史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「司馬遼太郎が描かなかった幕末」 一坂太郎著 集英社新書

2013年09月27日 | 書評
司馬遼太郎の作品は、没後十五年を経た今日でも根強い人気を維持している。
本書は、「竜馬がゆく」「世に棲む日日」などに描かれた坂本龍馬や高杉晋作、吉田松陰が如何に史実と異なるか。さらにいえば、恐らく司馬遼太郎は史実を知りながら敢えてそこを無視して作品を描いているか、について、様々な角度から検証し、無知なる読者に警鐘を鳴らすものである。
私自身についていえば、司馬作品を通じて幕末を好きになった一人であり、日本中にそのような歴史好きはたくさんいるだろう。司馬遼太郎先生の作品は、決して自虐的ではなく、複雑怪奇な幕末史を分かり易く、時に面白く、時に劇的、痛快、感動的に描く。坂本龍馬も高杉晋作も吉田松陰も、見てきたかのようにリアルで、そしてかっこ良い。司馬作品を通じて自国の歴史に興味や誇りを持つ人が増えたとしたら、それが司馬作品の最大の功績であろう。一方で、実はそこには司馬遼太郎先生の巧みな創作が加えられていることに多くの読者は気付かない。ここがほかの作家との大きな違いでもある。司馬先生のウソを多くの読者が真実を思い込んでしまう。これが最大の罪といえるかもしれない。
著者一坂太郎氏は、司馬作品の虚構を次々と暴く。いずれも「なるほど、そうだろうな」という指摘ばかりである。
高杉晋作は上海に渡航して、列強に食い物にされる中国の姿を見て衝撃を受ける。同時に圧倒的な軍備を誇る西欧列強を相手に、単純に攘夷などできないことを痛感して帰国する。ところが、帰国して間もなく、高杉晋作は御殿山のイギリス領事館を焼き討ちする。この間、晋作がどう考えて、このような行動を取ったのか、晋作自身は何も書き残していないので、後世の我々は非常に理解に苦しむ。こうなると歴史家ではなく、小説家の領分であろう。司馬先生は一章を割いて、この間の晋作の思考を読者に提示した。ここでは高杉晋作は「どうしようもなく戦争好き」だったと説明されているが、恐らく史料を探してもそんなことはどこにも書かれていない。司馬先生なりの解釈である。しかし、小説としてはこの「解釈」がないといかにも流れが悪いのである。
一坂太郎氏が指摘するように、吉田松陰にはテロリスト的な側面があるし、高杉晋作が藩の役人として意外とまじめに仕事をしていたのも事実であろうし、坂本龍馬一人の力で薩長連合が成立したわけではない。しかし、あまり史実に捉われてしまうと、小説としての魅力は半減してしまうだろう。史実の羅列では小説としては成り立たないのである。要は読者としては、司馬作品を飽くまでフィクションとして楽しむという心構えが求められているということである。
これは何も司馬先生の作品に限ったことではない。TVや映画で放映される歴史だって、必ず監督や演出家の解釈が加わっているのである。我々は、作品を見るとき必ず誰かのフィルターを通ったものを見せられているということを自覚した方がよい。ついでにいえば、毎日放送されているNHKのニュースであっても、あれが客観的・中立なものだと思わない方がよい。そもそもニュースをどういう順番で取り上げるのか、各ニュースにどれくらいの時間を割くのか、誰のどういうコメントを付けるのか、そこには必ず誰かの判断を介しているのである。ニュースが虚構だとはいわないが、必ずそこにはマスコミの意図が反映されていると認識しておいた方がよい。

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「一刀斎夢録」 浅田次郎著 文春文庫

2013年09月27日 | 書評
「壬生義士伝」「輪違屋糸里」に続く、浅田次郎の新選組三部作完結編。待望の文庫化である。
物語は明治天皇の大葬の日、乃木大将の殉死から始まる。近衛兵である梶原中尉は、大葬の長期休暇の間、夜な夜な昔話を聞くために一刀斎と名乗る老人のもとを訪ねる。一刀斎とは、新選組三番隊長斉藤一の成れの果てである。浅田次郎氏の作り話と承知しながらも、梶原中尉と同じく一刀斎の語りに引き込まれ、通勤電車の中、会社の昼休み、寝る前のひと時、わずかな時間も惜しまれるくらい先を読むのが急がれた。
わずかな史実の断片から虚構を構築する浅田氏の手腕は本作でも存分に発揮されている。前二作ほどの衝撃はないにしても、市村鉄之助、久米部正親、林信太郎、志村武蔵という登場人物はいずれも実在の新選組隊士である。彼らマイナーな新選組隊士に関する詳細の履歴はほとんど残っていないが、その史実の断片を繋ぎ合せて、壮大な人間ドラマを描いた。
本作の影の主役は市村鉄之助である。拾われたのも同然の形で新選組に入った鉄之助は、思わぬ場面でもう一人の斉藤一として、斉藤の目の前に現れる。
市村鉄之助は、箱館戦争後土方の遺品を日野の佐藤家に届けたあと、約二年を佐藤家で過ごし、その後出身地である大垣に戻って、明治六年(1873)、そこで病死したとされている。鉄之助の最期には異説があって、西南戦争に西郷軍に加わって戦死したとも言われる。本作は異説に則った作品となっている。
読後感をひと言でいうと、「またしても浅田さんにしてやられた!」といったところです。


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蔵前 Ⅱ

2013年09月27日 | 東京都
(宗吾堂)


宗吾堂

蔵前の宗吾堂は、下総佐倉の義民惣五郎(宗吾)の供養堂である。惣五郎は、江戸初期、佐倉藩の重い課税に対して藩主堀田正信に直訴した罪で処刑された。後年、佐倉藩では絶えず惣五郎の霊を弔った。
この場所は、正信の子、正休の家系である近江宮川藩に引き継がれた。宮川藩では屋敷内に宗吾堂を建立し、惣五郎の百五十回忌の法要を営んだ。

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両国 Ⅲ

2013年09月27日 | 東京都
(旧安田庭園)
 両国の国技館の北側に所在する旧安田庭園は、常陸笠間藩主本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、築庭したものである。維新後、旧岡山藩主池田章政邸となり、明治二十四年(1891)安田財閥の安田善次郎の所有となった。善次郎の死後、庭園と家屋は東京市に寄付された。大正十二年(1923)の関東大震災で壊滅的被害を受けたが、昭和四十二年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的改修を行い、昭和四十六年(1971)に復元工事を完了した。


旧安田庭園


(舟橋聖一生誕地)
 旧安田庭園の門を出てすぐ、国技館の北側に舟橋聖一生誕記念碑がある。舟橋聖一は、いうまでもなく名作『花の生涯』の作者である。明治三十七年(1904)に横網二丁目二番地に生まれた。


舟橋聖一生誕記念碑



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錦糸町 Ⅳ

2013年09月27日 | 東京都
(津軽稲荷神社)


津軽稲荷神社

 錦糸町のすみだトリフォニーホールの向かい側の小さな神社は、津軽稲荷神社といって、津軽藩の北本所下屋敷にあった内社である。

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太田

2013年09月14日 | 群馬県
(高山彦九郎記念館)


高山彦九郎記念館

 寛政の三奇人と称され、幕末の志士にも多大な影響を与えたといわれる高山彦九郎は、上野国新田郡細谷村(現・太田市細谷町)で生まれた。江戸、京都、細谷を拠点に、全国各地を遊歴し、全国の学者、文化人だけでなく、京都の公家や諸国の藩主、武士、神官、農民など、様々な人物と交流した。彦九郎の思想と情報は、地域や階層を越えて伝播したといわれる。平成八年(1996)、生家跡地に高山彦九郎記念館が開館した。

 記念館の前に高山彦九郎の歌碑が建てられている。

 赤城山 真白に積る雪なれば
 わか故郷そ 寒からめやも


高山彦九郎像

 記念館を入ると、高山彦九郎像が出迎えてくれる。

(高山彦九郎旧宅跡)


高山彦九郎宅跡

 記念館の左側が、高山彦九郎宅跡であるが、一面畑となっている。その中で井戸跡だけが、唯一当時をしのぶ遺跡であるが、近づいてみると、やはり何も残っていなかった。


井戸跡

(教王寺)


教王寺


高山彦九郎遺髪碑

 高山彦九郎記念館の東側に、彦九郎の遺髪碑が建てられている。教王寺の墓地の飛び地で、高山彦九郎の本姓である、蓮沼家の墓地になっている。遺髪碑を囲むように、彦九郎の曽祖父母、祖父母や両親、兄弟、末裔ら一族の墓が並べられている。
彦九郎は、寛政四年(1792)から足掛け二年にわたって九州各地を旅した。彦九郎は生涯をかけて各地を旅したが、これが最後の旅となった。寛政五年(1793)、四十七歳のとき、久留米で突然自刃して生涯を閉じた。その死は謎に満ちているが、光格天皇の実父典仁親王への尊号宣下が松平定信の反対にあい保留されていることが原因とされている。


祖母りんの墓

 天明六年(1786)八月二十四日、祖母りんが八十八歳で死去すると、高山彦九郎は墓のかたわらに喪屋を建てて、ここにこもって三年にわたって喪に服した。彦九郎の行為は評判となり、他国からも弔問に訪れることになったが、兄、専蔵は快く思わず告訴し、その結果、一時投獄されることになった。

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高崎 Ⅲ

2013年09月14日 | 群馬県
(妙見寺)


妙見宮

 司馬遼太郎先生の「北斗の人」は、剣豪千葉周作を主人公とした作品である。小説の後半の舞台は上州である。その中で周作が、偶然引間村の妙見寺を訪れる場面が描かれている。「北斗の人」にも記載されているように、妙見寺の草創については詳細不明ながら、上州では最古の歴史を持つ古刹らしい。境内に足を踏み入れてみると、何の変哲もない様子であるが、神社(妙見宮)と寺が並存しているのが特徴である。
「北斗の人」によれば、妙見様は平国香の流れをくむ千葉家の守護神であり、千葉周作の父、幸右衛門も自宅に妙見様を祀っていたという。その本宮がこの上州妙見寺である


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前橋 Ⅱ

2013年09月14日 | 群馬県
(源英寺)


源英寺


白井宣左衛門春幹墓

 源英寺に、前橋藩白井宣左衛門、小河原多宮の墓があるというので、立ち寄ってみた。源英寺の墓地はかなり広い。墓地内を隈なく歩き回った末、白井宣左衛門の墓を発見したが、小河原多宮の墓は遂に見出せなかった。墓地入口近くに「小河原家」の墓は三つくらいあるのだが、そのどれかに合葬されているのかもしれない。

 慶応三年(1867)五月、富津陣屋の警備を引き継いだ前橋藩は、白井宣左衛門を陣屋支配として派遣した。慶応四年(1868)六月、官軍から前橋藩が請西藩に加担したことを責められ、白井宣左衛門は責任を一身に負って自刃した。

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沼田

2013年09月14日 | 群馬県
(沼田公園)


沼田城址


鐘楼

 沼田は群馬県北部の盆地にある静かな街である。鎌倉時代から沼田氏が土着し、天文元年(1532)頃、沼田氏十二代、沼田万鬼斎が沼田城を築城した。戦国時代には真田氏の所有となり、以後十七世紀末まで続いた。真田氏が改易となったとき、城郭は全て破却され、堀も埋められたという。沼田は一時天領となったが、元禄十六年(1703)に本多氏が入封した。本多氏のあと黒田氏を経て、寛保二年(1742)土岐氏があとを継いだ(三万五千石)。真田氏の改易以降、三の丸に藩邸が造られたようであるが、天守や櫓は再建されることはなかった。土岐氏十二代頼知(よりおき)のとき、明治維新を迎えた。
 沼田城跡は現在、沼田公園として整備されているが、一部に堀や石垣が残されている程度である。本丸跡に鐘楼が建設されている。


旧土岐家住宅洋館

 土岐氏は、松平定信家と血縁関係にあったため、戊辰戦争に当たって動向が注目されたが、官軍への恭順を決めてことなきを得た。沼田は会津領と接していたため、官軍の基地として利用された。
 公園内に土岐家の家督を継いだ土岐章子爵が、大正十三年(1924)、東京都渋谷区に建築した洋館が公開されている。土岐家から寄贈を受け、平成二年(1990)に当地に移築されたものである。外観はまったくの洋館であるが、内部は畳を敷いた和室を含む和洋折衷式である。

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嬬恋

2013年09月14日 | 群馬県
(万座・鹿沢口駅)
 JR吾妻線は群馬県の渋川と嬬恋村の大前を結ぶローカル線である。沿線は、建設中止か続行かで話題となった八ツ場ダムがあることで俄かに注目を集めたが、その後八ツ場ダム問題はウヤムヤとなってしまった。それとともに、再びこの地域も忘れられてしまった感がある。
 万座・鹿沢口駅は、終点大前駅の一つ手前である。駅前に中居重兵衛の顕彰費が建立されている。書は徳富蘇峰。


中居重兵衛之碑

 中居重兵衛は、文政三年(1820)、この地に生まれた。父は名主幸右衛門。本名を黒岩撰之助といった。若くして家督を継いだが、二十歳のとき一念発起して出奔し江戸に出た。江戸では砲術を佐久間象山に、剣を斉藤弥九郎に、蘭学医学を川本幸民に学んだ。やがて尊王開国を主張するようになった。また、強力火薬を発明し、火薬に関する書を著した。安政元年(1854)には日本橋に店舗を構えた。安政五年(1858)、米英と通商条約が締結され、横浜が開港されると、会津、上田、紀伊など諸藩は、横浜の中居屋の手を経て交易に乗り出した。横浜に移った中居屋は巨万の財を成し、銅御殿と呼ばれる豪壮な店舗を築いた。もともと開国主義者であった重兵衛であるが、幕府の開国政策や安政の大獄に不満を募らせたという。万延元年(1860)三月、桜田門外で水戸浪士が大老井伊直弼を襲った事件の黒幕とも言われ、水戸浪士が使った拳銃は、中居屋重兵衛が提供したものといわれる。幕府に追われる身となった重兵衛は、逮捕される寸前に脱出して房州を経て江戸に潜伏。文久元年(1861)、四十二歳で死去したが、その死も謎に包まれていて、「獄中で暗殺」説もある。

(割烹 中居屋)


割烹 中居屋


中居重兵衛生家

 中居重兵衛の生家は旅館として営業を続け、現在も割烹中居屋として存続している。当主は七代目に当たるそうである。店舗の裏手に生家が保存されている。

(中居重兵衛の墓)
 生家跡の前の坂を五百メートルほど進むと、東小学校がある。東小学校に接する墓地に中居重兵衛とその一族の墓がある。


中居撰之助(重兵衛)墓

 墓石には、重兵衛の通称撰之助が刻まれている。
 桜田門外の変が起きたのは三月三日。中居屋ではたかと命名された一人娘の雛節句の祝いの宴が開かれていた。重兵衛は、番頭や手代に対して
「盛大に祝え。江戸ではそろそろ片が付いたはずだ。吉報が待ち遠しい」
と漏らしていたという。

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