史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「お殿様、外交官になる --- 明治政府のサプライズ人事」 熊田忠雄著 祥伝社新書

2017年12月29日 | 書評
「明治を作った密航者たち」に続く熊田忠雄氏の著書。前作の「密航者たち」も面白かったが、本書も傑作である。熊田氏の著作は、いずれも目のつけどころがユニークである。幕末から明治という、我が国が初めて西欧と接触した時代に、その先端で何が起きていたのかを綿密に取材しており、面白くないはずはない。
この時代に限り、ちょっと前まで封建領主だった殿様が、外交官として活躍した。現在、外交官になるためにはほかの中央省庁と同じように国家公務員採用Ⅰ種試験の合格者から選抜されることが基本である。それ以前、明治二十六年(1893)からは、国家公務員試験とは別に外交官・領事館試験が一世紀にわたって実施されていた。まず受験に相応しいかどうかの審査があり、これに通った者だけが本試験に進むことができるという難関であった。いずれにせよ、明治二十六年(1893)以降は、本書で紹介されているように、旧大名からいきなり外交官に任命されるといったサプライズ人事は起き得なくなってしまったのである。従って、「お殿様が外交官になる」といった椿事は、明治初年にのみ見られる現象ということである。
この頃の外交官は、現代ほど複雑な国際関係があるわけではなく、国家間に直ちに解決しなくてはいけないような難題があるのでなければ、主たる任務は「現地に滞在する留学生の世話」や「お雇い外国人の招聘」「日本と日本人を理解してもらうための社交活動」が中心であり、特に外交官としての知識や経験のない素人外交官であっても勤まったという側面は否定できない。しかし、少し前まで殿さまとして多くの家臣にかしずかれ、日常生活において自分では何もできないような環境で育った人たちが、単身海外に放り出され(殿様時代からの従者は数名いたようであるが)、現地で国家を代表して活動するということは、やはり凡人では勤まらないであろう。本書で紹介されている鍋島長大、浅野長勲、戸田氏共、蜂須賀茂韶、岡部長職らは、いずれもそれなりに外交官として合格点を出せる活躍をした人たちであった。
私の個人的な海外勤務経験から言えば、海外勤務に適性がある人というのは、業務でいえばある程度自分で適切な判断が下せる能力・経験を有していることはいうまでもないが(いちいち日本に問い合わせしているわけにはいかないが、大事な用件は日本側に報告・相談する判断力も問われる)、加えて①異文化への好奇心 ②社交性 ③ストレス耐性 が重要である。海外勤務というのは、何かとストレスが多い。身近なところでいえば、日本にいれば当たり前のように手に入った情報や食材が手に入らない。日本では、当たり前のように通じていた指示が部下に理解されなかったり、曲解されたりする。海外で生活すれば、誰でも国内では経験のないストレスにさらされることになる。それを上回る楽しみを見出さないと海外生活は長続きしないだろう。もっとも適性が別れるのが海外で目にする新奇なものを楽しめるかどうかである。いつまでも、日本は良かった、早く日本に帰りたい、という気持ちが続くと、本人にとっても周囲にとっても不幸である。
海外勤務のもう一つの特徴は、社外の付き合いが拡がることである。社内の人脈で完結していた付き合いの範囲が、海外では段違いに広がる。それをこなせるだけの社交性が求められる。
本書で紹介されているお殿様たち、さらに殿様に従って海を渡ったお姫様たちは、いずれも好奇心と社交性とストレス耐性を備えて、外交官業務を無難にこなした人たちである。彼らは、外交官としての適性があっただけではなく、抜群の財力を背景に海外留学を経験し、語学力を身に着けていた。さらに、俸給では賄えない出費を個人の財力でカバーすることもできた(明治政府も彼らの財布を期待して任命したという側面もあっただろう)。
本書は最初から最後まで楽しめるが、特に興味を引いたのは戸田氏共伯爵夫人極子(岩倉具視次女)である。極子は、陸奥宗光夫人亮子、大山巌夫人捨松などとともに「鹿鳴館の華」と称された美女である。残された写真を見ても、確かに美人である。美人がゆえに、時の総理大臣伊藤博文とのスキャンダルも噂された。ことの真偽は不明であるが、これも美人税・有名税ということだろうか。彼女は公家の出身らしく、琴の名手であった。夫がオーストリア駐在行使として赴任すると、パーティなどで琴の演奏を披露した。それが評判となり、既に音楽家として名を成していたブラームスの耳にも入った。ブラームスの面前で極子が琴を演奏して聴かせたということもあったらしい。極子が弾いた筝曲が、ブラームスの残した楽曲に影響を及ぼした形跡があるとすれば、どの曲だろうか。そういう研究があれば是非読んでみたい。
幕末の時点で全国に三百藩があったといわれる。つまり殿様もそれだけの数が存在していたというわけである。彼らの大半は新しい時代に適応するために汲々としていた。そういう中で、本書で紹介されている五名のお殿様は、かなり優秀な人たちだったといえよう。華族は「皇室の藩屏」となることが期待されたが、現実にその期待に応えられた旧藩主・公家は決して多くない。本書は希少なスーパーエリートの物語でもある。

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「幕末雄藩列伝」 伊東潤著 角川新書

2017年12月29日 | 書評
本書のタイトルは「雄藩列伝」であるが、紹介されている十四藩は必ずしも一般的な意味での「雄藩」ではない。請西藩や松前藩などはむしろ弱小藩に分類されるだろう。一口に三百藩というが、その動向は様々であり、それぞれにドラマがある。これが歴史の面白さであり、醍醐味だと思うのである。
話は変わるが、私は大学では経済学を専攻した。経済学では、世の中をモデル化するのが常道である。それを究極まで追求したのが合理的期待仮説という理論である。簡単にいってしまえば、人々が入手可能な情報を活用して判断して合理的に行動すれば、誤った結果には陥らないというのである。理論としてはそうなのだろうが、人間の社会というのはそう簡単に理屈とおり割り切れるものではなかろう。まずもって、全ての人が正確で完全な情報に接触できるとは限らないし、同じ情報を得たとしても、取る行動は千差万別。まさに人それぞれである。経済学の理論と現実のギャップに違和感を覚えた私は最後まで経済学に馴染めず、落ちこぼれてしまった(言い訳じみてしまったが…)。
理論とおり行けば、金利が低ければ利回りの高い株式市場に資金が流入する。しかし、私個人を例にとっても、限りなく金利がゼロに近くなっても株をやろうとは思わない。そういうへそ曲がりとか、金儲けに興味がない奴とか、色んな人間がいるのが社会であって、一つの情報を前提として、人間が一律に同じ行動を取るとは思えないのである。
経済学の対局にあるのが現実の歴史である。情報化が進展した現代社会であろうとも、人間の行動は理屈とおりとはいかないものである。ましてや情報化が発達していない時代においては、情報は錯綜し、人々は右往左往し、社会は混乱する。
幕末も煮詰まって来ると、誰の目にも幕府の衰退は明らかであった。それでも、人間は「理」だけでは動かない。幕府を武力で倒そうという藩もあれば、新しい体制においても徳川家の影響力を残そうという勢力もあった。「義」のために立ちあがった藩もあれば、藩主が脱藩して官軍に抵抗するという突拍子もない行動に出た藩もあった。これが人間社会の現実である。みんながみんな正しく判断をして、整然と権力が移行したとすれば、何とも味気ない。
本書は幕末とりわけダイナミックでドラマティックな歴史を刻んだ十四藩を紹介するものである。本書を通じて人間の作る歴史の面白さを再確認してもらいたい。

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「西郷隆盛53の謎」 原口泉著 海竜社

2017年12月29日 | 書評
薩摩藩の歴史研究の第一人者、原口泉先生の近著である。原口先生といえば、物腰柔らかく、語り口も優しい方であるが、本書もそのお人柄がにじみ出るような平易で分かりやすい読み物となっている。
「分かりやすい」ということが原口先生の(少なくとも本書の)ポリシーなのかもしれないが、それにしても海音寺潮五郎の「西郷隆盛伝」からの引用が目立つ。「53の謎」と銘打っているものの、本当に「謎」といえるのはほんの数えるほどしかなく、無理矢理「謎」に仕立てた印象をぬぐえない。読み通しても新たな発見に出会うこともなく、残念ながら内容は薄いといわざるを得ない。平易さ故、入門書としては良いかもしれないが、何冊も西郷関連本を読んだ後に読むと、物足らなさが際立ってしまうだろう。
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「西郷どん (上)(中)(下)」 林真理子著 角川書店

2017年12月29日 | 書評
いうまでもなく、来年の大河ドラマの原作である。ようやく書店の店頭に並ぶことになった。
林真理子の作品を読むのは何時以来だろう。そういえば、四半世紀も前のことになるが、シンガポール駐在中に林真理子(と、渡辺淳一だったと記憶する)が来星し、その講演だったか、座談会だったかを聞きに行ったことがあった。そこで林真理子が歴史上の人物を題材として小説を書いたことを知り、早速買い求めた。今回、自分の本棚を探してその本を探し出した。下田歌子を描いた「ミカドの淑女」(新潮文庫)である。今となっては、この本を読んだ感想も記憶もあまり残っていないが、結果として林真理子には本格的歴史小説家という印象はない。
というわけで「西郷どん」である。上中下三巻に及ぶ作品であるが、読み始めるとアッという間である。特に私は読むのが速い方ではないが、それでも行き帰りの通退勤電車の中で、ほぼ十日で読破してしまった。これだけ薄い内容を一年もかけて放送するのか、とちょっと心配になってしまった。西郷伝としてはオーソドックスなものだと思うが。
本作品の特徴としては、母満佐、最初の妻、伊集院須賀、島妻愛加那、正妻糸といった西郷を取り巻く女性を丁寧に描いている点にある。幕末から明治の歴史を追うだけではほとんど女性は登場しないが、これだけ女性を描きこんでいるのは、やはり女流作家ならではだろう。
西郷が京都で活躍したころの愛人といわれる「豚姫」ことお虎が、リアルに描かれたのは、私の知る限りこの小説が初めてかもしれない。大河ドラマの原作に選ばれたのも、女性が登場する場面が多いというのが大きな理由ではなかろうか。
三冊のうち三冊の半ばまでは幕末から王政復古が描かれ、明治以降については西郷の息子菊次郎の口から語られる。極貧、自殺未遂、二度の島流しといった「地獄」から薩摩藩の軍事リーダーとなって倒幕の主役となり「栄華」を極める幕末期は、確かに超ドラマティックである。ここに多くのページが割かれるのも当然ではあるが、個人的には明治以降のミステリアスな西郷の方に惹かれている。大河ドラマでどのような時間配分となるか興味深いが、くれぐれも「ナレーションで解説して終わり」とならないように願うばかりである。
本書では西郷の眼を「黒曜石のように黒く光る眼」と印象的に紹介している。その西郷を鈴木亮平という若い俳優が演じるが、彼はどちらかというと細い目をしており、原作で描かれる西郷の風貌とはかけ離れている。このギャップをどのように埋めてくれるか、楽しみにしたい。

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東松戸

2017年12月23日 | 千葉県

(八柱霊園)
 JR武蔵野線東松戸駅から徒歩十分。都立八柱霊園は、敷地面積一平方キロメートル、東京ドーム二十個分という途方もない広さを持つ霊園である。
 5区1種5側13番に柔道家嘉納治五郎の墓がある。治五郎の実家は摂津御影村で酒造・廻船業を営んでいた。父治朗作は、幕府廻船方御用達を務め、和田岬砲台の建造を請け負い、勝海舟を経済的に支援したことで知られる。明治新政府に招聘されて上京。治五郎もこれに従って東京に上り、東京大学に入学。のちに柔道を極め、講道館を開いて柔道の普及に尽くした。明治四十二年(1909)には東洋初の国際オリンピック委員会委員にも就いた。昭和十三年(1938)、エジプト・カイロでの国際オリンピック総会帰国途上の船内で肺炎にて死去。七十七歳。


嘉納治五郎之墓


頌徳碑

 傍らの頌徳碑は、正二位大勲位公爵西園寺公望の題額。撰文は文学博士諸橋轍次(『大漢和辞典』編者)。

 広大な八柱霊園の西の端に近い場所に、谷中霊園の無縁墓がある。かつてここに坂本龍馬の許嫁(いいなずけ)として有名な千葉佐那子が眠っていた。千葉佐那子は、明治二十九年(1896)、五十九歳で亡くなったが、妹はまの夫熊木庄之助の名で谷中霊園に埋葬された。その後、佐那子の墓は無縁となり、谷中霊園の整理に伴って、八柱霊園の無縁墓に合葬された。昨年(平成二十八年(2016))八月、熊木庄之助の子孫に当たる方が、没後一二〇年を機に、練馬区の仁寿院に改葬した。


谷中霊園無縁墓

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沼津 Ⅵ

2017年12月23日 | 静岡県
(千本浜公園)


沼津公園

千本浜公園入口に建つ石柱である。西園寺公望の書。この公園は明治四十年(1907)に開園されたが、この頃、西園寺公望はしばしば千本浜の仙松閣ホテルに滞在しており、別荘も建てようとしていた(用地まで取得していたが、最終的に取りやめている)。付近は沼津御用邸もあり、別荘地として栄えた場所であった。


間宮喜十郎頌徳碑

千本浜公園には、文学碑や顕彰碑が多数建立されているが、その中の一つ。篆額は西園寺公望。公望六十二歳の作。間宮喜十郎は、慶應義塾出身の教育者。明治初期の沼津の教育に貢献した人物である。碑文は明治四十三年(1910)に書かれ、明治四十四年(1911)に建立されている。

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青梅 Ⅲ

2017年12月23日 | 東京都
(安楽寺)
 青梅市成木1‐583の安楽寺は、青梅市でもかなり外れ、埼玉県飯能市寄りの山間の集落の中にある。


安楽寺

 安楽寺墓地に慶応二年(1866)の武州世直し一揆の首謀者の一人、中村喜左衛門の墓がある。
 中村喜左衛門は、通称を惣五郎といったことから、「悪惣」とも呼ばれた。喜左衛門は、村で組頭をしており、人望の厚い人物だったようである。喜左衛門は、名栗村の島田紋次郎と出会い、示し合わせて蜂起し、青梅、新町そして長岡新町の清水弥平次宅を襲った。一揆終結の後、江戸送りとなり、中追放という判決を受け、所持していた田畑屋敷も取り上げられた。喜左衛門は明治三年(1870)、九月十九日没。墓石に並んで法名が刻まれている妻ときは、夫に先立って慶應三年(1867)四月に没している。安楽寺は広い墓地を持つ。この中から喜左衛門の墓を探すのはなかなか骨がおれた。墓地には中村家の墓が複数あるが、西村家の墓域の一隅にある。


光喜動了信士(中村喜左衛門の墓)

 このところ世直し一揆が気になっている。幕末から明治初年にかけて、全国的に一揆またはうちこわしが頻発した。一揆のほとんどは生活苦の改善や徴兵や徴税に反対するものであったが、いずれも短期間で鎮圧され、首謀者は処刑・投獄されて終わっている。いわゆる「正史」で取り上げられることは少ないが、中央の政局にどのような影響があったのだろうか。

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飯能 Ⅳ

2017年12月23日 | 埼玉県
(上名栗)
 飯能市上名栗の正覚寺は、慶應二年(1866)の武州世直し一揆の際、この寺で蜂起したことで歴史に記録されることになった。周囲には何もない、山奥の静かな寒村である。
 近くにこの一揆を指導した、島田紋次郎、新井豊五郎の墓もあるらしいが、少し歩き回ったくらいでは見つけることはできなかった。


正覚寺
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静岡 Ⅶ

2017年12月15日 | 静岡県
(松樹院)


松樹院


故駿府城代信濃守松平君之墓

 松樹院の門前から北に十メートルほど行った角を右折して坂を上ったところに松平忠明の墓がある。
 松平忠明は、豊後岡藩主の二男に生まれ、旗本松平家の養子となった。寛政十年(1798)、幕府の命を受け蝦夷地の奥地まで探索した。享和二年(1802)、駿府城代に就任。火災により粗末な仮宮のままであった静岡浅間神社の再建に尽くしたが、その途中の文化二年(1805)死去。駿府の人々は、「有り難いご城代さん」と呼んでいた。自分が死んだら、浅間神社の木遣りの音頭の聞こえるところに葬って欲しいとの遺言に従って、この地に墓が作られた。

(山岡鉄舟邸址)
 山岡鉄舟邸址を探してこの付近を歩き回っていて、一人の老人と目が合った。在り処を尋ねると、
「二本目の筋を左に折れたところにある」
と教えていただいた。何のことはない。自分が自動車を駐車した目の前にあった。


山岡鉄舟邸址


山岡鉄舟邸址

 山岡鉄舟は、明治元年(1868)、駿府藩若年寄格幹事役に付くと、翌明治二年(1869)には静岡藩権大参事として、この場所に住み旧幕臣の無禄移住者の生計確保のために奔走した。城下の治安維持にも努めるなど、八面六臂の活躍であった。さらに殖産興業にも意を尽くし、牧之原大茶園や清水次郎長の富士裾野開拓を後押しした。明治五年(1872)、西郷隆盛らの強い要請を受け、十年間という期限を切って明治天皇の侍従となり、青年天皇の人格形成に大きな影響を与えた。
 山岡鉄舟邸址碑は、説明書きのある場所から北寄りの歩道上に再建されている。

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島田 Ⅱ

2017年12月15日 | 静岡県
(今井信郎屋敷跡)
 島田市阪本の奥まった場所に今井信郎が居を構えていた。近くまで来ると、案内板が出ているので、それに従って進めば行き着くことができる。ただし、対向車が来たらすれ違えないような細い道なので、運転には細心の注意が必要である。


今井信郎屋敷跡


屋敷跡

 今井信郎は、天保十二年(1841)、幕臣今井守胤の長子として江戸に生まれた。長じて湯島の聖堂に出仕、和漢の道、絵画を学んだ。安政五年(1858)、十八歳にして直心景流榊原鍵吉の門に入り、二十歳にして免許皆伝、講武所師範代を拝命した。文久三年(1863)、横浜で密貿易取締役に就任。慶應三年(1867)、江戸に戻り、京都見廻組を拝命し、松平容保の配下に属した。同年十一月十五日、京都近江屋を同志とともに襲撃して坂本龍馬を殺害した。戊辰戦争では衝鉾隊を組織し、副隊長として奥州を転戦し、箱館五稜郭で敗れて入牢した。明治五年(1872)、特赦によって出所。この年、静岡に学校を設立。新政府に仕えて八丈島に赴き、教育、産業振興に尽力した。明治十一年(1878)、中條景昭らの勧めにより、島田市阪本の一隅に居を構えた。今井信郎は、この場所で晴耕雨読、実験農業、新品種の試作研究の日々を過ごし、さらに三養社なる政治結社を創設し「教育」「産業」「衛生」の重要性を説いた。五十五歳で郡農会長。その間に村会議員、学務委員を歴任し、四代目は初倉村長を務めた。大正七年(1918)、自宅で生涯を閉じた。享年七十八。

(医王寺)


医王寺

 医王寺の山門を入って左手直ぐに大谷内龍五郎の墓がある。大谷内龍五郎は、明治三年(1870)十二月二十日の夜、医王寺本堂にて自刃した。沢水加崇源寺墓地の墓が本墓であり、医王寺は分骨墓である。


大谷内龍五郎之墓

 沢水加崇源寺墓地の墓と同じ法名「大賢院殿彰義幸重居士」が墓石に刻まれている。

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