史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

南木曽

2015年05月30日 | 長野県
(妻籠宿)


妻籠宿

 元治元年(1864)、天狗党は諸藩の軍勢と戦いつつ、京都を目指して西上を続けた。木曽には福島に関所があり、妻籠城も固められていたため、天狗党は和田峠における戦闘の後、伊那谷を通り、清内路峠を越えて蘭(あららぎ)に入り、同年十一月二十六日、妻籠橋場で中山道に出た。総勢千二百人もの軍勢の出現に、蘭村は大混雑となった。


妻籠宿本陣


大鳥圭介から島崎広助への書簡など

(脇本陣奥谷家)

 脇本陣奥谷家は、歴史資料館の入口を兼ねている。明治十年(1877)の建てられた豪壮な建物である。明治十三年(1880)、明治天皇の行幸の際、御小休所となった。また、島崎藤村の詩「初恋」に詠われたお由布の嫁ぎ先でもある。
中に入ると、係の女性が丁寧に案内してくださる。


脇本陣

 いろりのある部屋の横には、東久世通禧の書が掲げられている。


蓬菜五雲深
東久世通禧の書




 明治十三年(1880)、明治天皇がここで休息を取ったときに用意された机である。怪我をさせないように一切釘を使わない、凝った作りである。脇本陣の便所も天皇のために用意されたが、使われることはなかったという。


封青山旅緑水
山岡鉄舟の書

 歴史資料館には、明治天皇の巡幸を記念して山岡鉄舟が書いた書が飾られていた。

(三留野宿)


明治天皇行在所記念碑 三留野宿本陣跡


桃介橋

 文久元年(1861)の和宮降嫁に際して、和宮は同年十一月一日、三留野宿にて宿泊している。本陣は明治十四年(1881)の大火で焼失してしまい、跡地には庭木の枝垂梅と明治天皇行在所記念碑が建てられているのみである。明治天皇がこの地に宿泊したのは、大火の前年の明治十三年(1880)六月のことである。その後、鉄道が開通し、三留野宿周辺の賑わいは回復することはなかった。

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阿智

2015年05月30日 | 長野県
(清内路)


清内路関所址


清内路関所変遷碑

 駒場宿で、松尾多勢子の長男誠が藤田小四郎を訪ね、美濃路から中津川を通って上京する方が良いという、母多勢子の意見を伝えた。天狗党は早速幹部で軍議を開き、清内路越えは迂回となるが、飯田藩の預かりでもあり、平穏に通過できるとの読みもあった。最終的に小四郎の意見に従い美濃路をたどることに決した。
 翌日、朝八時に駒場宿を出立した天狗党は、山本村から梨子野峠を越えた。不意に現れた軍勢に関所を守る役人は慌てふためいたが、横田藤四郎が「乱暴はいたさぬ故、通行を許されたい」と丁重に申し出たため、通過を承諾した。
 しかしあとになって、幕府との間に大きな問題となった。浪士を黙って通過させたことは責任重大として飯田藩主堀親義は講武所奉行、清内路関所預かりをお役御免となり、飯田藩領一万七千石から二千石の没収、その上で逼塞という厳しい処分を受けることになった。また、関所の番頭、副番頭は職務怠慢の咎にて切腹を命じられた。なお番頭の斎藤某は長男と逃げ出し、高野山に隠れたが、のちに捕えられ城内で打ち首となった。
 天狗勢は上清内路村まで進み、ここで宿泊した。谷間に点在する家々に分宿したが、浪士たちが意外と礼儀正しかったので村人も安心したという。

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飯田 Ⅱ

2015年05月30日 | 長野県
(青木)
 再度青木地区を訪ねた。飯田から青木地区へは車両のすれ違いができないか細い道が通じているのみである。この道を溯ると静かな集落が待っている。いったいどれくらいの人がここで生活しているのだろう。人の気配が感じられない。
 この静かな集落は、かつて飯田から梨野峠を越えて清内路へ向かう街道に位置していた。従って往時は決して寒村というわけではなかっただろう。それでも元治元年(1864)十一月、天狗党一千の軍列が通過したことはこの集落の人々を恐怖に陥れたに違いない。


水戸浪士塋

 このとき小さな事件があった。天狗党の隊士高橋賢治は民家から衣服を盗んだ罪で、この地で処刑された。集落の中にその墓が残されている。明治六年(1873)に地元の金沢音松という人が建てたものという。この墓を確認するために再度青木を訪れることになったが、満足して引き上げることした。

(長久寺)


長久寺

 長久寺には、飯田藩主堀家の墓所がある。堀氏歴代の墓は、東京澁谷の東江寺にあるが、当寺には六代親蔵、九代親民、十一代親義の墓碑のほか、初代親長、二代親貞、四代親賢らの荼毘の跡、奥方、若様らの墓が残されている。


堀氏墓所


龍雲院殿正五位研山道義大居士(堀親義墓)

 堀親義は、文化十一年(1814)、十代藩主堀親寚(ちかしげ)の二男に生まれた。号は研山。父と同じく幕閣に入り、奏者番や寺社奉行、講武所奉行などの重職に就いた。元治元年(1864)の天狗党が領内を通過した際に、城を固めるばかりで攻撃を加えず、さらに清内路関所をそのまま通過させたことが田沼意尊の逆鱗に触れ、講武所奉行を解任。二千石の減封処分を受けた上に、清内路関守衛の任務は高遠藩に移された。明治十三年(1880)、死去。六十七歳。

(城山公園)
 飯田市南郊の城山は、標高七百三十三メートル。戦国時代には山頂に久米ヶ城という城郭が築かれていた。
 現在、山頂は城山公園として整備され、展望台が建てられている。松尾多勢子の歌碑がある。


城山公園からの眺望


松尾多勢子歌碑

 松尾多勢子が、上洛の際、梨子野峠で遠ざかる故郷を偲んで詠んだものである。

 なし野といへるたむけをこへつつ 多勢子
 旅衣ふりかへれども 朝霧の
 立へだてたる 古さとの空

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豊丘 Ⅱ

2015年05月30日 | 長野県
(御手形諏訪神社)
 この日は大学時代の仲間が岐阜長良川温泉に集合するというので、早朝四時半に八王子を出発し、長野県南信地方の史跡を回りながら、約束の午後六時に岐阜駅にたどり着いた。岐阜駅では集合した連中がまさに駅の外に出ようという場に間に合った。寸分のロスもない一日であった。

 最初の訪問地は豊丘村の御手形諏訪神社である。この神社に大石が祀られており、その上に大きな手の跡が付いている。八百万(やおよろず)の神の集まる高天が原から使者が出雲に来て、大国主命に帰順を勧めた。大国主命は早速承知し降参したが、若い息子の建御名方(たてみながた)命は承知せず談判が決裂した。高天が原の武甕槌(たけみかつち)命との戦いとなるが、建御名方命は破れて逃げた。武甕槌命は追いかけ、とうとう佐原の地で追いついた。建御名方命はここで降参し、傍らの石に手形をつけて帰順の誓いをし、二神の間に和睦が成立したという。

 境内には松尾多勢子が歌に詠んだといわれる老松があったらしいが、現在その姿はない。辛うじて「松尾多勢子の短歌の名木 巨木老松の跡地」と記された木柱が残されているのみである。


御手形石


巨木老松の跡地


(不動滝)


不動滝

 豊丘村神稲の名の知れない川沿いに道路が走っており、その道端に「名勝 不動滝入口」と書かれた看板がある。注意していないと見逃してしまうようなものである。そこから五~六分も歩けば不動滝がある。ここ数日の雨を集めて水量は豊富で、近づくと飛沫でカメラのレンズがたちまち曇ってしまうほどであった。


松尾多勢子歌碑

 この不動滝に松尾多勢子の歌碑が建てられている。流麗な草書で書かれており、残念ながら何と書かれているか読み取れなかった。


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塩山

2015年05月24日 | 山梨県
(慈雲寺)
 かつて塩山市といったが、平成十七年(2005)に勝沼町や大和村と合併して、甲州市となった。JR中央線の塩山駅で降りると、目の前に甘草屋敷がある。そこで自転車を借りて慈雲寺を目指す。
 貸自転車の係のオジサンによれば、慈雲寺まではずっと登坂らしい。電動自転車の方が良いよ(因みに普通の自転車は二百円、電動自転車は五百円)とアドバイスをいただいたが、所詮三キロメートルくらいの道のりである。わずか三百円であるが、これを惜しんで普通自転車を選んだ。さらに
「だったら少し遠回りだけど、国道411号線を経由した方が良い」
とも助言していただいたが、私はこれも無視して最短の道を行った。
 全行程の四分の一も行かないうちに、そもそも体力の無い私は、オジサンの助言に従わなかったことを後悔した。とても自転車で登れるような坂道ではなかった。ぜいぜい言いながら、自転車を押して、ようやく慈雲寺に行き着いた。
 慈雲寺は樹齢三百年というイトザクラで有名である。イトザクラの盛りは過ぎていたが、それでも多くの観光客が訪れていた。


慈雲寺

 今回、塩山の慈雲寺を訪ねたのは、真下晩菘(ましもばんすう)の顕彰碑を見るためである。
 真下晩菘は、寛政十一年(1799)、甲斐山梨郡中萩原村(現・甲州市塩山中萩原)の益田家に生まれた。維新前は専之丞と称した。江戸に出て旗本小原家に奉公。のち谷村、石和代官所の手代となり、天保七年(1836)、幕臣真下家の株を買って真下専之丞と改名した。蕃書調所調役から、文久二年(1862)には同所調役組頭となった。この時期、晩菘を頼って中萩村を駆け落ちしてきたのが、樋口則義(樋口一葉の父)である。品川台場の建設工事にも関係した。慶応二年(1866)陸軍奉行並支配、同三年(1867)老齢を理由に致仕し、横浜住吉町で私塾「融貫塾」を開いた。この頃、祐天仙之助、菱山の佐太郎らの浪士隊入りを手引きしたともいわれる。明治八年(1875)十月、七十七歳で没。門下に沼間守一、矢野次郎、上野忠三、志村源太郎、荒川義太郎、村野常右衛門、蒲生重章、石坂昌孝らがいる。
 慈雲寺の顕彰碑は、大正三年(1914)、晩菘の先祖の墓のある慈雲寺を選んで建立されたものである。撰文は松平康國、篆額は徳川家達。


真下晩菘 (甘草屋敷所蔵)


真下晩菘先生碑


慈雲寺にて

 慈雲寺は、樋口一葉ゆかりの寺でもある。一葉の父、則義は中萩原村の出身であるが、青年期には慈雲寺の寺子屋で白巌和尚に学んだという。


一葉女史之碑

 この碑は大正十一年(1922)、樋口一葉女史の文才を偲んで建立されたもので、題額は杉浦重剛による。

 慈雲寺から塩山駅まで戻る道は、自転車をこぐ必要もなく、快適そのもの。あっという間でに駅に着いた。

(甘草屋敷)


甘草屋敷(旧高野家)

 幕府の命を受けて、漢方薬の原料である甘草を栽培したことから、甘草(かんぞう)屋敷と呼ばれる。高野家はこの地で長百姓(おさびゃくしょう)を務めた家柄で、主屋のほか、巽蔵や文庫蔵を備えた大邸宅である。


武田信玄像

 塩山駅前に鎮座する武田信玄像である。

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甲府 Ⅲ

2015年05月24日 | 山梨県
(遊亀公園)
 せっかく晴れた日曜日だというのに嫁さんに自動車を取られてしまった。そこで電車で山梨方面に出かけることにした。最初の下車駅は甲府である。駅を降りて直ぐにバスに乗って遊亀公園に向かう。


初代駅逓正 杉浦譲顕彰碑

 遊亀公園は、大正八年(1919)に開設された動物園を併設した公園である。園内に杉浦譲の顕彰碑が建立されている。

 杉浦譲は、天保六年(1835)、甲斐国甲府西青沼二十人町(現・甲府市相生一丁目)に生まれた。父は甲府勤番同心杉浦七郎右衛門。幼名は昌太郎、のちに愛蔵と改めた。父譲りの勤勉、明晰な性格で勉学に励み、文久元年(1861)、幕府に登用され外国奉行支配書物御用出役を皮切りに外国奉行などの職に就いた。文久三年(1863)、および慶応三年(1867)の二度に渡り幕府の使節団の一員として渡欧し、フランスの郵便制度を実地に見聞した。明治初年、我が国の郵便制度の整備は、同じく幕臣出身の前島密が中心となって推し進めていたが、前島がイギリスに出張すると、杉浦が跡を引き継ぎ、郵便創業に向けての布石を敷いた。書状集箱(郵便ポスト)の形状を始め、郵便用具の規格や大蔵省と協議して切手に龍の図案を採用したことなど、いずれも杉浦の下で具体化したものである。杉浦の尽力により、明治四年(1871)三月一日、日本で最初の切手(龍文切手と呼ばれる)も発行された。この切手を貼れば、どこにでも出せるという画期的な制度であった。当時設置された郵便集箱は東京十二、京都五、大阪八であった。東京、京都、大阪の三府には郵便役所(今でいう中央郵便局)が置かれ、東海道の各宿駅には郵便取扱所が開かれた。我が国の郵便は東京―大阪間で始まったのである。杉浦譲は、郵便事業が始まった直後の明治四年(1871)三月十日、初代駅逓正に昇進したが、同年七月、民部省の廃止に伴い大蔵省に転じ、太政官権少内史となった。明治十年(1877)八月、四十一歳にて没。遊亀公園の顕彰碑は、昭和四十年(1965)郷土の偉人を顕彰するために有志によって建立されたものである。

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北杜

2015年05月16日 | 山梨県
(昌照寺)
 北杜市高根町村山西割は、大芝宗十郎の出身地である。
 長谷川伸の『相楽総三とその同志』によれば、昌照寺に小宮山土佐守昌照ら小宮山一族の事績を記した古碑があるというので、中央道を長坂ICで降りて、一路昌照寺を目指した。この寺に行けば、村山西割に在るという大芝宗十郎の墓や顕彰碑の所在も分かるかもしれない。
 昌照寺の裏山の墓地内に古碑はあった。
 小宮山土佐守昌照は、武田氏滅亡の折にも竹田勝頼につき従っていたと言われる戦国武将である。その子である小宮山又七という人物が村山西割の大芝家の娘を娶って、以来大芝を名乗って土着したのが大芝宗十郎の先祖らしい。


昌照寺

 結論を言えば、大芝宗十郎の墓も顕彰碑も見つけることはできなかった。次に時間の十分にあるときに当地を再度訪問することにしたい。


小宮山家事績碑

 大芝宗十郎は、文化十一年(1814)、甲斐巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市高根町村山西割)の名主長右衛門の長男に生まれた。若い頃、平田篤胤の思想に共鳴し、家を弟に譲って江戸から京都に向い、諸国を遊歴。幕末には尊攘運動に挺身した。薩摩藩に仕えて武術を修めたとも伝えられるが、慶應三年(1867)十月、西郷隆盛の指示を受け、伊牟田尚平、益満休之助らと、江戸三田の薩摩屋敷に入り糾合隊を編成。下野出流山に義兵を挙げるため、竹内啓、相沢元輔ら同志十一名と三田を出たのが十一月二十六日。薩摩藩名で攘夷倒幕の兵を三百余名集めたが、幕軍の包囲を受けて敗走した。大芝は捕えられて、同年十二月十八日、佐野河原で斬首された。五十四歳。佐野河原で斬首されたのは五十一名と言われるが、大芝の年齢は最高齢に属する。

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長和

2015年05月16日 | 長野県
(和田)


和田宿本陣

 長和町は、平成十七年(2005)、旧長門町と和田町が合併して誕生した。町のほぼ中央部に和田宿がある。
 和田宿本陣は、文久元年(1861)に建設されたものである。この年の三月、宿場の大半を火事で焼失し、本陣も灰燼に帰したが、同年十一月、皇女和宮東下の際、宿泊地に予定されたことを受けて、和田宿では幕府から拝借金を得て宿場を再興し、その中心となる建物として本陣も再建された。現在残っている主屋は、間口十二間(約二十一・六㍍)、奥行き九間(約十六・二㍍)という堂々たる建物である。


和田宿本陣内 和宮関係の展示

 三百円を支払って中に入ると、係の女性が懇切丁寧に館内を案内してくださった。女性によれば、和宮が宿泊した座敷棟は、近所(丸子町)の寺に移設されたそうである。
 和宮関係の展示が充実している。右の写真は「和宮御下向関係廻状」と題されたもので、文久元年(1861)七月二十三日、中之条代官所より支配下の代官所に対し、和宮様の下向が中山道と決まったので、道や橋の目論見書を策性するよう指示したものである。


大黒屋

 和田宿では、本陣のほか、旅籠「大黒屋」や「河内屋」などが公開されている。いずれも文久元年(1861)の大火のあと再建されたものである。


河内屋


河内屋の展示

 「かわちや」でも係の男性に熱っぽく館内を案内していただいた。

(信定寺)


信定寺

 和田宿信定寺には、佐久間象山の師と呼ばれる第十四代活紋禅師(上田の竜洞院住職後隠居)の墓がある。


十四代(活紋禅師の墓)

 象山十八歳のとき、当時上田にいた活紋禅師のもとに中国音と唐琴を学びに通っていた。松代から上田まで平地で七里、山道なら六里の道のりであったが、象山はそこを馬で通ったという。活紋は、もと松代藩士の森条七の二男であるが禅僧となり、参禅の傍ら清人の陳晴山と孟渙九から三年にわたり中国音を学んでいた。かれは清国にも密航したことがあると(真偽は定かではないが)伝えられている。(松本健一著「佐久間象山」中公文庫)

(長久保)


長久保宿 一福処濱屋

 長久保宿一福処濱屋は、明治時代の初期、旅籠として建てられたが、中山道の交通量が激減したため、開業には至らなかった。総二階建て、延床面積四百平米と、宿内でも大きな建物である。現在は歴史民俗資料館として活用されている。


長久保宿本陣 石合家住宅

 一福処濱屋の向い側にある石合家はかつての本陣跡。十七世紀後半の建造と推定され、中山道中最古の本陣跡遺構とされている。文久元年(1861)十一月六日、和田宿を出発した和宮一行は長久保にて休息をとっている。

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佐久 Ⅳ

2015年05月16日 | 長野県
(望月宿)


佐久市立歴史民俗資料館

 佐久市の望月は、中山道江戸から数えて二十五番目の宿場である。街道沿いには、歴史民俗資料館や本陣跡(現・大森小児科医院)や脇本陣鷹野家などが並ぶ。風情のある街並みであるが、私が訪れたのが平日だったためか、ほとんど人影もない、静かな街であった。


望月宿本陣 大森家


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湯河原

2015年05月16日 | 静岡県
(清光園)
 JR湯河原駅は神奈川県に位置するが、温泉郷で有名な静岡県熱海市はすぐそこである。住所でいうと熱海市泉に井上馨別邸清光園がある。今も清光園は旅館として営業しており、もちろん宿泊することも可能である。


清光園

 井上馨というと、聞多と呼ばれた若い頃は、藩主に堂々と直言する熱血漢であり、動乱の幕末史に足跡を残したが、維新後の評価は今一つである。実は維新後も財政家として、あるいは外交分野でも実績を残したが、三井や長州系の政商と結んで賄賂で私腹を肥やしたため、貪官汚吏の典型のような印象が強い。当人のためにも残念というほかはない。

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