史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小淵沢

2018-02-17 09:08:37 | 山梨県
(身曾岐神社)
 JR小淵沢駅から徒歩三十五分。周辺には別荘が点在する場所に身曾岐神社が所在している。
 この神社は神道中興の祖と呼ばれる井上正鐡を祭神とする。もとは井上神社という名で東京の東上野にあったが、昭和六十一年(1986)、八ヶ岳南麓のこの場所を高天原と命名し、社号を「身曾岐神社」と改めて遷座した。


身曾岐神社 拝殿


能楽殿

 境内には能楽殿が設けられている。男性デュオ「ゆず」の北川某とフリーアナウンサーの高島彩がここで結婚式を挙げたことで知られる。

 祭神井上正鐡は、幼少より学徳優れ、医学、国学、観相学を始め、神儒仏にわたって、その深奥を究め、生涯を救世済民に捧げた。天保五年(1834)、天照太神の神示を得て、太古からの神道の中枢、白川神祇伯王家に伝承された神道の奥義を悉く相承し、天地自然を教典とする生命の信仰(即ち神道)を人間至福の道として再興した。天保十三年(1842)、幕府滅亡を予言するような言動により捕らわれ、三宅島に流され、そこで生涯を閉じた。


井上神社

 境内には東上野に鎮座していた頃の旧社号標「井上神社」が移設されている。


八ヶ岳

 小淵沢駅からは八ヶ岳の美しい姿を楽しむことができる。各駅停車で高尾から小淵沢まで片道二時間二十分を要する。身曾岐神社までの往復に結局まる一日を費やすことになった。

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韮崎

2016-09-16 22:48:54 | 山梨県
(雲岸寺)


雲岸寺


窟観音本尊聖観世音菩薩


横枕君碑

 「筑後郷土史研究会誌」(昭和六十三年 筑後郷土史研究会発刊)に山口光郎氏が寄稿した「『横枕覚助』と『大楽源太郎』および“久留米藩難事件”の一端」と題する一文が掲載されている。
 この一文で初めて横枕覚助なる人物のことを知った。横枕覚助は、弘化元年(1844)、下妻郡溝口村に横枕菟平の長男に生まれた。覚助は胆力があり、気骨稜々として義気に富んでいたという。覚助の家は、古松簡二(別名・清水真郷)の家に近く、小さい頃から行き来があり、強くその影響を受けた。文久三年(1863)には山梔子(くちなし)の家における十年に及ぶ幽囚を解かれた真木和泉を古松とともに訪れ、益々勤王の志を強固にした。明治二年(1869)、久留米藩では覚助を殉国隊(長州の奇兵隊にならって農民を組織したもの)の隊長に任命した。長州藩で奇兵隊の反乱が鎮圧されると、大楽源太郎らが久留米藩に潜入した。古松簡二や藩参政小河真文は覚助に頼んで、大楽らを匿うことにした。やがてそのことが長州藩の探索部隊に知られるところとなり、西南諸藩に動員命令が下された。追い込まれた久留米藩では大楽らを密かに謀殺し、水野正名や小河真文、古松簡二らも相次いで逮捕投獄された。覚助も日田から東京に護送され、そこで糺問された。覚助は、「忠義の人と聞いて匿ったが、誰とは知らなかった」と言い逃れたが、禁獄三年の判決を受け、新潟に送られた。出獄後は三瀦󠄀県の戸長、区長、郡長などを務めた。西南戦争では嫌疑を受けて一時拘束されたが無罪判決を受けている。明治十七年(1884)、山梨県警部に転じ、その後南津留郡郡長や北巨摩郡郡長などを歴任した。明治二十三年(1890)、コレラに罹患して四十七歳で死去。
 山梨県に奉職した縁で、韮崎の窟観音(あなかんのん)に県知事中島錫胤の撰文を刻した顕彰碑がある。この顕彰碑を見るためだけに、片道二時間近くかけて韮崎まで往復した。雲岸寺・窟観音は、韮崎駅から徒歩五分くらいの場所にあり、あっさりこの顕彰碑も見つけることができた。

(にらさき文化村)


小林一三翁生家跡


小林一三生誕の地 韮崎市

 韮崎といえば、サッカー選手の中田英寿が韮崎高校出身だということと、平成二十七年(2015)にノーベル賞生理学・医学賞を受賞した大村智博士の出身地である。その程度の予備知識しか持ち合わせていなかったが、駅前の観光案内所の前に「小林一三生誕の地 韮崎市」という説明を見て、ここが阪急電鉄生みの親小林一三の生地であることを知った。小林一三は阪急や宝塚歌劇団、東宝映画などの創立に関わった実業家で明治六年(1873)韮崎本町に生まれた。現在、生誕地は「にらさき文化村」という施設となっている。

(千野眼科医院)


韮崎宿本陣の跡

 韮崎は甲州街道の宿場町の一つで、千野眼科の前に本陣跡碑が建てられている。また、そのすぐ近くに馬の手綱を繋いでおくための石がある。


馬つなぎ石

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市川三郷 Ⅱ

2016-02-19 23:39:20 | 山梨県
(市川陣屋跡)


市川陣屋跡

 JR身延線市川本町駅から北に徒歩数分の場所に市川陣屋跡の石碑が建てられている。その近くには陣屋門も再建されている。
 市川陣屋は、明和二年(1765)、駿府紺屋町(現・静岡市)陣屋の出張陣屋として、代官小田切新五郎による三万石余の支配から始まり、寛政七年(1795)、代官榊原小兵衛の時代に陣屋を建て替えて、正式に本陣屋となった。初代代官から二十五人で明治維新を迎えるが、この間、天保六年(1835)二月の落合大火で元締官舎一棟を除きすべて焼失した。 明治維新後は、郡役所の庁舎となり、一部は役場と学校に使用された。


市川陣屋門

(山梨中央銀行市川支店)


青洲文庫跡

 陣屋跡から北に歩いて数分のところに山梨中央銀行市川支店があって、その前に青洲文庫跡碑がある。
 青洲文庫は、渡辺寿(桃廼舎)、信(青洲)、沢次郎の渡辺家三代による蔵書の文庫である。蔵書数は二万四千九百七十九冊に及んだという。のちに関東大震災で多くの蔵書を焼失した東京帝国大学が渡辺沢次郎から蔵書を購入している。

(禅林寺)
 青洲文庫跡碑に隣接する禅林寺墓地に渡辺青洲、寿父子の墓がある。


禅林寺


青洲渡邉信之墓

 渡辺信(まこと)は、青洲と号し、天保十一年(1840)、甲斐国島上条村(現・甲斐市)の小田切五郎右衛門の三男に生まれた。長じて市川大門村の豪商渡辺寿の養子となって渡辺家を継いだ。明治十年(1877)、甲州葡萄の主要産地である祝村(現・勝沼町)で雨宮広光を社長として大日本山梨葡萄酒会社が発足したとき、渡辺信は藤村紫朗、栗原信近、若尾逸平らと株主となった。その後も農産社や市川紡績所の設立運営に関与し、甲州経済の発展に寄与した。


渡邉寿君之碑

 渡辺寿は、号を桃廼舎(はるのや)、字を権右衛門と称した。家業は豪農にして豪商。国文学を学び、その関係の書籍を多数蒐集してのちの青洲文庫の礎を築いた。

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甲府 Ⅳ

2016-02-19 23:25:47 | 山梨県
(瑞泉寺)
 この日はJR中央線で甲府まで出て、市川本町を経由して八王子に戻ってくる計画であった。高尾駅から甲府まで約一時間四十五分。財布を家に忘れてきてしまったことに電車内で気が付いた(ボケの兆候だろう)。幸いにしてSUICAに多めに現金がチャージされていたので、それで事なきを得た。甲府駅で下車すると、早速自販機で切符を買い、それを緑の窓口で払い戻しを受けることで現金を手に入れた(電車マニアの息子に教わった現金捻出法である)。
 甲府市では駅近隣のビジネスホテルなどで電動自転車をレンタルしている。手続きをしようとすると身分証明書を要求された。自動車免許証も健康保険証も全て財布の中で、ほかに身分証明書と呼べるものは持ち合わせていなかった。泣く泣く自転車を諦め、バスと徒歩で回ることになった。幸いにして好天に恵まれ、気持ちよく散歩を楽しむことができた。


瑞泉寺

 慶応四年(1868)一月十八日、官軍先鋒を称する高松隊は京都を発ち、甲州を目指した。公卿高松実村を奉じて結成されたこの草莽隊を実質的に組織したのは小沢雅楽之助(一仙)と岡谷繁実であった。道中、一戦も交えることなく恭順を競う諸藩の従軍・献納の饗応に迎えられ、飛龍の勢いそのままに小沢は本体に先んじて二月三日、甲府瑞泉寺に入った。

(遠光寺)
 甲府駅南口にバスターミナルでバスに乗って、遠光寺バス停で降りたら、目の前に遠光寺山門がある。広い境内に墓地や幼稚園を備える。本堂は、どこかの体育館のようなデザインである。


遠光寺

 慶応四年(1868)二月四日、甲府に入った小沢一仙は、遠光寺(おんこうじ)で武藤外記と面談している。そして二月十日、高松隊は念願であった甲府入城を果たした。しかし、この日、東海道先鋒総督兼鎮撫使から使者が到着し、甲府城を引き渡すよう求めた。高松隊は、岩倉具視の反対、三条実美の説得を押し切って挙兵を強行した脱走軍と見なされ、最後まで錦旗は下賜されなかった。すでに偽官軍取締の布告が発せられ、錦旗を持たない赤報隊や高松隊は窮地に立たされた。高松隊は一転して解隊、帰京と決まり、全責任は小沢雅楽之助にありとされ、三月十四日、斬首の上晒首となった。なお、高松隊参謀旧館林藩家老岡谷繁実は何ら罰せられることなく帰京し、その後も新政府に登用されて、立身を遂げた。(「清水次郎長」 高橋敏著岩波新書)

(長禅寺)
 長禅寺は、武田信玄の生母大井夫人の菩提寺である。墓地に若尾逸平の墓がある。


長禅寺


壽徳院俊山逸齋居士
海福院波外是津大姉

 若尾逸平は、文政三年(1820)の生まれ。父は、在家塚村長百姓林右衛門。少年時代、家運が傾き、農業、武家奉公を経て、煙草、絹糸、綿の行商生活による商業上の経験を積んで、安政二年(1855)、甲府八日町に店を構えた。安政六年(1859)、横浜開港に際し、いち早く甲州島田糸と水晶の売り込みを行って産を成した。文久二年(1862)、甲州糸の改良を急務として、甲府愛宕町に八人取製糸機械十二台を据え付けた。明治元年(1868)、生糸蚕種取扱肝煎、同四年、蚕種製造人大総代に任命され、特権化し、同五年には大小切騒動で打ちこわしを受けた。のちに甲州財閥の巨頭として中央財界にも進出した。大正二年(1913)、九十四歳にて死去。
 長禅寺の若尾家墓地は、大名家の墓所かと見紛うばかりの重厚壮大なものである。今の世に若尾財閥を知る人は皆無に等しいが、往時の隆盛をうかがい知ることができる。

(藤村記念館)


藤村記念館

 JR甲府駅北口を出て徒歩一分の場所に藤村記念館がある。山梨県令藤村紫朗を記念したもので、明治八年(1875)に現・甲斐市亀沢にあった陸沢学校の校舎として使われていた擬洋風建築を移築したものである。山梨県の第五代県令を務めた藤村紫朗は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業策として養蚕技術の普及や県営勧業製糸場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実施したほか、甲府市街の整備に着手し、「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を奨励した。今でも山梨県内に藤村の残した建造物が点在している。

 藤村紫朗は、弘化二年(1845)、熊本城下寺原町に生まれた。父は熊本藩主黒瀬市右衛門。文久二年(1862)、書を藩主細川慶順に提出して天下の形勢を論じ、藩主の上京を促すこと三度、ついに公子長岡護美の上京となり、紫朗もこれに扈従した。同年十一月、急ぎ下藩の命を受け、近畿の形勢を報告した。文久三年(1863)六月、親兵に選ばれ、八一八の政変では七卿とともに長州に下り、脱藩して元治元年(1864)七月、長州軍の軍監として禁門の変に戦い敗れた。慶応三年(1867)十二月、鷲尾隆聚を奉じて十津川郷士らとともに紀州高野山に兵を挙げ、佐幕派暴動に備えた。維新後、藤村姓に改め、朝廷より一代十人扶持を下賜された。明治元年(1868)閏四月徴士、内国事務局権判事に任じられ、八月には軍監として北越に出征した。明治二年(1869)二月、監察司知事として倉敷県に出張、ついで兵部省に出仕し、同年末には京都府少参事を兼任した。明治四年(1871)、大阪府参事に任じられて以降、山梨県権令、同県令、同県知事、愛媛県知事を歴任した。明治二十三年(1890)、国会開設とともに貴族院議員に勅選された。明治四十二年(1909)、年六十五で没。

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笛吹 Ⅲ

2015-11-01 09:51:24 | 山梨県
(海潮院)
 海潮院は、武藤外記を生んだ武藤家が創建したという寺である。下黒駒北の交差点の近くに海潮院の墓地がある。ここに武藤外記の墓があるのではないかと思い、墓地を隈なく探したが、見つけることはできなかった。


海潮院

 武藤外記は、上黒駒八反田に一町四方の屋敷を構え、神座山檜峯神社の世襲神官の家に生まれた。平田篤胤の思想の信奉者で、嘉永五年(1852)に私塾を開いて村民らに開放。平田思想の普及につとめた。小沢一仙、竹居の吃安、黒駒の勝蔵らのよき理解者で、吃安らは石和代官の手の入らぬのをよいことに、武藤屋敷の竹藪を賭場にした。勝蔵の赤報隊入りも武藤外記の手引きといわれる。武藤は三田薩摩屋敷頓集浪士の一人、上田修理と気脈を通じ、上田は武藤と呼応して義兵を挙げる手筈であったが、事前に発覚し不発に終わった。武藤外記のその後については不明である。

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北杜 Ⅱ

2015-11-01 09:48:41 | 山梨県
(熱那神社)
 大学三年生になる長女が野辺山(長野県南牧村)の天文観測所の特別公開に行きたいと言い出したため、あきる野市の病院に行って痛風の薬を処方してもらった後、その足で野辺山に向かった。夏休みの週末はいつものことであるが、この日も小仏トンネルまで渋滞が激しく、結局野辺山観測所まで三時間近くかかってしまった。長女をそこで降ろして、北杜市に引き返す。
前回北杜市を訪ねたときに探しきれなかった大芝宗十郎の顕彰碑と墓の場所を、たかね図書館で調査するのが今回の目的である。
だが、残念なことに地元の図書館であるにも関わらず、大芝宗十郎の名前すら発見することができない。「高根町史」に大芝宗十郎のことが解説されているのを見付けるのがやっとであった。そこに大芝宗十郎の顕彰碑が、村山西割1714の熱那神社(あつなじんじゃ)にあると記載されていた。早速、熱那神社を訪ねた。


熱那神社


勤皇殉難大芝宗十郎先生碑

 このあと、熱那神社に近い共同墓地で大芝宗十郎の墓を探した。田舎にはよくあることだが、墓地には大芝家の墓がいくつも存在している。その一つひとつの墓標や俗名、没年などを確認していったが、遂に宗十郎の墓を特定することはできなかった。この墓地のどこかに宗十郎が眠っているものと信じたい。

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塩山

2015-05-24 00:04:22 | 山梨県
(慈雲寺)
 かつて塩山市といったが、平成十七年(2005)に勝沼町や大和村と合併して、甲州市となった。JR中央線の塩山駅で降りると、目の前に甘草屋敷がある。そこで自転車を借りて慈雲寺を目指す。
 貸自転車の係のオジサンによれば、慈雲寺まではずっと登坂らしい。電動自転車の方が良いよ(因みに普通の自転車は二百円、電動自転車は五百円)とアドバイスをいただいたが、所詮三キロメートルくらいの道のりである。わずか三百円であるが、これを惜しんで普通自転車を選んだ。さらに
「だったら少し遠回りだけど、国道411号線を経由した方が良い」
とも助言していただいたが、私はこれも無視して最短の道を行った。
 全行程の四分の一も行かないうちに、そもそも体力の無い私は、オジサンの助言に従わなかったことを後悔した。とても自転車で登れるような坂道ではなかった。ぜいぜい言いながら、自転車を押して、ようやく慈雲寺に行き着いた。
 慈雲寺は樹齢三百年というイトザクラで有名である。イトザクラの盛りは過ぎていたが、それでも多くの観光客が訪れていた。


慈雲寺

 今回、塩山の慈雲寺を訪ねたのは、真下晩菘(ましもばんすう)の顕彰碑を見るためである。
 真下晩菘は、寛政十一年(1799)、甲斐山梨郡中萩原村(現・甲州市塩山中萩原)の益田家に生まれた。維新前は専之丞と称した。江戸に出て旗本小原家に奉公。のち谷村、石和代官所の手代となり、天保七年(1836)、幕臣真下家の株を買って真下専之丞と改名した。蕃書調所調役から、文久二年(1862)には同所調役組頭となった。この時期、晩菘を頼って中萩村を駆け落ちしてきたのが、樋口則義(樋口一葉の父)である。品川台場の建設工事にも関係した。慶応二年(1866)陸軍奉行並支配、同三年(1867)老齢を理由に致仕し、横浜住吉町で私塾「融貫塾」を開いた。この頃、祐天仙之助、菱山の佐太郎らの浪士隊入りを手引きしたともいわれる。明治八年(1875)十月、七十七歳で没。門下に沼間守一、矢野次郎、上野忠三、志村源太郎、荒川義太郎、村野常右衛門、蒲生重章、石坂昌孝らがいる。
 慈雲寺の顕彰碑は、大正三年(1914)、晩菘の先祖の墓のある慈雲寺を選んで建立されたものである。撰文は松平康國、篆額は徳川家達。


真下晩菘 (甘草屋敷所蔵)


真下晩菘先生碑


慈雲寺にて

 慈雲寺は、樋口一葉ゆかりの寺でもある。一葉の父、則義は中萩原村の出身であるが、青年期には慈雲寺の寺子屋で白巌和尚に学んだという。


一葉女史之碑

 この碑は大正十一年(1922)、樋口一葉女史の文才を偲んで建立されたもので、題額は杉浦重剛による。

 慈雲寺から塩山駅まで戻る道は、自転車をこぐ必要もなく、快適そのもの。あっという間でに駅に着いた。

(甘草屋敷)


甘草屋敷(旧高野家)

 幕府の命を受けて、漢方薬の原料である甘草を栽培したことから、甘草(かんぞう)屋敷と呼ばれる。高野家はこの地で長百姓(おさびゃくしょう)を務めた家柄で、主屋のほか、巽蔵や文庫蔵を備えた大邸宅である。


武田信玄像

 塩山駅前に鎮座する武田信玄像である。

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甲府 Ⅲ

2015-05-24 00:00:50 | 山梨県
(遊亀公園)
 せっかく晴れた日曜日だというのに嫁さんに自動車を取られてしまった。そこで電車で山梨方面に出かけることにした。最初の下車駅は甲府である。駅を降りて直ぐにバスに乗って遊亀公園に向かう。


初代駅逓正 杉浦譲顕彰碑

 遊亀公園は、大正八年(1919)に開設された動物園を併設した公園である。園内に杉浦譲の顕彰碑が建立されている。

 杉浦譲は、天保六年(1835)、甲斐国甲府西青沼二十人町(現・甲府市相生一丁目)に生まれた。父は甲府勤番同心杉浦七郎右衛門。幼名は昌太郎、のちに愛蔵と改めた。父譲りの勤勉、明晰な性格で勉学に励み、文久元年(1861)、幕府に登用され外国奉行支配書物御用出役を皮切りに外国奉行などの職に就いた。文久三年(1863)、および慶応三年(1867)の二度に渡り幕府の使節団の一員として渡欧し、フランスの郵便制度を実地に見聞した。明治初年、我が国の郵便制度の整備は、同じく幕臣出身の前島密が中心となって推し進めていたが、前島がイギリスに出張すると、杉浦が跡を引き継ぎ、郵便創業に向けての布石を敷いた。書状集箱(郵便ポスト)の形状を始め、郵便用具の規格や大蔵省と協議して切手に龍の図案を採用したことなど、いずれも杉浦の下で具体化したものである。杉浦の尽力により、明治四年(1871)三月一日、日本で最初の切手(龍文切手と呼ばれる)も発行された。この切手を貼れば、どこにでも出せるという画期的な制度であった。当時設置された郵便集箱は東京十二、京都五、大阪八であった。東京、京都、大阪の三府には郵便役所(今でいう中央郵便局)が置かれ、東海道の各宿駅には郵便取扱所が開かれた。我が国の郵便は東京―大阪間で始まったのである。杉浦譲は、郵便事業が始まった直後の明治四年(1871)三月十日、初代駅逓正に昇進したが、同年七月、民部省の廃止に伴い大蔵省に転じ、太政官権少内史となった。明治十年(1877)八月、四十一歳にて没。遊亀公園の顕彰碑は、昭和四十年(1965)郷土の偉人を顕彰するために有志によって建立されたものである。

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北杜

2015-05-16 16:39:25 | 山梨県
(昌照寺)
 北杜市高根町村山西割は、大芝宗十郎の出身地である。
 長谷川伸の『相楽総三とその同志』によれば、昌照寺に小宮山土佐守昌照ら小宮山一族の事績を記した古碑があるというので、中央道を長坂ICで降りて、一路昌照寺を目指した。この寺に行けば、村山西割に在るという大芝宗十郎の墓や顕彰碑の所在も分かるかもしれない。
 昌照寺の裏山の墓地内に古碑はあった。
 小宮山土佐守昌照は、武田氏滅亡の折にも竹田勝頼につき従っていたと言われる戦国武将である。その子である小宮山又七という人物が村山西割の大芝家の娘を娶って、以来大芝を名乗って土着したのが大芝宗十郎の先祖らしい。


昌照寺

 結論を言えば、大芝宗十郎の墓も顕彰碑も見つけることはできなかった。次に時間の十分にあるときに当地を再度訪問することにしたい。


小宮山家事績碑

 大芝宗十郎は、文化十一年(1814)、甲斐巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市高根町村山西割)の名主長右衛門の長男に生まれた。若い頃、平田篤胤の思想に共鳴し、家を弟に譲って江戸から京都に向い、諸国を遊歴。幕末には尊攘運動に挺身した。薩摩藩に仕えて武術を修めたとも伝えられるが、慶應三年(1867)十月、西郷隆盛の指示を受け、伊牟田尚平、益満休之助らと、江戸三田の薩摩屋敷に入り糾合隊を編成。下野出流山に義兵を挙げるため、竹内啓、相沢元輔ら同志十一名と三田を出たのが十一月二十六日。薩摩藩名で攘夷倒幕の兵を三百余名集めたが、幕軍の包囲を受けて敗走した。大芝は捕えられて、同年十二月十八日、佐野河原で斬首された。五十四歳。佐野河原で斬首されたのは五十一名と言われるが、大芝の年齢は最高齢に属する。

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都留

2014-06-12 23:07:01 | 山梨県
(広徳院)
 都留市の広徳院に天野開三(海蔵)の墓を訪ねた。都留市といっても、西桂町との境界に近い。
 広徳院墓地に入ると、天野家の墓がたくさんあって、簡単に天野開三の墓を探し当てることはできない。没年月日から推定したが、表面は流麗な草書体で書かれており、解読不能。今一つ、自信が持てない。


広徳院


天野開三の墓?

 天野開三は、文化十一年(1814)、甲斐都留郡境村に天野茂甫の長男に生まれた。若くして江戸に出て、江川太郎左衛門の知遇を得、品川台場建設工事を請け負った。彰義隊の天野八郎は、一時開三の世話になっており、養子となったといわれる。嘉永六年(1853)、下田地方が大津波に襲われたと知ると、江戸から大勢の人夫を引き連れて駆け付け、下田の人々を叱咤激励した。終始、幕府を支援したが、維新後は郷士に戻った。明治三十三年(1900)、十一月、八十七歳で没。


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