史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「長州歴史散歩」 古川薫著 創元社

2023年11月25日 | 書評

昭和四十三年(1968)、つまり明治百年の年に初版が刊行され、それから三十年を経た平成十年(1998)に同じ創元社より再刊された書籍である。筆者古川薫氏(故人。平成三十年(2018)没)が「増刷のためのあとがき」にて「私は改訂の必要は感じなかった。三十年前の若書きに手を入れたい気持ちもなくはないが、「明治百年」を迎えたあのころの高揚した筆のあとをこのまま残しておこうと思う」と触れているように、今から五十年も前に書かれたものなのに、さほど陳腐化は感じられなかった。

著者古川薫氏は、昭和四十一年(1966)、パリに立ち寄った際、アンバリッド廃兵院で元治元年(1864)にフランス軍が長州から戦利品として持ち帰った青銅製の大砲を発見したことで知られる。古川氏はこのことを下関市に知らせ、下関市は直ちに外務省を通じてフランス当局と交渉するよう要請した。本書にも当時の経緯が詳述されているが、「大砲は返還不能」というところで本書は終わっている。その後、フランスから無期限貸与という形で返還を受け、この大砲は長府博物館(現・下関市立歴史博物館)に展示されている。五十年の歳月が流れ、明らかに更新が必要なのはこの「パリの大砲」の章くらいだろう。

「維新に尽くした藩のうちでも、そのために藩論を二分して、しかも内乱の血を流したというのは、長州だけである」(141ページ)という記載には違和感を覚えた。幕末において藩論が割れなかった藩はなく、そのために血が流れたという事例は枚挙に暇ない。その際たる例が水戸藩である。外から見れば一枚岩に見える庄内藩においてさえ内紛・粛清はあったのである。

「歴史は勝者によって作られる」というが、長州藩は歴史の勝者であり、この本で紹介されている長州藩の歴史はまさに勝者の歴史である。文久三年(1863)の外国商船への砲撃などは、本来無茶な戦争というべきだろうが、勝者に語らせれば武勇譚になってしまう。

このとき中島名左衛門という一人の砲術家が攘夷の無謀を説いたが、それがもとで暗殺されている。同年五月二十九日の夜のことであった。その後の経過を見れば中島名左衛門のいうとおり、西洋の圧倒的な軍事力の前に長州藩の砲台は瞬時に沈黙させられる。この後の戦争において長州藩にとって名左衛門は重要な人物だったはずだが、激徒は聞く耳を持たなかった。戦争を前にいきりたつ人々に耳障りなことを(しかも正しいことを)発言したというだけで抹殺された名左衛門は哀れというほかはない。しかも、外国艦隊が報復のために下関に近づいており、とても犯人の追及まで手が回らなかった。名左衛門暗殺は未解決のままうやむやにされてしまったのである。

同じく文久三年(1863)七月、幕府が派遣した一隻の軍艦朝陽丸が下関に到着した。幕臣中根一之丞は外国商戦を砲撃した長州藩に対して詰責書を携えて長州へ乗り込んできた。これが気に入らない奇兵隊士は、船で脱出した中根を執拗に追い、佐波郡中ノ関沖でこれを斬って海に捨てた。筆者によれば「奇兵隊の暴走事件は、このほかにも何件かを数えることができる」という。奇兵隊は百姓や町人などを集めた集団であり、彼らに規律とかモラルを求めても詮無い話かもしれないが、「維新に功があった」とされる奇兵隊は、結成当初から統制の効かない集団であったことは記憶しておくべきであろう。

奇兵隊三代総督赤禰武人は攘夷戦で武功があった人だが、武力で俗論政府を倒すという高杉晋作の方針に反対であった。赤禰は「正義派、俗論派が対立して争うときではない。そのようなことに藩内で血を流しているところへ、幕府軍が攻め込んできたら長州藩は滅亡してしまう。よろしく正俗話し合って藩を一つにまとめるべし」と主張し、和解工作に動いた。筆者は「俗論、正論の折衷をとなえて、藩論統一をはかろうとした赤禰は、所詮革命的な時代を担うにふさわしい人物とはいえないだろう。彼は一個のインテリゲンチャにすぎない。それにひきかえ、高杉の士族的なドグマは、赤禰などよりは素朴だが、事態に対する反応はきわめて鋭敏である。世紀末の動乱の時代は、やはり高杉のように直線的で強靭な思考と、熱狂的な行動力の持ち主を必要としたのである」と赤禰の処刑を支持している。もし、自分が幕末動乱の長州に身を置いていたら…と考える。果たして高杉晋作の過激な路線に同調し得ただろうか。私には過激に走る高杉よりも、赤禰の考え方の方が中庸を得ているように思えて、彼が処刑されるほどの俗説を主張したとは到底思えないのである(おまえには革命家の素質がないといわれれば、そのとおりです)。しかし、彼の主張は諸隊に理解されず、慶応二年(1866)一月、斬首された。父の松崎三宅は狂死し、赤禰の妻マキもそのあとを追ったという。

少年公卿中山忠光が豊北町田耕(たすき)の山中で暗殺されたのも、長州藩の闇の歴史の一つである。中山忠光は、大納言中山忠能の第五子で、姉の慶子が孝明天皇に仕え明治天皇を産んだ関係で、のちの天皇とは叔父甥の関係であった。幼少時の明治天皇(当時は祐宮)の遊び相手をつとめた。忠光は過激な攘夷派公卿として知られ、天誅組の変では首領にかつがれた。天誅組が幕府に鎮圧されると、大阪を経て海路長州へ逃れ、そこで匿われた。長州藩の実権を俗論派が握ると、お尋ね者の忠光を持て余した。元治元年(1864)十一月の夜、潜居先から連れ出された忠光は、白滝川上流の人目のない場所で密に暗殺された。その後、長州藩では厳しい緘口令をしいたため、忠光暗殺の詳しい状況はほとんど伝わっていない。長府藩の記録でも忠光は病死として処理されている。明治天皇の叔父である忠光の暗殺は、明治、大正、そして昭和に入ってからも長州にとって癒え難い傷となり、汚点として尾をひいたという。山口県のタブーとして、あらゆる記録から忠光暗殺の項が削り取られた。大正十五年(1926)には「忠光は病死した」ということを強調した本を書いた野竹散人(山口県出身の陸軍軍人林錬作のペンネーム)なる人物まで現れた。

こうして長州藩の歴史を追うと、当時の行動規範や道徳観念に照らしても、かなり悪辣なことをやってきたことが分かる。それでも、このような強烈なエネルギーを有していたからこそ長州藩は倒幕という偉業を成し遂げることができたのも事実である。それは否定できないが、その偉業の陰に多くの罪なき犠牲を伴っていたことを忘れてはならない。

本書は、いつ実現するか分からない長州の史跡探訪の旅のために古本市で手に入れたものである。これで赴任時に日本から持参した書籍は全部読んでしまった。来月の一時帰国の際にはまた何冊か入手して持ち帰らないといけない。

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