史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ペリー提督 海洋人の肖像」 小島敦夫著 講談社現代新書

2022年06月25日 | 書評

ようやくコロナ感染も減少傾向となり、街も日常を取り戻しつつある。個人的には先日三年振りに海外出張に行けたし、二年振りに帰省して両親と会食することもできた。新橋駅前でも、数年振りに古本市が開催された。連日、古本市に通いつめ、三冊の古本を入手した。そのうちの一冊である。

本書は、今から十七年前の平成十七年(2005)に刊行された新書である。今では本屋の店頭で購入することは困難であるが、今なお価値のある一冊だと思う。

黒船を率いたペリーが日本を開国に導いたことは良く知られている。ペリー以前にも外国から使節が何度も日本を訪れたが、固く閉ざされた扉を開くことはできなかった。何故、ペリーがそれを成し遂げることができたのか。

日本の開国は、ペリーの綿密な準備と、その上に構築された戦術の成果といえる。彼は三万ドルもの大金を費やして、シーボルトの「ニッポンに関する記録集」(1832)を初めとして、日本について書かれた文書や書籍を収集した。

その結果、日本の歴史と鎖国政策の由来、天皇制と政府、行政組織、宗教、国際関係の歴史、産業、技術、科学、民族、産物、資源、文学、芸術といった、あるとあらゆる分野に精通するに至った。

彼の対日戦略は、決して場当たり的ではなく、極めて周到、冷静な分析の上に、練りに練られたものであった。

  • できるだけ多くの隻数の艦隊を率いて日本人に恐怖心を起こさせる。
  • さかんに測量作業を行い、砲門を開いて威嚇し、日本に混乱を生じさせる。
  • ペリー自身は、幕府の閣僚級の者としか会わない。大統領の親書は、小役人などには渡さない。
  • 米国の最高水準の文物や、科学技術の結晶である工業製品を持参。記録掛から料理人に至るまで人物を重視し、精神的な交流を持ち掛ける。

日本の開国という誰も成しえなかった成果を持ち帰ったペリーに対し、米国内で「砲艦外交」とする批判があったのも事実である。日本国内でもペリーの高圧的な姿勢に大きな反発があった。しかし、それまでの使節は友好的に日本にアプローチした結果、悉く日本から「追い払われた」。それを考えれば、ペリーのとった手法は唯一無二の方法だったのかもしれない。

海洋ジャーナリストという肩書を持つ筆者は、単にペリーの経歴を追うだけではなく、彼のゆかりの土地を自ら訪問し、しかも一般人ではなかなか進入できないような場所まで足を運んでいる。「あとがき」によれば、自ら操船する外洋帆走クルーザーで、ペリー艦隊が立ち寄った日本の七つの港と米国の四つの港をはじめ、艦隊と同じ錨地に停泊する体験を試みたという。筆者が訪れた港は、米国ではニューポート、ボストン、ニューベッドフォード、ニューロンドン、ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、ノーフォーク、アナポリス。日本では、那覇、泊(沖縄)、二見(小笠原)、下田、久里浜、浦賀、田浦(横須賀)、横浜、箱館。ほかにコロンボ、シンガポール、香港、マカオ、上海に及んでいる。私も那覇、小笠原、久里浜のペリー上陸の地碑を踏破した。なかなかこの三ヶ所を全て訪問した人はいないだろうし、このことは密かな自慢であるが、筆者のペリー愛はそれを遥かに上回っている。その偏執的ともいえる情熱には脱帽するしかない。

本書のルポルタージュでもっとも注目すべきは、ペリーの生誕地であるニューポートである。ニューポートでは、ペリーの生家、ペリーの兄、オリバーの像、ペリーの像のほか、ペリーが洗礼を受けたトリニティ教会、そしてペリーが改葬されたアイランド墓地などを見ることができる。いつかニューポートを旅してみたいという夢が膨らんだ。

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「徳川最後の西国代官」 西澤隆治著 叢文社

2022年06月25日 | 書評

先のGWでは、六日をかけて大分県、宮崎県の史跡を巡った。改めて九州の史跡の多様さと独自性を認識した。また旅の中で未知の人物に触れることができ、その意味でも有意義な旅となった。

「知られざる人物」の代表例が、本書で取り上げられている窪田治部右衛門である。歴史の教科書にも出てこないし、小説で登場することも少ない。大方の人にとって「誰それ?」という存在であろう。窪田治部右衛門のことを詳しく知りたいと思い、旅から戻って早速ネットでこの本の存在を知り、手に入れた。

「代官」というと、テレビドラマでは決まって民を虐げ、私服を肥やす「悪代官」が定番である。そういう悪代官もいたのかもしれないが、基本的には幕府は相応に優秀な人物を代官に登用していた。そうでないと、現実問題として世の中が治まらないだろう。

天誅組に襲撃されて首をさらされた五条代官所の鈴木源内も、幕府を倒した勤王派から見れば、「悪代官」の典型のように仕立てられているが、実際には善政をひいて領民には慕われていたという。

先日読破した「花山院隊「偽官軍」事件」(長野浩典著 弦書房)は、どちらかというと、花山院隊から描いたものであるが、彼らからずれば窪田治部右衛門は、不俱戴天の仇である。日田を明け渡して姿を消した治部右衛門は「逃亡した」という取り上げ方になっている。本書では、同じシーンは「退去」と表現されている。筆者は、日田の街を戦火から守った治部右衛門の功績は江戸の無血開城に匹敵すると賞賛している。同じ事象、同じ歴史的史実であっても、表現一つで印象ががらりと変わるのである。

治部右衛門は、実父江口秀種が柔術師範だったこともあり、若い頃から武術に親しんだ。江口秀種は肥後藩士であったが、その姉は内藤吉兵衛歳由に嫁いだ。内藤の子に川路聖謨、井上正直兄弟がいる。つまり、治部右衛門は川路、井上兄弟と従兄弟という関係にある。

治部右衛門は、もともと肥後藩士の出身で、幕臣窪田家を継いで旗本に列したが、浪士取締役や神奈川奉行所定番役頭取取締を経て西国郡代に抜擢された。異例の出世の背景には、無論当人の能力の高さもあっただろうが、川路聖謨の強い引きがあったことが想像される。川路はこの年下の従弟を買っていただろうし、治部右衛門も川路を慕っていた。幕府への忠誠心の篤さも川路譲りのものがあった。

元来武力を持たない西国代官であったが、彼は農兵を組織し、武装させた。制勝隊と名付けられた部隊は、結果的に武力を行使する場面は訪れなかったが、治部右衛門のリーダーシップを物語る一例であろう。

維新後は静岡に移住し、明治政府に仕えることはなかった。静岡の万象寺に、鳥羽伏見で戦死した息窪田泉太郎と並んで墓が建てられている。

まさに知られざる人物であるが、もっと注目されてよいと思う。

 

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名古屋 Ⅵ

2022年06月18日 | 愛知県

(興正寺つづき)

 

普門院殿松誉雙天浄六大居士墓

(間宮六郎の墓)

 

 前日は一年半ぶりに京都に帰省した。両親と実家近所の中華の店で夕食をとった後、翌日の亀山出張に備えて名古屋まで戻って駅前のビジネスホテルに泊まった。翌朝、地下鉄の始発で八事まで行って、御幸山や興正寺周辺の史跡を訪ねた。

 興正寺では間宮六郎の墓を探し当てた。間宮六郎は、天保二年(1831)の生まれ。父は間宮延太郎正統。十二歳で家を継ぎ、弘化四年(1847)、用人。嘉永三年(1850)、大番頭。万延元年(1860)、年寄列。元治元年(1864)、征長軍先鋒隊長、慶応元年(1865)、年寄加判となった。第二次征長軍にも前藩主徳川玄同(茂徳)に従い大阪に出陣。慶應四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いの時には、名古屋で幼藩主義宣の側に起居し、動揺する藩論の中で佐幕派を抑え、前々藩主慶勝の帰名を待って佐幕派断罪を首唱した。美濃太田へ出陣。明治二年(1869)には東方総管として農兵隊を編成し、同年名古屋藩権大参事となった。廃藩置県で退官し、尾張徳川家の顧問となった。明治三十五年(1902)、年七十二で没。

 

牧山佐藤先生碑

 

 広い興正寺の境内でも北東部にあたる。大日堂や善聚庵のある敷地のさらに東側に石碑が並べられている。その中に佐藤牧山の碑がある。

 佐藤牧山は、享和元年(1801)の生まれ。初め、鷲津松隠の有隣舎に学び、のち名古屋の河村乾堂の教えをうけ、十九歳のとき江戸に出て昌平黌に入った。二十五歳にして駒込で諸生を教授した。のち尾張藩より儒官に登用され、明治二年(1869)には藩校明倫堂の督学となった。藩校廃止後、名古屋大津町で諸生を教えたが、聴講する者が極めて多かったという。晩年、東京に移り、斯文学会の講師となった。門人には近藤真琴、石川素童、川口江東、鈴木鹿山らが出ている。明治二十四年(1891)、年九十一で没。

 

柳本家累代之墓(柳本直太郎の墓)

 

 次いで、神葬墓地に移って、柳本直太郎の墓を探した。

 柳本直太郎は、嘉永元年(1848)の生まれ。福井藩士。小坊主三人扶持という極めて微禄であったが、その才が認められ、文久元年(1861)三月、英語の学習を命じられた。文久二年(1862)、蕃書調所に入り、慶応元年(1865)、横浜で外人相手に英語の修行を命じられ、慶応三年(1867)四月にはアメリカへ留学した。足軽の身で洋行したのは稀であった。明治になって華頂宮博経親王の在米留学中の世話役を勤め、帰朝後は文部省に入って東京外国語学校長となった。明治二十七年(1894)から明治三十年(1897)まで、第三代名古屋市長をつとめた。大正二年(1913)、年六十六歳で没。

 

(西光院)

 

西光院

 

拙斎長谷川敬之墓(長谷川惣蔵の墓)

 

 西光院には長谷川惣蔵の墓がある。

 長谷川惣蔵は、文化五年(1808)の生まれ。惣蔵は通称。諱は敬、雅号に拙斎、是風。尾張藩主徳川慶勝が支封高須家の世子であったときから補導に努めた。慶勝の本家相続に従い、名古屋に移り藩政改革に努力した。安政元年(1854)、皇居造営の斎、宮城拡張に奔走した。安政五年(1858)、慶勝幽閉に在して永蟄居。文久二年(1862)、赦されて慶勝に随従して上京し、公武合体に活躍した。征長の役には征長総督慶勝を助けて軍務をみ、役後、千賀信立とともに彼の使者として幕府に復命した。用人並、勘定奉行を歴任。慶應四年(1868)三月、退隠後は子弟の教導にあたった。明治十九年(1886)、年七十九で没。

 

(御幸山公園)

 

御幸山公園

 

 地下鉄八事駅の南東方向の住宅街には、その名も「御幸山」という町名が今も引き継がれている。天白区御幸山の御幸山公園は、一見するとどこにでもある平凡な公園であるが、入口に「明治天皇八事御野立所」という石碑が建てられている。明治二十三年(1890)の陸海軍連合大演習の際の明治天皇の滞在跡である。それまで音聞山と呼ばれていたのが、これを契機に御幸山と改められた。現在、この周辺は高級住宅街となっている。

 

明治天皇八事御野立所

 

御統監之所

 

 同じ公園内にある御統監之所碑は、大正天皇がやはり軍の演習を統監したことを記念したものである。

 

 

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鳥羽

2022年06月18日 | 三重県

(鳥羽城跡)

 伊勢市から鳥羽まで電車で十五分。途中に伊勢志摩観光の定番である夫婦岩のある二見浦を通る。五十年前の小学校の修学旅行のことが懐かしく思い出された。たかだか一泊二日の旅行であったが、何故あれほど楽しかったのだろう。

 鳥羽駅前の鳥羽一番旅コンセルジュで自転車を貸し出している。迷わず電動自転車を選んだ。

 

鳥羽城跡

 

 鳥羽は、戦国時代水軍の大将九鬼氏の拠点であった。九鬼氏は織田信長が天下統一を目指す過程で、長島の一向一揆や石山本願寺との戦いにおいて戦功があり、鳥羽の地を賜った。豊臣秀吉にも仕えて、志摩三万五千石を拝領した。文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも船団を率いて参陣した。

 

鳥羽城本丸跡

 

 鳥羽城は、九鬼嘉隆により文禄三年(1594)に竣工した。海に面した標高四十メートルの小山に築かれた平山城で、本丸跡から鳥羽湾が一望できる。

 

 本丸跡付近に鷹羽龍年の鳥羽城詩碑が建てられている。詩碑には、鳥羽藩校尚志館の教授であった鷹羽龍年が詠んだ漢詩が刻まれている。石碑は、明治四十年(1907)三月に建立されたもので、城跡から鳥羽湾の眺望を讃える内容となっている。

 鷹羽龍年は、寛政八年(1796)に伊勢山田に生まれ、十四歳で江戸に出て、遊学して詩文を学んだ。のちに鳥羽藩主稲垣長明に招かれて、尚志館の講師となった。門下に有馬百鞭、松田南溟、近藤真琴らがいる。慶應二年(1866)、七十一歳で没した。

 

本丸跡から臨む鳥羽湾

 

鳥羽城詩碑

 

 九鬼氏が御家騒動により国替えとなった後、寛永十年(1633)には譜代である内藤氏が鳥羽城主となったが、その内藤氏も江戸で殺傷事件を起こして領地を没収され、一時幕府の直轄地となったが、土井、松平(大給)、板倉、戸田(松平)と続いた。享保十年(1725)、稲垣氏が封じられ、ようやく安定し、幕末まで続いた。

 明治二年(1869)の版籍奉還により城地は官有地となり、明治四年(1871)、城郭、城門、櫓等は全て取り壊された。

 

鳥羽城三ノ丸

 

(常安寺)

 

常安寺

 

 常安寺書院は明治十年(1877)一月二十六日、明治天皇の行在所となった。

 

明治天皇鳥羽行在所

 

 門前に二基の記念碑がある。「記念碑」の文字を書いたのは、東郷平八郎である。東郷が鳥羽小学校で墨書した際の写真も残されているという。

 

明治天皇鳥羽行在所 英照皇太后御泊所

記念碑

 

(妙性寺)

 

妙性寺

 

従七位有馬百鞭墓

 

 妙性寺には有馬百鞭(ひゃくべん)の墓がある。

 有馬百鞭は、天保六年(1835)の生まれ。詩を鷹羽龍年(雲淙)に学び、藩命によって久居藩の高井氏、江戸の窪田助太郎に山鹿流兵法を学び、安政五年(1858)、帰藩。同年五月、鳥羽藩校尚志館の句読師となり、のち侍講となった。征長のため大阪に一年余り留まる間位に、魚住荊石、田能村直入に画を学び、鳥羽随風上人、松田雲柯に書を習い、書画で一家を成した。維新後鳥羽藩の権大属に任じられ、のち常安寺に私塾日新校を開き、明治八年(1875)、神宮主典を経て権禰宜となった。明治三十九年(1906)、年七十二にて没。

 

(扇野)

 

扇野

 

 常安寺の門前の坂道をのぼっていくと、旅館扇芳閣に行き着く。さらに坂を上ると、金刀比羅宮鳥羽分社の手前に扇野の鐘と名付けられた鐘のある公園がある。

 その一角に明治天皇の御製碑が建てられている。

 

 浦風もあら礒波も今朝凪ぎて

 かもめたちたつ鳥羽の海つら

 

御製碑近くから鳥羽湾を臨む

 

明治天皇歌碑

 

 書は山縣有朋。明治十年(1877)一月二十六日、明治天皇が横浜港から神戸に向かって出航したが、暴風雨のため急遽、鳥羽佐田浜沖に入港し、常安寺に宿泊した後、鳥羽港を翌日出航した。その際、美しい鳥羽の海でカモメが群れ飛ぶ姿を詠んだ歌である。

 この記念碑は、大正十年(1921)、常安寺近傍の樋の山に建設されたが、後に常安寺道路脇から平成十四年(2002)、現在地に移転されたものである。

 

 

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伊勢

2022年06月18日 | 三重県

 小学校の修学旅行以来の伊勢である。実に五十年振りの訪問となった。伊勢市駅前の手荷物預り所でレンタサイクルを貸し出している。限られた時間で目的地を走破することを考えて、電動自転車を選んだ。今北山墓地では、急な坂を昇ることになったので、電動自転車を選んで正解であった。天気も良く快適なサイクリングであった。

 

(大豐和紙工業㈱)

 

神宮御用紙製造場

 

御師龍太夫宅跡

 

 明治天皇が初めて伊勢神宮(外宮・内宮)を参拝し、王政復古を報告し、国運の発展を祈願したのが明治二年(1869)三月のことであった。三月九日、鈴鹿峠を越えて三重県域に入った天皇は、窪田を経て津へ進み、伊勢街道に入ると、松坂行在所に到着した。三月十一日、斎宮・小俣。宮川を経て伊勢に入った。

 現・大豐(おおとよ)和紙工業株式会社の敷地は、江戸時代、伊勢神宮の参詣者を神宮に案内し、宿泊などの世話をする「御師」の龍太夫宅であった。明治天皇が当地に滞在したのは、明治十三年(1880)七月七日から九日までの二泊であった。

 

伊勢和紙館

 

 龍太夫の宅跡地を引き継いだ大豐和紙工業は、神宮大麻の御用紙を奉製するとともに、「伊勢和紙館」や「伊勢和紙ギャラリー」を設け、和紙文化の保存と継承に努めている。

 

明治天皇行在所遺址

 

明治天皇宇治山田行在所跡

 

明治天皇御料 龍の井碑

 

 左は創立二十年、工場拡張記念碑。

 

(二軒茶屋餅角屋本店)

 

二軒茶屋餅 角屋本店

 

 江戸時代、関東からの参宮道者(どうしゃ)は、伊勢街道を通り、関西からの道者は、伊勢本街道を通って参宮した。一方、志摩、尾張、三河、遠江、駿河などからは船で参宮することが多かった。船道者は、勢田川水域に入ると、太鼓や笛、鉦で囃しながら、景気よく繰り込んできて、二軒茶屋などに上陸した。

二軒茶屋というのは、角屋(かどや)とその東にあった湊屋(うどんとすし)と呼ばれる二軒の茶屋があったことに由来する。二軒茶屋餅角屋(かどや)は、天正三年(1575)の創業という老舗である。

 明治五年(1872)五月二十五日、明治天皇は当地から上陸して伊勢神宮に参拝した。そのことを記念して、大正四年(1915)に石碑が建てられた。明治天皇に供奉した中には、新政府参議西郷隆盛がいた。

 

明治天皇御上陸地記念碑

 

二軒茶屋旧船着場

 

(足代弘訓旧邸跡)

 

國學者足代弘訓之邸跡

 

 足代弘訓(あじろひろのり)は、天明四年(1784)の生まれ。足代家は世々伊勢外宮の禰宜で、幼少より荒木田久老、本居春庭、本居大平らに従学して国学を修め、ついで京都・江戸に遊学して林衝、塙保己一、上田秋成らと交わり、歌学、律令、有職故実に通じた。天保飢饉の際には、私財を投じて窮民を救った。また大阪在住時には、敬神憂国の志厚く、大塩平八郎とも親交があった。天保八年(1837)の大塩の乱の時には、当局に取り調べを受けた。晩年、外交問題を憂えて志士と交わり、門人に尊王憂国の思想を説いた。門下からは、松浦武四郎、佐々木弘綱、世古延世、御巫清直らを輩出した。本居系国学者の中でも独自の地位を占めている。

 

(国学者足代弘訓翁墳墓地)

 

國學者足代弘訓翁墳墓地

 

正四位上度会弘訓神主墓(足代弘訓の墓)

 

 足代弘訓が亡くなったのは、安政三年(1856)のことであった。年七十三。

 足代家の墓所は、伊勢市駅のすぐ北側にある。周囲は住宅地や駐車場となっているので、何だか取り残されたような空間である。施錠されているため中には入ることはできないが、塀越しに写真を撮ることは可能である。

 弘訓の墓石には、本姓である「度会(わたらい)」が刻まれている。

 

(神宮道場)

 

神宮道場

 

 神宮道場(旧・神宮司庁)には、明治三十八年(1905)十一月十五日から十七日の二泊、明治天皇が滞在している。

 内宮城内に現在の神宮司庁舎が設けられると、行在所となった旧庁舎は、神職の養成ならびに研修を行う神宮道場となった。

 神宮道場は、伊勢神宮内宮に通じる「おはらい町通り」沿いにある。ここまで来れば、伊勢神宮は目の前である。五十年振りの参詣に心が動いたが、今回は伊勢神宮より今北山墓地を優先して、ここで折り返した。伊勢神宮参拝は次の機会にとっておくこととする。

 

(今北山墓地)

 今北山墓地の入口が見つからず、付近を走り回ることになった。結局、墓地西側の住宅街の急な坂を上って、墓地の一番高いところから入った。あとから分かったことであるが、墓地の南東に入口があり、そこからであれば普通にアクセスすることができる。お陰で頭からバケツをかぶったように汗びっしょりになってしまった。

 墓地入口を上ったところに浦田長民の顕彰碑が建てられている。

 

浦田長民君碑

 

 浦田長民は天保十一年(1840)の生まれ。鷹羽龍年、斎藤拙堂に詩を学び、尊王を志し、安政四年(1857)、内宮権禰宜、清酒作大内人となった。二十歳にして宇治年寄を兼ねた。文久年間、尊王攘夷論がさかんとなり、江戸、京に出て志士と交わり、三条実美らと通じ、水戸、肥前、肥後などの浪人をかくまい、文久三年(1863)の天誅組に気脈を通じ、翌元治元年(1864)八月、幕府の怒りに触れ山田奉行に捕らえられ禁固された。慶應三年(1867)八月、赦され。明治元年(1868)には度会府御用掛、神祇並学校曹長、市政曹長、翌明治二年(1869)九月、度会県少参事となり、のち神宮大丞、神宮少宮司などになり「明治祭式」を著わし、神嘗祭の儀式などを定めた。のち東京府および宮内省御用掛、控訴裁判所判事、度会郡長、さらに鈴鹿・奄芸・河曲などの郡長となった。明治二十六年(1893)年五十四にて没。

 

浦田長民墓

 

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箱根 環翠楼

2022年06月11日 | 神奈川県

(塔ノ沢温泉 環翠楼)

 環翠楼は、慶長十九年(1614)に湯治場として開業したという長い歴史を持つ旅館である。当時は「元湯」という名称であった。

 

環翠楼(伊藤博文書)

 

 この旅館が「環翠楼」と名付けられたのは、明治二十三年(1890)、伊藤博文が登楼した際のことである。玄関左手に伊藤博文の手による「環翠楼」の書が掲げられている。

 

不憂不惑不懼(犬養毅書)

 

環翠楼(長三洲書)

 

勝驪山

 

 環翠楼の由来となったのは、伊藤博文が当時の楼主に与えた漢詩が出典となっている。

 

 勝驪山下翠雲隅 環翠楼頭翠色開

 来倚翠欄旦呼酒 翠巒影落掌中杯

 

 明治二十四年(1891)には、ロシア皇太子ニコライが斬り付けられる大津事件が発生したが、その一報を伊藤博文は環翠楼での宴の最中に受け取ったという。

 

凾山才一楼(渡辺千秋書)

 

皇女和宮様(静寛院宮様)遺品

 

静寛院宮五十年忌辰記念碑

 

静寛院宮に奉る歌の碑

 

 中庭には静寛院宮五十年忌辰記念碑と静寛院宮に奉る歌の碑がある。五十年忌辰記念碑は、大正十五年(1926)の建碑。阪谷芳郎の撰文、増上寺大僧正道重信教の篆額。

 歌碑には、勝海舟の歌が刻まれている。

 

 月影のかゝるはしとも 

 しらすしてよをいとやすく

 ゆく人やたれ

明治丁丑のとし晩秋応乞 勝安芳書

 

早川

 

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箱根 Ⅵ

2022年06月11日 | 神奈川県

(エクシブ箱根離宮)

 

明治天皇駐蹕記念之碑

 

 宮ノ下地区のエクシブ箱根離宮の前に明治天皇駐蹕記念之碑がある。この場所は、明治六年(1873)、行幸の際行在所となった奈良屋旅館の跡地である。

 

(芦ノ湯)

 芦ノ湯温泉の「きのくにや旅館」の向かい側に明治大帝御駐輦之所碑がある。明治天皇が当地に滞在したのは、明治六年(1873)のことである。

 

明治大帝御駐輦之所

 

(大涌谷)

 

大涌谷

 

 かつて「地獄谷」「大地獄」と呼ばれていたが、明治六年(1873)八月五日の明治天皇、昭憲皇太后の訪問を前に、「陛下を地獄にお連れするわけにいかない」という理由から「大涌谷」と改称された。

 大涌谷といえば、黒たまごが有名。五個で五百円。

 

(松坂屋旅館)

 元箱根の松坂屋旅館の前の駐車場に明治天皇 昭憲皇太后御駐輦之趾碑がある。滞在したのは明治六年(1873)八月二十日のことである。

 

明治天皇 昭憲皇太后御駐輦之趾

 

(箱根神社つづき)

 

箱根神社 平和の鳥居

 

明治天皇御製

 

 わが国は神のすゑなり神祭る

 昔の手ぶり忘るなよゆめ

 

明治天皇 昭憲皇太后御野立跡

 

 芦ノ湖を臨む神社通り沿いに大鳥居付近に明治天皇 昭憲皇太后御野立跡碑がある。やはり明治六年(1873)八月二十日の行幸を記念したもので、明治天皇は当地にて漁業を高覧したという。

 

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鴨宮 Ⅱ

2022年06月11日 | 神奈川県

(上輩寺)

 

上輩寺

 

 小田原駅東口駐輪場でレンタサイクルを調達し、東へ二十分以上走って、酒匂川を越えて三つ目の信号手前に上輩寺がある。寺族の墓地に戯作者柳水亭種清の墓がある。

 

當山三十四世 桂光院箕阿上人堂山和尚

(柳水亭種清の墓)

 

 柳水亭種清は、文政四年(1821)の生まれ。本名は桜沢堂山。六、七歳のとき越後に行き、その地で両親を失った。近所の寺に救われ、のち遊行上人に伴われて江戸浅草日輪寺の小僧となった。役僧時代、常盤津の女師匠が原因で寺を追われたという。黙阿弥の門に入り、総晋輔という名で狂言の作をしていたが、のち柳下亭種員の門下となり、柳水亭種清と名乗って合巻の著作に励んだ。安政末には日輪寺に赦され、明治二十年(1887)頃から相模国酒匂上輩寺の住職として晩年を過ごした。「児雷也豪傑譚」「白縫譚」など、幕末長編合巻のひきつぎ仕事をしたほか、芝居脚本を合巻化した作品が多数。非常な健筆家で、東京を去ってのちも長編史談数編、明治合巻数編、詩集などの著述がある。明治四十年(1907)、年八十七で没。

 

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小田原 Ⅷ

2022年06月11日 | 神奈川県

(小田原城つづき)

 

明治天皇行幸所

 

明治天皇駐輦趾

 

 学橋西詰に明治天皇駐輦碑と行在所碑がある。当地は足柄県庁跡で、明治六年(1873)、明治天皇が滞在した。

 

(明治天皇行幸行在所)

 小田原市内国道1号線沿いに明治天皇ゆかりの石碑が二つある。一つは「明治天皇本町行在所跡」と刻まれた石碑で、明治十一年(1878)東海北陸両道巡幸の際、明治天皇が当地に宿泊したことを記念したものである。

 

明治天皇聖蹟

 

 本町行在所跡から少し東に行くと、「明治天皇宮ノ前行在所跡」の石碑がある。明治天皇は、それまで御所の奥深くに鎮座していた江戸期の天皇とは違って、各所に行幸する天皇であった。小田原の旧本陣清水金左衛門邸には明治元年(1868)以降、五回も宿泊したという記録が残っている。

 

明治天皇小田原行在所址

 

(御幸の浜)

 御幸の浜は、明治六年(1873)、明治天皇と昭憲皇太后が滞在した場所である。

 

御幸の浜

 

台場跡

 

明治天皇臨幸記念碑

 江戸時代の台場跡に石碑が横たわっている。陸軍大将荒木貞夫の筆により「明治天皇臨幸記念碑」という文字が刻まれているはずだが、文字面が下向きになっている。

 

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秦野

2022年06月11日 | 神奈川県

(本町小学校)

 

贈従五位安居院庄七翁碑

 

 本町小学校の正門西側に安居院庄七の顕彰碑が建てられている。安居院庄七は、相模国大住郡蓑毛村(現・秦野市)に生まれ、長じて安居院家の養子となり、のちに報徳社を設立して二宮尊徳の教えを広め実践した人物。この石碑の書は、遠州七人衆と称された岡田佐平治の孫にあたる岡田良平(貴族院議員、枢密院顧問、大日本報徳社社長)による。

 

(出雲大社相模分祠)

 

出雲大社相模分祠

 

 出雲大社相模分祠は、明治二十一年(1888)に、島根県御鎮座の出雲大社第八十代国造千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり、「秦野煙草の祖」と仰がれる草山貞胤翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方に広めるための要処としたのを創まりとする。

 

分院創立者 初代分院長

草山貞胤先生

 

草山貞胤翁顕彰碑

 

 草山貞胤は、文政六年(1823)、当所氏神の社家草山和泉の世継ぎに生まれた。安政五年(1858)、十九社の神社を兼務した。嘉永五年(1852)より煙草栽培を研究し、温床の開発、育苗、早期収穫、密植多収、木枯等各種乾燥法、水車機械刻等技術革新を進め、全国より耕作指導を依頼された。貞胤は耕作指導員を多數養成して全国に派遣。我が国の煙草栽培技術革新に大きく貢献した。明治二十一年(1888)、出雲相模分院を創立し、のちに報徳二宮神社創立発起人として努力し、その初代神職となった。

 

御嶽神社

 

草山先生彰徳碑

 

 御嶽神社に隣接して草山家があるが、その庭先に草山貞胤の彰徳碑が建てられている。大正九年(1920)十月の建碑。

 

(浄圓寺)

 浄圓寺の墓地入口付近に草山家の墓域があって、その中に草山貞胤の墓がある。

 

浄圓寺

 

報徳二宮神社祠官兼少教正

草山貞胤千規矩八量大人之墓

 

 草山貞胤は、明治三十八年(1905)、八十三歳で帰幽。

 

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