史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長野 Ⅲ

2016-09-16 23:19:58 | 長野県
(善光寺)


善光寺

 週末、思い立って長野まで往復した。新幹線で大宮から一時間。あっという間に長野駅に降り立つ。北に向かえば少しは暑さが和らぐかと期待していたが、内陸に位置する長野の夏は決して涼しくはない。この日は三十五度を越える猛暑日であった。
 善光寺を訪れたのは、多分高校の修学旅行以来である(ということは四十年近くも前ということである)。あの時と同じく、参道は多くの人で賑わっていた。
 本堂に入って内陣で本尊(一光三尊阿弥陀如来)にお参りすると、お戒壇めぐりに進むのがお決まりの順路である。お戒壇めぐりは、ご本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、手探りで「極楽の錠前」を探り当てるという、ゲーム感満載のイベントである。ここで錠前を探り当てることができれば、秘仏のご本尊と結縁ができ、極楽への道が約束されるという趣向である。今回、自分が極めて暗闇に弱いことを初めて認識する体験であった。片手で頭を抑え、へっぴり腰で暗闇を進んだものだから、当然ながら「極楽の錠前」を素通りしてしまった。背後で女性が「あった、あった!」とはしゃぐのが聞こえたが、今更引き返すわけにもいかず、へっぴり腰のまま、出口に向うことになった。どうやら極楽行きは難しくなった。


明治天皇長野行在所

 万延元年(1860)九月、信州松代に、師松陰の師である佐久間象山を訪ねた高杉晋作は、その二日後に善光寺を参拝している。
 ただ高杉晋作の印象には特に残らなかったようで、彼の「試撃行日譜」には
――― 途中善光寺に参る。日暮れ前に牟礼駅に宿をとる。
とあるだけである。

 拝観料を払って山門に登る。急な階段を上ると、今歩いてきた参道を見下ろすことができる。


善光寺 山門


善光寺 仁王門


日本忠霊殿

 本堂北西の三重の塔は、戊辰戦争から第二次世界大戦までの間の戦争で亡くなった二百四十万柱の霊を祀る日本忠霊殿である。建物内には善光寺史料館が併設されており、奉納絵馬や本堂等に安置されていた仏像などを見ることができる。


故参謀総長陸軍大将大勲位功二級有栖川熾仁親王尊霊 明治二十七八年役戦病死者
故近衛師団長陸軍大将功三級北白川能久親王尊霊 貮萬壹千四百貮拾四名 霊 供養塔

 日本忠霊殿と本堂の間に有栖川熾仁親王と北白川能久親王それに日清戦争における二万一千四百二十四名の戦死者の供養塔である。
有栖川熾仁親王は、明治二十八年(1895)一月、日清戦争のさ中、広島に大本営が遷されると、親王も広島に移って作戦に参加したが、そこで病を得て舞子の別荘で逝去した。
 北白川宮能久親王は、明治二十八年(1895)十月、近衛師団長として台湾島民の叛乱鎮圧のため出征したが、台南において病のため薨去した。

(秋葉神社)


秋葉神社

 長野駅で長野電鉄に乗って二つ目の駅が権堂(ごんどう)駅である。駅の目の前がイトーヨーカ堂で、その裏手に秋葉神社がある。
 秋葉神社の前の柳の木は「忠治柳」と名付けられている。長岡の百姓喜右衛門が、娘お福を五十両の前借金で、一年間山形屋に奉公に出した。山形屋の藤蔵は、手下を回して帰路に喜右衛門から五十両を奪い取った。権堂の宿でこれを聞いた国定忠治は、山形屋に乗り込んで五十両を取り戻してやった。その時、忠治は柳の小枝を投げて去った。藤蔵の女房おれんがそれを挿して育てたのが「忠治柳」というが、もちろん現在秋葉神社にある柳は何代目かのものである。


忠治柳

 秋葉神社の奥に四条霊社が鎮座する。明治三十九年(1906)の創建。料理の祖、四条流包丁道の祖、四条山蔭中納言藤原政朝を祭神とする。幕末の当主は四条隆謌である。四条霊社は、包丁・料理の神様として、全国に京都と長野二社しかない珍しい神社である。


四条霊社


国定忠治之墓

 国定忠治は、権堂の島田伊伝治のもとを度々訪れた。その縁で群馬県伊勢崎市の養寿寺の墓から分骨されてこの地にも墓が設けられた。

(島田屋跡)


やきとり次郎長

 島田伊伝治の島田屋跡は、この辺りのはずだが、何か石碑でも残っていれば分かりやすいのだが、それらしいものが見つけられない。ちょうどその辺りに「やきとり次郎長」という店があるが、せめて「忠治」というネーミングにしてくれれば、分かりやすいのだが…。
 その後、長野市ガイド協会を訪問して、場所を確認したが、そこにいた三名のガイドさん方は誰一人として島田屋そのものを御存知なかった。当方は長野市ガイド協会のホームページで調べたというのに…。

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志賀高原

2015-12-18 22:57:39 | 長野県
(蓮池)


蓮池

 東京では日に日に秋の色が濃くなってきたが、志賀高原は秋真っ盛りであった。紅葉を写真に納めようという人、秋のハイキングを楽しもうという人で、志賀高原周辺は賑わっていた。せっかくなので、私もカメラマンに交じって蓮池の写真を撮った。

(澗満滝)


澗満滝

 国道292号線を志賀高原方面に向かう途中、澗満滝(かんまんたき)の展望台駐車場がある。私の目的地は沓打名水公園であったが、ここに車を停めて歩くことにした。木立の中を歩くこと十分足らずで名水公園に行き着く。公園の前は広い駐車場になっており、何もその手前で自動車を乗り捨てる必要はなかった。
 澗満滝の方は、駐車場から六十メートルのところに展望台が設けられており、絶景を楽しむことができる。やはり紅葉のシーズンが見頃であろう。

(沓打名水公園)


沓打名水公園


佐久間象山記念碑

 名水公園というだけあって、水は透きとおっている。この小さな池の横に佐久間象山記念碑と祭沓野山文碑が置かれている。


祭沓野山文碑

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角間温泉

2015-12-18 22:52:35 | 長野県
(ほなみ村農業公園)
 嘉永年間、三ヵ村利用掛に任命された象山は、佐野の風土と民情を愛し、ここに「煙嵐勝處」と名付けた別荘を作ろうとした。計画は頓挫して別荘が建てられることはなかったが、そのことを記念した自然石の石碑が建立されている。

 この石碑を見つけるのには随分苦労した。最初に山ノ内町佐野を通過したときに出会うことができずに、志賀高原からの帰路、再アタック。一時間くらいこの辺りを走り回ってようやく発見した。
 場所は角間(かくま)温泉に入る手前の少し小高くなった地点で、ほなみ村農業公園の入口である。


煙嵐勝處碑

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湯田中渋温泉 Ⅱ

2015-12-18 22:49:06 | 長野県
(温泉寺)
 弘化三年(1846)、佐久間象山は、藩から帰国の上、郡中横目役を命じられた。このとき、鞜野、佐野、湯田中の三ヶ村利用掛にも任命され、前後四度当地を視察している。


温泉寺

 象山の『鞜野日記』によれば、嘉永元年(1848)六月十二日、象山一行は宿泊先の温泉寺を出て上州草津に向かった。その途中、硯川湯沢という場所で温泉源を発見したことが記録されている。

 温泉寺の前の道路は、地獄谷野猿公苑に通じている。温泉に入るサルを観察することができることで有名となった。おかげでこの細い道はいつも渋滞している。もちろん、温泉にもサルにも興味のない私は、ここで折り返した。

(天川神社)


天川神社

 「祭鞜野山文」と題された石碑が、湯田中温泉の天川神社と沓打名水公園の二ヶ所に建立されている。いずれも、佐久間象山が書いた祭文が石碑に刻まれているようであるが、ぎっしり文字が書かれている以外、何が書かれているか不明である。
恐らく象山が、三ヵ村の利用掛を務めていた頃、天川神社等で祭事を行った際の祈願文と推測する。詳細は分からないながら、象山とこの地域との繋がりの深さを示すものであろう。


祭沓野山文碑
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松代 Ⅳ

2015-12-18 22:45:24 | 長野県
(願行寺)


願行寺

 願行寺参道沿いに石碑がいくつか並んでおり、その中の一つが鎌原桐山碑である。碑の表面は摩耗してほとんど読めない。側面には漢文が刻まれているが、こちらも欠落、ひび割れ、摩耗がひどく、読み取れない。


鎌原桐山碑

(大林寺)
 大林寺には鎌原桐山、山寺常山の墓がある。ようやく雨も小降りとなってきたが、傘をさしながら墓地を歩くことになった。
鎌原家の墓は参道左手の鎌原家の墓所の中にある。墓の前に「鎌原桐山墓」と記された小さな石標があるので、それを目印に探すと良い。
山寺常山の墓の在処は少し分かりにくい。墓地の奥の方に、山寺家の墓があり、それに向い合うようにして古い墓石が建てられている。


大林寺


朝曦院殿瑞鳳桐山居士(鎌原桐山墓)

 鎌原桐山(かんばらとうざん)は、六代藩主真田幸弘、七代幸専(ゆきたか)、八代幸貫の三代に仕えて功績を上げ、学問も優れ、人望も高かった。昌平黌の学頭佐藤一斎と親しく、藩政の中央に身を置きながら、佐久間象山、山寺常山ら多くの門人を育てた。嘉永五年(1852)、七十九歳で没。


山寺常山幷妻渓月之墓

 山寺常山は、二歳のとき父を亡くし、文政七年(1824)、十七歳のとき家を継いで、真田幸貫の近習となった。幸貫が松代の藩校を開こうとしたとき、常山を学校普請掛として重用した。江戸在勤時には佐藤一斎のもとに出入りした。佐久間象山との間には多くの書簡が残されているが、象山が吉田松陰の下田踏海事件に連坐して蟄居を命じられた折、蟄居の身でありながら藩主に意見を上申しようとしたため、常山は象山の身を案じ自分の名前で提出することにした。このことに怒った象山は、常山と絶交した。

(東条天王山)


鎌原桐山碑

 鎌原桐山碑(佐藤一斎筆)をたずねて東条天王山を歩いた。天王山に入るには、イノシシ除けの金属製の柵が設けられており、ここを越えなくてはならない。つまりこの内側にはイノシシが棲息しているということである。何となく気色悪いがここで躊躇しているわけにいかない。意を決して中に入る。そこから数分で少し広くなった空間があり、鎌原桐山碑が聳えている。
 東条天王山にはいくつか登山口があるが、玉依比売命神社の脇から登るのが一番近道である。


松田栄太郎之墓

 鎌原桐山碑のある同じ空間に、戊辰戦争で戦死した松田栄太郎の墓がある。
 松田栄太郎は、名を義意(好徳とも)といい、銃兵卒として従軍。三番小隊。更科郡長札村の人。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉にて戦死。十九歳。

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松代 Ⅲ

2015-12-18 22:36:28 | 長野県
(山寺常山邸)


山寺常山邸

 山寺常山は文化四年(1807)の生まれ。生家は知行百六十石の中級の藩士であった。世子の傳として江戸に赴き、兵学・漢学を学び、佐藤一斎、中村敬宇、藤田東湖らと交わった。天保十二年(1841)、藩主真田幸貫が老中となると、その手足となって活躍した。同十四年、寺社奉行、郡奉行となった。能吏の評判高く、ことに弘化四年(1847)の善光寺大地震の際には領民の救恤に尽くした。明治二年(1869)、新政府に徴されたが、応じなかった。明治三年(1870)、藩領に起こった騒動後の政務にあたり、廃藩後地元に塾を開いて教育者となった。鎌原桐山、佐久間象山とともに「松代の三山」と称された。明治十一年(1878)、年七十二にて没。


常山山寺先生之碑

 現在、常山邸には幕末から明治初期に建設された表門、大正末から昭和初期に建設されたと推定される書院が残されている。邸内には、孫の塩野季彦(近衛内閣で司法大臣、平沼内閣では逓信大臣等を兼任)らによって昭和十五年(1940)に建立された頌徳碑がある。
 常山邸内は拝観可能(入場無料)だが、例によって時間が早過ぎた。

(長国寺)


長国寺

 長国寺は、天文十六年(1547)、真田幸隆が曹洞宗の禅刹上野国長源寺から、親交のあった伝為晃運禅師を招いて開山し、真田郷松尾城内に一族の菩提寺として「真田山長谷寺」を建立した。元和八年(1622)、上田藩主だった真田信之(幸隆の孫)が松代に移封となり、それにともなって寺も現在地に移転し、寺号も長国寺と改められた。江戸時代を通して信州一国の曹洞宗寺院八百ヵ寺を管理統括することになった。


玄照院鐡翁道開居士(恩田木工民親の墓)

 長国寺の墓地には、恩田木工の墓がある。
 恩田木工(1717~1762)は、六代藩主幸弘の時、宝暦五年(1755)、家老に就いて改革に着手した。納税法を年に一度から月割に変更し滞納を整理したほか、山野荒野の開拓や養蚕の奨励など殖産興業に力を注いだ。宝暦十二年(1762)、病のため四十六歳で死去した。

 長国寺は、真田家の菩提寺で、真田家歴代藩主の墓があるほか、初代信之、二代信弘の御霊屋がある。庫院の受付を訪ねて拝観料三百円を支払うと、ご住職自ら御霊屋や墓所を案内していただける。
 最初に長国寺を訪ねたのはまだ八時を回ったところであった。願行寺、大林寺、それに東条天王山の鎌原桐山碑を訪ねて、再度長国寺に戻った。ちょうど私の前に一人の女性が受付を済ませたところであった。その中の一人、ジャージ姿の初老の男性が当寺のご住職であった。ご住職の方から声をかけていただき、三人で御霊屋と真田家の墓所を歩くことになった。


初代藩主信之公霊屋

 ご住職によれば、この女性はリピーターだそうで、長国寺のことも真田家墓所のことも良く御存知らしく、もはや解説は要らないというレベルだそうで、説明は専ら私に向けて、マン・ツー・マンで行われた。
 ご住職によれば、信之公御霊屋の天井には狩野探幽筆の花鳥絵が描かれ、正面の唐破風には左甚五郎作と伝えられる雌雄の鶴が施されている。一時は荒れるに任されていたが、維新後大金を投じて解体復元工事が実施されたという。ご住職は、淀みなく解説を続けた。


松代藩主真田家墓所

 墓所には、初代から十二代までの歴代当主(ただし、十三代幸長の墓は青山墓地)と早逝した子女の墓がある。また、真田幸村、大助(幸昌)父子の供養碑なども置かれている。
 ご住職は、「歴代の藩主の墓がこれほど残っている大名墓はほかにないでしょう」と胸を張ったが、私の知るだけでも大村藩主の墓の規模はこの数倍もあるし、萩の毛利家、越前松平家や小浜酒井家の墓地も負けていない。


感應院殿至貫一誠大居士
(八代幸貫公の墓)

 私が長国寺を訪ねた最大の目的は、真田幸貫の墓である。

真田幸貫は、寛政三年(1791)の生まれ。父は松平定信。父の教えを受けて治国の要道はもとより、文雅の道にも通じた。常に質素な服装を用い、賢明の聞こえ高く、領民からも名君と仰がれた。文政六年(1823)、家督を継いで、文教を興し、藩風を刷新し、殖産興業を奨励したため、藩政は大いに振った。文政十二年(1829)、老中に抜擢されたが、弘化元年(1844)、病のために辞職した。幸貫の最大の功績は、佐久間象山を発掘し、さらに傲岸不遜という不評のあった象山を終始支援したことにあったであろう。嘉永五年(1852)、年六十二で没。


文聡院殿若一教大居士
(九代幸教公の墓)

 真田幸教(ゆきのり)は八代藩主幸貫の孫。嘉永三年1850)、幸貫の後を襲って藩主となった。文久三年(1863)、イギリス軍艦が江戸に迫ると、警衛の命を受け、藩兵を率いて江戸に赴いた。元治元年(1864)には京都御門の警衛を任じられた。次いで大阪表に転じた。孝明天皇の信任厚く、種々下賜を受けた。しかし、同年秋、病のため家督を養子幸民に譲った。明治二年(1869)、年三十六の若さで逝去。


松代藩前島民部左衛門之墓

 前島民部左衛門は家中士。戊辰戦争では八番狙撃隊に属した。慶応四年(1868)五月三日、越後片貝にて戦死。二十九歳。

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千曲 Ⅱ

2015-12-18 22:30:48 | 長野県
(満照寺)
 嘉永三年(1850)七月、出府した象山は、江戸深川小松町の松代藩邸に身を置いて、そこで砲術教授に携わることになった。藩でもこれを支援し、ここに鉄砲の製造所を設けた。象山の声望は藩外にも知れ渡っており、松代藩士のみならず、他藩からも生徒が集まった。この年に入門したものの中には、勝海舟、木村軍太郎、武田斐三郎、山本覚馬、津田真道らがいる。


満照寺

 嘉永三年(1850)十二月、松代に帰郷した象山は、門弟数十人を引き連れて、金児忠兵衛の鋳造した五十斤石衝天砲の試射を行った。翌年二月にはポンペン砲の試射を実行したが、火薬の量を間違ったらしく、砲弾が飛び過ぎて満照寺の中庭に飛び込むといった失態を演じている。当時、満照寺は天領とされていたため一大事となり、解決に時間を要したと伝えられる。もっとも三月に三度目の試射を行った際には、みごとな成果を挙げて面目を施している。

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上田 丸子

2015-12-18 22:28:09 | 長野県
(向陽院)


向陽院

 三連休を無為に過ごすのはもったいない。嫁さんに懇請して、一日自動車を使う赦しを得た。このところ、連日好天が続いていたが、私が遠征を計画したその日だけが雨の予報であった。恐らく世間では運動会シーズンを迎えており、この日を楽しみにしていた子供たちもたくさんいたことだろう。この雨を恨めしく思った人間は私だけではないはずである。多少の雨でも史跡旅行は決行である。まだ夜の明けない午前四時に起床し、最初の目的地上田市塩川(旧丸子町)の向陽院に到着したのは、朝七時前であった。次第に雨が強くなってきた。


向陽院山門

 向陽院には和田宿本陣の御入門が移築されている。

(龍願寺)
 同じ上田市内(旧丸子町)の龍願寺には、和田宿本陣の建物の一部(座敷棟)が客間として移築されている。恐らく和宮が宿泊したという建物がこれではないかと思うが、確信が持てない。確かめようにも、朝七時前ではさすがに家人を呼ぶわけにもいかない。何だか消化不良のままここを後にした。


龍願寺


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南木曽

2015-05-30 15:10:44 | 長野県
(妻籠宿)


妻籠宿

 元治元年(1864)、天狗党は諸藩の軍勢と戦いつつ、京都を目指して西上を続けた。木曽には福島に関所があり、妻籠城も固められていたため、天狗党は和田峠における戦闘の後、伊那谷を通り、清内路峠を越えて蘭(あららぎ)に入り、同年十一月二十六日、妻籠橋場で中山道に出た。総勢千二百人もの軍勢の出現に、蘭村は大混雑となった。


妻籠宿本陣


大鳥圭介から島崎広助への書簡など

(脇本陣奥谷家)

 脇本陣奥谷家は、歴史資料館の入口を兼ねている。明治十年(1877)の建てられた豪壮な建物である。明治十三年(1880)、明治天皇の行幸の際、御小休所となった。また、島崎藤村の詩「初恋」に詠われたお由布の嫁ぎ先でもある。
中に入ると、係の女性が丁寧に案内してくださる。


脇本陣

 いろりのある部屋の横には、東久世通禧の書が掲げられている。


蓬菜五雲深
東久世通禧の書




 明治十三年(1880)、明治天皇がここで休息を取ったときに用意された机である。怪我をさせないように一切釘を使わない、凝った作りである。脇本陣の便所も天皇のために用意されたが、使われることはなかったという。


封青山旅緑水
山岡鉄舟の書

 歴史資料館には、明治天皇の巡幸を記念して山岡鉄舟が書いた書が飾られていた。

(三留野宿)


明治天皇行在所記念碑 三留野宿本陣跡


桃介橋

 文久元年(1861)の和宮降嫁に際して、和宮は同年十一月一日、三留野宿にて宿泊している。本陣は明治十四年(1881)の大火で焼失してしまい、跡地には庭木の枝垂梅と明治天皇行在所記念碑が建てられているのみである。明治天皇がこの地に宿泊したのは、大火の前年の明治十三年(1880)六月のことである。その後、鉄道が開通し、三留野宿周辺の賑わいは回復することはなかった。

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阿智

2015-05-30 15:04:07 | 長野県
(清内路)


清内路関所址


清内路関所変遷碑

 駒場宿で、松尾多勢子の長男誠が藤田小四郎を訪ね、美濃路から中津川を通って上京する方が良いという、母多勢子の意見を伝えた。天狗党は早速幹部で軍議を開き、清内路越えは迂回となるが、飯田藩の預かりでもあり、平穏に通過できるとの読みもあった。最終的に小四郎の意見に従い美濃路をたどることに決した。
 翌日、朝八時に駒場宿を出立した天狗党は、山本村から梨子野峠を越えた。不意に現れた軍勢に関所を守る役人は慌てふためいたが、横田藤四郎が「乱暴はいたさぬ故、通行を許されたい」と丁重に申し出たため、通過を承諾した。
 しかしあとになって、幕府との間に大きな問題となった。浪士を黙って通過させたことは責任重大として飯田藩主堀親義は講武所奉行、清内路関所預かりをお役御免となり、飯田藩領一万七千石から二千石の没収、その上で逼塞という厳しい処分を受けることになった。また、関所の番頭、副番頭は職務怠慢の咎にて切腹を命じられた。なお番頭の斎藤某は長男と逃げ出し、高野山に隠れたが、のちに捕えられ城内で打ち首となった。
 天狗勢は上清内路村まで進み、ここで宿泊した。谷間に点在する家々に分宿したが、浪士たちが意外と礼儀正しかったので村人も安心したという。

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