史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

木屋町 Ⅴ

2011年07月31日 | 京都府
(後藤象二郎寓居跡)


後藤象二郎寓居跡

河原町三条の交差点を二つ下がって、東側の小路を入った居酒屋の前に後藤象二郎寓居跡の駒札がある。何時建てられたのか存じ上げないが、ここにこのような史跡があったとは気が付かなかった。後藤が京都滞在中に定宿としていた醤油商「壷屋」があった場所という。

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三田 Ⅱ

2011年07月31日 | 兵庫県
(心月院)


心月院

心月院は、三田藩主九鬼家の菩提寺で、本堂裏の九鬼家墓地には歴代藩主の墓石が並ぶ。


九鬼家墓地


九鬼隆国墓

九鬼隆国は、三田藩十代藩主。嘉永五年(1852)、七十二歳で世を去った。
あとを継いだのは、十一代九鬼隆徳。さらに十二代藩主九鬼精隆へと引き継がれる。隆国、隆徳、精隆三代の墓が一線に並んでいる。


男爵九鬼隆一之墓


敬慕碑

九鬼隆一の墓の右側には、隆一が建てた敬慕碑が聳える。木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、さらにフルベッキ、福沢諭吉、加藤弘之といった著名人のほかに、聞いたことのない名前が三名。


従四位子爵九鬼隆義之墓

三田藩最後の藩主九鬼隆義は、先進性に富んだ人だったようで、その影響もあって山間部にありながら三田にはキリスト教会が多く建てられた。今でも街のあちこちに教会が点在している。隆義が家督を継いだのは、安政六年(1859)のことで、白洲退蔵や小寺泰次郎らを抜擢して、藩政改革に当たらせた。維新に際しては、他藩に先駆けて帰農を奏請した。明治四年(1871)の廃藩置県により三田藩知事を免ぜられたが、その後神戸に志摩三商会を興して実業に専念し、神戸開港とともに巨財を得た。明治二十四年(1891)五十五歳で死去。


白洲退蔵墓

白洲退蔵の墓である。同じ墓域に白洲文平や白洲次郎・正子夫妻ら一族の墓が並ぶ。
慶応三年(1867)の大政奉還以降の複雑な政局に直面すると、白洲退蔵は藩主を補佐して的確な判断を下した。戊辰戦争に際してはいち早く恭順を決定し、その後も廃刀、断髪を主張するなど、先見性に優れていた。

(神田惣兵衛旧住宅)


神田惣兵衛旧住宅

神田家の家業は米屋であるが、米相場で一夜に万両を動かしたと言われる豪商であった。家業のほか、窯元として知られ、文化初年に中国青磁を凌ぐといわれる三田青磁を生んだことでも名を残した。

これだけ見て回って一時間半程度である。歩いて散策するにはちょうと良い街の大きさであった。

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三田 Ⅰ

2011年07月31日 | 兵庫県
(旧九鬼家住宅資料館)
JR福知山線「新三田行き」の電車をよく見かけるため、三田という地名は関西に住む人には比較的馴染みがあるかもしれない。かつて三田は山あいに位置する小さな街であった。1970年代以降、阪神へのベッドタウンとして急速に拡大し、今や人口十一万人を越える大都市となった。人口増加の大半は、新たに宅地開拓されたニュータウンに集中しており、昔ながらの三田は、今も昔日の静けさを維持している。

駅前の観光案内所で自転車を貸してもらえるところがないか聞いてみたが、そういうサービスは無いらしい。梅雨の合間の暑い日であったが、歩いて回ることになった。

最初の訪問地は、旧九鬼家住宅資料館である。入場無料。観光ボランティアの方が入口で待ち受けていて、室内を案内していただける。問われるままに「東京から来ました」というと、えらく驚かれた。「古い住宅に興味があるんですか?」と聞かれたので、「いえ、川本幸民に興味があるもので…」と正直に答えると、これまたえらく驚かれた。
「へぇー。川本幸民を研究されているんですか?」
「いや、研究というほどでは。ちょっと興味があるだけです。」
ボランティアの方は親切に市内の川本幸民関係史跡の場所を教えてくださった。三田といえば、川本幸民の故郷であるが、幸民を訪ねてこの地を旅しようという人は案外少ないようである。


旧九鬼家住宅資料館

旧九鬼家住宅は、三田藩の家老職を代々務めた九鬼家の住宅で、明治八年(1876)前後に建てられたという擬洋風建築の建物である。当主であった九鬼隆範が自ら設計したものである。九鬼隆範は、家老九鬼隆継の養子となって家を継ぎ、維新後、工部省に出仕し、鉄道技術官となった。日本各地の鉄道の測量・設計に従事した。明治四十一年(1908)七十四歳にて逝去。


藩校造士館跡

ボランティアの方に教えていただいたとおり、藩校造士館跡は、旧九鬼家住宅資料館のすぐ隣にあった。ただし、遺構らしきものは一つも残っておらず、民家の前に市が立てた説明板があるのみである。
三田藩の藩校造士館は、文政元年(1818)十代藩主九鬼隆国の命により、儒官白洲邸内にあった国光館を移し、造士館と改めた。白洲退蔵が教鞭を取り、川本幸民もここで学んだ。慶応四年(1868)には十三代藩主九鬼隆義が洋学を教科に加えるなど隆盛を迎えたが、廃藩の後、ほどなく廃校となった。

(三田小学校)


三田城址

現在、三田小学校となっている辺りが、三田城跡である。
織田信長の家臣荒木村重が丹波攻略のために家臣荒木平太夫を三田に置き、その平太夫が三田の城下町を整備したといわれる。寛政十年(1633)に、九鬼久隆が志摩国鳥羽から移封され、廃藩まで九鬼氏が城主をつとめた。石高は三万六千石。
九鬼氏といえば、志摩を本拠地とする海軍の家系であるが、三田という山あいの国を与えられたことをどう受け止めたのだろうか。とにかく九鬼家は明治維新までしぶとく生き抜いた。


裕軒川本幸民先生顕彰碑

三田小学校の前に川本幸民と元良勇次郎の顕彰碑が建てられている。

川本幸民は、文化七年(1810)三田で生まれた。川本家は代々三田藩医を務める家であった。文政二年(1819)藩校造士館に入学。文政十二年(1829)には兄周篤に従って江戸に遊学した。江戸では西洋産科の権威足立長雋に入門。天保二年(1831)には高名な坪井信道の塾に入門した。弘化二年(1845)には島津斉彬の知遇を得て、兵学や理化学に関する講義を行った。この頃、マッチの試作やビールの醸造、手作りの写真機による写真撮影などの実験に成功している。安政三年(1856)四十六歳のとき、幕府の蕃書調所教授手伝いに任命され、同六年には教授に昇進した。文久元年(1861)『化学新書』を著したが、これが我が国で「化学」という言葉が使われた初出という。明治に入って三田に戻り、英蘭塾を開きそこでも英語や理化学を教えた。門下から元良勇次郎や九鬼隆一、九鬼隆範といった人材が育った。明治四年(1871)、東京にて死去。六十一歳であった。


元良勇次郎顕彰碑

元良勇次郎は川本幸民の門下生で、米国に留学して心理学を学んだ。帰国後、東京帝国大学教授に就任し、我が国初の心理学者となった。

(川本幸民生誕地)
川本幸民は郷土が生んだ偉人だというのに、生誕地には市の説明板が立てられているだけというのはちょっと残念に思う。


川本幸民生誕地

川本幸民は、我が国の「化学の祖」と呼ばれると同時に「我が国で初めてビールを醸造した日本人」として知られる。キリンビールのホームページで川本幸民を詳しく紹介しているので、詳細はそちらを参照されたい(http://www.kirin.co.jp/daigaku/o_japan/kawamoto_kohmin/index.html)。
このホームページによれば、幸民によるビール醸造は、現代の眼から見ても極めて正確で精密なものだったようである。幸民は西洋の書物を通して、ビールの醸造法を学び、その知識だけで醸造を成功させた。幸民の化学知識水準が相当に高かったことを裏付けるものである。

化学が苦手中の苦手という私にとって、化学が出来る人というのはそれだけで尊敬に値する。「化学の祖」と呼ばれる川本幸民という人は、無条件に崇拝すべき人物に思われる。

(小寺公園)


小寺泰次郎翁出生地

川本幸民の生誕地からほど近い、小寺公園が小寺泰次郎の生誕地である。小寺泰次郎は、白洲退蔵とともに藩政改革を推進し、藩債の処理に尽力した。維新後、神戸に出て藩主九鬼隆義、白洲退蔵らと志摩三商会を設立してその役員に就任。また、自ら小寺洋行を設立して巨万の富を築いた。学校創立に情熱を傾け、私財を提供して私学三田学園の基礎を築いたが、志半ばにして明治三十八年(1905)七十歳で逝去。

(英蘭塾跡)


英蘭塾跡

明治元年(1868)、三田に帰国した川本幸民は、金心寺に英蘭塾を開いた。金心寺は天智七年(668)の創建という古刹である。もともと三田の町も金心寺の門前町として発展したといわれる。明治初年までこの地に大伽藍を有していたが、現在郊外に移っている。
明治三年(1870)、幸民の太政官出仕に伴い、英蘭塾も閉鎖された。この地で塾を開いたのは、わずか数年であったが、九鬼隆範(鉄道技官)、九鬼隆一(帝国博物館館長)、鈴木清(赤心社初代社長)、元良勇次郎(心理学者)といった人材がここから巣立った。

(元良勇次郎生誕地)


元良勇次郎先生生誕之地

元良勇次郎は、杉田家の次男として安政五年(1858)金心寺に隣接するこの地で生まれた。川本幸民の英蘭塾で学んだ後、同志社英学校の一期生として入学した。上京して、宣教師ジュリアス・ソーパー、津田仙とともに東京英学校(のちの青山学院大学)を創立した。その後、米国に留学して心理学と社会学を学び、帰国して東京帝国大学で心理学教授に就任した。大正元年(1912)五十五歳にて逝去。

(九鬼隆一生誕地)


九鬼隆一生誕地

九鬼隆一は、嘉永五年(1852)、星崎貞幹の次男としてこの地に生まれ、綾部藩家老九鬼隆周(たかちか)の養子となる。慶応義塾に入学後、三田で英蘭塾に学び、新政府に出仕。文部少輔となり「九鬼の文部省」とまで呼ばれるに至った。その後、駐米特命全権公使を経て東京帝国博物館長として活躍。さらに枢密顧問官、宮中顧問官、貴族院議員を歴任し、男爵を授けられた。昭和六年(1831)八十歳にて死去。

(白洲退蔵生誕地碑)


白洲退蔵生誕地碑

白洲家は、三田藩に代々仕える儒官の家系であった。藩主九鬼隆義の抜擢に応え藩財政を建て直した。維新後は藩大参事に就任し、新政府発行の紙幣太政官札の流通に尽力するとともに、科学の導入、人材の育成にも尽くした。のちに横浜正金銀行頭取や岐阜県大書記官などを歴任した。子の白洲文平は白洲商店を興して巨万の富を築いた。孫の白洲次郎は、先年NHKのドラマになったことで一躍有名となった。吉田茂の懐刀と呼ばれ、日本の復興に尽くしたことで知られる。

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上越 Ⅰ

2011年07月16日 | 新潟県
(前島記念館)
今回は、中越から下越地方を中心に巡る計画であった。諸事情により佐渡島渡航を諦めたため、最終日に時間ができた。事前に十分調査をしていなかったが、上越、柏崎方面に足を伸ばすことにした。しかし、やはり東京に戻ってから「取りこぼし」がたくさんあったことに気が付いた。上越方面は十分調査の上、再訪することとしたい。


前島記念館

上越市池部の前島密生家跡には、前島密の遺品遺稿を保存する記念館が建てられている。前島密は幼名を上野房五郎といい、慶応二年(1866)幕臣前島家の養子となって以来前島姓を名乗った。


前島密銅像


男爵前島密君生誕之處碑

前島密生誕地記念碑は、大正十一年(1926)の建立。

(高田公園)


高田城 三重櫓

高田城は、慶長十九年(1614)、徳川家康の六男松平忠輝が築城した大規模な城郭であった。天守閣は持たず、本丸に櫓や矢倉台、茶屋台などを設け、南西隅の三重櫓を御三階と呼んでシンポルとしていた。高田城は、幾度も火災の被害を受け、その都度規模を縮小してきたが、明治三年(1870)の火災を最後に再度築城されることはなかった。
高田城主は、八家十八代に及んだが、幕末は譜代の名門榊原家が城主であった。戊辰戦争では早々に新政府への恭順を表明して、各地を転戦したが、藩内の佐幕派は、これを是とせず、神木隊(“神木”は「榊」の字を分解したもの)を結成して同盟軍の一翼を担った。

(榊神社)


榊神社

榊神社は、藩祖榊原康政を祭神として明治九年(1876)に建立された。その後、三代忠次、十一代政令(まさのり)、十四代政敬を合祀した。


旧高田藩和親会 財団法人認可百周年記念碑

十四代藩主榊原政敬の肖像が石碑にレリーフとして飾られている。
榊原政敬は、文久元年(1861)に家督を継いだ。文久三年(1863)および元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に従って京都に上った。慶応二年(1866)の長州征伐には先鋒として従軍。それまで高田藩は有力な佐幕派であったが、慶応四年(1868)正月、藩士川上直本の言を容れて勤王の態度を決した。以後、新政府軍に協力して下越、会津に出兵した。明治二年(1869)版籍奉還により高田藩知事。昭和二年(1927)八十三歳で死去。


明治天皇高田行在所碑

(勿持寺)


勿持寺

戊辰戦争の終結後、高田藩は会津藩の降伏人、千七百四十二名を預かった。その中に元新選組斎藤一もいた。斎藤一が謹慎生活を送ったといわれる勿持寺は、廃寺になったようである。門柱だけが寂し気に残されている。

(東本願寺高田別院)


東本願寺高田別院

広い境内を有する東本願寺高田別院も斎藤一謹慎の地である。

この五日間、菓子パンとコンビニのおにぎりとカップ麺だけで過ごした。これは相当な減量になったはずである。帰宅して真っ先に体重計に向かった。ところが、体重はほとんど変わりが無かった。一体何が起きたのだろうか。何だか損した気分になった。

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柏崎 Ⅰ

2011年07月16日 | 新潟県
(柏崎陣屋跡)


柏崎陣屋跡及び柏崎県庁跡


柏崎陣屋址
柏崎縣廰址

柏崎陣屋跡周辺は、今やすっかり住宅街となっている。柏崎は桑名藩の飛び地であり、五万石の石高があった。陣屋は東西百八十㍍、南北九十㍍という広大なものであった。
将軍慶喜とともに江戸に戻った藩主松平定敬は桑名に戻ることもできず、海路新潟に上陸して、三月末に柏崎に入った。江戸屋敷の抗戦派藩士も宇都宮等で戦った後、陸路柏崎を目指した。
閏四月三日、恭順派の家老吉村権左衛門が暗殺されると、藩論は抗戦に統一された。閏四月二十七日、桑名藩は、旧幕脱走兵、水戸藩脱走兵らとともに陣屋から西に四㌔の鯨波で新政府軍を迎え討った。桑名藩は、新政府軍を圧倒したが、同じ日、小出が陥落したとの報を受け、柏崎陣屋を放棄することになった。桑名藩、衝鋒隊は榎峠、朝日山へ転戦することになる。


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村上 Ⅱ

2011年07月16日 | 新潟県
(笹川の流れ)


笹川の流れ

何故「笹川の流れ」と命名されたのかよく分からないが、美しいリアス式の海岸が続く。


頼三樹三郎記念詩碑

松島はこの美麗ありて此の奇抜なし男鹿もこの奇抜ありて此の美麗なし

(中浜)


官軍塚

慶応四年(1868)九月一日、新政府軍は、鼠ヶ関突破を狙って海岸線を北上した。庄内藩を中心とした東軍は鼠喰岩(ねずみかじりいわ)の稜線に砲台を構え、激しく抗戦した。新政府軍も浜に大砲を据えて、二度にわたって総攻撃をしかけたが、遂に攻略することができず、撤退を開始した。これを見た東軍は、追撃して新政府軍に損害を与えた。東軍の勝利であった。
官軍塚は、この付近の戦闘で戦死した新政府軍の犠牲者を葬った墓である。パチンコ屋の駐車場の中に建っている。葬られているのは土佐藩五名、薩摩藩三名、加賀藩、越前藩ともに二名、新発田藩四名、合わせて十六名である。


鼠噛岩 十三仏

庄内(現・山形県)との藩境、鼠ヶ関の手前が今回の旅の北端である。海岸沿いの国道は、晴れていれば最高のドライブコースだろう。しかし、この日は横殴りの雨が降る生憎の天気であった。海は鼠色をしていた。強風にあおられた波は白い泡を立てながら、容赦なく打ちつけてくる。東北を襲った津波の脅威が記憶に新しいだけに、この光景には恐怖を覚えた。


雨風にもみくちゃになりながら、押し寄せる波を撮影したが、あの迫力を再現するには私の撮影技術が足らなかったようである。

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村上 Ⅰ

2011年07月16日 | 新潟県
(村上城)


舞鶴(村上)城趾


村上城天守跡

村上は、内藤氏五万石の城下である。
街の東に臥牛山という小高い山があり、その山頂に村上城があった。
麓に車を置いて、山頂を目指す。天守跡まで二十分くらいのハイキングである。それまで降っていた雨のせいで、ところどころに大きな水溜りができており、ぬかるみも多い。足を滑らせないよう慎重に歩いた。
村上城は、十六世紀初頭の築城と言われ、戦国期は本庄氏の居城であった。元和四年(1618)、堀直竒が入城すると、山上の曲郭を拡張し、石垣を築くなどにより、近代城郭へ変貌させた。
山頂にあった天守閣は、江戸期の落雷により焼失し、その後再建されることはなかった。藩主は麓の居館で生活したが、その居館も戊辰の戦火で全焼した。今に残るのは苔むした石垣のみである。


村上城址から村上市内を臨む

臥牛山は標高百三十五㍍という、さほど高くない山であるが、村上市を眼下に一望することができる。遠くに三面川を望みその先に日本海が横たわる景色は圧巻である。

(寶光寺)


寶光寺


鳥居三十郎墓
正面に戒名、側面に俗名が刻まれている

村上藩の戊辰戦争は、若き家老鳥居三十郎を抜きに語ることはできない。
鳥居三十郎は、天保十二年(1841)に村上藩家老鳥居内蔵之助の嫡男に生まれ、二十五歳で家老となった。鳥羽伏見で戦争が勃発すると、新政府軍は江戸に向かって進軍を開始した。村上藩でも抗戦か恭順かで藩を二分して議論が交わされた。藩論を定めるため、江戸から藩主信民と先君信思の帰国が求められた。
このとき信民は入国できたが、先代の信思は国境が新政府軍によって封鎖されていたため村上に入ることができなかった。隠居して藤翁と名乗っていた信思は、かつて老中まで勤めた実力者であった。かねてより恭順を主張しており、信民が帰国していれば或いは藩論は新政府軍に加担することで決まっていたかもしれない。
鳥居三十郎は、奥羽越列藩同盟の圧力を受け、同盟軍への参加を決定する。村上藩は同盟軍の一翼を担って、北越戦線で戦った。
この頃、藩主内藤信民は、思い悩んでいた。このまま敗戦すれば、自分の代で村上藩が断絶するかもしれない。一方で、新政府軍に恭順を表明すれば、隣接する会津藩に踏みつぶされる危険性も高い。悩んだ末、遂に自ら首を吊って世を去った。十九歳であった。
七月末、長岡城が再度新政府軍の手に渡ると、ほぼ越後全域は新政府軍の手に落ちた。結果、村上藩は孤立することになった。鳥居三十郎は、抗戦派の藩士二百名を引き連れて、城を出て北方に去った。恭順派は新政府軍を迎え入れ、無血開城となったが、このとき出火して村上城は全焼してしまう。
九月二十二日、列藩同盟の瓦解とともに村上藩抗戦派も降伏した。三十郎らは江戸に送られ、翌明治二年(1869)五月、反逆首謀者として斬首されることが決まった。

(光徳寺)


光徳寺


歴代内藤候墓碑

もともとここに墓があったのは、戊辰戦争直前に亡くなった八代藩主内藤信民だけであったが、近年ここに移された。初代内藤信成以降、代々の墓が並ぶ。


内藤信民の墓

信民は、縁戚である信濃岩村田藩の内藤正縄の五男に生まれたが、万延元年(1860)村上藩主の養子嗣に迎えられた。元治元年(1864)信思の隠居に伴い藩主となって、第二次長州征伐にも出兵した。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟して善戦したが、長岡が破られるに至って、村上藩が危機に陥ると責任を痛感し、失望して自ら命を断った。十九歳。村上城はその一ヶ月後に落城している。


内藤信思の墓

内藤信思(のぶこと)は、文化九年(1812)に江戸村上藩邸に生まれ、文政八年(1825)家督を継いで藩主に就いた。天保七年(1836)には奏者番、さらに寺社奉行、大阪城代のあと、嘉永三年(1850)には京都所司代に任ぜられた。勤王の志が厚く、このころ内侍所の修復に努めたという。嘉永四年(1851)には西の丸老中に挙げられ、文久二年(1862)に辞職するまでその職にあった。その間、安政の大獄の裁断にも関与した。藩政においても学館克従館を開いて文武を奨励し、三面川の養鮭事業などに治績を残した。戊辰戦争が起こったとき、信思は江戸にあり急ぎ帰国しようとしたが、長岡城を巡って戦争が激化しており、先に進むことができなかった。藩は東北諸藩の圧力を受けて同盟軍に加担し、そのため信思も戦後謹慎処分を受けた。明治七年(1874)六十二歳で没。

(藤基神社)


藤基神社

藤基神社の祭神は、藩祖内藤信成、十代信敦、十一代信思である。


鳥居三十郎碑

鳥居三十郎の追悼碑である。
鳥居三十郎は、村上市を戊辰の戦火から守った恩人として顕彰されている。


村上藩士殉難碑

戊辰戦争のとき、奥羽越列藩同盟に加担して抗戦した村上藩士の追悼碑で、裏面に鳥居三十郎以下十八名の姓名が刻まれている。

(安泰寺)


安泰寺

安泰寺は、家老鳥居三十郎が切腹して果てた寺である。江戸から国許に送還された三十郎は、安泰寺に幽閉された。妻じゅんは、三歳になる娘光(てる)の手を引いてこの寺を訪れたが、面会は叶わなかったという。明治二年(1869)六月二十五日、ここで三十郎は切腹した。新政府の命は斬首であったが、村上藩ではこの若き家老に切腹の名誉を与えた。享年二十九。

鳥居三十郎の述懐の詩が残っている。

去年の秋去りにし君の後追うて
ながく彼の世に事ふまつらん
五月雨にぬるる我が身は惜しからず
御恩の深き君を思へば


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関川

2011年07月16日 | 新潟県
(高瀬温泉)
今回の新潟県を巡る旅で、どうしても対面したかったのが、この石碑であった。関川は新潟市のはるか東方にある村である。ちょうど桜が見頃を迎えていた。


関鉄之助潜匿記念碑

関鉄之助は、桜田門外の変の後、各所を転々として逃亡したが、文久元年(1861)十月二十三日、湯沢温泉で捕縛された。見附市出身の医者入沢達吉は、この地を訪れた際、関鉄之助を偲んで作詩撰文してその霊を慰めた。昭和十一年(1936)、入沢の詩文を石碑に刻み、高瀬温泉に建立された。入沢達吉は、関鉄之助捕縛の地を高瀬温泉と記したが、正確にいうと隣の湯沢温泉である。

(湯沢温泉)


湯沢温泉

桜田門外の変の首謀者の一人で、変の後もっとも長く逃亡生活を送った関鉄之助が捕縛されたのが、湯沢温泉である。新潟県の湯沢温泉というと、新幹線の駅のある越後湯沢が真っ先に想起されるが、関が潜伏したのは関川村の湯沢温泉である。
湯沢温泉は、いかにも鄙びた温泉郷で、潜伏するにはうってつけであろう。街の至るところに「桜田門外ノ変 烈士関鉄之助 潜匿の湯場」と書かれた幟が立てられているが、果たしてこれでどれくらいの集客効果があるのだろうか。この幟は集客のためというより、「こちらが本家本元」ということを主張するためのような気がしてならない。

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胎内

2011年07月16日 | 新潟県
(黒川小学校)


黒川小学校
(黒川陣屋跡)

黒川藩は、柳沢家一万石。幕末の当主は、柳沢光邦であった。
奥羽越列藩同盟に加盟する一方で、嫡男伊織を京都御所に出仕させる両面作戦をとっていたが、新政府軍が越後新潟方面の同盟軍を撃破すると、朝廷方の旗職を明らかにし、恭順嘆願書を提出した。

(米沢様)


米沢様

戦死した米沢藩兵の遺体を焼いた場所という。地元では「米沢様」と呼ばれている。樹の根元に赤い帽子をかぶった小さなお地蔵様が置かれている。

(梨ノ木峠)


梨ノ木峠激戦の地碑

国道290号線の道路脇に戊辰の役梨ノ木峠激戦の地と書かれた木標がある。峠といっても緩やかな坂道である。この地域が戦場となったのは、慶応四年(1868)八月七日から十一日の間。北進する新政府軍と米沢、庄内、村上藩を主力とする同盟軍がこの地で衝突した。


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新発田 Ⅱ

2011年07月16日 | 新潟県
(周円寺)


周円寺


義山院世雄信士(新発田藩兵の墓)

慶応四年(1868)八月十四日没。

(法華寺)
市内法華寺に窪田平兵衛武文(節斎)の墓がある。窪田平兵衛武文は、新発田藩家老の家に生まれ、藩侯の信任厚く、慶応三年(1867)幼君の名代として激動の京都に赴き、天下の情勢を逐一藩に報告した。戊辰戦争の際、新発田藩は一旦奥羽越列藩同盟に加盟したが、直後早々に新政府軍に加担したのは、窪田の働きが大きかったと言われる。


法華寺


窪田平兵衛武文墓

表面は磨滅してほとんど読めない。

(新発田城)
新発田藩溝口家の居城である。
新発田藩は、奥羽越列藩同盟に加盟したが、もともと勤王を藩論としていたこともあり、新政府軍が新潟に上陸するとすぐさま協力を申し出た。


新発田城三階櫓

新発田城には、父が辰己櫓の管理責任者だった縁で堀部安兵衛の銅像が建っている。更に表門二ノ丸隅櫓を過ぎたところには初代藩主未溝口秀勝の像もある。秀勝以来、十二代に渡る溝口家の居城であった。この城に天守閣はなく、本丸の西端にあった三階櫓がその役目を果たしていた。


新発田城表門二ノ丸隅櫓

享保十七年(1732)建築の表門と寛文八年(1668)建築の旧二ノ丸隅櫓は、いずれも国指定の重要文化財である。

(七葉中学校)


七葉中学校
三日市陣屋跡

三日市藩は柳沢氏一万石の領地である。新発田市内、七葉中学校が陣屋跡であるが、何ら遺構らしきものは残っていない。当時、藩主柳沢徳忠は不在で、陣屋には藩士が七名しかいなかった。新潟と長岡が陥落したという報を得て、七月二十八日、三日市藩は早々に降伏した。

(JR新発田駅)


大倉喜八郎胸像

JR新発田駅前の新発田病院が立地する広大な敷地は、大正八年(1919)に創業した大倉製糸新発田工場の跡地である。平成十八年(2006)にここに病院が出来て、隣接地が公園として整備されると、大倉喜八郎の胸像も移設された。

(大倉喜八郎生誕地)


郷土の偉大な実業家 大倉喜八郎生誕地


大倉喜八郎生誕地

大倉財閥の始祖、大倉喜八郎は天保八年(1837)新発田に生まれた。
安政元年(1854)、両親の反対を押し切って江戸に出て、上野広小路に魚店を開き、ついで神田に鉄砲店を開いた。戊辰戦争では新政府軍に兵器を販売して、巨利を獲得した。維新後は陸軍の御用達、政府の御用商人として台湾出兵、西南戦争、日清日露戦争を通じて巨富を重ね、土建業大倉組その他各種の事業を興し、朝鮮、中国にも進出して大倉財閥を築きあげた。明治の代表的政商の一人である。昭和三年(1928)、九十二歳で死去。墓は江戸護国寺にある。


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