「明治を作った密航者たち」に続く熊田忠雄氏の著書。前作の「密航者たち」も面白かったが、本書も傑作である。熊田氏の著作は、いずれも目のつけどころがユニークである。幕末から明治という、我が国が初めて西欧と接触した時代に、その先端で何が起きていたのかを綿密に取材しており、面白くないはずはない。
この時代に限り、ちょっと前まで封建領主だった殿様が、外交官として活躍した。現在、外交官になるためにはほかの中央省庁と同じように国家公務員採用Ⅰ種試験の合格者から選抜されることが基本である。それ以前、明治二十六年(1893)からは、国家公務員試験とは別に外交官・領事館試験が一世紀にわたって実施されていた。まず受験に相応しいかどうかの審査があり、これに通った者だけが本試験に進むことができるという難関であった。いずれにせよ、明治二十六年(1893)以降は、本書で紹介されているように、旧大名からいきなり外交官に任命されるといったサプライズ人事は起き得なくなってしまったのである。従って、「お殿様が外交官になる」といった椿事は、明治初年にのみ見られる現象ということである。
この頃の外交官は、現代ほど複雑な国際関係があるわけではなく、国家間に直ちに解決しなくてはいけないような難題があるのでなければ、主たる任務は「現地に滞在する留学生の世話」や「お雇い外国人の招聘」「日本と日本人を理解してもらうための社交活動」が中心であり、特に外交官としての知識や経験のない素人外交官であっても勤まったという側面は否定できない。しかし、少し前まで殿さまとして多くの家臣にかしずかれ、日常生活において自分では何もできないような環境で育った人たちが、単身海外に放り出され(殿様時代からの従者は数名いたようであるが)、現地で国家を代表して活動するということは、やはり凡人では勤まらないであろう。本書で紹介されている鍋島長大、浅野長勲、戸田氏共、蜂須賀茂韶、岡部長職らは、いずれもそれなりに外交官として合格点を出せる活躍をした人たちであった。
私の個人的な海外勤務経験から言えば、海外勤務に適性がある人というのは、業務でいえばある程度自分で適切な判断が下せる能力・経験を有していることはいうまでもないが(いちいち日本に問い合わせしているわけにはいかないが、大事な用件は日本側に報告・相談する判断力も問われる)、加えて①異文化への好奇心 ②社交性 ③ストレス耐性 が重要である。海外勤務というのは、何かとストレスが多い。身近なところでいえば、日本にいれば当たり前のように手に入った情報や食材が手に入らない。日本では、当たり前のように通じていた指示が部下に理解されなかったり、曲解されたりする。海外で生活すれば、誰でも国内では経験のないストレスにさらされることになる。それを上回る楽しみを見出さないと海外生活は長続きしないだろう。もっとも適性が別れるのが海外で目にする新奇なものを楽しめるかどうかである。いつまでも、日本は良かった、早く日本に帰りたい、という気持ちが続くと、本人にとっても周囲にとっても不幸である。
海外勤務のもう一つの特徴は、社外の付き合いが拡がることである。社内の人脈で完結していた付き合いの範囲が、海外では段違いに広がる。それをこなせるだけの社交性が求められる。
本書で紹介されているお殿様たち、さらに殿様に従って海を渡ったお姫様たちは、いずれも好奇心と社交性とストレス耐性を備えて、外交官業務を無難にこなした人たちである。彼らは、外交官としての適性があっただけではなく、抜群の財力を背景に海外留学を経験し、語学力を身に着けていた。さらに、俸給では賄えない出費を個人の財力でカバーすることもできた(明治政府も彼らの財布を期待して任命したという側面もあっただろう)。
本書は最初から最後まで楽しめるが、特に興味を引いたのは戸田氏共伯爵夫人極子(岩倉具視次女)である。極子は、陸奥宗光夫人亮子、大山巌夫人捨松などとともに「鹿鳴館の華」と称された美女である。残された写真を見ても、確かに美人である。美人がゆえに、時の総理大臣伊藤博文とのスキャンダルも噂された。ことの真偽は不明であるが、これも美人税・有名税ということだろうか。彼女は公家の出身らしく、琴の名手であった。夫がオーストリア駐在行使として赴任すると、パーティなどで琴の演奏を披露した。それが評判となり、既に音楽家として名を成していたブラームスの耳にも入った。ブラームスの面前で極子が琴を演奏して聴かせたということもあったらしい。極子が弾いた筝曲が、ブラームスの残した楽曲に影響を及ぼした形跡があるとすれば、どの曲だろうか。そういう研究があれば是非読んでみたい。
幕末の時点で全国に三百藩があったといわれる。つまり殿様もそれだけの数が存在していたというわけである。彼らの大半は新しい時代に適応するために汲々としていた。そういう中で、本書で紹介されている五名のお殿様は、かなり優秀な人たちだったといえよう。華族は「皇室の藩屏」となることが期待されたが、現実にその期待に応えられた旧藩主・公家は決して多くない。本書は希少なスーパーエリートの物語でもある。
この時代に限り、ちょっと前まで封建領主だった殿様が、外交官として活躍した。現在、外交官になるためにはほかの中央省庁と同じように国家公務員採用Ⅰ種試験の合格者から選抜されることが基本である。それ以前、明治二十六年(1893)からは、国家公務員試験とは別に外交官・領事館試験が一世紀にわたって実施されていた。まず受験に相応しいかどうかの審査があり、これに通った者だけが本試験に進むことができるという難関であった。いずれにせよ、明治二十六年(1893)以降は、本書で紹介されているように、旧大名からいきなり外交官に任命されるといったサプライズ人事は起き得なくなってしまったのである。従って、「お殿様が外交官になる」といった椿事は、明治初年にのみ見られる現象ということである。
この頃の外交官は、現代ほど複雑な国際関係があるわけではなく、国家間に直ちに解決しなくてはいけないような難題があるのでなければ、主たる任務は「現地に滞在する留学生の世話」や「お雇い外国人の招聘」「日本と日本人を理解してもらうための社交活動」が中心であり、特に外交官としての知識や経験のない素人外交官であっても勤まったという側面は否定できない。しかし、少し前まで殿さまとして多くの家臣にかしずかれ、日常生活において自分では何もできないような環境で育った人たちが、単身海外に放り出され(殿様時代からの従者は数名いたようであるが)、現地で国家を代表して活動するということは、やはり凡人では勤まらないであろう。本書で紹介されている鍋島長大、浅野長勲、戸田氏共、蜂須賀茂韶、岡部長職らは、いずれもそれなりに外交官として合格点を出せる活躍をした人たちであった。
私の個人的な海外勤務経験から言えば、海外勤務に適性がある人というのは、業務でいえばある程度自分で適切な判断が下せる能力・経験を有していることはいうまでもないが(いちいち日本に問い合わせしているわけにはいかないが、大事な用件は日本側に報告・相談する判断力も問われる)、加えて①異文化への好奇心 ②社交性 ③ストレス耐性 が重要である。海外勤務というのは、何かとストレスが多い。身近なところでいえば、日本にいれば当たり前のように手に入った情報や食材が手に入らない。日本では、当たり前のように通じていた指示が部下に理解されなかったり、曲解されたりする。海外で生活すれば、誰でも国内では経験のないストレスにさらされることになる。それを上回る楽しみを見出さないと海外生活は長続きしないだろう。もっとも適性が別れるのが海外で目にする新奇なものを楽しめるかどうかである。いつまでも、日本は良かった、早く日本に帰りたい、という気持ちが続くと、本人にとっても周囲にとっても不幸である。
海外勤務のもう一つの特徴は、社外の付き合いが拡がることである。社内の人脈で完結していた付き合いの範囲が、海外では段違いに広がる。それをこなせるだけの社交性が求められる。
本書で紹介されているお殿様たち、さらに殿様に従って海を渡ったお姫様たちは、いずれも好奇心と社交性とストレス耐性を備えて、外交官業務を無難にこなした人たちである。彼らは、外交官としての適性があっただけではなく、抜群の財力を背景に海外留学を経験し、語学力を身に着けていた。さらに、俸給では賄えない出費を個人の財力でカバーすることもできた(明治政府も彼らの財布を期待して任命したという側面もあっただろう)。
本書は最初から最後まで楽しめるが、特に興味を引いたのは戸田氏共伯爵夫人極子(岩倉具視次女)である。極子は、陸奥宗光夫人亮子、大山巌夫人捨松などとともに「鹿鳴館の華」と称された美女である。残された写真を見ても、確かに美人である。美人がゆえに、時の総理大臣伊藤博文とのスキャンダルも噂された。ことの真偽は不明であるが、これも美人税・有名税ということだろうか。彼女は公家の出身らしく、琴の名手であった。夫がオーストリア駐在行使として赴任すると、パーティなどで琴の演奏を披露した。それが評判となり、既に音楽家として名を成していたブラームスの耳にも入った。ブラームスの面前で極子が琴を演奏して聴かせたということもあったらしい。極子が弾いた筝曲が、ブラームスの残した楽曲に影響を及ぼした形跡があるとすれば、どの曲だろうか。そういう研究があれば是非読んでみたい。
幕末の時点で全国に三百藩があったといわれる。つまり殿様もそれだけの数が存在していたというわけである。彼らの大半は新しい時代に適応するために汲々としていた。そういう中で、本書で紹介されている五名のお殿様は、かなり優秀な人たちだったといえよう。華族は「皇室の藩屏」となることが期待されたが、現実にその期待に応えられた旧藩主・公家は決して多くない。本書は希少なスーパーエリートの物語でもある。