条約では神奈川となっていたが、実際に開港されたのは横浜であった。これと同様に条約上は兵庫となっていたが、実際には兵庫の三・五キロメートル東方の神戸村が開港地となった。今では港町として横浜と神戸の方がすっかり有名になってしまった。横浜と同様、開港地となった神戸にも独特の歴史が刻まれ、ハイカラな文化が育つことになった。兵庫津は古くから賑わったが故に人家が密集し、外国人居留地を確保できなかった。そこで言わば何もない神戸に白羽の矢がたったのである。
神戸が一躍脚光を浴びたのが、勝海舟が開いた神戸海軍操練所であった。勝海舟が水兵養成施設の用地としてこの場所(神戸村小野浜)を選んだのは、呉服商網屋吉兵衛が建設した「船たで場」があったからだと言われている。「船たで場」というのは、現代でいう乾ドックのことで、フナクイムシや腐食を防ぐために定期的に船を陸に引揚げ、船底を焼くための施設である。当時まだ寒村であった神戸に目を付けた海舟の先見性には舌を巻く。
兵庫開港が決まったのが、安政五年(1858)に結ばれた日米修好通商条約であった。当初ハリスは、「大阪の開市と堺の開港」を推したが、幕府から兵庫という対案が出され、兵庫開港案に傾いた。大阪は淀川が運ぶ土砂のために浚渫しても水深が確保できないのに対し、兵庫は巨船でも入港できる十分な水深を備えていた。
条約締結の翌年には、箱館、神奈川(横浜)、長崎の三港が予定とおり開かれたが、京都に近い兵庫開港は紛糾した。幕府は文久元年(1861)、竹内保徳を正使とする遣欧使節団を送り、兵庫開港の五年先送りを認める「ロンドン覚書」を交わしている。しかし、列強の兵庫開港圧力は日増しに強まり、窮した幕府は条約勅許と兵庫開港を朝廷に奏請したが、孝明天皇の出した結論は「兵庫開港不許可」であった。以後、兵庫開港は政争の具となり、幕府を揺さぶることになる。慶應元年(1865)九月には、英仏蘭米の軍艦が兵庫沖に集まり、「兵庫開港をロンドン覚書より二年早める」ことなどを要求する場面もあった。
結局、兵庫(神戸)開港は、ロンドン覚書に定められたとおり慶応三年十二月七日(西暦では1868年一月一日)となった。
生まれたばかりの明治新政府が直面した最初の外交問題が神戸事件であった。神戸事件は備前藩士滝善三郎の切腹により解決を見た。事態がこじれると列強の格好の餌食となり、香港や上海のように神戸も植民地支配を受けた恐れもなかったとはいえない。滝善三郎の命と引き換えに列強の怒りを解いただけでなく、新政府には「幕府に代わる新政権として国際承認を得る」という願ってもない副次的成果をもたらした。
余り知られていないことだが、若き伊藤博文が初代兵庫県知事に抜擢されたのもこの地である。伊藤博文は、知事時代に「兵庫論」と称する建白書を提出しているが、中央集権化、四民平等、職業・居住の自由、身分、居住地を問わない教育など、あまりに先進的な内容であったため、政府からは無視あるいは反感さえ持たれてしまった。のちの伊藤博文は現実主義で漸進的であったが、後の姿が想像できないほど理想に燃えた内容であった。
兵庫県知事に就いた伊藤博文は、一年足らずという短い任期であったが、外国人居留地の造成、洋学伝習所(英学校)や貧院、神戸病院などを創設した。今も所々に若き伊藤博文の足跡が残っている。
気が付けば、久しく神戸の街を歩いていない。また神戸をゆっくり探索してみたくなった。