史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

徳島 Ⅲ

2014-01-12 01:07:37 | 徳島県
(徳島県庁)


徳島慶應義塾跡

 八幡浜と卯之町を回った後、四国を横断して徳島に向かう。休憩を取らずに突っ走っても二時間半はかかる。途中、結構激しい雨が降ったが、徳島市内に入ったとき、幸いにして雨は止んでいた。
 福沢諭吉の開いた慶應義塾は、徳島の人たちからの要望に応える形で、明治八年(1875)から翌明治九年まで約一年にわたり徳島に分校が開かれた。現在、徳島県庁敷地内にそのことを示す記念碑が建立されている。
 徳島県庁を訪ねると、巨大なクレーン車が庁舎前で作業していた。警備員の方から、「この工事は今日までですから、明日出直して来てください」と言われたが、このまま引き下がるわけにはいかない。たまたま用事があったため徳島に立ち寄っていることや、明日には東京に戻らなくてはいけないこと、記念碑の写真を一枚撮りたいだけだということを訴えて、警備員の方の立ち会いのもと、この写真を撮影することができた。ご協力に感謝。

(万福寺)


万福寺


庚午事変慰霊碑

 今回、徳島に立ち寄ったのは、稲田騒動(庚午事変)の関係史跡を回ることにあった。その一つが万福寺である。万福寺では稲田騒動の首謀者十名のうち、四名が切腹している。

(蓮花寺)


蓮花寺

 蓮花寺でも稲田騒動の関係者四名が切腹している。墓地にはその中の一人、藤岡次郎大夫の墓がある。新しく建て替えられたもののようである。


庚午事変慰霊碑


藤岡次郎大夫墓

 日が暮れてしまったので、今回の四国の旅はここまで。徳島からは高速バスで大阪に向かい、この日は高槻の実家に泊まった。大阪は激しい雨であった。

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徳島 Ⅱ

2012-10-21 08:53:24 | 徳島県
(笠松神社)


笠松神社

 新居浜に出張した帰路、ついでというには随分遠回りになるが、徳島に立ち寄ることにした。徳島市内を散策するのは、七~八年振りであるが、都会と違って町の風景はそれほど変わっていないように思った。
 徳島城の少し西、すっかりビル街となっている一角に小さな祠がある。笠松神社といって、徳島藩の第一家老稲田家の屋敷跡である。稲田家屋敷には、枝ぶりの美しい松があって、傘を開いたように見えたことから、人々は笠松と呼んだという。明治初年に徳島城を撮影された古写真に笠松が写っている。
 稲田家は、明治三年(1870)の稲田騒動(庚午事変)の主役となり、最後は北海道に移住させられている。

(徳島城東高校)


徳島県立城東高校

 今回の徳島探訪では、関寛斎関係の史跡を訪ねる。関寛斎と徳島の関係は深い。文久二年(1862)、藩主蜂須賀斉裕の侍医となって、徳島に来たのが最初である。戊辰戦争では、新政府の要請により奥羽に出張して病院頭取として活躍したが、維新後、再び徳島に戻り徳島医学校の開設に尽力した。その後、山梨病院初代院長を務めた後、また徳島に戻って俸禄士籍を返還し、明治七年(1874)、城東の地に医院を開業した。現在の城東高校の一角に当たる。寛斎は、貧者からは治療費を取らず、自らは質素な生活を送り、庶民から「関大明神」を崇められた。この前の道は「関の小路」と呼ばれた。平成三年(1991)、「この地にゆかりの関寛斎の遺徳を偲び慈愛と進取のこころに学ぶべく」この慈愛進取の碑が建立された。


慈愛進取の碑

(中徳島河畔緑地公園)


中徳島河畔緑地公園

 城東高校から歩いて直ぐ、助任川沿いに作られた中徳島河畔緑地公園に関寛斎の石像が置かれている。一見するとモアイ像のようだが、片手に医書を持ち、フランス式の軍服に身を包んだ寛斎の姿である。
 寛斎が徳島城東の地で開業していたのは約三十年に及んだ。七十二歳にして廃業し、夫人を伴って北海道に移住した。開拓に老身を捧げたが、大正元年(1912)服毒して自らの命を絶った。


関寛斎像

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