史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

延岡 Ⅱ

2022年08月13日 | 宮崎県

(樫山)

 

山県陸軍中将陣頭指揮の地

 

 四半世紀前、ここには朽ち果てそうな木製の柱があっただけであったが、これも更新されていた。

 明治十年(1877)八月十四日、薩軍三千五百は延岡を棄てて和田越に布陣した。西郷隆盛は、翌十五日早朝、笹首を発ち、北川を舟で下り、和田越山上にて開戦以来初めて戦場に立った。

 官軍参軍山県有朋中将は、樫山の山頂で全軍の指揮をとり西郷軍と対峙した。この日の決戦で敗れた薩軍は、長井方面へ退いた。

 

(善正寺)

 

善正寺

 

 早川図書の墓を求めて延岡市山下町の善正寺を訪ねたが、早川姓の墓石すら発見できなかった。善正寺の南側にも共同墓地があり、念のためそこも歩いたが、見つけることはできなかった。

 早川図書は、寛政八年(1796)、日向延岡に生まれた。名は隆龍、号は梅邨。京に出て医を川越佐渡に学び、天保二年(1831)、延岡藩の侍医となった。安政四年(1857)、城下に医学校明道館を創立して多くの医学生を育てた。安政六年(1859)没。

 ネットで発見した「日向 薬 事始め」という論文(九州保健福祉大学2010)に「墓は善正寺に先祖代々にわたる早川家の合葬の形である」とあって、古い墓石の写真とともに掲載されている。探し方が足らなかったのかもしれない。また延岡を訪ねる機会があれば、再挑戦したい。

 

(今山公園)

 今山公園の西南戦争招魂碑を訪ねる。カーナビのガイドに従って今山公園に入ると目の前に背の高い招魂碑がそびえていた。この日この場所では、ゲートボールの大会らしきものが開かれており、緊張感漲る老人が多数参集していた。そこに自動車で乗り込んだ私は、明らかに異分子であり、期せずして白い目で見られることになってしまった。写真を撮影すると、早々にこの場を立ち去った。

 

招魂碑

 

 明治十年(1877)の西南戦争では、延岡藩は延岡隊を編成し、各地を転戦した。その間、多数の戦死傷者を出した。戦後、生存者有志により石碑が建立された。この背面には戦死者八十名の名前が刻まれている。明治十一年(1878)に碑前で慰霊祭が開かれて以来、毎年慰霊祭が挙行されている。

 

(台雲寺)

 

台雲寺

 

 台雲寺内に岡富官軍墓地があり、明治十年(1877)九月二十二日に戦死した高橋種文が葬られているという情報をもとに台雲寺墓地を歩いた。

 結論からいうと、台雲寺本堂前に広がる墓地では、内藤政挙、安藤適斎、原時行らの墓を発見することはできたが、官修墓地らしきものは見当たらない。さらに新妻金夫の墓も見つけることはできなかった。新妻家の墓は古い墓地に一つ、市営岡富墓地内の台雲寺霊園内にも複数確認できたが、いずれも新妻金夫が葬られているという確信を得るもことはできなかった。

 

内藤政挙墓

 

 内藤政挙(まさたか)は、嘉永三年(1850)の生まれ。実父は掛川藩主太田資始。万延元年(1860)、内藤政義の養子となり、文久二年(1862)、延岡藩主となった。明治二年(1869)、延岡藩知事に任じられ、明治四年(1871)、廃藩により免じられた。漢籍を学び、同年横浜高等学校で英語を修め、ついで慶應義塾に入ったが、眼を病んで退学した。明治二十二年(1889)、帰国して育英事業に専念し、私立延岡高等女子学校、私立延岡女子職業学校、私立日平尋常高等小学校、私立見立尋常小学校等を経営した。また藩時代からの日平銅山を発展させ、大正初年見立に錫鉱を開発し、延岡周辺に電気を供給、杉・檜・楠など総数百四十五万本に及ぶ造林事業にも注力した。昭和二年(1927)、年七十八で没。

 

安藤適斎墓

 

 安藤適斎は、安永八年(1779)、日向延岡の生まれ。禄高二百石の延岡藩上士で、二十二歳のとき、取次役となり、以後、物頭役、近習役などを務めた。徂徠学の大家で、内藤家は元来宋学が盛んだったが、適斎の影響により徂徠学を修めるものが多くなった。適斎の学理は「聖人の道は即ち神道なり」というものであった。嘉永二年(1849)、没。七十一歳。遺稿に「聖道大義」等がある。

 

安藤適斎碑

 

原時行夫妻之墓

 

原時行翁碑

 

 原時行(ときゆき)は、文政九年(1826)、日向延岡の生まれ。通称小太郎、千穂、公孫と号した。禄五百五十石の延岡藩上士であった。江戸に出て安井息軒、添川完平に儒を学んだ。戊辰の役では、延岡藩は幕府側に立ったため窮地に陥ったが、時行の奔走で事なきを得た。明治五年(1872)、藩校が廃されると、資金を集めて私学校亮天社を興し、自ら教師となった。勝海舟、山岡鉄舟、山田方谷らを知己に持ち、晩年には福沢諭吉とも親交を結んだ。鹿児島県属、臼杵郡長を歴任。最後は旧藩主内藤家の顧問を務めた。墓の傍らにある原時行翁碑は、明治三十四年(1901)五月の建碑。旧藩主内藤政挙の題額。三浦安(休太郎)の撰文。金井之恭の書。

 

新妻家先祖代々之墓

 

 新妻金夫は文化二年(1805)生まれ。小石元瑞にまなび、天保九年(1838)、日向延岡藩の侍医となった。安政四年(1857)、早川図書とともに医学所明道館の創立にくわわり、医師の養成にあたった。元治元年(1864)六十歳もて死去。

 

土方雄基之墓

 

 土方雄基は、延岡藩士。明治十年(1877)三月十九日、肥後竹宮(健軍)にて戦死。

 

 台雲寺に隣接した小山に延岡市営岡富墓地がある。山裾から山頂に至るまで一面に墓石が並んでいる。一応台雲寺霊園という看板の出ているところだけでも確認しておこうと思ったが、台雲寺霊園も第一から少なくとも第五霊園まであって、とても短時間に全てを見て回ることは不可能であった。将来、時間に余裕があって、ここで終日費やしても良いという日が来れば、一日かけて探索してみたいものである。

 

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