史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「アーネスト・サトウと倒幕の時代」 孫崎亨著 現代書館

2019年02月23日 | 書評
著者は、外務省出身で駐ウズベキスタン大使や駐イラン大使、国際情報局長などを歴任した方で、外務省や外交に関する著作も多い。本書はアーネスト・サトウや英国の視点から幕末史を見直したものである。決して素人の描く歴史本ではなく、一つひとつ正確に歴史をとらえていることに感心する。
あまり知られていないが、桜田門外の変がたったの三分で決着したこととか、若き日の伊藤博文はテロリストであったこととか、薩英戦争や長州藩の四か国連合艦隊との戦闘を通じて薩長両藩が早々に攘夷を放棄したこととか、有名な西郷隆盛と勝海舟の会談により官軍による江戸総攻撃が中止されたのではなく、その前にイギリス公使パークスの圧力により中止が決定されていたこと等、やや意表を突いた指摘であるが、いずれも正確である。
――― 「論で負ければ刀で処理する」、幕末期の一つの特徴です。それは明治期、そしてそれ以降の長州出身の政治家にみられる一つの特徴です。
と、言い切っているが、これはどうだろう。元治元年(1864)、井上馨(維新前は聞多)が同藩士に襲撃された事件のほか、長州藩士が関与した暗殺事件といえば、文久二年(1862)の伊藤博文、山尾庸三による塙次郎暗殺、文久三年(1863)の朝陽丸事件、元治元年(1964)中山忠光の暗殺、明治二年(1869)大村益次郎の暗殺くらいしか思いつかない(もちろん精査すれば、ほかにもあるだろうが)。この時代、暗殺はどの藩でも横行していたし、時に幕府や新選組がその主体となったこともあった。長州だけが特別に暗殺が多いという事実はない。むしろ、件数でいえば、土佐藩が関与した事件の方が多いだろう。
また、自民党幹事長であった小沢一郎氏が海部首相を擁立した際に「神輿は軽くてパーが良い」と述べたという例をひき、
――― 日本社会には依然として、知的に優れた人物がトップになることを担保する制度はありません。
と断言しているが、政治や官僚の世界はいざ知らず、一般民間企業では「知的に優れた人物」がトップに立たないと悲劇である。私の知っている限り、民間企業のトップは知的に優れた人ばかりである。
一方、孝明天皇毒殺説とか坂本龍馬暗殺にも言及しているが、個人的にはこの部分は賛同しかねるところである。
――― アーネスト・サトウはこの微妙な時期に、幕府に武力行使を主張する薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の伊藤博文、そして公武合体を模索する土佐藩の後藤象二郎、更には江戸で薩摩藩が不穏な動きを見せている中で薩摩藩の留守居・篠崎彦十郎と会ったり連絡をとったりしているのです。勿論幕府側とも接触しています。この時期、日本人でもこの広さで接触している人はいないのではないでしょうか。
と、アーネスト・サトウの交流範囲の広さ、幕末史に与えた影響力の大きさを指摘する。この点については、まったく異論がない。間違いなく、幕末史におけるキーマンの一人である。

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トーク・イベント「幕末の漢詩人・大沼枕山の世界」 台東区立中央図書館 郷土・資料調査室主催

2019年02月22日 | 講演会所感
台東区立中央図書館にて企画展「幕末・明治の漢詩人 大沼枕山」が開催されている(平成三十年十二月二十一日~平成三十一年三月十七日)。これに合わせて、二月二日、トーク・イベントが開かれると知ったので、早速申し込んだ。応募多数の場合は抽選になると予告があったが、幸いにして当選したとの通知をもらうことができた(さほど人気のあるイベントとも思えないので、特に激戦ではなかったと思われる)。
会場である台東区立中央図書館は、一階に地元出身の作家池波正太郎記念文庫を併設している。トーク・イベントが始まる前に池波正太郎記念文庫を拝観した。池波正太郎は、言うまでもなく高名な歴史小説家であるが、同時に随筆家、美食家としても知られ、映画評論家としても筆を振るった。記念文庫には、たくさんの自筆絵画が展示されており、改めて池波正太郎の常人離れした多芸多才ぶりを実感することができる。
トーク・イベントの前に二階の郷土史料コーナーに立ち寄り、短時間であったが企画展を見た。展示じたいはごくわずかなものであったが、その後のトーク・イベントで引用・解説された資料もあったので、事前に見ておいて正解であった。


台東区立中央図書館

大沼枕山ときいてピンと来る人も少ないだろう。
トーク・イベントに登壇した国立国会図書館司書の大沼宜規氏(枕山と血縁はないそうです)によれば、『日本漢詩翻訳索引』に掲載されている漢詩の掲載数のランキングは、以下のとおりとなっている。1.頼山陽 2.菅茶山 3.藤井竹外 4.森春涛 5.絶海中津 6.成島柳北 7.大沼枕山 8.梁川星巖 9.菅原道真 10.柏木如亭。五位の絶海中津は室町時代の禅僧、十位の柏木如亭は頼山陽より少し前に活躍した漢詩人である。こうしてみると、我が国において、漢詩が幕末から明治期に隆盛を迎えたことが分かる。その中にあって、大沼枕山は、十代のときから下谷吟社(同人サークル)を主宰し、天保の人名録に早くも名が現れる名士であった。枕山は天保年間から明治までの人名録に継続して登場する稀有な人物であるという(台東区立中央図書館 郷土・資料調査室専門員 平野恵氏)。残された門人録によれば、門人は全国に広がる。書簡を通じて、秋月種樹、徳川家達、松平春嶽といった華族、勝海舟、楫取素彦、杉孫七郎ら政治家、岩崎弥之助、高島嘉右衛門、安田善次郎ら実業家、岡本黄石、杉浦梅潭(誠)、向山黄村といった学者・詩人ら、広い交遊関係をもっていたことが分かる。幕末から明治という時代を代表する漢詩人であった。
枕山は、生涯丁髷をきらず、東京のことを江戸と呼んでいた。開化政策には心底賛同できなかったのであろう。交友範囲を見ても、いくらかは明治政府の高官の名前も見られるが、少なくとも薩閥とは縁がなかった。顕官に取り入るようなことは苦手だったようである。
大沼宜規氏提供の配付資料によれば、幕末明治期の漢詩は次のとおり評価されている。
――― 文学史上の空白の時代ともいうべき幕末から明治十年代にかけての低迷・混乱期に、唯一、文学の高みを支え、近代文学誕生の基盤を培ったのは漢詩である(尾形仂『漢詩人たちの手紙 大沼枕山と嵩古香』
――― 漢詩は、明治時代中期をもって、時代の生き生きとした人間精神を盛り込む具としての役割を終了した(日野龍夫『江戸詩人選集』第一〇巻)
確かに幕末から明治初期の知識人の漢文・漢詩力は現代人を遥かに超越している。志士たちは漢詩の世界に精通していた。酒がまわり、興がのると漢詩を熱唱した(その最たる例が藤田東湖の「正気の歌」であろう)。己の気持ちを表現するのは和歌か漢詩であった。当時の知識人は、漢文で清国人とコミュニケーションできたというし、彼らが交わした書簡も漢文調であった。
枕山の継嗣鶴林は、枕山以上に知名度は低い。枕山の長女嘉年を娶り、大沼家を継いだ人である。枕山に見込まれただけあって、漢詩の力でいえば枕山にひけをとらないであろう。にもかかわらず、生活は苦しかったようで、多くの就職斡旋依頼を断られた書簡が残っている。
幕末から明治にかけて隆盛を極めた漢詩であったが、枕山の死後、明治三十年代以降、急速に衰微したのである。
これも大沼宜規氏提供の配付資料から。
――― (明治三十年代以降)(国分)青涯は碁に暮れ、(森)槐南もやがて没し、詩壇の牛耳を執る者もなく愈々衰えていった(三浦叶『明治漢文学史』)
――― 明治二十年代後半以降、(中略)漢詩は、抜きがたい擬古性を持つ文芸とみなされるようになる
――― 社会的に大きな勢力を持ったメジャーな文芸から、少数の愛好者たちによって支えられるマイナーな文芸へと、漢詩の位置づけはかわってゆくのである(合山林太郎『幕末・明治期における日本漢詩文の研究』)
盛名を誇った枕山であったが、今では「知る人ぞ知る」という存在になってしまった。それは現代における漢詩の位置づけとも同機しているのである。

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「彰義隊遺聞」 森まゆみ著 新潮文庫

2019年02月22日 | 書評
十年前に文庫化された「彰義隊遺聞」が、同じ新潮文庫から再刊されることになった。再刊当日、早速手に入れたが、帰宅して本棚を見たら同じ本が既に並んでいた。しかし、十年前に読んだ記憶が全くないので、ためらうことなく読み始めた。
彰義隊が結成された際、「主家徳川家の冤を晴し、薩賊を討ち、万民を安心させる」と宣言し、その旗印のもとに続々と隊員が集まった。敗戦後も箱館まで走って抗戦した者も多い。そう聞くと忠義の士ばかりの集団のような印象を抱くが、実際には支度金につられて加入した者とか、無理矢理送り込まれた者とか、兵力増強のため町人でありながら隊士に仕立てられた者まで、そのモティベーションにはかなりばらつきがあった。だから戦争が始まると、命懸けで戦う者がいる一方でたちまち脱走する者や、最初から姿を消してしまう者までいた。
戦争は多くの人たちの人生を変える。彰義隊に参加して、運よく生き延びた者にとって、明治は生きづらい世だったようである。商売に手を出して失敗した者も多かったといわれる。
幹部では、本多敏三郎(晋)は上野東照宮の宮司となり、小川椙太(興郷)は彰義隊の墓守となり、丸毛靱負(利恒)は新聞記者となり、須永於菟之輔(伝蔵)は箱根村長となった。渋沢成一郎は実業家として成功した。佐久間貞一は、秀英舎(大日本印刷の前身)を創立した。戸川残花や木村熊二らは牧師として身を立てた。
もっともユニークな人生を歩んだのが松廼家露八こと土肥庄次郎であろう。土肥庄次郎はもともと旗本の家に生まれ、武術を修めたが、遊興に明け暮れた挙句に廃嫡され、ついに幇間(すなわち「たいこもち」男芸者のこと)となった。決して戦後、零落して止むに已まれず幇間になり下がったのではない。
その男がどうしたものか、刀を帯びて彰義隊に加わり、上野戦争を戦ったのである。生家の大事、あるいは主家の危機に彼の血が騒いだのかもしれない。
幇間として生きた土肥庄次郎のさまざまなエピソードを本書で紹介しているが、彼は決して肩身の狭い想いをしながら生きたのではなく、元彰義隊士として誇り高き人生を送ったことが見て取れる。
巻末に主要参考文献がズラリと紹介されているが、綿密な文献調査に加え、筆者が足を使って集めた「聞き書き」により彰義隊を立体的、多面的に描くことに成功している。新選組には子母澤寛の新選組三部作があるが、本書は彰義隊のそれに匹敵する記念碑的作品といえるだろう。

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小田原 Ⅵ

2019年02月15日 | 神奈川県
(養託寺)


養託寺

 小田原駅西口を出て数百メートル北へ行くと、寺院の密集する寺町がある。住所表記は「城山」である。
 竹様の「戊辰掃苔録」によれば養託寺には石川廉治(小田原藩士 慶応四年(1868)五月二十六日、箱根湯本にて戦死)の墓があるはずでった。さして広くない墓地をぐるぐると歩き回ったが、発見することはできなかった。平成三十年(2018)十月に真新しく建て替えられた石川家の墓があり、この際に撤去されてしまったのであろう。

(桃源寺)


桃源寺

 本堂前の無縁墓の中に小野豹二郎の墓がある。
 小野豹二郎は、慶応四年(1868)五月二十六日、箱根にて戦死。


大成軒策鄰宗功居士(小野豹二郎の墓)

 小野豹二郎の墓の写真を撮り終えて寺を出て行こうとすると、寺の方に呼び止められた。来意を説明すると、「そこに戦死者の顕彰碑がある」と教えていただいた。碑文は摩耗が著しく半分程度が読解不能であるが、顕彰されているのは西南戦争で戦死した旧小田原藩士杉浦義三である。杉浦少尉が戦死したのは明治十年(1877)三月十五日、山鹿口における戦闘であった。享年二十五。顕彰碑は明治十四年(1881)に建てられたもので、篆額は黒川通軌。撰文は三島中洲(毅)。


杉浦君碑(杉浦義三顕彰碑)

(新光明寺)


新光明寺

 小田急大雄山線の緑川駅の近く、新光明寺には戊辰戦争で戦死した小田原藩士久下(くげ)佐久兵衛の墓がある。


實證院眞岳良心居士(久下佐久兵衛の墓)

 久下佐久兵衛は、慶応四年(1868)五月二十七日、箱根にて戦死。

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湯河原

2019年02月15日 | 神奈川県


土肥実平夫婦像

 JR湯河原駅を降りると、鎧兜の勇ましい銅像が立っている。土肥実平(といさねひら)とその妻である。土肥氏は平氏の一族であるが、源頼朝の平氏討伐や東北征伐に参陣し、功があった。のちに備前・備中・備後三ヶ国の守護となった。戦国時代に活躍した小早川家の祖ともいわれる。JR湯河原駅周辺は、土肥氏の館址といわれる。ここから歩いて数分の場所に、土肥氏の菩提寺城願寺がある。

(城願寺)


城願寺


七騎堂

 城願寺境内にある七騎堂は、治承四年(1180)、それまで二十年間伊豆で蟄居生活を送っていた源頼朝が、手勢三百で石橋山で蹶起したが、衆寡敵せず山中の堂宇に身を隠すことになった。辛うじて漁船に乗って房州に落ち延びた際、同船した頼朝以下主従七騎の像を刻み、堂内に安置したものである。


土肥一族の墓所

 城願寺は土肥氏の菩提寺で、十坪ほどの広さの墓所に六十六基の墓石が並べられている。
 土肥家墓所の前に「伊能忠敬測量隊 土肥家墓を参拝」と記載された石碑がある。
 文化十二年(1816)十二月十九日、門川(もんかわ)村名主富岡与次右衛門から、先祖である土肥実平が頼朝を援け鎌倉幕府を成立させたという話を聞き、感動した伊能忠敬は測量後に城願寺を訪ね、土肥家の墓地を参拝した。


伊能忠敬測量隊 土肥家墓を参拝

(吉浜・向笠家)
 湯河原駅から海に出ると、海岸線に沿って国道135号線と真鶴道路が並行して走っている場所がある。湯河原町吉浜地区である。
 文化十二年(1816)十二月十八日と十九日の二日間、測量に訪れた伊能忠敬一行は、吉浜村の名主向笠彦右衛門宅に宿泊した。さらに同月二十四日にもこの家で昼休みをとっている。


伊能忠敬測量隊宿泊地 
吉浜村名主 向笠彦右衛門宅跡

(門川・富岡家跡)
 湯河原近辺で、もう一か所、伊能忠敬所縁の地がある。門川(もんかわ)村名主の富岡家跡である。向笠家には今も末裔の方が住んでいるが、富岡家は「跡」である。
 駅前の観光案内所で聞いてもどなたも分からないと言うし、現地を歩いてみるしかなかった。残念ながら今回は見付けることができなかった。


伊能忠敬測量隊昼休地
門川村名主富岡与次右衛門宅跡

 今年の年末年始は、久しぶりに自宅で過ごした。五日間、遠出を控えていたが、六日目に辛抱しきれず、前回訪ね当てられなかった湯河原の富岡家跡に再挑戦することにした。といっても駐車場の一角に目立たない木柱が建てられているのみである。前回、ここを訪ねたとき、電信柱の影になってこの木柱を見付けることができなかった。

 この地で土肥氏の子孫である名主富岡与次右衛門から、土肥実平の事績や城願寺の墓のことを聞いた忠敬らは、翌日城願寺の土肥氏墓地を参拝したという流れになる。

 この日はちょうど箱根駅伝の復路が争われていた。東海道線で小田原、湯河原方面に向かった私は、どこかで駅伝ランナーとすれ違ったはずであるが、帰路につく時間には勝負は決していた。

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裾野 Ⅱ

2019年02月15日 | 静岡県


富士山

 裾野は、文字とおり富士山の裾野に位置する街で、至る場所から富士山の美しい姿を眺めることができる。

(荘園寺)
 裾野市御宿の荘園寺は、「江戸の訴訟」(高橋敏著 岩波文庫)の主役、湯山吟右衛門の菩提寺である。
 千福が丘の研修所から荘園寺まで歩いて四十分強。日の出前に研修所を抜け出し、ちょうど日の出時間に荘園寺に着いた。さすがに江戸時代を通じて代々この地域の名主を務めた湯山家歴代の墓域は、荘園寺の墓地の三分の一程度を占めている。


荘園寺

 吟右衛門は、文化五年(1808)閏六月、駿河国富士郡中比奈村(現・富士市比奈)の渡辺家の三男に生まれた。渡辺家はこの地域有数の豪農で、代々の当主が名主を世襲する家柄であったが、正確な年次は不明ながら、駿東郡御宿村(現・裾野市御宿)の下湯山家半七の養子となった。天保十三年(1842)、養父半七の死去にともない湯山家の当主となり、吟右衛門を名乗った。嘉永二年(1849)八月二十一日、御宿村にて無宿人惣蔵が殺害される事件が起こり、名主として吟右衛門はその訴訟のため奔走している。判決が下されたのは嘉永四年(1851)五月のこと。そこから、多額に及ぶ江戸訴訟費用の負担の落着に一年半を要した。無宿惣蔵変死事件の取り扱い不行届きにより一旦名主を罷免されたが、嘉永七年(1854)、再度名主に就任。それだけ声望の厚い人だったのであろう。文久二年(1862)、妻よしが五十一歳で逝くと、その半年後、あとを追うようにこの世を去った。行年五十五。


湯山家の墓
吟右衛門夫婦の墓は左から二番目


摂取院念譽佛生居士(湯山吟右衛門の墓)

 正面は吟右衛門と妻與志(よし)の戒名。側面には「當國冨士郡中比奈邑 文久二壬戌星 渡邉佐右衛門佳言(亨)次男湯山吟平保豐 行年五十五才」と刻まれる。吟右衛門はたびたび名を変えており、吟平もその一つである。「江戸の訴訟」によれば吟右衛門は渡邉佐右衛門の次男ではなくて三男だそうである。

(湯山家)
 御宿平山西交差点の北東の角に今も湯山家は存続している。通りに面して格式を感じさせる長屋門がどっしりと構えている。


湯山家長屋門
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東京 Ⅷ

2019年02月15日 | 東京都
(大手町フィナンシャルシティ)


庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡

 現在、大手町フィナンシャルシティのある辺りに庄内藩上屋敷があった(大手町1‐9)。ビルの北側に平成元年(1989)、致道博物館東京友の会が建てた木柱が建てられている。
 庄内藩士はここを江戸市中取締の拠点とした。庄内藩の指揮下にあった新徴組も、飯田橋の屯所から一旦上屋敷に出向いてから市中巡邏に出向いたという。慶応四年(1868)一月二十三日、庄内藩による市中取締は廃止となり、藩主酒井忠篤以下は二月二十日、藩地へ帰還した。その後、上屋敷跡地には薩摩藩島津家が入った。

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熊取

2019年02月09日 | 大阪府
(中家住宅)
 平安時代、後白河法皇が熊野行幸の際に立ち寄ったという中家は、泉南地域指折りの旧家である。江戸時代に建てられた主屋、表門、唐門が残る。中でも主屋は、重厚な屋根に朱色の漆喰が印象的である。


中家住宅

 幕末、この家から中瑞雲斎という激烈な尊王家が輩出された。嘉永六年(1853)三月、瑞雲斎の名を慕って、吉田松陰も熊取を訪れている。
 明治二年(1869)一月、横井小楠が京都で暗殺された。中瑞雲斎は、小楠暗殺の黒幕の一人とされ、三年の禁固刑に処された。さらに外山光輔や愛宕旭輝らの政府転覆事件に加担した咎で終身刑とされ、明治四年(1871)、獄死した。

 はるばると熊取町の中家住宅を訪ねたというのに、入口には「当面の間、一般公開を中止」する旨の張り紙が…。おそらく半年前に大阪を襲った地震の被害だと思われるが、だったら町のホームページが何かに掲示位しておいて 欲しいものである。ここで中瑞雲斎の墓所を尋ねようと思っていたのに目算が狂ってしまった。

(慈照寺)


慈照寺

 かつて中家の墓地があったとされる慈照寺である。墓地は他所に移転・集約されたらしい。

 中家住宅の近くに煉瓦館と称する施設があり、そこで町の職員と思しき人をつかまえて中瑞雲斎の墓所を質問した。職員さんは、わざわざ「詳しい人」に電話で問い合わせをしてくださり、「諸説あって詳しいことは分からないのですが」という断り入りで、桜ケ丘の共同墓地の場所を教えてくれた。この情報だけで十分であった。

(五門墓地)


瑞雲院鐡翁了心居士(中瑞雲斎の墓)(左)
右奥は夫人恵美の墓

 五門共同墓地の目印は、「大学スーパー」という八百屋さんである。「大学スーパー」にさえ行き着ければあとは簡単に見つかる。墓地入口には昭和六十三年(1988)にこの墓地が中家の寄贈によって開かれたことを記した石碑がある。墓地一番奥が中家の墓所である。
 そこに中瑞雲斎、その横に恵美夫人、さらに瑞雲斎に連座して投獄され、明治四年(1871)に亡くなった息健の墓もある。


瑞巌院英峯良俊居士(中健の墓)

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吹田

2019年02月09日 | 大阪府
(関西大学千里山キャンパス)


関西大学


泊園書院址

 日が暮れようとしていたが、関西大学千里山キャンパスまで行って以文館北側にある泊園書院碑を訪ねた。何とか日没に間にあった。
 泊園書院は、江戸時代後期、藤澤東畡により大阪に開かれた漢学塾で、その子の南岳、南岳の長子黄鵠、次子黄坡(関西大学名誉教授)、および石濱純太郎の尽力により幕末から明治・大正・昭和にかけて隆盛、大阪の教育、文化の発展に大きく貢献した。書院の遺構は残っていないが、その蔵書「泊園文庫」は昭和二十六年(1951)、関西大学の図書館に寄贈されている。泊園書院は、かつて竹屋町(現・大阪市島之内一丁目)にあり、その場所にこの石碑もあったが、平成二十二年(2010)、関西大学構内に移設された。黄坡の子で作家藤沢桓夫の書。

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天王寺 Ⅳ

2019年02月09日 | 大阪府
(統国寺)


長涯間先生之墓

 統国寺を再訪。墓地にある間長涯重富の墓を訪ねた。
 間長涯は江戸中期の暦学者・天文学者である。宝暦六年(1756)、代々長堀で質屋を営む十一屋の六男として生まれた。名は重富、号は長涯、通称は五郎兵衛。麻田剛立から天文学を学び、特に観測技術面で才能を発揮し、垂揺球儀をはじめ多くの観測機器を考案・改良し、また私財を投じて工人を養成して機器の製作にあたらせた。寛政7年(1895)、幕府の改暦にあたり、高橋東岡(至時)とともに師の剛立から推薦され、江戸に行って三年で寛政暦を完成させた。その功によって幕府から直参にとりたてられようとしたが、これを辞退して帰坂。家業も大事にし、十一屋を繁盛させた。また、才能のある者、学問に熱心な人への援助を惜しまず、橋本宗吉や山片蟠桃らを育て、多くの学者たちと交流して、医学・蘭学・経済学など多方面にわたって貢献した。文化十三年(1816)、六十歳で没。

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