史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「遊王 徳川家斉」 岡崎守恭著 文春新書

2022年05月28日 | 書評

十一代将軍徳川家斉は、歴代十五代の将軍の中でも、後ろから数えた方が早いくらい印象が薄い。「何をした人か」と尋ねられても、正確に答えられる人はほとんどいないだろう。

という中にあって、家斉のやったことで広く知られているのは、子供を五十人以上もつくったということであろう。子女の正確な数については、本書でも触れられているように、五十三人説、五十五人説、五十七説とまちまちで、「内々に処理」された数を含めると七十人以上になる可能性もあり、おそらく家斉本人に問うても分からなかったに違いない。このせいで、家斉は「オットセイ将軍」という渾名で呼ばれている。オットセイは一頭のオスが二十~三十、多いときは百頭ものメスを従えるそうだ。それにしてもカッコの良い命名ではない。

筆者は家斉のために弁明?している。曾祖父の吉宗は、八歳だった七代家継が亡くなって秀忠以来の血脈が絶えたため、将軍職が回ってきた。その吉宗の血流も、家治の子の家基が十八歳で亡くなったことで主流が絶えてしまい、支流だった家斉が新しい将軍職の始祖となった。「自分の使命の第一は、何としても生き延びて、自分の血脈を残す」ことだと定め、その思いが大奥通いに拍車をかけたのではないか、とする。

その結果、全国に家斉の子供が大名家に養子に入り、あるいは嫁入りし、家斉の血統が全国に拡大した。そればかりか、「斉」という諱を下賜された大名は、数えきれないほど増殖した。幕末の歴史に名前を刻んだ、島津斉彬や水戸斉昭や、公家の二条斉敬など、本書によれば五十人以上が「斉」を賜っている。まさに「全国制覇」した感がある。

家斉は五十年の長きにわたって将軍位にあった。これは歴代徳川将軍の中でダントツの一位である。家斉が将軍の座にあったのは、天明七年(1778)から天保八年(1837)の五十年である。

若き家斉は、家治時代の田沼意次を罷免し、松平定信を老中首座に据え、寛政の改革を推し進めた。定信は緊縮財政により幕府財政の立て直しを図った。その結果、幕府財政は黒字に転じたが、行き過ぎた倹約のため江戸は不景気に陥った。やがて家斉と定信は対立し、定信の失脚へとつながる。

家斉に明確な経済思想や文化芸術への理解があったとも思えないが、倹約や緊縮といった政策は、家斉の気分と合わないことは明白である。化成時代は、吉野桜、ツツジ、カエデなどに代表される植木、川崎大師参詣、相撲興行では新たな地位である横綱の誕生、富岡八幡宮の祭礼の再開、読本、歌舞伎、浮世絵などの興隆などなど、現代にも続く文化芸術が花開いた時代でもあった。

振り返れば、家斉の時代は、世界史上でも稀な「パックス・トクガワーナ」においても、とりわけ泰平の世を謳歌できた時代であった。明治になって「古き良き時代」として懐かしがられたのは、将軍家斉の治世であった。

家斉がどこまで意図的に振舞ったのか分からないが、経済的には「緊縮」より「放漫」の方が世の中は明るくなり、庶民は潤うのである。幕末、幕府の衰退、崩壊を目の当たりにした幕臣は、幕府の権威が盛んだった時代に洋学の振興や海防の強化など成すべきことがあった、と悔やんだかもしれないが、それは言っても詮無いことだろう。家斉を名君とか、卓抜した指導者と積極的に評価するのも違和感があるが、筆者がいうように、一方でもう少しその存在を前向きに評価しても良いのかもしれない。

家斉が世を去ってわずか二十七年後、幕府は政権を返上する。隆盛と凋落は背中合わせだということを物語っている。今、もしピークを迎えていると自覚があるなら、それは凋落の始まりだと思った方が良いだろう(それにしても昨年首位とゲーム差なしの二位だったチームが、翌年断トツのドベになるとは予想できなかった)。

 

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興津 Ⅲ

2022年05月21日 | 静岡県

(清見寺つづき)

 

清見寺

 

 久しぶりに清見寺を訪ねた。今回は拝観料三百円を支払って、庭園や西園寺公望の書の写真を撮影した。

 

清見寺庭園

 

明治天皇玉座

 

 清見寺は、明治二年(1869)および明治十一年(1878)の二度にわたり明治天皇の鳳輦を迎えている。今も明治天皇の玉座が当時のまま保存されている。

 

「長吟對白雲」

西園寺公望筆

 

 清見寺の大方丈に西園寺公望の書「長吟對白雲(はくうんにたいしちょうぎんす)」が掲げられている。扁額は、中川小十郎が京都の職人に篆刻させて、清見寺の住職に贈ったものである。昭和四年(1929)、西園寺公望八十一歳の書である。

 

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静岡 Ⅹ

2022年05月21日 | 静岡県

(瑞光寺)

 瑞光寺墓地に野崎彦左衛門の墓を訪ねた。墓地の真ん中辺りに野崎家の墓域があって、その中に彦左衛門の古い墓石も置かれている。

 

瑞光寺

 

明徳院殿慈雲積善居士(野崎彦左衛門の墓)

 

 野崎彦左衛門は、天保十四年(1843)の生まれ。幼名は延太郎といった。長じて鬼島広蔭に和歌、三浦弘夫に国学・漢籍を学んだ。二十一歳にして家業を継ぎ商家を営んだ。神奈川開港にともない安政六年(1859)正月、武州子安村に北村彦次郎、野呂伝左衛門ら駿府商人とともに出店を構えた。また明治元年(1868)、政府軍総督府が駿府に設けられると、その会計局にあたり物資調達に奔走した。静岡藩が成立すると渋沢栄一の商法会所の御用達となって商業に活躍した。のち野崎銀行を創立した。明治三十八年(1905)、年六十三歳にて没。

 

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藤枝 Ⅱ

2022年05月21日 | 静岡県

(大慶寺)

 大慶寺は田中藩主太田家の菩提寺である。その関係で、墓地の一角に田中藩士の墓が集められている。ただし、歴代藩主は江戸詰めだったため、ここには田中藩初代藩主太田資直(1658~1705)の墓があるのみである。

 

大慶寺

 

 大慶寺境内には、樹高約二五メートル、根回り約七メートルという久遠の松がそびえている。

 

田中藩士墓碑

 

 中央の背の高い墓石が太田資直のものである。

 

縄齋石井先生之墓

 

 石井縄齋(じょうさい)は、田中藩本多家の家臣。日知館創立者として漢学師範を勤め、経史を講じ、門下より熊沢(漢史学)、恩田(兵学)、佐竹(槍術)等多くの逸材を輩出した。天保八年(1837)に開かれた日知館は、水戸弘道館とともに「天下の二関」と称され、東海道文武の関門であった。天保十一年(1840)、五十五歳にて没。

 

贈従五位熊澤先生墓碑

 

聡明院慧智日徳信士(熊沢太郎の墓)

 

 熊沢太郎の墓碑の前に置かれている小さな墓石が当人の墓である。

 熊沢太郎惟興は、寛政三年(1791)の生まれ。中小姓御広間番、学問所世話役を経て、藩儒石井縄齋の代講を勤め、石井の帰藩により昌平黌に学んだ。天保五年(1834)、田中藩諸稽古場ができるに及び、世話役・目付となり、またこれが日知館と改称されると、その教授方を勤めた。弘化四年(1847)、上方を旅すると、暇を願って出発。密かに歴代御陵を調査して「御陵私記」二巻を著わしたが、事顕れるときは没書の難を恐れて深く秘蔵した。平素勤王の志が厚く、国体に関する史伝・考証に関する著書が多い。維新に際し、田中藩が方向を誤らなかったのは、太郎の教化によるところが大きいといわれる。安政元年(1854)、年六十四で没。

 

香遠院荷渓日泰(大塚荷渓の墓)

 

 大塚荷渓は、安永七年(1778)、藤枝宿屈指の豪商として栄えた奥州屋の大塚家に生まれた。奥州屋は、酒造業のかたわら、中央の文化人との交流に力を入れ、郷土の文化の拠点としての役割も果たしていて、荷渓はその中心となった。南画や漢詩に優れ、幅広い教養を兼ね備えていた。荷渓は詩社「紅山社」を結成し、石野雲嶺などの後輩の育成に力を入れた。天保十五年(1844)没。

 

田中藩士の墓(鈴木只六、青島専右衛門の墓)

 

 手前は棒術師範鈴木只六清久の墓。その奥は砲術師範青島専右衛門有方の墓である。鈴木只六は、安政二年(1858)、六十一歳にて没。青島専右衛門は安政五年(1855)、六十五歳にて没。

 

 

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焼津

2022年05月21日 | 静岡県

(光西寺)

 焼津市下小田の光西寺には、算学者古谷道生(ふるやどうせい)の墓がある。本堂裏手に旧墓、その近くに新しく建てられた古谷家の墓があり、墓誌に古谷道生の名前を確認することができる。

 

光西寺

 

関流院古谷道生居士(古谷道生の旧墓)

 

先祖代々之墓(古谷道生の墓)

 

 古谷道生は、文化十二年(1815)、下小田村の生まれ。農民善次郎の四男。天保三年(1832)、駿河田中藩士岩本常師について算学を学び、翌年藩主本多氏に連れられ、江戸の長谷川磻渓に学び高弟となった。いったん郷里に戻るも、再び四国、九州に赴き、福岡藩士久間太六に天文、暦法を学び磻渓によって免許を受け、続いて隠題、伏題免許も受けた。安政二年(1855)、田中藩士に取り立てられ、日知館算学指南となり、以来門弟は駿遠両国に三百余人を数え、田中藩長移封に伴う、域地の測量、東海道宇津谷隧道の測量、地租改正を始め土木工事等に数々の足跡を残した。明治二十一年(1888)、年七十四歳にて没。

 

(古谷數学道場所在旧跡)

 

古谷數学道場所在旧跡

 

古谷先生之碑

 

 下小田の住宅街の一角に古谷道生の数学道場の跡が残されている。顕彰碑は、明治二十五年(1892)の建立。

 

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掛川 Ⅳ

2022年05月21日 | 静岡県

(三邑院)

 

三邑院

 

 浜野の三邑院に墓地入口に歌人にして国学者八木美穂(よしほ)の墓がある。

 

中林美穂之墓

 

中林美穂居士(八木美穂の墓)

 

 八木美穂は寛政十二年(1800)の生まれ。中林は雅号。父美庸に家学を学び、和歌・俳句をたしなんだ。文政二年(1819)、白須賀の夏目甕麿に学んだ。弘化二年(1845)、横須賀藩士籍編入、歌道および和漢学侍講、学問所出仕となり、嘉永三年(1850)、横須賀学問所教授長。また城東郡浜野村庄屋役を兼ねた。安政元年(1854)年五十五にて没。学問所出仕は十年に及んだ。国学者の交友が多く、門人も数百に及んだ。和歌は万葉調の古調を尊重し、書紀や古事記関係の著述とともに、国学思想を説いた「磯之松」や、郷土誌、歴史地理関係のものが多いが、洋学には批判的であった。

 

(美穂園)

 

美穂園

 

美穂園

 

 三邑院の近くに八木美穂の旧宅地がある。現在その場所は美穂園と名付けられている。

 美穂は愛郷の心が常に篤く、自分の住まう浜野の居宅に家塾誦習館を設け、郷土の子弟を教育した。遠近より百余名が集まり、美穂の声名は四方に及んだ。

 

八木美穂先生之偈

 

国学者八木美穂先生住宅

 

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浜松 Ⅳ

2022年05月21日 | 静岡県

(浜松報徳館)

 本来、花粉症のシーズンであり、この時期に外出するのはあまり気が進まなかったが、浜松市内から史跡の旅を始めた。浜松のあとは掛川、焼津、藤枝、静岡を巡った。天気にも恵まれ、快適な旅となったが、かなりの量の花粉を浴びてしまった。

 

浜松報徳館

 

二宮尊徳像

 

安居院先生頌徳碑

 

 浜松報徳館には安居院庄七の顕彰碑がある。

 安居院(あごいん)庄七は、寛政元年(1789)の生まれ。父は権大僧都密正院秀峯。先祖は相模国大山の修験者で、代々権大僧都であった。長じて曾屋村の安居院家を継いだ。幼時より利発、大志を抱き、「一軒の家を興すより、一万軒の家を興す」と言って、天保十四年(1843)、小田原藩領下野国桜町に二宮尊徳を訪ね、報徳の教えを修得した。尊徳の理論を身をもって実践する決意を固め、弟の浅田勇次郎とともに浜松を中心に東海地方に遊説すること二十年。それより浜松在下石田報徳社をはじめ、着々と東海方面の村々を説いて、教化六十余村に及んだ。嘉永元年(1848)、庄屋岡田佐平治を説き、牛岡組報徳社を掛川在に結成したが、これが現在の報徳社の始まりで、その数は六十一社に達した。その後、嘉永六年(1853)、いわゆる遠州七人衆(内田啓助、岡田佐平治、竹田兵右衛門、桜井藤太夫、中村常蔵、山中利助、神谷与平治)を引き連れて二宮尊徳を日光に訪ね、ますます報徳の道に専心する覚悟を深めた。その後、十年間、驕る心をおさえ荒地を開墾し、用水路を開き、農耕を奨励し、善行の人を表彰。貧しい人を哀れみ、勤勉・倹約・清廉を旨として東海の村々を感化したが、文久三年(1863)、浜松の田中五郎兵衛方にて客死した。年七十五。

 「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、安居院庄七の墓は浜松市田町の玄忠寺にあるという。玄忠寺は、浜松駅近くの繁華街に位置しており、しっかり鍵がかけられて中に入ることはできなかった。奥の方に寺族の墓地や墓石らしきものが複数確認できたが、残念ながら確信を得ることはできなかった。また玄忠寺の墓地は、市内の中沢霊園に移されているという情報を得たので、念のため中沢霊園にも足を運んでみたが、そこでも安居院庄七の墓を発見することはできなかった。

 

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浜松町 Ⅲ

2022年05月14日 | 東京都

(港区立いきいきプラザ)

 

赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石

 

 プラザ神明のあるこの地には、江戸時代、播磨赤穂藩森家の上屋敷があった(港区浜松町1‐6‐7)。北隣には旗本屋敷があり、赤穂藩はその隣地との境に構築した境堀の護岸として石垣を設けた。江戸湾側にも石垣を組んで護岸としていた。石垣に用いられた石材の大半は、安山岩で、積み直しが確認された箇所もあったが、江戸時代前期の構築当時の姿をよくとどめている。

 

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南麻布 Ⅲ

2022年05月14日 | 東京都

(光林寺つづき)

 

辯理公使正四位勲三等平井君墓

(平井希昌の墓)

 

平井君墓誌銘

 

 平井希昌(きしょう)は、天保十年(1839)、長崎の生まれ。嘉永五年(1852)八月、唐稽古通事見習となり、文久元年(1861)、小通事助に昇進。何礼之らとともに英国船乗組の唐人に英語を学び、長崎奉行支配定役格、慶応三年(1867)、奉行支配調役並格、通弁御用頭取として翻訳通弁に当たった。維新後、長崎裁判所通弁役頭取となり、民部省、工部省に出仕し、明治六年(1873)、二等書記官として副島種臣に従い渡清。明治十三年(1880)、太政官権大書記、賞典局主事となり、ついで太政官大書記官に進んだ。明治二十六年(1893)、弁理公使として米国に勤務した。この間内政外交および外交文書の翻訳に従い、ことに賞勲制度の整備に寄与した。明治二十九年(1896)、年五十八にて没。

 墓誌銘は副島種臣の篆額、何礼之の撰文および書。

 

(天真寺つづき)

 

箐庵先生之墓(曲直瀬箐庵の墓)

 

 天真寺墓地で曲直瀬篁庵の墓を探したが、父箐庵(正隆)の墓を発見したのが精一杯であった。

 曲直瀬篁庵(こうあん)は、文化六年(1809)の生まれ。句読を安積昆斎に受け、文政六年(1823)、初めて将軍家斉に拝謁した。天保六年(1835)、製薬所見習となり、天保九年(1838)、奥詰医給事に進み、製薬所のことを掌った。弘化三年(1846)、特命により「本草経」を躊寿館に講じ、これより毎年銀十枚の賜与を受けた。嘉永三年(1850)十二月、法眼に叙され、安政四年(1857)、擢んでられて医学教督となったが、翌五年(1858)、病没した。

 

(曹渓寺つづき)

 

有馬氏累代之諸霊(有馬則篤の墓)

 

 有馬則篤は幕臣。嘉永六年(1853)正月、寄合から使番となり、安政三年(1856)、寄合火事場見廻を兼務し、安政五年(1858)、目付に進んだ。文久二年(1862)、作事奉行となり、同年十二月、小姓組番頭に進んだ。文久三年(1863)正月、書院番頭に転じ、同年五月、大阪町奉行に任じられた。元治元年(1864)、勘定奉行に転じ、道中奉行を兼務。同年十一月、江戸町奉行に進み、十二月大目付に転じ、慶応元年(1865)二月、書院番頭に再任され、同年六月、大目付、慶応二年(1866)八月、江戸町奉行を再度歴任し、同年十月、役を免じられて寄合となった。明治三十年(1897)、没。

 

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赤坂 Ⅳ

2022年05月14日 | 東京都

(澄泉寺)

 

澄泉寺

 

鶴梁林先生之墓

 

 林鶴梁(かくりょう)は、文化三年(1806)の生まれ。もとは幕府の小吏(御箪笥同心)であったが、文章を長野豊山に、経義を松崎慊堂に受け、文名大いにあがり、藤田東湖の推挽を得て、天保六年(1835)、奥火之番に抜擢され、ついで勘定留守役となった。弘化二年(1845)、甲府徽典館学頭に黜(しりぞけ)けられたが、かえって文名吏才を認められ、嘉永六年(1853)、遠江中泉代官に擢んでられた。たまたま凶歳に遭い、家財を売却して窮民救済の資に充て、備荒貯蔵の法を設け、恵済倉の制を布いた。在任六年ののち、出羽幸生の代官に転じ、文久二年(1862)、和宮付となり、ついで納戸頭に進み、布衣を許され、文久三年(1863)、新徴組支配頭となった。晩年、任を辞し、門を閉じて子弟を教え、謝して新政府に仕えず、明治十一年(1878)、その没する前日、門弟を枕辺に招いて「日本外史」楠公訣別の一章を講演し、翌日端坐握刀して瞑目した。年七十三。

 

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