史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「歴史の顔」 綱淵謙錠著 文春文庫

2011年04月23日 | 書評
戦国期から幕末に至るまでの人物を題材にした綱淵謙錠氏のエッセイ集である。やはり本棚の奥から出てきた古い本である。
いずれも面白く読んだが、やはり著者の造詣の深さが存分に発揮されている作品は、「会津の士風と教育」と題する一編であろう。教育の内容と教化の徹底ぶりは幕末三百藩中随一と称される会津藩日新館で施された教育の実態を紹介する。
同じ町内の若者で作られる<辺>という制度は、薩摩藩における郷中制度に似ている。先輩が後輩を教える。後輩は先輩の背中を見て育つという仕組みは、現代の組織にも通用する若手育成の常套手段である。
会津における教育制度で特徴的なのは、学業優秀なものを選んで、江戸に遊学させる制度である。期限は三年。最大十ヶ年までの延長を認めた。また人物の才幹識見により、諸藩に遊歴させる制度もあり、この制度を使って秋月胤永(悌次郎)、南摩鋼紀といった逸材が肥前、肥後、薩摩を遊歴している。彼らがのちに会津藩史に貴重な足跡を残したことは歴史の語るところである。武者修行により人材が育成されることは実証済みというわけである。
昨今、海外留学を志す若者が少なくなっているという。鎖国の時代と違って、現代は自分がその気になれば、いくらでも海外に飛び立つことができる。これほど恵まれた環境にあるというのに、勿体ないことである。
筆者は、「その精華が、戊辰戦争の危機的状況において遺憾なく発揮された」と結んでいるが、それだけでなく、王城の守護者として幕末の京都に駐在し、その役目を誠実に果たしたのも、会津藩における教育の成果というべきであろう。

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新富町 Ⅱ

2011年04月16日 | 東京都
(明治学院発祥の地)
 最寄の地下鉄の駅は、新富町駅もしくは築地駅であるが、町名でいうと明石町。ここは旧築地居留地の跡地であり、現在都内でも屈指の「石碑の森」となっている。
 中でも明治期にミッション系の学校がこの地に相継いで設立されたことから、学校の発祥の地を現す記念碑が多い。


明治学院発祥の地

 明治学院は、明治十年(1877)、居留地十七番地の東京一致神学校を基としている。


青山学院記念の地碑

 青山学院は、米国の宣教師が設立した三つの学校を源流としている。そのうちの一つがこの地に在った海岸女学校である。明治七年(1874)、麻布に開校された女子小学校は、救世学校に発展し、更にこの地で海岸女学校として大きく発展した。その後、青山学院へと発展した。


女子聖学院発祥の地碑

 女子聖学院は、現在東京都北区中里に立地しているが、その起源は明治三十八年(1905)、築地居留地十四番地に米国人宣教師バーサ・クローソンによって開かれた学校に遡る。当時は生徒数十人、教師三名という規模だったという。

(指紋研究発祥の地)


指紋研究発祥の地
ヘンリー・フォールズ住居の跡

 英国人医師ヘンリー・フォールズは、明治七年(1874)から同十九年(1886)までを居留地十八番地で過ごした。フォールズ医師は、日本で行われていた指印の習慣に興味を抱き、たまたま発掘された土器に古代人の指紋を発見して、これを機に科学的な指紋の研究を始めた。明治十三年(1880)イギリスの雑誌「ネーチャー」に発表された彼の論文は、科学的指紋法に触れた世界初の論文と言われる。なお、我が国の警察が初めて指紋法が採用されたのは、明治四十四年(1911)のことである。

(東京税関発祥の地)


東京税関発祥の地碑
運上所跡

 江戸幕府は、慶応三年(1867)築地鉄砲洲明石町に一帯を外国人居留地に定めた。合わせてこの地に税関業務を行う運上所を設置した。これがのちに東京税関へと発展した。

(聖路加病院)


アメリカ公使館跡

 アメリカ公使館は、初代駐日公使ハリスが安政六年(1859)麻布の善福寺に開いたのが最初であるが、明治八年(1875)十二月、外国人居留地であるこの地に移設され、初めて公使館として形態を整えた。その後、明治二十三年(1890)赤坂の現在地に移転した。移転の際、八つの石標がこの地に残された。八つのうち三つはアメリカ大使館に寄贈されたが、残る五つは聖路加病院とその向かいの聖路加タワーに設置されている。
 この辺りは維新後外国人居留地が設置された。外国領事館や教会、ミッションスクールなどが建設された。立教学院(立教大学の前身)もこの場所を発祥の地としているのである。


立教女学院築地居留地校舎跡


暁星学園発祥の地碑

 暁星学園は、明治二十一年(1888)、フランスとアメリカから来日したカトリック・マリア会の五人の宣教師によって創立されたカトリック校である。現在、学校は九段下に移っている。


関東学院の源流
東京中学院発祥の地碑


雙葉学園発祥の地

 雙葉学園の起源は、この地にあった築地語学校である。現在、雙葉学園は千代田区六番町にある。

(ガス街灯柱)


ガス街灯柱

 もともと居留地にあったガス灯が明石小学校正門前に移設されている。ランプ部分は復元されたものらしいが、柱身は当時のもの。基石は以前この場所にあった中学校の階段の石を使ったものという。

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靖国神社 遊就館 Ⅲ

2011年04月16日 | 東京都
(東京逓信病院)


日本赤十字社発祥地

 日本赤十字発祥の地は、都内の赤十字病院のどれかだと思ってずっと探していたが、予想に反して東京逓信病院がそれであった。この場所は、日本赤十字社の結成に加わった尼崎藩主(のちに藩知事)桜井忠興の屋敷跡である。

(法政大学80年館)


アーネスト・サトウ所縁の地

現在法政大学の敷地となっているこの場所は、アーネスト・サトウが夫人武田兼のために購入した旗本屋敷の跡である。その後も引き続き、息である植物学者武田久吉博士がここに居住していた。

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有楽町

2011年04月16日 | 東京都
(イトシア)
 JR有楽町駅周辺には、南町奉行があった。ただし、現在史跡を現すものはほとんど残っておらず、辛うじて駅前の商業ビル「イトシア」の地下に南町奉行の遺構である穴蔵を壁に立てかけて展示されているのみである。ベンチの石は、この地で発掘された奉行所の石組材を再利用していたものである。毎日、何千人という人がこの前を通り過ぎるが、これが史跡だと気付く人はどうやら少ない。


南町奉行所跡穴蔵

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「戊辰落日」 綱淵謙錠著 文春文庫

2011年04月16日 | 書評
今となっては本屋では容易に手に入らない文庫である。いつ購入したか記憶はないが、本棚の奥から引っ張り出してきた。
落日の会津藩にひとからならぬ思い入れを持つ綱淵謙錠の作品の中でも、頂点を成す一冊である。この作品は小説というより史伝というジャンルに分類されるべきものである。
綱淵氏は、容保が会津に帰城する場面から書き起こし、奥羽越列藩同盟、北越戦争そして会津落城に至るまでを、各種資料を駆使して刻銘に描いている。
会津戦争にまつわる悲話や美談を連ねることは難しくない。綱淵氏は、圧倒的兵力差がありながら、敢然と新政府軍に立ち向かう会津藩の老兵を描く一方で、見切りを付けて脱走する会津壮年兵の姿も紹介する。
武士道の根幹が自己犠牲とすれば、究極の武士道は女性や老人子供による集団自決であろう。落城前後の集団自決については、会津戦争を語るとき欠かせない悲劇となっているが、何度読んでも凄まじい。追い込まれると男性よりも女性や老人子供の方が遥かに武士道に忠実に行動するということであろう。

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那覇 Ⅱ

2011年04月03日 | 沖縄県
(泊外人墓地)
嘉永六年(1853)五月、浦賀に現れる数か月前になるが、ペリー艦隊は琉球那覇に現れ、上陸を果たしている。日本との開国交渉がうまくいかなかった場合を想定して、琉球の武力制圧を考えていたとも言われる。ペリー提督以下二百名は、上陸して首里城を訪問した。琉球側は武力衝突に至らないよう、ペリー一行を酒席でもてなしたという。外人墓地には「ペルリ提督上陸之地碑」が建てられている。


ペルリ提督上陸之地碑

泊高校の正門前の外人墓地には、ペリー艦隊の一員としてこの地を訪れ、何らかの理由で命を落とした隊員の墓がある。犀谷様からの情報ではペリー艦隊の墓は六基というが、私が探したところでは嘉永元年(1853)から安政元年(1854)の日付の墓が七基あった。

中には上陸後、女性を強姦して処分された(一説には老人に乱暴を働いて地元民に殺されたとも)隊員もいたという。


米国海軍兵士の墓


米国海軍兵士の墓

(聖現寺)


聖現寺

上陸したペリーは、聖現寺に宿泊した。場所は泊高校の北側。本堂はコンクリート製に建て替えられており、往時を偲ぶことはできない。

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中城

2011年04月03日 | 沖縄県
(中城城跡)
北谷のホテルから中城城跡まで車で20分程度である。
朝食を済ませて、チェックアウトするまでのわずかな時間に中城城跡を見学することにした。


中城城跡
二の郭の石積みは「布積み」と呼ばれる

中城は、「なかぐすく」と読む。ついでに「豊見城」は「とみぐすく」である。フリガナを打っても読めない。沖縄の地名は実に難しい。
中城村と北中城村にまたがって世界遺産に登録されている中城城跡が横たわっている。
この城が世界遺産に登録されたのは平成十二年(2000)のことである。その割には知名度が低いように感じる。この日、私が中城城跡を訪れたのは、朝八時過ぎという少し早い時間だったこともあるが、ほとんど人影はなかった。県内のほかの観光地を比べると、あまりに対照的である。

嘉永六年(1853)、沖縄に上陸したペリー提督は、中城城を測量している。ペリーは「日本遠征記」に「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は、賞賛すべき構造のものであった」と記している。中城城の石垣は、精緻に組み上げられ、ほとんど芸術的である。ちょっとやそっとで崩れるようなものではない。これは首里城の石垣でも同様である。当時の技術の高さを見ることができる。


三の郭の石積み
あいかた積み(亀甲乱れ積み)

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那覇 首里城

2011年04月03日 | 沖縄県
(首里城公園)
首里城を訪ねたころ、雨が降り出した。

十五世紀に尚巴志が琉球国王として君臨して以来、約五百年にわたって尚氏の統治が続いた。その政治の中心が首里城であった。
城といっても本土の城とは洋式が異なっている。原色に近い赤や金色を基調とした門や玉座は、明らかに中国の影響を受けている。


守禮之邦

有名な守礼門は、第二尚氏六代尚永のとき、「守禮之邦」という扁額を掲げるようになり、十代尚質の時代には常時掲げるようになって「守礼門」と呼ばれるようになった。太平洋戦争の戦火により焼失したが、昭和三十三年(1958)に復元、平成四年(1992)に修理を施して一新している。


首里城 正殿

守礼門からいくつもの門を通って正殿に至る。平成の首里城復元にあたって、正殿は過去の図面をもとに、往時と同様に木造で復元された。正面には唐破風の屋根を持つ向拝が突き出し、朱塗りの柱には鮮やかな雲竜文が施されている。内部には絵画をもとに絢爛たる玉座が再現されている。


正殿内 国王の椅子


園比屋武御嶽石門
(そのひやんうたきいしもん)

壮大なスケールを誇る首里城であるが、残念ながらその大半は戦火により焼失している。園比屋武御嶽石門は1519年創建と伝わる貴重なもので、首里城跡で唯一世界遺産に認定されている。

(玉陵)


玉陵

家族がまだ首里城内を見学している間に、玉陵(たまうどぅん)まで走って往復してきた。
玉陵は、第ニ尚氏王朝歴代の墳墓で、最後の王尚泰も、東室の左耳室に葬られた。

尚泰は、天保十四年(1843)に十六代国王尚育の二男として生まれ、嘉永元年(1848)六歳で父の跡を継いだ。明治五年(1872)、琉球藩が置かれると、藩王に封ぜられ、華族に列した。明治八年(1875)琉球処分問題が表面化し、内務大丞松田道之によって、中国(清)との関係断絶が伝えられると、琉球藩内では世論が沸騰した。親日派、新清派の請願、哀訴が繰り広げられる中、明治十二年(1879)廃藩置県が決定して、沖縄県が設置された。五百年余にわたる中国との関係を断つにあたって、藩論を誤らせなかった功績は大きい。同年、上京して従三位に叙せられ、ついで侯爵を授けられた。明治二十三年(1890)貴族院議員に任じられ、累進して従一位。明治三十四年(1901)五十九歳で死去した。

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那覇 Ⅰ

2011年04月03日 | 沖縄県
(波ノ上宮)
家族旅行中の史跡訪問は、いつもわずかな空き時間を利用して、効率良く済ませなくてはならない。いつもアクロバティックである。
波ノ上宮は、泊まったホテルから自動車で5分程度の距離である。家族が朝食バイキングで時間を取っている隙に波ノ上宮まで往復してきた。
朝5時に起きて、朝飯前に波ノ上まで往復するつもりであったが、沖縄の日ノ出は遅い。6時になっても暗いままだったのは誤算であった。


波上宮(なみのうえぐう)
有栖川威仁親王謹書

那覇港に面した小高い丘の上に波ノ上宮という神社がある。地元の人たちには古くから「なんみんさん」と呼ばれていたらしい。沖縄に神社が建てられるようになったのは、当然ながら明治の琉球処分以降である。鳥居などはまったく本土の神社と変わりはないが、神社の本殿は沖縄特有の明るい茶色の瓦で覆われていて、独特の雰囲気を醸している。
この場所は、古くは十四世紀の遺跡が発掘されており、以前から信仰の場として崇められていたことが確認されている。


明治天皇像

波ノ上宮境内には明治天皇の立像がある。明治百年を記念して建立されたものである。


波ノ上宮

(波上護国寺)
護国寺には、注目すべき石碑の類が三つある。その一つが「ベッテルハイム博士居住之趾碑」である。
ベッテルハイム博士が妻子を連れて沖縄に上陸したのは、弘化三年(1846)のことである。医者でもあるベッテルハイム博士は、琉球での布教を志し、那覇の町で貧しい人たちを診療して、地元の人たちの信頼を得ていった。


護国寺


ベッテルハイム博士居住之趾碑


仲地紀仁顕彰碑

仲地紀仁は、泊の医者の家の長男に生まれ、二十六歳のとき中国にわたって眼科、内科を修めた。帰国時に薩摩に漂着して、そこで外科を学んだ。

ベッテルハイム博士は、現地の医者仲地紀仁に牛痘種痘を伝授し、仲地の手に拠ってこの地に牛痘が広まった。


臺灣遭害者之墓

三つ目が「臺灣遭害者之墓」。いうまでもなく明治四年(1871)、台湾に漂着してそこで惨殺された琉球人五十四人を弔うものである。
既に数年前、私は台湾の四重渓温泉にある五十四人墓を訪問した。しかし、沖縄にこの墓があることは知らなかった。実は、この墓の存在を知ったのは、平和祈念公園の資料館の展示であった。それだけでは場所は分からなかったが、護国寺を訪ねてこの墓と偶然出会うことができた。この旅の最大の収穫であった。

琉球人が台湾南部に漂着して、ここで原住民に惨殺されたという事件は、その後の琉球の命運を握るものであった。
この事件を口実に明治新政府は、台湾出兵に踏み切る。そこでの戦闘は呆気なく終わるが、膠着状態に陥る。西郷従道率いる現地軍内ではマラリアが蔓延し、早急な解決が求められた。
このとき全権弁理大臣として大久保利通が清国に派遣された。大久保は、「台湾は無主の国であるならば、日本政府が軍隊を派遣してこれに報復し、生蕃をよく教導し、今後外国人に対してこういう不祥事のないようにしたということは国際的にみて義挙である」「台湾が清国の領土であれば、そこで発生した琉球人殺害の戦は清国政府が負うべきである」という論法で強硬に交渉にあたり、遂には清国から賠償金を獲得した。
実はその中で、琉球が日本領であるという前提で交渉が進められている。清国側もそのことに疑問を挟まなかったため、期せずして琉球は日本領であることが黙認される結果となった。

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豊見城

2011年04月03日 | 沖縄県
いよいよ沖縄である。
これまで四十七都道府県全て足を踏み入れてきた私にとって唯一の未踏県であった。五十歳を迎えてようやく沖縄の地を踏むことが出来る。といっても、三歳のときに親に連れて行かれた長崎県(さすがに記憶がない)や通過しただけという佐賀県も含めての話ではあるが…。
この春、末の娘が中学に進学するのを機に家族旅行に行こうということになった。学校が始まってしまうと、学校の行事や部活動やらでなかなか日程が合わない。このタイミングが唯一にして絶好の機会であった。
家族に「どこに旅行に行きたいか」と問うと、息子は北海道に鉄道旅行に行きたいというし、長女は京都が良いというし、嫁さんは温泉旅行と言い出すし、まるでまとまらない。強権を発動して沖縄に決めた。
折しも二週間ほど前に東日本大地震が発生し、まだ日本中がその混乱と精神的打撃から立ち直れていない時期に当たってしまった。だが、既に旅行代金は納めてしまってキャンセルもできない。不謹慎との批判もあるかもしれないが、旅行を強行することにした。
個人的には、本来前月に予定されていたニューカレドニア出張がずれ込んで、沖縄旅行の前日に帰国したばかりというタイミングになってしまった。これというのも、先月頚椎ヘルニアを発症して、出張どころではなかったからで、言わば自ら撒いた種である。体力的には厳しかったが、誰にも文句を言える筋合いではなかった。
沖縄と幕末史跡とは、ほとんど結びつかないが、時間の許す限り史跡も見て回りたい。沖縄史跡に関する情報は、犀渓様から提供いただいた。

(ジョン万次郎上陸碑)
昨年(平成二十二年(2010))建立されたばかりの豊見城翁長、ジョン万次郎の上陸碑を見に行く。
ジョン万次郎がこの地に上陸したのは、嘉永四年(1851)一月のことである。アメリカに漂流したジョン万次郎はアメリカで教育を受け成人した。帰国を志したジョン万次郎は、琉球を最初の上陸地に選んだ。大渡海岸に上陸した万次郎は、薩摩藩の取り調べを受けた後、約半年間にわたり翁長に留め置かれた。軟禁状態であったが、極めて待遇は良かったと伝えられる。


ジョン万次郎記念碑

(高安家)


高安家

翁長に逗留したジョン万次郎は、高安家に起居した。現在も末裔の方が住んでおられる。

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