては、特に違和感はなかった。
「坂本龍馬には独創的なものはない」という反語的な表現も見られる。確かに大政奉還論は、そもそもその数年前に大久保一翁が唱えたものであるし、船中八策にしても横井小楠や勝海舟のアイデアの寄せ集めと言えなくは無い。しかし、大政奉還や船中八策を主張した、その絶妙のタイミングは天才のみが見抜けるものであろう。加えて亀山社中という組織を作り活動したことなどは、同時代の誰もやらなかった将に独創的事業である。私は、昨今のマスコミでもてはやされているような英雄にして好男子の坂本龍馬像に賛同するものではないが、それでも坂本龍馬という人物が偉大だということを否定するものでもない。
「あとがき」でいう。これが筆者の一番言いたかったことかもしれない。筆者の「幕末史」には違和感を覚える場面が多かったが、この想いには、共感するところがあった。
――― 東軍の諸藩が弓を引いたのはあくまで薩長土肥にたいしてであって、天皇にたいしてではない。それなのに、西軍の戦死者は残らず靖国神社に祀られて尊崇され、東軍の戦死者はいまもって逆賊扱いでひとりとして祀られることはない。

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「名将と名臣の条件」 中村彰彦著 中公文庫

2013年01月26日 | 書評
保科正之、矢部定謙、林忠崇、秋月悌次郎、立見尚文、島村速雄…ここに登場するのは、いずれも著者がこれまで小説などで取り上げてきた人物である。言わば本書は、中村彰彦小説のダイジェスト版といったところである。
興味深かったのは、「戊辰戦争と糞尿譚」という一編。あるテレビ番組で「戊辰戦争の際に若松城に籠城した会津藩はなぜ新政府軍に降伏したのか」という問題が出題された。正解は「糞尿が城にたまり、その不衛生さから籠城者たちが城から逃げ出したため」だったという。このことを会津若松市長から聞いた中村氏は、史実を挙げて反証した。市長は直ちにテレビ局に抗議文を送り、その後テレビ局は謝罪放送を行うことになったという。
このエピソードは、テレビ番組の本質を物語っている。彼らにとって、死者の名誉などどうでもよく、面白ければそれで良いのである。
それはさておき、実際のところ、長期の籠城戦において糞尿の処理はどうしていたのだろうか。当時、籠城した会津藩士たちの数は、五千人を越えた。厠は糞尿で溢れたため、持ち場近くの物陰で脱糞するものがおり、足の踏み場に困ったという回想もあるくらいである。糞尿が降伏の原因ではなかったにせよ、相当大変な状況になっていたことは間違いない。今年の大河ドラマ「八重の桜」では、会津籠城戦が一つの見せ場になる。さすがにテレビで糞尿をリアルに取り扱うわけにはいかないだろうが…

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「慶應戊辰小田原戦役の真相」 石井啓文著 夢工房

2013年01月26日 | 書評
先日、遊撃隊関係の戦跡を訪ねて箱根周辺を走り回った。古い墓碑は、表面が磨滅して読み取れない。戻ってから「幕末維新全殉難者名鑑」で調べてみたが、何名か分からないままであった。そこで墓に葬られている人たちの名前を調べるために、東京駅近くの大きな書店を訪ねてこの本に出会った。
著者は郷土史家である。恐らくこの本は自費出版かそれに近い形で出版されたものである。しかし、下手な小説より余程読み応えがある。
著者は、まるでブロックを手積みするように殉難者一人ひとりを丹念に調べ上げ、「遊撃隊の殉難者は六十七名になる」と結論付ける。もはや、この数が正確かどうかは検証のしようもないが、この結論に至る気の遠くなるような作業には感動を覚える。

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小田原 入生田

2013年01月20日 | 神奈川県
(紹太寺)


紹太寺

 入生田の紹太寺は、江戸初期に小田原藩主であった稲葉氏三代の菩提寺であり、墓所には一族であった春日局の墓もあるという由緒ある寺である。本堂裏の墓地には、駿府脱藩朝比奈錫之助の墓がある。


朝比奈錫之助の墓

 朝比奈錫之助は、山崎における戦闘で傷を負い、近くの前田家で介抱したが遂に絶命したため、前田家の墓地に埋葬されたと伝えられる。十八歳。墓の表面は風化してほとんど読み取れない。「慶応戊辰小田原戦役の真相」によれば法名は「泰雲院夏月道斬居士」。おそらくこの法名が墓に刻まれているのであろう。

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小田原 Ⅳ

2013年01月20日 | 神奈川県
(大久寺)


関家の墓
關家累代之墓(左)關重麻呂墓(右)

 慶応三年(1867)、十二月十五日、荻野山中陣屋が夜襲を受けたという報を受け、関成重麿(一臈)が藩兵を率いて出陣した。関は暴徒の退散を確認して帰城した。続いて、薩摩藩邸焼討事件の逃亡者が川崎宿から大山街道に入ったとの報に接し、再び出動している。関重麿は、このときの様子を後に「六十夢路」という手記にまとめている。関重磨は、関小左衛門美章(関家墓所の墓標にその名前が刻まれている)の嫡子。戊辰戦争当時三十二歳という壮年であった。

(小田原高校)


小田原高校 堅忍不抜碑

 県立小田原高校は明治三十三年(1900)創立という伝統ある学校で、歴史を遡れば藩校集成館に起源を有する。山縣有朋「至誠無息」と東郷平八郎「堅忍不抜」を校訓とし、正門前には山縣、東郷の直筆の石碑が置かれている。初代校長は吉田庫三。松陰のあと、吉田家を引き継いだ人である。


靖献之碑

 小田原高校から少し下がった林の中(大久保神社の隣)に西南戦争に従軍して戦死した二十四名と戊辰戦争の小田原藩戦死者十三名を慰霊するために、明治十一年(1878)に建立された靖献之碑がある。石碑の裏面には戦死者の氏名が刻まれる。その中には小田原を脱藩して鳥取藩士として上野戦争で戦死した杉山繁之助や農夫ながら夫卒として戦争に参加した高瀬市五郎も含まれている。

(常光寺)


常光寺


渡邊了叟の墓

 常光寺境内は、板橋地蔵院(宗福寺)に隣接している。小田原藩家老渡辺了叟の墓がある。
 渡辺了叟は、小田原藩の家老。小田原藩の藩論が定まらず、一時遊撃隊に加担した罪を問われ、その責任をとって戦後江戸藩邸で自刃した。武士らしい立派な最期だったという。墓石側面に記載されているところによれば、明治元年(1868)十月十日。享年五十三。

(誓願寺)


鈴木久太郎の墓

 鈴木久太郎の墓を訪ねて再び誓願寺を訪ねた。墓地を三回くらいぐるぐる回ってようやく発見した。どうしてこの墓を発見するのに手間取ったかというと、墓の表面が風化して、さらに苔に覆われほとんど文字を読み取れなかったからである。墓地入口に近い場所にある。
 鈴木久太郎は、慶応四年(1868)五月二十六日、山崎の合戦で戦死。二十五歳。墓の正面には涼性院機先常雄居士という久太郎の戒名とともに、彗林院實山妙貞大居士という文字が刻まれる。「慶応戊辰小田原戦役の真相」では「母親であろうか」としている。

(大乗寺)


大乗寺


林川本性霊位

 「慶應戊辰小田原戦役の真相」(石井啓文・夢工房出版)によれば、裾野市須山で惨殺された薩邸浪士の栗林芳五郎、早川均、坂本嘉三郎の首は、大乗寺に葬られた。大乗寺には、「林川本」という三名の院号から取った漢字が刻まれた墓碑が建立された。「林川本」という字を目当てに墓地を歩くと、今度は呆気ないほど簡単に墓に行き着いた。墓碑には、三名が惨殺された「慶應三丁卯歳 十二月弐十八日」という日付も記されている。

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裾野

2013年01月20日 | 静岡県
(鎮霊神社)


鎮霊神社


殉難三士の墓

 裾野市須山の殉難三士の墓である。墓碑表面には、殉難三士の墓とのみ刻まれている。背面には、恐らくその由来が記されているものと思われるが、風化してとても全文は読みとれない。
 長谷川伸の「相楽総三とその同志」によれば、慶應三年(1867)十二月二十五日の薩摩藩邸焼討事件の後、藩邸を脱出した浪士のうち三名(栗林芳五郎、早川均、坂本嘉三郎)は「小田原藩の手にて弥勒寺という処にて斬らる、後に小田原竹ヶ鼻の大乗寺の住僧、その首を埋葬して墓碑を建つ」とある。早速、調べたところ「弥勒寺」という地名は、全国に散在しているが、小田原の近所でいうと現在の神奈川県藤沢市に存在している。多分、これだろう。
 と、考えていたが、その後、「慶應戊辰小田原戦役の真相」(石井啓文著・夢工房出版)を読むと、三人は裾野市須山で殺害され、胴体はそこに埋葬されていると記載されていた。早速、裾野市立図書館の郷土史コーナーに調査に行った。調べ上げるのに半日かかった。「須山のあれこれ」(財団法人須山振興会)や「須山地区の文化財めぐり」(裾野市文化財保護審議委員会)によれば、三人は手を合わせて助命を願ったが次々と射殺され、首は小田原へ運ばれ、死体は須山の墓地に埋葬された。その後、当地では年の暮れに餅を搗くと血で赤くなると言われ、今でも若正月には餅を搗かない家があるのだそうだ。大正六年(1917)、地元の浅間神社の神官、渡辺久雄氏が発起人となり、鎮霊社の裏手に墓碑が建立された。それがこの殉難三士の墓である。
 恐らく裾野市須山の殉難三士の墓は、ネット上では本邦初公開であろう。長谷川伸は自ら著した「相楽総三とその同志」を「紙の記念碑」といい、「筆の香華」と呼んだが、私もこれで少し長谷川伸の精神に近づけたかなとちょっと自己満足している。

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十国峠

2013年01月20日 | 静岡県
(東光寺)


富士山

 この辺りからの眺望は、とにかく素晴らしい。そういえば昔、十国峠に来たことがあったことを思いだし、古いアルバムを捲ったところ、中学校の修学旅行で十国峠のケーブルカー乗り場の前で取った集合写真が残っていた。随分、古い話である。
 十国峠に立つと、三百六十度のパノラマが開ける。周囲に視界を遮るものは何もない。そのため冷たい風が間断なく吹きつけ、長時間ここで眺めを楽しんでいる余裕はなかった。

 富士山は、本当に美しい山である。これほどの山は、世界中を探しても二つと無いのではないだろうか。登山家ならずとも、多少山登りの好きな人であれば、挑戦意欲を掻き立てられるものである。初代駐日総領事オールコックもその一人であった。攘夷熱の盛んな時代、外国人が日本国内を旅行するだけでも攘夷派浪士を刺激するというのに、日本人が信仰の対象としても崇めている富士山に外国人が足を踏み入れるというのは、極めて大胆であった。当然ながら幕府は許可を与えようとしなかったが、オールコックは強引に認めさせ、富士登頂を実現した。万延元年(1860)九月のことであった。


東光寺

 十国峠の頂上に近いところに日金山東光寺がある。本堂裏手の墓地に向かう通路沿いに、請西藩士廣部与惣治、秋山宗蔵の合葬墓がある。


廣遍正邦居士
秋山宗義居士

 慶應四年(1868)五月二十六日、小田原藩が佐幕から勤王に旗を翻し、箱根に進攻した。遊撃隊と小田原藩とは山崎で激突した。山崎の戦闘で勝利を収めた小田原藩は、一気に箱根方面に攻め入ったため、逝撃隊は箱根関所を放棄して十国峠から熱海に下り、海路逃走を図った。その途中、怪我を負った廣部与惣治と秋山宗蔵は動けなくなり、東光寺に潜んでいた。そこに小田原藩兵が踏み込み、秋山は首を刎ねられ、廣部は布団の上から滅多刺しにされたという「遊撃隊始末」(中村彰彦・文春文庫)。

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箱根 Ⅱ

2013年01月20日 | 神奈川県
(常泉寺)


常泉寺

 宮の下の常泉寺の本堂左手奥に遊撃隊士の墓がある。


遊撃隊士の墓

 遊撃隊士前田條三郎、由井藤左衛門、内藤鐐(良)吉、関敬次(三)郎、関岡金次郎、小笠原正七郎、市川元之丞、小林集(隼)之助、杉山(松田)集(隼)之助、太田銚(桃)吉。(以上、括弧内は「幕末維新全殉難者名鑑」の記載による。うち市川元之丞は記載無し)墓碑表面は苔むしており、名前が読み取りにくい。いずれも慶應四年(1868)五月二十一日から二十八日の間、箱根における戦死者である。このうち前田條三郎は、遊撃隊第二軍一番隊隊長であった。

(箱根関所址)


箱根関所跡

 徳川幕府により箱根芦野湖畔に関所が設けられたのは、元和五年(1619)のことと言われる。東海道の新居、中山道の碓氷、木曽福島と並んで規模も大きく、幕府も重要な関所と位置づけていた。明治二年(1869)、明治新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えたが、平成十九年(2007)、建物の復元工事が完了し、往時の姿を取り戻した。

(駒形神社)


駒形神社


遊撃隊士之墓

 箱根町芦川の駒形神社の前の道をそのまま真っ直ぐ行くと旧東海道に入るが、そのL字の曲がり角を道なりに進んで、十メートルほどの先の右手に小さな墓地がある。入口付近に「遊撃隊戦死者 明治元年五月二十七日」と記された墓碑が建てられている。
 墓碑には、林昌之助(請西藩主林忠崇の通称)臣として以下七名の名前が刻まれている。

 秋山宗蔵 「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し
 廣部與惣治 二十七日負傷。翌二十八日、日金山熱海坊にて死亡。
 大野 静 二十七日、権現坂にて戦死。
 政田謙蔵 同上。
 篠原九寸太 九十太とも。箱根にて戦死。
 重田信次郎 二十七日、箱根にて戦死。
 西森與助 二十七日、箱根日金山にて戦死。

 このうち廣部與惣治は、主君林忠崇が出奔して官軍に抗戦しようとしたのを諌めようとしたが、忠崇の意思が堅いことを知って従軍を決めた請西藩士。維新後、林家の家名復興に尽した廣部精と同族である。

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栃木 Ⅱ

2013年01月13日 | 栃木県
(正仙寺)
 前回、正仙寺を訪ねたときは、建物を見つけられなかったが、今回は幼稚園が休みだったこともあって、ゆっくり周辺を歩くことができた。実は幼稚園を少し行ったところに正仙寺の本堂がある。


正仙寺


戊辰の役戦没者官修墳墓

 慶應四年(1868)四月二十二日の安塚の戦闘で戦死した四名の吹上藩士、寺村好太郎(十九歳)、原田留三郎(二十一歳)、熊倉元吉(二十四歳)、鈴木覚之丞(三十一歳)が正仙寺官修墳墓に葬られた。

(うずま公園)


幕末志士 西山謙之助の遺跡

 今回、西郷村の帰りに栃木に立ち寄ったのは、出流山事件の幹部に一人で、栃木宿で落命した西山謙之助の遺跡を訪ねることにあった。
 長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば、西山謙之助は美濃可児郡久々利村出身で事件の起きた慶應三年(1867)の時点で二十三歳という。若くして江戸に出た西山は、剣を斎藤弥九郎の道場で修行し、同時に平田銕胤の下で学んだという人物である。
 出流山満願寺に集合した幹部は、金策のために隊士から五名を選び、栃木宿に派遣した。時の栃木陣屋の奉行、善野司(勝右衛門)は、四年前の天狗党田中愿蔵による栃木宿焼討のときも当地で応対しており、そのときの経験から隣藩の吹上藩や近隣の村とも連携して満を持した対応を考えていた。善野は言を左右にして交渉を長引かせ、その間に着々と五名を討ち取る準備を進めていた。
 一方、いつまで待っても五名が戻ってこないことを心配した出流山の幹部は、応援を急派することになった。応援部隊八名の指揮者が西山謙之助である。
 いち早く増援部隊の接近を察知した善野奉行は、戦闘員に合戦準備をさせ、宿の入口に篝火をたかせ、木戸の門を閉めた。そこへ西山謙之助らが騎馬で到着した。先頭の西山は八方から狙撃を受け、「満身に血を浴び、髪振り乱し、力のあらん限り闘った(「相楽総三とその同志」(上)P.124)」が力尽き、最後は敵が群がり、馬から引きずり降ろして殺した。
 西山謙之助らの遺体は一つ穴に放り込まれた。現在、うずま公園の有料駐車場の中央に植え込みがあるが、そこに「西山謙之助の遺跡」と記された小さな石碑が建てられている。

(幸来橋)


幸来橋

 西山謙之助が斬殺された幸来橋である。川辺は風致地区として整備されており、遊覧船が発着している。


巴波川(うずまがわ)

(錦着山公園)
 栃木市の西郊に錦着山という標高八十メートルの小高い山がある。頂上からは栃木市街が一望できる。


護国神社


西山(謙之助)尚義碑

 「相楽総三とその同志」にも記載されているように、栃木市箱森の錦着山招魂社の西側に、西山(謙之助)尚義記念碑が現存しているのが嬉しい。

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西郷

2013年01月13日 | 福島県
(米 戦死供養塚)


戦死供養塚

 例によって夜が明ける前に家を出て、ほぼ三時間ドライブすると白河ICを通過する。天気予報では午後から晴れるということだったが、朝のニュースでは「回復が遅れ、一日雲の多い天気になる」という。何だか騙されたような気分であった。この日のターゲットは、前回の白河行で回り切れなかった西郷(にしごう)や浅川、それに栃木市の史跡である。

 西郷(にしごう)村は白河市の西に広がる町で、やはり戊辰戦争で最大の犠牲者を出した白河攻防戦に関係する墓碑が散在している。さすがに最激戦地だけあって、私が白河ICで降りたのはこれで三回目となった。東北道白河ICに近い米(よね)杉山前には、同盟軍の戦死者を供養する供養塔が建てられている。

(七仏薬師堂)


七仏薬師堂

 西郷村長坂地区の七仏薬師堂は、明治初期にこの地に移築されたもので、堂に掲げられた額の「鬼門鎮護七仏薬師」という文字は、松平定信の揮毫したものである。


深谷政右衛門墓

 七仏薬師堂の裏手の墓地には、深谷政右衛門の墓がある。深谷政右衛門は、農民の出で、五月十六日の戦闘の巻き添えをくって死亡した。

(熊倉戦死供養塔)


戦死供養塔

 熊倉道場久保にも同盟軍戦死者を葬った供養塔がある。被葬者の氏名は不明。

(米多目的グラウンド)


戊辰桜

 米多目的グラウンドの北側に一本の山桜が立っている。戊辰桜と呼ばれる。
 桜の木の根元に由来を刻んだ石がある。それによれば、白河落城の折、この地に逃れてきた会津藩士を、この石碑を建立した仁平氏の祖父が食住の世話をした。やがて傷が癒えて会津に帰って行ったが、その際、「御世話になりましたが、何の御礼もできません」というと、この桜を植えて去っていったという。

(大龍寺)


大龍寺


戦死墓

 大龍寺の墓地には、上総飯野藩(保科氏二万石)の森要蔵らを葬った戦死墓がある。
 森要蔵は、千葉周作の門下で、江戸麻布永坂に道場を開き、門弟は千人を越えたという。会津藩兵を率いて、同盟軍の一翼を担ったが、七月一日の白河西北郊羽太村で戦死。五十九歳。次男虎尾十六歳も同じ戦闘で戦死した。同じ墓に同藩の小林虎之助、多湖宗三郎。花沢金八郎も葬られている。いずれも七月一日の戦死者である。


會藩 齊藤久太郎清盛墓

 歴代住職の墓域に、会津藩斉藤久太郎の墓がある。斉藤久太郎は、会津藩士。新練土屋隊。六月十二日、白河天神山にて戦死。二十歳。

(穴薬師)


穴薬師

 仙台藩は弱兵といわれたが、細谷十太夫の率いる鴉(からす)組は例外であった。彼らは黒装束に身を包み、ゲリラ戦を得意とした。白河城は落城したが、細谷十太夫らは穴薬師に潜居し、各所に出没して新政府軍を悩ませたという。

(班宗寺)


班宗寺


斎藤孫吉墓(左) 大河原弥太郎墓

 班宗寺本堂裏手の墓地入口に齊藤孫吉と大河原弥太郎という二人の二本松藩主の墓が並べられている。
 齊藤孫吉は、足軽。青山伊右衛門組。六月十二日、白河口追原にて戦死。
 大河原弥太郎の方は「幕末維新全殉難者名鑑」に名前を見つけられず。

(黒川村墓地)


雲昌院義勇法岸居士
(内山忠之右衛門の墓)

東北自動車道が福島県に入った地点、ちょうどその真下辺りに黒川村墓地がある。内山忠之右衛門は、黒川の庄屋。新政府軍を白河まで案内したことを同盟軍に恨まれ、五月二十日、会津藩に捕えられ、八月二十ニ日斬首された。内山が新政府軍に協力したのは、年貢を半減するという太政官布告に期待したためという。

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