(旧九鬼家住宅資料館)
JR福知山線「新三田行き」の電車をよく見かけるため、三田という地名は関西に住む人には比較的馴染みがあるかもしれない。かつて三田は山あいに位置する小さな街であった。1970年代以降、阪神へのベッドタウンとして急速に拡大し、今や人口十一万人を越える大都市となった。人口増加の大半は、新たに宅地開拓されたニュータウンに集中しており、昔ながらの三田は、今も昔日の静けさを維持している。
駅前の観光案内所で自転車を貸してもらえるところがないか聞いてみたが、そういうサービスは無いらしい。梅雨の合間の暑い日であったが、歩いて回ることになった。
最初の訪問地は、旧九鬼家住宅資料館である。入場無料。観光ボランティアの方が入口で待ち受けていて、室内を案内していただける。問われるままに「東京から来ました」というと、えらく驚かれた。「古い住宅に興味があるんですか?」と聞かれたので、「いえ、川本幸民に興味があるもので…」と正直に答えると、これまたえらく驚かれた。
「へぇー。川本幸民を研究されているんですか?」
「いや、研究というほどでは。ちょっと興味があるだけです。」
ボランティアの方は親切に市内の川本幸民関係史跡の場所を教えてくださった。三田といえば、川本幸民の故郷であるが、幸民を訪ねてこの地を旅しようという人は案外少ないようである。
旧九鬼家住宅資料館
旧九鬼家住宅は、三田藩の家老職を代々務めた九鬼家の住宅で、明治八年(1876)前後に建てられたという擬洋風建築の建物である。当主であった九鬼隆範が自ら設計したものである。九鬼隆範は、家老九鬼隆継の養子となって家を継ぎ、維新後、工部省に出仕し、鉄道技術官となった。日本各地の鉄道の測量・設計に従事した。明治四十一年(1908)七十四歳にて逝去。
藩校造士館跡
ボランティアの方に教えていただいたとおり、藩校造士館跡は、旧九鬼家住宅資料館のすぐ隣にあった。ただし、遺構らしきものは一つも残っておらず、民家の前に市が立てた説明板があるのみである。
三田藩の藩校造士館は、文政元年(1818)十代藩主九鬼隆国の命により、儒官白洲邸内にあった国光館を移し、造士館と改めた。白洲退蔵が教鞭を取り、川本幸民もここで学んだ。慶応四年(1868)には十三代藩主九鬼隆義が洋学を教科に加えるなど隆盛を迎えたが、廃藩の後、ほどなく廃校となった。
(三田小学校)
三田城址
現在、三田小学校となっている辺りが、三田城跡である。
織田信長の家臣荒木村重が丹波攻略のために家臣荒木平太夫を三田に置き、その平太夫が三田の城下町を整備したといわれる。寛政十年(1633)に、九鬼久隆が志摩国鳥羽から移封され、廃藩まで九鬼氏が城主をつとめた。石高は三万六千石。
九鬼氏といえば、志摩を本拠地とする海軍の家系であるが、三田という山あいの国を与えられたことをどう受け止めたのだろうか。とにかく九鬼家は明治維新までしぶとく生き抜いた。
裕軒川本幸民先生顕彰碑
三田小学校の前に川本幸民と元良勇次郎の顕彰碑が建てられている。
川本幸民は、文化七年(1810)三田で生まれた。川本家は代々三田藩医を務める家であった。文政二年(1819)藩校造士館に入学。文政十二年(1829)には兄周篤に従って江戸に遊学した。江戸では西洋産科の権威足立長雋に入門。天保二年(1831)には高名な坪井信道の塾に入門した。弘化二年(1845)には島津斉彬の知遇を得て、兵学や理化学に関する講義を行った。この頃、マッチの試作やビールの醸造、手作りの写真機による写真撮影などの実験に成功している。安政三年(1856)四十六歳のとき、幕府の蕃書調所教授手伝いに任命され、同六年には教授に昇進した。文久元年(1861)『化学新書』を著したが、これが我が国で「化学」という言葉が使われた初出という。明治に入って三田に戻り、英蘭塾を開きそこでも英語や理化学を教えた。門下から元良勇次郎や九鬼隆一、九鬼隆範といった人材が育った。明治四年(1871)、東京にて死去。六十一歳であった。
元良勇次郎顕彰碑
元良勇次郎は川本幸民の門下生で、米国に留学して心理学を学んだ。帰国後、東京帝国大学教授に就任し、我が国初の心理学者となった。
(川本幸民生誕地)
川本幸民は郷土が生んだ偉人だというのに、生誕地には市の説明板が立てられているだけというのはちょっと残念に思う。
川本幸民生誕地
川本幸民は、我が国の「化学の祖」と呼ばれると同時に「我が国で初めてビールを醸造した日本人」として知られる。キリンビールのホームページで川本幸民を詳しく紹介しているので、詳細はそちらを参照されたい(http://www.kirin.co.jp/daigaku/o_japan/kawamoto_kohmin/index.html)。
このホームページによれば、幸民によるビール醸造は、現代の眼から見ても極めて正確で精密なものだったようである。幸民は西洋の書物を通して、ビールの醸造法を学び、その知識だけで醸造を成功させた。幸民の化学知識水準が相当に高かったことを裏付けるものである。
化学が苦手中の苦手という私にとって、化学が出来る人というのはそれだけで尊敬に値する。「化学の祖」と呼ばれる川本幸民という人は、無条件に崇拝すべき人物に思われる。
(小寺公園)
小寺泰次郎翁出生地
川本幸民の生誕地からほど近い、小寺公園が小寺泰次郎の生誕地である。小寺泰次郎は、白洲退蔵とともに藩政改革を推進し、藩債の処理に尽力した。維新後、神戸に出て藩主九鬼隆義、白洲退蔵らと志摩三商会を設立してその役員に就任。また、自ら小寺洋行を設立して巨万の富を築いた。学校創立に情熱を傾け、私財を提供して私学三田学園の基礎を築いたが、志半ばにして明治三十八年(1905)七十歳で逝去。
(英蘭塾跡)
英蘭塾跡
明治元年(1868)、三田に帰国した川本幸民は、金心寺に英蘭塾を開いた。金心寺は天智七年(668)の創建という古刹である。もともと三田の町も金心寺の門前町として発展したといわれる。明治初年までこの地に大伽藍を有していたが、現在郊外に移っている。
明治三年(1870)、幸民の太政官出仕に伴い、英蘭塾も閉鎖された。この地で塾を開いたのは、わずか数年であったが、九鬼隆範(鉄道技官)、九鬼隆一(帝国博物館館長)、鈴木清(赤心社初代社長)、元良勇次郎(心理学者)といった人材がここから巣立った。
(元良勇次郎生誕地)
元良勇次郎先生生誕之地
元良勇次郎は、杉田家の次男として安政五年(1858)金心寺に隣接するこの地で生まれた。川本幸民の英蘭塾で学んだ後、同志社英学校の一期生として入学した。上京して、宣教師ジュリアス・ソーパー、津田仙とともに東京英学校(のちの青山学院大学)を創立した。その後、米国に留学して心理学と社会学を学び、帰国して東京帝国大学で心理学教授に就任した。大正元年(1912)五十五歳にて逝去。
(九鬼隆一生誕地)
九鬼隆一生誕地
九鬼隆一は、嘉永五年(1852)、星崎貞幹の次男としてこの地に生まれ、綾部藩家老九鬼隆周(たかちか)の養子となる。慶応義塾に入学後、三田で英蘭塾に学び、新政府に出仕。文部少輔となり「九鬼の文部省」とまで呼ばれるに至った。その後、駐米特命全権公使を経て東京帝国博物館長として活躍。さらに枢密顧問官、宮中顧問官、貴族院議員を歴任し、男爵を授けられた。昭和六年(1831)八十歳にて死去。
(白洲退蔵生誕地碑)
白洲退蔵生誕地碑
白洲家は、三田藩に代々仕える儒官の家系であった。藩主九鬼隆義の抜擢に応え藩財政を建て直した。維新後は藩大参事に就任し、新政府発行の紙幣太政官札の流通に尽力するとともに、科学の導入、人材の育成にも尽くした。のちに横浜正金銀行頭取や岐阜県大書記官などを歴任した。子の白洲文平は白洲商店を興して巨万の富を築いた。孫の白洲次郎は、先年NHKのドラマになったことで一躍有名となった。吉田茂の懐刀と呼ばれ、日本の復興に尽くしたことで知られる。