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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末維新の兵庫・神戸」 山崎整著 神戸新聞総合出版センター

2020年11月28日 | 書評

条約では神奈川となっていたが、実際に開港されたのは横浜であった。これと同様に条約上は兵庫となっていたが、実際には兵庫の三・五キロメートル東方の神戸村が開港地となった。今では港町として横浜と神戸の方がすっかり有名になってしまった。横浜と同様、開港地となった神戸にも独特の歴史が刻まれ、ハイカラな文化が育つことになった。兵庫津は古くから賑わったが故に人家が密集し、外国人居留地を確保できなかった。そこで言わば何もない神戸に白羽の矢がたったのである。

神戸が一躍脚光を浴びたのが、勝海舟が開いた神戸海軍操練所であった。勝海舟が水兵養成施設の用地としてこの場所(神戸村小野浜)を選んだのは、呉服商網屋吉兵衛が建設した「船たで場」があったからだと言われている。「船たで場」というのは、現代でいう乾ドックのことで、フナクイムシや腐食を防ぐために定期的に船を陸に引揚げ、船底を焼くための施設である。当時まだ寒村であった神戸に目を付けた海舟の先見性には舌を巻く。

兵庫開港が決まったのが、安政五年(1858)に結ばれた日米修好通商条約であった。当初ハリスは、「大阪の開市と堺の開港」を推したが、幕府から兵庫という対案が出され、兵庫開港案に傾いた。大阪は淀川が運ぶ土砂のために浚渫しても水深が確保できないのに対し、兵庫は巨船でも入港できる十分な水深を備えていた。

条約締結の翌年には、箱館、神奈川(横浜)、長崎の三港が予定とおり開かれたが、京都に近い兵庫開港は紛糾した。幕府は文久元年(1861)、竹内保徳を正使とする遣欧使節団を送り、兵庫開港の五年先送りを認める「ロンドン覚書」を交わしている。しかし、列強の兵庫開港圧力は日増しに強まり、窮した幕府は条約勅許と兵庫開港を朝廷に奏請したが、孝明天皇の出した結論は「兵庫開港不許可」であった。以後、兵庫開港は政争の具となり、幕府を揺さぶることになる。慶應元年(1865)九月には、英仏蘭米の軍艦が兵庫沖に集まり、「兵庫開港をロンドン覚書より二年早める」ことなどを要求する場面もあった。

結局、兵庫(神戸)開港は、ロンドン覚書に定められたとおり慶応三年十二月七日(西暦では1868年一月一日)となった。

生まれたばかりの明治新政府が直面した最初の外交問題が神戸事件であった。神戸事件は備前藩士滝善三郎の切腹により解決を見た。事態がこじれると列強の格好の餌食となり、香港や上海のように神戸も植民地支配を受けた恐れもなかったとはいえない。滝善三郎の命と引き換えに列強の怒りを解いただけでなく、新政府には「幕府に代わる新政権として国際承認を得る」という願ってもない副次的成果をもたらした。

余り知られていないことだが、若き伊藤博文が初代兵庫県知事に抜擢されたのもこの地である。伊藤博文は、知事時代に「兵庫論」と称する建白書を提出しているが、中央集権化、四民平等、職業・居住の自由、身分、居住地を問わない教育など、あまりに先進的な内容であったため、政府からは無視あるいは反感さえ持たれてしまった。のちの伊藤博文は現実主義で漸進的であったが、後の姿が想像できないほど理想に燃えた内容であった。

兵庫県知事に就いた伊藤博文は、一年足らずという短い任期であったが、外国人居留地の造成、洋学伝習所(英学校)や貧院、神戸病院などを創設した。今も所々に若き伊藤博文の足跡が残っている。

気が付けば、久しく神戸の街を歩いていない。また神戸をゆっくり探索してみたくなった。

 

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「明治維新の意味」 北岡伸一著 新潮選書

2020年11月28日 | 書評

明治維新をどう評価するか。肯定的にとらえる人もいれば、頭から否定する人もいる。私はどちらかといえば前者である。筆者は「偉大であったのは、日清日露の勝利というよりも、勝利できるような国力を蓄えたこと」「明治維新が解放した力が明治という時代を貫いていた」「明治の偉大さは、民主化、自由化にあった」「開国して西洋の事物に向き合い、これに対応するために多くの制度を変革し、日本文化の根底を損なうことなく、国民の自由なエネルギーの発揮を可能ならしめた」と、明治維新を全面的に称賛する。

私も明治維新は成功した革命だと思うが、明治政府にも失策は少なからずあった。たとえばその外交政策、特に対韓国政策については疑問に思うところも多い。

明治八年(1875)の江華島事件について、本書では「明治維新から八年にわたる辛抱強いアプローチの結果」「その及ぼすところの影響を配慮した慎重な政策であった」と前向きに評価しているが、日本が米国のペリー艦隊或いは西洋列強からやられた砲艦外交をそのまま韓国に対して強行したものであり、その末に不平等条約を押し付けるというところまで「猿真似」である。あまり褒められたものではないだろう。

日本はその後、朝鮮の内政に干渉し続ける。この頃の朝鮮は目的達成のために外国勢力をためらいなく呼び込む体質が強く、これに便乗したもので、もちろん反対勢力は清国あるいはロシアの支援を仰いだ。

本書には触れられてないが、明治二十八年(1895)、反日親露の閔妃が政権を掌握すると、日本軍は開化派や大院君派とともに王宮に乱入し、閔妃を殺害してしまう。大陸浪人の背後には、駐朝特命全権公使三浦五楼の教唆があったといわれる。国家レベルの関与があったかどうか今となっては不明であるが、三浦の独断だったとしても行き過ぎた介入であり、暴挙と呼ぶべきであろう。

明治維新については、「中途半端な革命」「不徹底な革命」という見方もあるらしい。確かに一般的には革命というものは、「ある階級が他の階級が打倒すること」であり、通常は多量の流血を伴うものである。しかも、維新前も維新後も支配者は武士階級であり、支配階級に変化はなかったとも言える。

流血が少なかったと言われれば、異論もあるかもしれない。諸説あるが、戊辰戦争の戦死者は両軍合わせて一万人に満たない(一万三千という説もある)。明治維新の犠牲者数は、西南戦争まで合わせても三万人余りといわれる。それだけ犠牲者がいれば「多い」じゃないかといわれそうだが、実は「フランス革命はその百倍」「ロシア革命に至っては、スターリン独裁下の恐怖政治を含めれば千倍の犠牲者がいた」「さらに中国革命では、国共内戦、大躍進、文化大革命まで含めれば、ロシア革命を優に上回る数の犠牲者が出た」のである。やはり明治維新の流血はケタ違いに少ない。

その理由は、明治維新は緩やかな革命だったからだと私は考えている。例えば、廃藩置県は支配階級を根こそぎ退場させる荒療治であったが、一滴の血を流すことなくこれが実現したのは、前もって版籍奉還を行うという周到な改革だったからである。

新政府は四民平等を高らかに謳ったが、秩禄処分で武士階級の特権が奪われるまで実に明治九年(1876)まで時間を要している。しかも、一方で士族や華族という呼称を設けて、旧特権階級に配慮している(それでも、不平武士の反乱が相次ぎ、西南戦争では両軍合わせて一万三千人を超える戦死者を記録した)。

明治維新は何故緩やかな革命だったのか。その謎を解く鍵は、大久保利通と伊藤博文という明治をリードした指導者にある。大久保も伊藤も漸進主義者であった。民主化という意味では、明治七年(1874)には早くも板垣退助らによって民撰議員設立建白書が提出されている。これ以降の明治の歴史は、そのまま民主化の歴史でもあった。

内閣制度が成立したのが明治十八年(1885)。明治二十三年(1890)には第一回衆議院選挙が行われた。しかし、まだこの時点では政府は藩閥が握っており、政党や議会から超然とした存在であった。議会の七割を占める憲政党のリーダーである大隈重信、板垣退助を首班とした内閣が成立したのは明治三十一年(1898)のことである。しかし、隈板内閣は一年も持たずに崩壊し、その後は藩閥を代表する山県有朋が組閣した。その後も様々な曲折があり、本格的な政党内閣は、大正七年(1918)の原敬内閣まで待たなくてはならない。明治維新が目指した公議輿論は、五十年を経てようやく一定の実現を見たのである。

筆者は大久保利通と伊藤博文という両巨頭が明治の政治を主導したことを念頭に「明治維新以来の政治でもっとも驚くべきは、日本が直面した最重要課題に政治が取り組み、ベストの人材を起用して、驚くべきスピードで決定と実行を進めていることである」国家にとって「もっとも重要な問題に、もっとも優れた人材が、意思と能力のある人の衆知を集めて、手続論や世論の支持は二の次にして、取り組んでいるかどうか」が重要だという。大久保と伊藤という二人が明治という時代をリードしたことは、我が国にとって非常に幸運だったと素直に評価したい。

筆者は現在も国際協力機構(JICA)の理事長として活躍されている方である。筆者の経験からも「その国が直面するもっとも重要な課題に、もっとも優れた才能が全力で取り組んでいるかどうかが決定的に重要だと痛感」しているという。当たり前のことのように聞こえるが、必ずしもそうなっていないのが現実なのである。「もっとも優れた才能を持つ人」が民主的に選ばれるためにどのような仕組みが必要なのだろうか。

 

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「勝海舟の罠」 水野靖夫著 毎日ワンズ

2020年11月28日 | 書評

――― ペリー来航時に勝海舟が幕府に提出した「海防意見書」は、竹川竹斎の意見のコピーではないか。

――― ポサドニック号による対馬占領をイギリスに頼んで解決したのは勝海舟ではないのでは。

――― 江戸無血開城は、実質的には駿府における山岡鉄舟と西郷隆盛の会談で決まったのではないのか。

個人的には以前から疑問に思いつつ、何となくモヤモヤしていたことを、本書では歯切れよく「虚説」「ホラ」と切り捨てる。これまで海舟の手柄と思われていたことが、実はそうではないということをズバッと指摘していて、その点では溜飲が下がる思いである。むしろどうしてこういう書籍が今まで登場しなかったのか、不思議なくらいである。

有名な咸臨丸による「日本人初の太平洋横断」が広く信じられているのも、「万延年間に、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカに行ったのは、日本の軍艦が、外国へ航海した初めてだ。」という海舟の座談によるところが大きい。しかし、咸臨丸には日本人以外にブルック大尉以下十一名のアメリカ人水兵が乗り組んでいて、海舟はじめ日本人はほとんど船酔いで役に立たず、実際にはアメリカ人の助け無しには航海は不可能であった。「日本人による初の単独太平洋横断」は海舟が作り出した俗説の一つである。因みにブルック大尉らを咸臨丸に乗せたのは、海舟が嫌う木村喜毅(芥舟)の功であった。

本書のメイン・テーマは「江戸無血開城」である。世上、あたかも海舟が山岡鉄舟を談判に送ったかのように伝えられているが、鉄舟は慶喜に命じられて西郷に会いに駿府に行ったのであって、しかも鉄舟自身は海舟から手紙を預かったとすら言っていないし、海舟から何か策を授けられたわけでもない。

鉄舟は西郷と談判して、慶喜の備前藩お預けを撤回させ、江戸城の明け渡しと徳川の家名存続を決めて復命した。鉄舟と西郷の駿府会談にて無血開城は実質的に決定したのである。

にも拘わらず、西郷は江戸で勝海舟を会った。筆者によれば、鉄舟には徳川家における「肩書」がなく(強いていえば「精鋭隊頭」である)、西郷としては徳川家のしかるべき地位と権限をもつ人物と会って確認する必要があった。当時、海舟は「軍事取扱」に任じられており、相手として適任であった。従って、江戸会談の目的は交渉ではなく、確認であったというのである。

海舟はのちに語っている「あのときの談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかったよ。」しかし、その場で何が議論され、何が交渉されたか、についてはほとんど何も触れていない。筆者は「「無血開城」を決定する「談判」はされていない。ないものは書けないし、語れない」と結論付けている。筆者の主張は非常に説得力のあるものである。そして「勝が鉄舟の手柄を盗んだ」「「氷川清話」等の放談で、自分がやったと吹聴した」「聖徳記念館の壁画で無血開城は勝と西郷の会談で成ったと刷り込まれているが、この席に鉄舟もいた」と一方的に海舟をディスる。

「「無血開城」を自分の功績とし、これをクローズアップするためには西郷を持ち上げる必要があったのではないか。自分が「実現」したのでもない「無血開城」を直接自分がやったというにはその中身がないので、会談の相方である西郷を褒め上げる必要があったのではないか。勝は、鉄舟や木村摂津守には人間的にどうしても敵わないと思っていたが、西郷は御しやすいと見下していたのではないだろうか。」と勝を批判する。最終的には海舟の人格批判にまで及んでいる。勝海舟に心酔し、擁護したいという方にしてみれば反論もあるだろう。

「海舟座談」や「氷川清話」は、海舟が語ったことを編者ら(巌本善治・吉本襄)が活字にしたものである。必ずしも海舟がホラを吹きまくったのではなく、海舟を偉人に仕立てたい編者の思いが「捏造」に繋がってしまった可能性も否定できない。いずれにしても、「海舟座談」や「氷川清話」が一級史料ではないことは論をまたない。しかし、歴史家と称する人を初め、多くの人が「海舟座談」や「氷川清話」における海舟のホラ話を信じ、海舟こそが「江戸無血開城」の立役者であり、「日本海軍生みの親」という前提で話が進んでいるのである。

個人的に長らく疑問に思っていたことをズバッと言い切ってくれたことに、快哉を叫びたいくらいであるが、残念ながら本書は学術論文とは程遠い。引用する書籍も、小説であったり、いわゆる「孫引き」が多い。「変換ミス」や「人名漢字」のことなど本筋と関係のないところに話が脱線してしまうのも、余計に思う。いわゆる歴史学者と呼ばれる人による、同じ論調の書籍の登場を待ちたい。

 

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平塚 Ⅲ

2020年11月21日 | 神奈川県

(ホテルサンライフガーデン)

 茅ヶ崎方面から相模川を渡って平塚に入ると右手に見えるのがホテルサンライフガーデンである。ホテルの前に明治天皇馬入御小休所趾碑が建てられている。

 

明治天皇馬入御小休所趾

 

 この場所は、実業家杉山久五郎の屋敷があったところで、明治六年(1873)八月三十日、明治天皇、昭憲皇后が東海道通行の際、ここに立ち寄り休息した。明治十一年(1878)十一月八日には、明治天皇が再度立ち寄っている。この石碑は昭和十五年(1940)の建立。子爵金子堅太郎の揮毫。

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大磯 Ⅲ

2020年11月21日 | 神奈川県

(神明神社)

 

神明神社

 

内侍所御羽車奉安之所

 

 明治元年(1869)九月二十日、京都を出発した明治天皇は、同年十月九日、小田原宿をたち、昼には大磯宿の小島本陣に到着した。昼食後、天皇の長旅を慰めようと、北浜海岸で沖の岩の上に群がっているカラスに向かって一斉射撃を試みたが、呼吸が合わず全部逃げられてしまった。明治天皇は初めてのことなので、とてもお喜びになったという。この日、明治天皇は小島本陣に宿泊し、内侍所御羽車(賢所 天照大神の御霊代であるヤタノカガミを祀る腰輿)は神明神社に奉安された。

 

(北浜海岸)

 

明治天皇観漁紀念碑

 

 明治天皇が大磯に到着すると、大磯の漁師は地引網を入れた。地引網を引き上げようとすると、網が海底の岩に引っ掛かってしまったため、漁師が我も我もと海に飛び込み、何とか引き上げた。網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来た。明治天皇は人々のありのままの姿を目にすることができて非常に喜んだという。

 現在、北浜海岸には「明治天皇観漁紀念碑」が海に向かって建てられている。

 

(原敬大磯別荘跡地)

 大磯には政治家が競うように別荘を建てた。松本良順謝恩碑に近い住宅街の中に原敬別荘跡地がある。

 原敬は、明治二十九年(1896)、四十歳のときに大磯に別荘を購入したが、それまでに妻貞子の病気療養などを名目に、何度も大磯を訪れており、相当お気に入りだったのであろう。大正二年(1913)、内務大臣のとき、鎌倉腰越に別荘用地を購入して、大磯の別荘は手放している。

 

原敬大磯別荘跡地

 

(明治記念大磯邸園)

 「明治150年」関連施策の一環として、国、神奈川県、大磯町との連携の下、明治記念大磯邸園を設置することとなった。園内には伊藤博文、大隈重信、陸奥宗光、西園寺公望の四名にゆかりのある邸宅があり、これを保全整備して活用しようという計画があるらしい。

 令和二年(2020)十月、私がこの地を訪問したとき、エントランス部分の工事が行われていた。公開される日を楽しみに待ちたい。

 

明治記念大磯邸園

 

(旧島崎藤村邸)

 島崎藤村は、明治五年(1872)筑摩県馬籠村(現・岐阜県中津川市)の本陣の家に生まれた。大磯の温暖な地をこよなく愛し、昭和十六年(1941)の春、この地に住み、絶筆となった「東方の門」を執筆した。昭和十八年(1943)、八月二十一日、静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中、頭痛を訴え倒れた。翌日、七十一歳で永眠。遺言により、大磯地福寺に葬られた。

 

旧島崎藤村邸

 

旧島崎藤村住宅 静の草屋

 

(地福寺)

 

地福寺

 

島崎藤村墓

 

 地福寺に入って左手に島崎藤村夫妻の墓がある。表に島崎藤村墓と刻まれた質素な墓である。

 

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戸塚

2020年11月21日 | 神奈川県

(澤邉本陣)

 

明治天皇戸塚行在所阯

 

 戸塚宿は東海道五十三次の五番目の宿場で、旅籠数は小田原に継ぐ規模を誇った。現在もJR戸塚駅の近くを東海道が南北に走る。

 戸塚宿には、澤邉本陣と内田本陣があった。澤邉本陣の初代澤邉宗三は戸塚宿創設時の功労者であった。また、明治天皇の東下の際には、澤邉本陣が行在所となった。

 

(脇本陣跡)

 

脇本陣跡

 

 澤邉本陣と内田本陣のちょうど中間あたりに脇本陣跡がある。戸塚宿には三軒の脇本陣があったという。

 

(戸塚郵便局)

 

内田本陣跡

 

 現在、戸塚郵便局のある辺りにもう一つの本陣があった。内田本陣は、間口十八間(三十二・八メートル)、奥行十四間(二十五・五メートル)で、畳敷は百五十二畳もあったという。

 

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天王町

2020年11月21日 | 神奈川県

(橘樹神社)

 相鉄線天王町駅から徒歩五分。かつて橘樹(たちばな)神社は、祇園社、牛頭天王社、天王宮と呼ばれ、天王町の由来となった神社である。境内に明治天皇東幸を記念した石碑が建てられている。明治二年(1869)、明治天皇御東幸の際、当社境内を浄地と定め、内侍所(三種の神器の一つである八咫鏡を祀る場)が奉安された。

 

橘樹神社

 

明治天皇東幸遺蹟碑

 

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東神奈川 Ⅱ

2020年11月21日 | 神奈川県

(神奈川台場公園)

 

神奈川台場公園

 

 知らないうちに神奈川台場跡の一部が公園化されていた。公園化されているのは、台場へ続く西取渡り道の一部である。平成二十年(2008)、横浜開港百五十年を記念して、神奈川台場跡の発掘調査が行われた。その結果、西取渡り道の位置や構造が明らかになったほか、地震等の自然災害により相当な破壊を受けていたことが判明した。

 

地図と絵に見る神奈川台場の歴史

 

 公園には、神奈川台場の歴史を展示するコーナーも設けられている。万延元年(1860)に竣工した台場は、明治三十二年(1899)に廃止されるまで、礼砲や祝砲を交換する役割を担った。

 

(星野町公園)

 

開港百五十周年記念 神奈川台場跡

 

神奈川台場石垣

 

 星野町公園は、神奈川台場の扇型部分の先端部分に位置している。公園に発掘された神奈川台場の石垣が展示されている。

 

(滝の川公園)

 滝の川公園の一角に明治天皇が宿泊したことを示す石碑が建てられている。書は陸軍大将一戸兵衛。

 

滝の川公園

 

明治天皇行在所之蹟

 

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八王子 Ⅻ

2020年11月21日 | 東京都

(八日市宿)

 八王子宿は甲州街道の宿場町で、八王子十五宿とも呼ばれる。八王子十五宿は、横山宿と八日市宿(八王子市八日町8‐1)を中心に繁栄した。元治元年(1864)にはスイスの貿易商カスパー・ブレンワルドが八王子宿を訪れている。彼の残した日記には「たった一本の広くて長い道がこの町を作っており、家々は横浜よりずっと美しくて大きいものだった。公の建物はその大きさと優雅さで群を抜いていた。日本では何もかも非常に清らかに保たれている。」と描写されている。

 当時の八王子宿は道幅九間(約十六メートル)、街並みは横山宿から八木宿の外れまで約二キロメートル続いた。

 

甲州道中 八日市宿跡

 

 ブレンワルドは、八王子宿の大勢の子供につきまとわれ「唐人! 馬鹿!」など、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられた。食事をすれば、大衆が集まってきて好奇心むき出しでじろじろと見る。食事を済ませて散歩に出ようとすると、あまりに多くの人が集まってきたので、身の危険を感じて茶屋に戻っている。当時、八王子宿周辺までが外国人遊歩区域とされていたので、時々外国人が町に現れた。当時としては珍しい外国人を八王子の人びとは好奇の目で見たのであろう。

 

(禅東院)

 

禅東院

 

 禅東院は、八王子夢美術館の裏側(北側)に位置している(八王子市本町17‐19)。

 元治元年(1864)、天狗党約千人余が常陸を出て、利根川を越えて本庄宿(現・埼玉県本庄市)に向かったとの情報を得て、若年寄田沼意尊は、川越藩に対して今市、越生、扇町屋(現・埼玉県入間市)、八王子周辺への出兵を命じた。天狗党の一部が箱根ヶ崎から横浜へ向かうとの風評があったため、川越藩兵約三百は同年十一月十六日、禅東院に宿陣した。

 さらに江川代官の手代や幕府歩兵隊、若年寄本多能登守忠紀の一隊、講武所奉行堀親義など入れ替わり八王子宿に現れ、かつてない慌ただしさと緊張が走った。結局、天狗党が八王子宿に近づくこともなかったため、十二月二日には駐屯していた川越藩兵も去っていった。

 

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堺 Ⅳ

2020年11月14日 | 大阪府

(大浜公園)

 

大浜公園

 

 大浜公園は明治十二年(1879)の開園。明治三十六年(1903)には大阪で開かれた内国勧業博覧会の会場となり、東洋一と称された水族館が開設された。

 大浜公園の隣接地には、明治二十九年(1896)、大阪窯業株式会社の堺分工場が建設され、大量の煉瓦が製造された。

 

大阪窯業煉瓦発祥之跡

 

明治天皇御駐蹕之跡

 

 明治天皇御駐蹕之跡は、明治三十六年(1903)五月五日、第五回内国勧業博覧会に際し、当地に設けられた水族館を天皇が視察し、その翌日には皇后が視察したことを記念したものである。傍らには「明治天皇 昭憲皇太后 幸啓之所碑」がある。

 

(府営堺戎島住宅)

 

明治天皇御駐蹕之跡

 

 府営堺戎島住宅の東南の一画に明治天皇御注駐蹕之跡碑が建てられている。薩摩藩では慶應三年(1867)に洋式紡績工場を開業していたが、二番目の工場を交通の要衝である堺に土地を買い求め、工場を開いた。明治十年(1877)二月十三日、明治天皇がその工場を視察したことを記念したものである。

 

(熊野小学校)

 

玉座

 

 堺市立熊野(ゆや)小学校は堺市内でも最も古い小学校の一つである。正門を入って右手に明治天皇の玉座を保存した建物が置かれており、その前に御製碑と駐蹕碑が建てられている。大正十一年(1922)、玉座を保存する聖蹟顕彰事業が始められ、学校の創立五十周年を記念して玉座が修繕保存されるとともに、御製碑が設けられた。

 明治十年(1877)、二月十三日に視察し、授業を天覧されたことを記念したものである。

 

明治天皇駐蹕之址

 

明治天皇御製碑

 

 御製

 時はかるうつはは前にありながら

 たゆみがちなり人のこころは

 

(寺地町)

 

明治天皇行在所舊蹟

 

 阪堺電車の寺地町駅近くの中央分離帯に明治天皇行在所旧跡碑が建てられている。この石碑は戦災により破壊されたが、戦後繋ぎ合わせて再建されたものである。明治天皇の当地への滞在は、明治十年(1877)二月十三日のことである。

 

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