史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

ひたちなか Ⅳ

2010年11月21日 | 茨城県
(田彦中卵塔共同墓地)
 この日は、大洗総合運動公園で野球の練習試合があった。せっかくの機会なので、試合の前にひたちなか市内の史跡を回ることにした。早朝、四時に起床して六時半にはひたちなかに到達した。最初の訪問地は、田彦の共同墓地にある宇都宮藩士の墓である。実は田彦中卵共同墓地を探して、一度この付近をウロウロしたことがあるが、探し当てることができなかった。田彦中卵共同墓地は、国道二百四十六号線から、信号の無い交差点を左折してすぐの所にあり、極めて分かりにくい。


宇都宮藩士之墓

 元治元年(1864)天狗党の鎮圧のため、幕府は関東諸藩に対して追討を命じた。同年九月、田彦に宿陣する宇都宮藩兵と天狗党とがこの地で激闘を展開し、田彦はたちまち火の海に襲われた。この戦闘で宇都宮藩士九名と役夫一名が戦死。彼らを葬った墓である。

(中根堂山共同墓地)


福島藩士の墓

 中根堂山共同墓地には、元治甲子の乱の際、幕府軍の援軍として派兵された福島藩士の墓がある。元治元年(1864)十月、部田野での戦争は、天狗党の内乱でも激戦の一つとなった。中根城跡には、福島藩兵、二本松藩兵が駐屯していた。この戦闘で戦死した彼らの墓であるが、実は何名が戦死したのか判然としない。

(水車場跡)


史跡 水車場跡

 徳川斉昭は、海防の重要性を唱え、自藩で大砲を鋳造するため反射炉を建設した。反射炉で鋳造された円柱状の砲身は、那珂川沿岸の柳沢まで運ばれ、この地で水車を動力として砲身に穴を開ける作業が行われた。水車場は安政二年(1855)に着工され、翌年完成した。十数門を穿孔したと言われるが、やはり元治元年(1864)の騒乱で破壊焼失してしまった。

(浄光寺)


浄光寺

 那珂湊の戦いで敗れた諸生党が浄光寺に逃げ込み、それを追った天狗党勢の攻撃に耐え切れず、寺に火を放って敗走した。これにより浄光寺は全焼したという。


元治甲子乱戦死墓

 部田野の戦闘で戦死した福島藩士の墓である。

(和田水門帰帆碑)


水門歸帆碑

 斉昭は、天保四年(1833)に領内を巡回したとき、八つの景勝地を選定して水戸八景と名付けた。斉昭は、自然鑑賞と健脚鍛錬を目的に藩士に八景巡りを勧めた(言ってみればウォークラリーである)。その一つとして、太平洋を望む和田の高台に「水門帰帆」の碑が建てられた。勿論、隷書体の碑文は斉昭の筆である。

水戸八景
徳川斉昭作

雪時嘗で賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭
山寺の晩鐘幽壑に響き
太田の落雁芳洲を渡る
花香爛漫岩舟の夕べ
月色玲瓏たり広浦の秋
遥かに望む村松青嵐の後
水門の帰帆高楼に映ず

(樫原神社)


樫原神社

 樫原神社はちょっとした高台にある。那珂湊における戦闘では、大発勢がここに陣を敷いた。

(聴法寺)


聴法寺


筑波勢本陣跡

 聴法寺本堂前の植え込みの中に「筑波勢本陣跡」と記された石碑が建てられている。
 元治元年(1864)八月、天狗党諸隊は、聴法寺を本陣とした。藤田小四郎、竹内百太郎、飯田軍蔵といった諸将は寺山に布陣。寺山とは彼らの呼称で、聴法寺墓地周辺の地域のことを指す。

(観濤所)


観濤所

 斉昭が水戸領内を巡視して水戸八景を選定した頃、この地を訪れた斉昭が雄大な景色に感動して、水戸藩内随一の波浪の見所として「観濤所」と命名した。言わば、水戸八景の番外編である。
 昭和十年(1935)に風化から守るために石造の碑覆堂が設けられた。碑には斉昭直筆の隷書が刻まれている。


平磯海岸

 観濤所の前に広がる平磯海岸は、いわゆる「鬼の洗濯板」状の岩が連なる奇観を楽しめる。この海岸からは化石がたくさん見つかっているそうである。

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日暮里 ⅩⅤ

2010年11月20日 | 東京都
(永久寺)
 永久寺は上野戦争の際の戦火で全焼した。
 本堂の前には、山猫めをと塚と猫塔記が建てられているが、これは親交のあった榎本武揚から贈られた夫婦の飼い猫の供養塚である。碑文は福知桜痴。猫塔記の方は、魯文が主催した珍猫百覧会を記念したものである。


山猫めをと塚(左)と猫塔記


仮名垣魯文の墓

 仮名垣魯文は、明治時代の戯作者、新聞記者。文政十二年(1829)江戸京橋の生まれ。少年時代から式亭三馬や十返舎一九などの作品を耽読し、諸方を遊歴したあと、作家生活に入った。明治に入ると、当時の文明開化に浮かれる世相を風刺する「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」などの作品を発表し、一躍花形作家となった。更に「横浜毎日新聞」「仮名読新聞」「いろは新聞」「今日新聞」などに軽妙な文章を寄せ、人気を博した。明治二十七年(1894)、六十六歳で没し、当寺に葬られた。


猫塚碑

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北千住

2010年11月14日 | 東京都
(千住宿)


千住宿

 千住は日光街道の宿場町である。今も北千住駅西側の商店街は、街道の風情を残している。高札場の跡は公園となっている。

(横山家)


横山家

 横山家は、宿場町の名残を今に伝える商家である。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは紙漉問屋を営んでいたという。母屋は江戸時代後期の建造で、昭和十一年(1936)に改修が加えられている。慶応四年(1868)五月の上野戦争で敗れた彰義隊が敗走する中で斬りつけたと言われる刀創が玄関の柱に残る。


門柱の刀創

(不動院)


不動院

 不動院には、芸州藩が建立したという大きな供養塔が残されている。これは戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従軍者のうち、千住近在から参加した戦死者を供養したものである。正面に「南無阿弥陀仏」側面に「芸州」と大書きされている。


供養塔


無縁塔

 宿場町千住に位置する不動院には、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に遊女を弔うために建てた無縁塔などがある。

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日暮里 ⅩⅣ

2010年11月14日 | 東京都
(谷中霊園つづき)


正四位勲四等村田氏寿之墓

 村田氏寿は福井藩士である。同藩の鈴木主税、橋本左内らと親交が深かった。嘉永六年(1853)ペリー来航に際して江戸に出て、諸藩の士と交わった。安政三年(1856)、藩命により横井小楠を招聘するため熊本に使した際、鍋島、島津両候のほか、勝海舟、西郷隆盛、梁川星巖、梅田雲浜といった天下の名士と会談した。文久二年(1862)以降、松平春嶽が政事総裁職に就くと、左右に近侍して輔佐した。戊辰戦争では越後口に出陣した。帰藩後は、藩参政、大参事、足羽敦賀両県参事、岐阜県令、内務大丞兼警保頭を歴任した。明治三十二年(1899)、年七十九で死去。


内藤耻叟

 内藤耻叟(ちそう)は、水戸市教育委員会『水戸の先人たち』にも選考されている水戸藩出身の歴史学者である。明治三十五年(1902)七十七歳で没すると谷中墓地に葬られたが、どうやら現在は無縁墳墓となっており、耻叟の墓があったと思しき場所には雑草が伸びる荒れ地となっている。歴史上の人物の墓は文化財である。無縁だからといって撤去するのではなく、何とか維持することを考えてもらいたい。
 内藤耻叟は、幼くして会沢正志斎に学び、藤田東湖の塾にも通った。安政二年(1855)には軍用掛に抜擢されたが、翌年門伐派の結城寅寿が死罪に処されると、連座して処罰された。戊午の密勅が下されると、耻叟は激派の対応を批判し、即ち鎮派の態度をとった。安政六年(1859)藩情が逆転したため隠居を命じられ、このとき家督を譲って耻叟と名乗る。謹慎生活はこの後、七年に及んだ。元治元年(1864)の天狗党の乱では諸生党の一員として活躍した。維新により尊攘派が復権し、諸生党が排除されると、一時幽閉され、さらに東北各地を転々とした。茨城裁判所が戊辰脱走の罪を免罪としたのは、明治六年(1873)五月のことである。耻叟は大蔵省、東京府に勤務した後、小石川区長、群馬県立中学校長を経て、東京大学文学部講師となった。歴史書の編纂、著述に尽くした。密勅返納問題や天狗党の挙兵については、武田耕雲斎や山国兵部の行動を評価する立場をとった。


元老院議官正三位勲二等鶴田皓之墓

 鶴田皓(あきら)は佐賀藩出身で、嘉永六年(1853)上京して、安積艮斎、羽倉簡堂の門で学んだ。安政三年(1856)、帰藩して郷学の教諭となった。明治元年(1868)の会津戦争に参加した後、新政府の司法省に勤務。明治五年(1872)には欧州出張を命じられ約一年に渡って留学した。帰朝後、治罪法その他の諸法典の編纂に関わった。東京大学法学部の講師も勤めている。明治二十一年(1888)、五十四歳で没した。


従四位男爵新田俊純之墓

 新田俊純は、自ら新田氏の遺臣と称し、慶応三年(1867)上野の金井之恭、大館謙三郎らと新田勤王党を組織し、その首領に推戴された。事前にことが露見し、党員らは岩鼻に投獄されたが、折しも東山道先鋒総督の東下に遭い、従軍を命じられ、上野戸倉における会津軍追討を担当することになった。維新後は新政府に出仕し、検査寮などに勤務した。長女は井上馨の妻となっている。明治二十七年(1894)六十六歳で死去。


従二位勲一等男爵原田一道墓

 原田一道(いちどう)は、備中国浅口郡西大島村の出身で、父は岡山藩医原田碩斎といった。山田方谷に経書を学び、のちに江戸に出て西洋兵法を研究して特に砲術に通じた。幕府に召されて蕃書調所出役教授手伝となり、文久三年(1863)の遣欧使節団(使節池田長発)に加わって渡欧した。維新後は兵学校御用掛に任じられ、明治二年(1869)に軍務局判事。更に兵学校頭、一等法制官、砲兵会議議長などを歴任した後、明治十四年(1881)には陸軍少将に進んで、東京砲兵工廠長に補された。のち元老院議官、貴族院議員となった。明治四十三年(1910)年八十一で没。


杏雨馬島瑞園墓

馬島瑞園は会津藩士。会津で新選組の土方歳三を治療した医師として知られる。号は杏雨。眼科を父に、内科を杉原外之助に学び、会津藩主松平容保の侍医となる。戊辰宇都宮戦争で足を負傷した新選組の土方歳三が会津の旅館清水屋に到着したときに、近くに住んでいた馬島瑞園が治療した。開城後は因州邸、紀州邸に預けられた。明治四年(1871)大蔵省に勤務。辞職後は書画古銭の鑑定売買で生計を立てたという。大正九年(1920)九十四歳で死去。


正五位間島冬道墓

 間島冬道は、歌人間島正盈の子として名古屋城下に生まれた。尊攘派の志士と交わり、藩主徳川慶勝を助けて国事に奔走した。安政の大獄で慶勝が幽閉されると、同志とともに蟄居謹慎を命じられた。明治後は、湧谷県知事、大宮県知事、名古屋県参事、宇和島県権令などを歴任。官を辞した後は、宮内省御歌所寄人になり、明治六歌仙の一人に数えられる。明治二十三年(1890)六十四歳で死去。

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日暮里 ⅩⅢ

2010年11月14日 | 東京都
(谷中霊園つづき)


故議官従四位松岡時敏墓

 松岡時敏は土佐藩の儒者である。江戸に出て安積艮斎に経史を学んだ。吉田東洋の愛顧を受け山内容堂の侍読となった。山内家編纂の土佐藩史「藩志内篇」の仕事に当たった。維新後徴士となり、学校判事・大史に任じられた。文部省五等出仕、文部大丞、左院ニ等議官等を歴任し、国憲編集に従事した。明治八年(1875)元老院議官。明治十年(1877)六十四歳で死去。


正七位前田元温之墓

 前田元温(げんおん)は薩摩藩の医者。藩命により上京し、そのとき皇居の荒れ果てたのを見て勤王の志を抱いたという。藩主斉興の参勤に従って江戸に出、幕府の医官多紀楽真院に就いて一年間修業した。ついで藩主の命で坪内信道に就いて学び、嘉永二年(1849)には長崎で学んだ。元治元年(1864)上京し、禁門の変の傷病兵の治療にあたった。更に大宰府に赴き、三条実美の侍医となり、慶応三年(1867)末、三条に従って帰京した。鳥羽伏見戦争では英医ウィリスとともに傷病兵の治療を行い、その関係から政府の医事改革に参画し、医学校附属病院、薬園御用取締役を命じられた。西南戦争では警視病院の院長に挙げられ、その後は文部省、警視庁の医事に従事した。明治三十四年(1901)年八十一で没。


楠本正隆之墓

 楠本正隆は大村藩士。藩校五教館の監察となり、慶応元年(1865)には頭取に就いた。諸隊督儀等の要職を歴任すると同時に、渡辺昇らとともに藩論をまとめて三七士の義盟を結んだ。維新後は長崎裁判所権判事兼九州鎮撫使参謀助役に任じられ、外務大丞、新潟県令となって、大いに治績を上げた。内務卿大久保利通から天下随一の県令と激賞された。明治十年(1877)には東京府知事。のち元老院議官、衆議院議長となった。明治三十五年(1902)六十五歳で没。


正五位井関盛艮之墓

 井関盛艮(いぜきもりどめ)は宇和島藩士で、元治元年(1864)伊達宗城とともに滞京し、周旋方として各藩士間を奔走した。さらに主命を受けて徳山、熊本、高知、長崎に使した。維新後は外国事務局判事などのあと、神奈川県知事に任じられた。このとき我が国最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊した。明治四年(1871)以降は宇和島県参事、島根県令など地方官を務めた後、第二十国立銀行取締役や東京株式取引所肝煎頭取など、実業界でも活躍した。明治二十三年(1880)五十八歳で死去。


平山省斎(敬忠)之墓

 平山敬忠(よしただ)は幕臣。省斎は雅号。岩瀬忠震に認められ重用され、安政元年(1854)のペリー再来航の際は、応接に任じられ、安政四年(1857)には日露追加条約の審議に当たった。将軍継嗣問題で一橋派のために働き、そのため安政の大獄で免職、差控に処された。その後、復職すると再び外交の一線に立ち、外国奉行として腕を振るうとともに、徳川慶喜を輔佐するなど幕政の建て直しにも力を注いだ。対薩長強硬派であったため、維新後は官途に就かず、神道家として氷川神社宮司、日枝神社祀官などを勤めた。明治二十三年(1890)年七十六で死去。


岡内男爵家之墓誌
(岡内俊太郎の墓)

 岡内俊太郎は土佐藩士。土佐藩の横目役を務め、慶応三年(1867)には、長崎でいわゆるイカルス号事件の無罪獲得のために坂本龍馬や海援隊士と尽力した。同年九月には武力討幕に備え、土佐藩に新式銃を搬入し、上京後は藩邸を拠点に後藤象二郎と大政奉還成立を画策した。大正四年(1915)七十四歳で死去。谷中霊園の墓地は合葬墓で、隣に俊太郎の事績を記した墓誌が建てられている。


山本家之墓
(山本速夫の墓)

 山本速夫は、吉田藩士亀井六五左衛門の子として生まれた。文久三年(1863)、禁門の変の直前に脱藩し、国事に奔走することになった。慶応三年(1867)十二月、侍従鷲尾隆聚が高野山に兵を挙げると、山本速夫も東三番隊長として参加した。維新以降は新政府に出仕して、三河裁判所や鉱山司知事などを務めた後、明治六年(1873)からは宮内省に転じて東伏見、山階、華頂三宮の家令を兼ねた。翌明治七年(1874)年五十で病没。


小永井家之墓
(小永井小舟の墓)

 小永井小舟は幕臣で、若くして江戸で野田笛浦、古賀茶渓、羽倉簡堂らに学んだ。万延元年(1860)遣米使節団の一員として渡航した。維新後は文部省に出仕。晩年は浅草に濠西塾を開いて諸生に教授した。明治二十一年(1888)、六十歳で死去。

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日暮里 ⅩⅡ

2010年11月14日 | 東京都
(谷中霊園)


瀬木家之墓
(瀬木博尚の墓)

 瀬木博尚は、大手広告代理店博報堂の創始者である。瀬木は富山藩の出身で、戊辰戦争では官軍に属して越後に転戦した。明治二十八年(1895)に東京日本橋に広告取次店博報堂を開設した。社名は瀬木の経営理念である「博く、華客に奉仕報酬する」に由来している。


米倉一平之墓

 米倉一平は豊後日田の米穀商。勤王を唱えて捕えられたが、京へ逃れて親交のあった西郷隆盛の旅宿に匿われた。翌年、鳥羽伏見戦争で功績があった。維新後は一時松方正義の下で日田県殖産掛となったが、清国へ外遊後、実業家として活躍。東京米穀取引所を開設する等、米穀取引界の重鎮として取引所理事などを務めた。明治三十七年(1904)死去。七十四歳。


杉浦譲墓表(左)

 杉浦譲は幕臣。壮年時代は武を好み剣道を能くし、大橋訥庵について文学を修め、横山湖山、大沼枕山に詩を学んだ。文久二年(1862)に目付。慶応二年(1866)に箱館奉行に就いて、明治を迎えた。明治二年(1869)、外務省に出仕し、ついで開拓権判官に任じられて再び函館に勤務することになった。資性温順、人望が厚く、専ら函館支庁を担当し、地域の発展に尽くした。明治十年(1877)職を辞した。明治三十三年(1900)年七十五で没。


外山氏累代之墓

 外山正一の墓である。蕃書調所で箕作麟祥らに英語を学び、十六歳という若さで開成所の教授となった。のちに幕府によってイギリス留学に派遣された。維新後は徳川家の静岡移住に従って、駿府府中に赴いて静岡学校の英語部長に就いた。明治三年(1870)以降、外務省に出仕したが、東京帝国大学の教授になり、明治三十年(1897)には東京帝国大学総長。明治三十三年(1900)伊藤博文内閣の文部大臣になった。


奥宮正由之墓
(奥宮慥斎の墓)

 奥宮慥斎(諱は正由)は、土佐藩の藩校致道館教授、儒者である。儒学を岡本寧甫、国書、和歌を田内菜園に学んだ。のちに江戸に出て佐藤一斎に陽明学を学んだ。帰国後、山内容堂の詩作の相手をした。同時に勤王党志士と交わり、援助した。維新後は東京に出て一時教部省に出仕。門下に中江兆民が出た。古沢滋の起草した民選議員設立建白書を修正潤色したことでも知られる。明治十五年(1882)年六十五で死去。


伊東貫斎孺人墓

 伊東貫斎は、伊東玄朴の養子にして幕府奥医師。若くして江戸、長崎で蘭学を学び、弘化二年(1845)、緒方洪庵の門下生となる。二十八歳のとき伊東玄朴の女婿となった。安政二年(1855)、和歌山藩に召し出され、寄合医師となった。安政四年(1867)にハリスが米国領事として下田に駐屯した折、ハリスの病を治したことで名を挙げ、幕府の奥医師に登用された。明治七年(1874)の征台の役では兵士の治療にあたった。明治二十六年(1893)六十八歳で死去。


横尾東作之墓

 横尾東作は、医者の家に生まれ、十六歳のとき仙台に出て、二十三歳で江戸に出て林学斎に学んだ。二十七歳で藩命により横浜在住の米人宣教師ジェームズ・ブラオンについて英学を修めた。戊辰戦争の際、参政芦名盛景に従って新潟に出向き、さらに奥羽越列藩同盟が各国公使に檄文を送るにあたり、横浜に潜行するなどした。維新後は、早稲田に北門社、郷里に辛未館を起こし英学を講じた。晩年には南洋貿易を計画したが果たせず、明治三十六年(1903)、六十五歳で没した。


従五位丹羽賢之墓

 丹羽賢(まさる)は尾張藩士で、元治元年(1864)征長軍に従軍。明治元年(1868)単身で二条城の無血接収を果たした。以後、尾張藩の藩校の学制を改革し、英・仏・華語の普及を図った。明治二年(1869)名古屋藩権大参事を皮切りに、安濃津県参事、三重県権令、司法少丞兼権大検事、五等判事等を歴任したが、明治十一年(1878)三十三歳で死去した。


従二位勲二等春木義彰之墓

 春木義彰は大和の出身。元治元年(1864)より尊攘活動に挺身し、慶応三年(1867)十二月には鷲尾隆聚(たかつむ)の高野山挙兵にも参加して、軍資金の調達や京阪の情報収集にあたった。翌年一月の鳥羽伏見の戦いでは紀見伊峠警備の兵と戦い、のちに錦旗奉行、兵糧奉行に任じられた。さらに奥羽追討軍随従を命じられて白河口軍務応接掛兼書記を務める。維新後は検事総長などを歴任した。明治三十七年(1904)五十九歳で死去。

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日暮里 ⅩⅠ

2010年11月14日 | 東京都
 小春日和の休日、陽気に誘われるように全生庵から谷中霊園を歩いた。驚いたことに、ガイドが団体を引き連れてこの辺りの有名人の墓を巡るツアーが何組も目の前を通り過ぎた。新聞で掃苔がちょっとしたブームになっているという記事を読んだことがあったが、それを目のあたりにすることになった。しかし、どうせ墓地巡りをするのであれば、ガイドに頼らず自分で調べて歩く方がずっと楽しいと思うのだが…。

(全生庵)
 山岡鉄舟の墓のそばには生前親交が深かった落語家三遊亭円朝の墓がある。墓石の文字は山岡鉄舟の筆である。


三遊亭円朝無舌居士

 落語家円朝は天保十年(1839)に生まれ、十七歳のとき円朝と改名。多数の新作を生みだし、東京落語全盛期を現出した。山岡鉄舟と親交が深く、墓の文字は鉄舟の筆による。円朝は明治三十三年(1900)六十二歳で世を去ったが、そのとき既に鉄舟は鬼籍にあった。


孤松院安息養氣不隣居士
(松岡萬の墓)

 松岡萬(「よろず」または「つもる」とも)の墓である。松岡萬は、旗本の家に生まれ、幕臣でありながら、熱心な尊王攘夷論者であった。清河八郎の主催する「虎尾の会」に加わり、山岡鉄舟、村上俊五郎、石坂周造らと親交を深めた。文久三年(1863)清河八郎の提案で浪士組が結成されると、取締役に抜擢されている。維新後、徳川家が駿府に移封されると、静岡に移住。明治二十四年(1891)五十四歳にて逝去。


村上家之墓
(村上俊五郎の墓)

 村上俊五郎は阿波美馬の出身。やはり清河八郎の虎尾の会に加わり、浪士組結成にも参加した。明治三十四年(1901)、六十八歳にて死去。


千葉立造の墓

 千葉立造は、陸前糟川出身の医師。山岡鉄舟の知遇を得て、ともに全生庵を建立。鉄舟の侍医でもあり、最期を看取った。大正十五年(1926)八十三歳で死去。


依田雄太郎/鈴木常太郎/同 豊次郎/笠原八雲/木村久之丞/清水武二郎
(原市之進暗殺者の墓)

 徳川慶喜の側近原市之進暗殺者六名の墓碑である。山岡鉄舟の墓域の向かって左側に建てられているが、膝丈くらいの小さなものでうっかりすると見逃してしまいそうである。
 尊王攘夷論者の期待を集めて将軍に就任した徳川慶喜が、一転して兵庫開港に傾いたのは側近である原市之進の進言によるものだという虚言が流れ、慶応三年(1867)八月、京都二条の官舎で暗殺された。下手人として挙げられた依田雄太郎、鈴木常太郎はいずれも幕臣であった。彼らの墓が全生庵にある理由は定かではないが、一説に山岡鉄舟が暗殺を使嗾したともいわれる。


山岡鉄舟居士之賛碑

 鉄舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年(1890)に建てられたものである。山岡鉄舟居士之賛碑の題字は有栖川熾仁親王。碑文は勝海舟の書による。


伴士徳君墓表
(伴門五郎墓表)

 伴門五郎は幕臣。士徳は伴門五郎の字名。彰義隊結成時の幹部の一人で、副頭取に就任した。上野戦争において三十歳という若さで戦死した。


和田三兵衛顕彰碑


三遊亭圓朝翁碑

 全生庵正門付近には石碑が建てられているが、いずれも興味不深いものばかりである。三遊亭圓朝翁碑は、明治三十九年(1906)円朝七回忌を記念して建立されたもので、生前親交の深かった井上馨の書である。井上の号である世外という文字が刻まれている。

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目白

2010年11月08日 | 東京都
(学習院大学)
 学習院という校名は、もともと弘化四年(1847)に公家の教育機関として発足した学習所がその機縁となっている。京都の学習院は明治三年(1870)に終焉を告げるが、明治十年(1877)に東京に開校された華族学校に、往時を懐かしんだ明治天皇から「学習院」という名称が贈られた。


乃木館

 学習院大学の正門(または西門)で来意を告げると、見学者用に構内地図を渡される。この地図を片手に学習院大学を探索する。
 乃木館(旧総寮部)は明治四十一年(1908)竣工。第十代の学習院長を務めた乃木希典が起居した建物を移築したものである。乃木希典は、寄宿生を監視するために総寮部内の一室に起臥して寝食をともにした。現在は学生の部活動に利用されている。


御榊壇

 榊壇は、明治四十二年(1909)明治天皇の学習院行幸を記念して、その翌年乃木希典が私費を投じてものである。中央には天覧榊が植えられ、周囲は八十個の石で前方後円墳風に石垣が築かれている。


青木義比歌碑

 青木義比は幕末の旗本。彼が好んで逍遥した富士見台に歌碑が建てられた。以下、二首の歌が刻まれている。

夏月涼 かくはかり すずしきよはの 月かけよ しはしささへよ にはのまつかえ (鶴山)
山家夏 世のうさの みちもはなれて やまさとの なつのゆふへは すずしかりけり (義比)

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江戸川橋 Ⅱ

2010年11月08日 | 東京都
(蕉雨園)
 蕉雨園は、明治三十年(1897)当時の宮内大臣田中光顕が開設した邸宅である。邸内には芭蕉ゆかりの芭蕉庵などがあるが、基本的には非公開。


蕉雨園

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早稲田 Ⅱ

2010年11月07日 | 東京都
(玄国寺)


玄国寺


玄国寺書院(旧岩倉具視邸)

 高田馬場近くの玄国寺は、開基承和年間(834~847)という古刹である。書院は岩倉具視の旧邸を移築したものである。もとは馬場先門付近にあったもので、病の床にある岩倉を明治天皇が見舞ったという言われのある建物である。

(宗参寺)


宗参寺


月海院殿瑚光浄珊居士墓
(山鹿素行の墓)

 早稲田大学近くにある宗参寺には、山鹿素行の墓があり、そのそばに乃木希典の死後、乃木邸から移植されたという梅の木がある。


乃木将軍遺愛の梅「春日野」


山高氏之墓

 山鹿家の墓域の一段高い場所に山高信離(のぶつら)の墓がある。山高信離は幕臣で、慶応二年(1866)には徳川昭武に随行してパリ博覧会に参列した。明治元年(1868)五月に帰国したときには幕府は瓦解した後であった。維新後は大蔵省、内務省に出仕し、米国博覧会事務局事務官や内国勧業博覧会事務局用掛を務めた。明治二一年(1888)には博物館長に任じられた。明治四十年(1907)死去。年六十六。

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