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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「英語と明治維新」 江利川春雄著 ちくま新書

2025年07月26日 | 書評

受験科目でいえば、英語と化学が苦手科目であった。特に化学がキライという後ろ向きの理由から金属メーカーに就職したのだが、気が付いたらサラリーマン人生の最後に流れ着いた先は、皮肉にも海外の化学プラントであった。海外勤務の経験がない人と比べれば、英語に対するアレルギーは小さい方だと思うが、それでもNative Speakerの流麗な英語を前にすると、意味が理解できるのは精々半分程度である。「英語教育史」を専門とする筆者は

――― 近年では文部科学省の「コミュニケーション重視」策によって、英語はおおまかな意味がわかればよいとする風潮が強いが、言語はそれほど甘くない。

――― 日常生活で英語を必要としない日本社会では、英語がしゃべれたらカッコいいという憧れで学び始めても、やがて血の滲むような努力なしには上達しないことを知り、大半が挫折する。

と、大半の日本人には耳の痛い指摘をする。

開国から百五十年以上が経過し、英語は日本人にとってかなり身近な存在となったが、それでも今でも外国語は高いハードルになっている。まだ英語を話せる通訳すらいない安政年間、日米和親条約交渉は想像以上に大変であった。このときは英語—オランダ語—日本語の二重通訳を介して交渉が行われたとされている。

日米和親条約が締結された後、日本語版と英語版に重大な食い違い(つまり「誤訳」)があることが発覚した。第十一条の領事の任命条件について、英語版では「二つの政府のどちらか一方が必要と認めた場合には領事を任命できる」とあるが、日本語版では「両国政府に於て拠(よんどころ)無き儀これ有り候模様により」とあり、両国が合意しない限り領事は駐在できない定めとなっていた。加えて、第十二条の英語版では批准は「十八カ月以内」となっているが、日本語版では「今より後一八カ月を過ぎ」と書かれている。

筆者は、これは単なる誤訳ではなく「開国」に見せかけて祖法である「鎖国」政策を継続するという「高度な外交戦術」だとしている。しかし、意図して英語版と日本語版を異なる条文にしたところで、その矛盾が露見するのは時間の問題である。もし意識的に日英の条文が異なる状況を作り出したとすれば、それは「高度な外交戦術」というより、領事の駐在を拒否できるように見せかけた「一時的な言い逃れ」でしかないのではないだろうか。

本書では英語教育者としての筆者の主張が随所にみられる。

――― 日本のアジア侵略と植民地化のイデオロギー的なルーツは万国公法にまでさかのぼるといえよう。白人へのコンプレックスも、アジアやアフリカの人々への上から目線も、起源はここにある。刷り込まれた思想を解毒するのは今なお容易ではない。

としている。

ここで筆者が引用しているのが、福沢諭吉の「脱亜論」である。「脱亜論」は明治十八年(1885)に「時事新報」に掲載された社説である。無署名の社説だったこともあり、これが福沢諭吉の筆によるものか諸説あるものであるが、少なくともここで「入欧」とセットで主張されたものではない。福沢がこの時「脱亜」を主張したのは、前年の十二月、朝鮮におけるクーデターが失敗に終わり、親清派による政権が樹立したことがある(甲申事変)。これに失望した福沢が、アジア(つまり清と朝鮮)に見切りをつけた宣言が「脱亜論」である。筆者が「アジア蔑視の「脱亜入欧」という考え方」の根拠として福沢の「脱亜論」を挙げていることにやや違和感がある。福沢諭吉はアジアを蔑視していないし、アジア侵略主義者でもない。

ほかにも本書では、日本が「英語一辺倒主義」になってしまった経緯であるとか、明治期の言文一致の背景には翻訳小説の流入があったといった解説があって、とても面白い読み物になっている。

なお、本書一七〇ページに「明治維新の舞台に立つ役者たちを語学と西洋体験によって分け」その第一グループ「英語を学び、かつ欧米留学・視察を体験した指導者」として、伊藤博文や井上馨、榎本武揚、金子堅太郎らと並んで、高杉晋作の名前があるが、これは間違いではないか。高杉晋作は長崎でフルベッキら欧米人と接触した記録があり、上海に密航した経験はあるものの、英語が使えたかどうかは甚だ心もとなく、また欧米留学、視察を体験していないことは明らかである。上海で欧米人に酷使される中国人の姿を見て尊攘活動に目覚め、革命の志士へと変貌したのは間違いないが、ここでいう四つの類型に当てはめるのは無理があるように思う。

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日暮里 ⅢⅩⅣ

2025年07月13日 | 東京都

(谷中霊園つづき)

 

岡本家之墓(岡本兵衛美雅の墓)

 

 岡本健三郎と同じ墓域に「岡本家之墓」と刻まれた墓石がある。側面に漢文で岡本健三郎の両親兄弟の事歴が記されている。「宮地氏名寅子父丈八嫁高知縣士族岡本龜七生二男一女長健三郎官至大蔵大丞次美雅戊辰之役與賊戦下野國安塚驛奮闘被創尋死女適岡本繁次郎氏為人慈恩謹厚育子有方故ニ子皆得成名氏以文政六年十月十五日生於土佐明治九年十二月二十四日病死於東京年五十有三葬谷中天王寺明治十年十月従六位櫻井能監撰幷書」【乙11号13側】

コメント (2)
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青山霊園 補遺 Ⅹ

2025年07月13日 | 東京都

1種イ11号7側

 

鈴藤家之墓

 

クロサカ様より、鈴藤勇次郎の墓は、青山霊園に移設されたとの情報をいただき、青山霊園を訪ねた。クロサカ様からの情報のとおり、1種イ11号7側に鈴藤家の墓があるが、ここに鈴藤勇次郎が合葬されているという確信は得られなかった。

本姓は鈴木。江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、江川の推挙を得て幕府に仕えるようになり、万延元年(1860)の遣米使節派遣では、咸臨丸の運用方として渡米した。木村芥舟に贈った太平洋上の咸臨丸の図が今日まで伝わる。慶応四年(1868)榎本武揚が幕府艦隊を率いて箱館に向ったとの報に接したとき、鈴藤は病床にあり、参戦できないことを嘆き自殺した。四十三歳。

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麻布十番 Ⅶ

2025年07月13日 | 東京都

(賢崇寺つづき)

賢崇寺を再訪。川崎道民の墓を訪ねた。

 

鐵翁道眠居士墓

 

川崎道民は天保二年(1831)の生まれ。佐賀藩医。長崎海軍伝習所に送られ、万延元年の遣米使節団、文久の遣欧使節団に医師として同行した。海外では報道・新聞・写真等を学んだ。帰国後、鍋島閑叟(直正)の写真を撮影した。明治五年(1972)には佐賀で最初の新聞「佐賀県新聞」を創刊した。佐賀の「写真技術の元祖」の一人とされている。明治十四年(1881)没。

 

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嵯峨野 Ⅳ

2025年07月05日 | 京都府

(宝筐院)

バスで嵯峨野まで移動し、宝筐院を訪ねる。あまり知られていない寺院であるが、紅葉シーズンには多くの人で賑わう。

さすがにこの日は大雨もあって拝観者は私一人であった。入苑料五百円。

 

宝筐院庭園

 

明治天皇多治見行在所建物

 

園内には、多治見の西浦庭園から移設された離れ座敷(明治十三年(1880)六月の巡幸の際の行在所)が置かれている。

 

足利義詮の墓(左) 楠正行首塚(右)

 

欽忠碑

 

楠正行辞世碑

 

本当はこの後、二尊院などを歩くつもりだったが、激しい雨に気が萎えてしまって撤収。

 

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嵐山 Ⅳ

2025年07月05日 | 京都府

(京都・嵐山ご清遊の宿らんざん)

ここまで来たら本格的な雨となった。

 

京都・嵐山ご清遊の宿らんざん

 

明治天皇行幸所山中邸阯碑

 

明治十年(1877)二月十八日の行幸を記念したもの。

 

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天神川

2025年07月05日 | 京都府

(千石荘公園)

太秦野元町の千石荘公園に明治天皇御製がある。この公園は、江戸時代に日本海の定期便として就航していた千石船が当地に据えられたことを記念して開設されたもので、その際に艦船に因む御製碑も建てられた。この御製は明治三十七年(1904)に詠まれたものである。

 

千石荘公園

 

明治天皇御製碑

港江に万代によばふ声すなり

いさををつみし船やいりくる

 

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「山県有朋」 小林道彦著 中公新書

2025年06月28日 | 書評

山県有朋は、萩の足軽以下の身分(蔵元付中間)に生まれ、そこから脱皮を重ねて晩年には明治国家において圧倒的な政治権力をふるった。

若き日の山県は槍術で身をたてることを志し、二十三歳頃には宝蔵院流槍術の使い手としてその名を知られるようになった。

高杉晋作が奇兵隊を組織すると、その軍監に就任した。奇兵隊はアウトローの集団であり、しばしば藩の正規軍とトラブルを起こした。藩では奇兵隊を厄介者扱いしたが、山県は奇兵隊のもつエネルギーを巧みにコントロールし、そのエネルギーを戦場で爆発させ、武勲を政治的パワーに変換した。奇兵隊の統帥はいつしか山県が握り、長州藩の藩内抗争や対外戦争を繰り返すその混乱の中で、山県の存在感は急速に拡大した。山県が「権力」の存在を意識するようになったのは、ここでの経験が契機となったであろう。

維新後の山県の権力基盤は陸軍であった。維新後、間もなくヨーロッパに留学した山県は、帰国すると兵部少輔に就き、その後も短期間に兵部大輔、陸軍大輔、陸軍中将、近衛都督、陸軍卿と昇進を続けた。この時期、山県が重用された背景には、近代軍建設の必要性が高まる中、ヨーロッパで最新の知識を身に着けた「開化派」的人材が求められたことに加え、陸軍の実権を握っていた山県の存在を無視できなくなっていた。明治五年(1872)、所謂山城屋事件が突発した。本来であれば、このスキャンダルに関わっていた可能性が高い山県にとって政治生命にも関わる事件であったが、西郷隆盛は山県に代わって近衛都督に就任して、山県自身は陸軍大輔の職にとどまった。山県が失脚を免れたのは、徴兵制を導入しようとする明治政府にとって、彼の存在はもはや不可欠な存在になっていたことがあるだろう。

西南戦争が終結すると、日本の政治地図は大きく塗り替えられた。高知県士族は武力討伐を免れたことでその勢力を温存し、彼らのエネルギーは自由民権運動へと流れていった。長州では木戸孝允が病没し、大久保利通も1878年(明治十一年)五月に不平士族の凶刃に斃れた。こうして伊藤博文と山県、大隈重信が政治の第一線に立つことになった。

明治十四年の政変を経て大隈が政権を追われると、山県は参議兼参謀本部長さらに参事院議長を兼任した(その後、参謀本部長を解かれて参謀本部御用掛に就いている)。もはや山県は「一介の武弁」から「有司」へと変貌を遂げていた。彼は参事院議長として、さまざまな法令・規則の制定・審査や府県会の紛争裁定にも関与するようになっていた。

明治二十二年(1889)十二月、山県は首相(兼内相)に就任する。翌年には陸軍大将に昇進している、第一次山県内閣は約一年半で終焉を告げたが、その後も第二次伊藤内閣での司法大臣、枢密院議長などの地位を得て、着々と権力基盤を固めていった。明治三十一年(1898)には二度目の総理大臣に就くが、山県にとってこれも通過点に過ぎなかった。

依然として彼の権力基盤は軍にあったが、同時に「山県系官僚閥」と呼ばれる強力な権力装置を備えていた。本書によれば、山県系官僚閥の勢力は中央省庁にとどまらず、貴族院や枢密院、さらには司法機関にまで広がっていた。「藩閥勢力は山県中心に再編され、長州閥という地縁的集団は山県系官僚閥へと純化・成長を遂げていった」という。

山県の下に人材が集まったのは、彼の政治的な個性と権力ポジションによるところが大きい。彼は外国語が苦手だったこともあり、自分の周囲に洋行帰りのエリートを集め、彼らから最新の専門知識を吸収することに努めた。明治初期においては、西周や桂太郎が代表的なブレーンである。

山県の守備範囲が、軍事から地方自治や治安問題、さらには外交へと広がっていくにつれ、山県のブレーン集団も、徐々に厚みと広がりを増していった。平田東助や清浦圭吾をはじめとする法制官僚、青木周蔵ら外務官僚、大浦兼武のような警察官僚らがその典型例である。山県は聞き上手であり、彼らの意見によく耳を傾けた。時には自らの影響力を駆使して部下の貢献に見合うだけの地位と名誉を与えた。山県の判断基準には縁故主義とは無縁の、純然たる実力主義が存在していたため、出身藩に関わらず人材が集まった。評価された部下は感銘を受け、彼に近侍した人々の忠誠心を堅固なものにした。こうして山県閥が形成されたが、これは山県のライバルと目される伊藤博文にはない権力基盤であった。現代でこそ政党内における派閥というのは当たり前となっているが、山県閥はその走りといっても良いだろう。

山県系官僚閥の権力中枢は、三人の陸軍軍人、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅によって占められるようになった。彼らはおもに陸軍省を中心に軍事行政部門に勢力を伸ばし、その実績を背景に内務省や外務省、文部省などの大臣職に進出していった。三人のうち、急逝した児玉を除き、二人はのちに首相に就任している。

明治三十四年(1901)、第一次桂内閣が成立すると、「小山県内閣」などと揶揄されたが、実は桂太郎は次第に山県から距離を置くようになる。本書によれば、組閣人事にも山県から距離を置こうという桂太郎の意図がうかがえるという。気が付けば桂による権力簒奪の脅威にさらされることになっていた。

大正元年(1912)十二月、第三次桂内閣が成立すると、翌年桂は自らを党首とする新政党(のちの立憲同志会)の結成を明らかにした。政党嫌いの山県に対するあからさまな叛旗であり、両者の決別は明確になった。

しかし、第三次桂内閣は組閣後わずか二か月で総辞職に追い込まれてしまう。この時山県は桂の末路を評して「雪隠で首を括ったようなものだ」と冷評したと伝えられる。桂との確執はここに終止符を打つことになったが、山県の官僚閥に対する統制力は明らかに低下していた。大正期に入って山県の政治権力は明らかにピークを越えていた。明治天皇の篤い新任を得ていた山県であったが、大正天皇との関係は微妙であった。政党勢力の台頭も押し止めようがなかった。本来であれば、ここらが潮時だっただろうが、なおも山県は権力に固執した。大正十年(1921)、のちに宮中某重大事件と呼ばれる事件が起こる。裕仁親王(のちの昭和天皇)と久邇宮良子(ながこ)女王との婚約を辞退させようとした山県は、民間右翼や国粋主義団体から強い反発を招き、山県個人へのテロル(天誅)へと発展しかねない状況に陥った。山県の政治的没落は避けられなかった。

大正十一年(1922)二月一日、山県は静かに息を引き取った。従来、山県の国葬は参列者も少なく、寂しいものだったといわれてきたが、本書によれば、「それはやや整理されすぎた嫌いがある」という。日比谷公園沿いの街路には数万の群衆が押し寄せ、「海嘯(つなみ)のような混雑」が起きていたとの報道を紹介している。最後の元勲に対する大衆の感傷もあったのかもしれない。

本書を一読すれば、山県有朋がどうやって権力を手に入れ、それを駆使し、強化していったかが理解できる。山県のために惜しまれるのは、彼が最期まで権力にしがみつこうしたように見えることである。子飼いの部下であった桂太郎や寺内正毅からも疎まれ、離反を招いたのも山県自身に理由がないとはいえない。老兵は自ら引き際を知らなくてはならない、と強く思った次第。

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明石 Ⅱ

2025年06月21日 | 兵庫県

(大久保駅前)

大久保町駅前一丁目に明治天皇大久保御小休所建物碑がある。明治十八年(1885)八月九日、明治天皇が当地に滞在したことを記念したものである。

塀越しに洋風の建物が見えるが、これが御小休所建物と関係があるのかないのか不明。

 

明治天皇大久保御小休所建物

 

明治天皇大久保御小休所建物

 

(浜光明寺つづき)

 大久保駅から明石駅に移動して、浜光明寺まで歩く。前回、浜光明寺を訪ねたのはもう二十年くらい前のことかもしれない。山門前と本堂前に二つの「明治天皇明石行在所」石碑がある。

また本堂の北側には、明治天皇が明治十八年(1885)八月九日に宿泊した書院が保存されており、当時の庭園、玉座の厚畳、調度類が残されているという。

 

明治天皇行在所書院

 

明治天皇明石行在所

 

明治天皇行在所御遺跡

 

安政南海地震供養碑

 

淡路島が防波堤になって明石やそれより西側には津波がくることはないような思い込みがあるが、実は安政の大地震(1854)ではここまで津波が達し、多くの犠牲者が出ている。

 

 

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姫路 Ⅴ

2025年06月21日 | 兵庫県

(船場本徳寺つづき)

 船場本徳寺の本堂裏には、西南役戦没者慰霊碑が建つ。この地域から九州の戦地に出兵し戦死した七百六十七名の兵士の霊を弔うために明治十二年(1879)に建立されたものである。有栖川熾仁親王の揮毫。陸軍少将三好重臣の撰文による。

 

西南役戦没者慰霊碑

 

姫路藩勤王十二士の墓

 

 ここに慰霊碑のある十二名は以下の通りである。

 

贈従四位河合総兵衛宗元君霊位

贈正五位萩原虎六政興君霊位

贈正五位河合傳十郎宗貞君霊位

贈正五位江坂元之助行厚君霊位

贈正五位伊舟城源一郎致美君霊位

贈正五位松下鉄馬綱光君霊位

贈正五位江坂栄次郎行正君霊位

贈正五位市川豊次久明君霊位

従五位永田伴正君霊位

贈正五位秋元正一郎安民君霊位

贈正五位境野求馬意英君霊位

贈正四位河合屏山君霊位

 

日没まで少し時間があったので、久々に姫路の船場本徳寺を訪ねることにした。境内には明治天皇の行在所碑や、当時行在所として使われた建物がそのまま残されている。なお山門の前にも明治天皇姫路行在所碑があるが、折悪しく補修工事中で立ち入ることができなかった。

 

行在所碑

 

真宗大谷派姫路船場別院本徳寺行在所

 

明治十八年(1885)八月八日、山陽道巡幸の際、行在所となった建物である。昭和七年(1932)十一月二日の火災で一部が焼損したが、主要部分は旧態を伝えている。

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