史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八瀬

2012-01-28 23:17:10 | 京都府
(西林寺)


西林寺

 八瀬といえば、市街地から自動車で十分も走れば行き着くことができるが、京都でもかなり「外れ」である。南北朝のころ、後醍醐天皇が比叡山に逃れた際に八瀬の住民が警護した縁により、以来「八瀬童子」と呼ばれて代々禁裏の駕輿丁役を務める栄誉を負った。
 この日、途中から小雨が振り出し、八瀬に着いた頃には霙に変っていた。西林寺への急な坂道を登ると、周囲の山を一望できる。お龍の父、楢崎将作の墓石を見るためにここまで来た。無縁墓石を集めた中に楢崎将作の墓石も積まれている。辛うじて「楢」という文字が覗いている。


楢崎将作墓

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西本願寺 Ⅱ

2012-01-28 23:07:14 | 京都府
(門法会館)


大本山 本圀寺

 かつて、西本願寺北側、現在門法会館の広い敷地になっている場所に、本圀寺があった。京都に駐留する水戸藩の尊攘激派(いわゆる天狗党)が本拠にしたのが、本圀寺である。維新後本圀寺は荒廃したが、山科に場所を移して存続している。
 門法会館敷地内では、そこに本圀寺があったことを示すものはなにも残されていない。本願寺で確認したところ、門法会館の西側、大宮通りに面した場所に、「大本山 本圀寺」と大書された石碑が残されているのみである。

 本圀寺は、文久三年(1863)八月、尊攘派因州藩士による側用人黒部権之介暗殺事件(因幡二十士事件)の舞台となったことでも知られる。
 その後、事件の首班であった河田景与(通称左久馬)は謹慎・幽閉といった処分を受けるが、脱走して長州に投じたところで明治を迎えた。戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀、大総督府参謀に任じられ、戦後章典禄四百五十石を下賜された。鳥取県県令、元老院議官などを歴任して明治三十年(1897)七十歳で没している。

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上賀茂神社 Ⅱ

2012-01-28 23:01:35 | 京都府
(小谷墓地)


大田垣蓮月尼墓

 神光院からさらに西に進むと、西方寺という小さな寺がある。その先に小谷墓地が広がる。意外と大きな墓地で、専用の駐車場が備えられている。そこに大田垣蓮月尼の墓がある。蓮月尼の墓は、膝たけくらいの高さの小さなものである。

 大田垣蓮月尼は、寛政三年(1791)京都に生まれた。実父母は不明。幼くして両親に死に分かれ、知恩院寺侍大田垣伴左衛門の養女となった。歌道を千草有功に学んだ。二度結婚するも、いずれも夫に先立たれ、さらに養父も失った蓮月は、剃髪して仏門に入った。その間、勤王歌人として多くの志士と交わった。明治八年(1875)八十五歳で没。

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「池田屋事件の研究」 中村武生著 講談社現代新書

2012-01-21 19:09:13 | 書評
以前、「坂本龍馬と新選組のことは研究し尽くされている」とどこかで書いたような記憶があるが、この本を読んでまだまだ「新事実」があることを思い知らされた。
有名な池田屋事件のことにしても、「桝屋喜右衛門こと古高俊太郎なる人物が新選組に捕らえられ、土方歳三による執拗な拷問により洛中に火を放つという計画を自白した。これを受けて新選組が池田屋を襲撃した」という教科書程度の知識しか持ち合わせていなかった。
古高俊太郎とは何者か。古高俊太郎という人物と桝屋とはどういう関係があったのか。古高が長州藩にとってどういう存在だったのか。何故、長州藩および親長州藩浪士は古高奪回を計画したのか。池田屋事件の現場で亡くなった志士は誰なのか。実は何も知らないのである。著者中村武生氏は、池田屋事件にまつわる疑問を、一つ一つまるで薄皮を剥いでいくように解明していく。少ない史料から事実関係を明らかにしていく様は、まるで現場に残された証拠物件から犯人を割り出す名探偵のようである。著者の姿勢は実証的でありながら、次から次へと通説を覆すような結論に読者を導く。これまで記号でしかなかった古高俊太郎という人物が、俄かに顔や声を持った生身の人間として目の前に現れる、そのプロセスに快感を覚えた。「池田屋事件の研究」という書名に相応しい奥深い内容となっている。
例えば、司馬遼太郎先生が『街道をゆく』に書いた吉田捻麿の最期は、新選組フアンには良く知られたエピソードである。事件を知った吉田捻麿が長州藩邸に槍を取りに戻って、制止を聞かずに池田屋にとって返し、そこで沖田総司に斬られたという話である。これについて著者は「まったく根拠のない話」と切り捨てる。
池田屋で当日死亡したのは五人だったという単純な事実もこの本で初めて知った。実はこの五人が誰だったのか、当たり前のような話でありながら、なかなか特定が難しい。また、新選組が襲ったのは池田屋であるが、同時に一・会・桑の兵が不逞浪士の隠れ家を改め、(今風にいえば、“ガサ入れ”でしょうか)その際に逮捕された浪士は三十六名に及ぶという。このとき大仏(三十三間堂の南辺り)に所在していた坂本龍馬の居宅も襲われている。幸い龍馬は当時江戸に出ており、難を逃れたが、当時の洛中治安部隊の探索能力の高さには感心する。
従来、池田屋殉難士と数えられていた西川耕蔵なども、正確にいえばこのとき一斉検挙された一人である。“ガサいれ”も含めて「池田屋事件」と称するのであれば、西川耕蔵も池田屋事件殉難者ということになるのだろうが。
事件の前から長州藩の上洛出兵は計画されていた。「池田屋事件が起きなくても長州の京都進発はありえた」とは、まさに“目から鱗”の主張である。小説やテレビドラマでは、強硬に上京出兵を主張する来嶋又兵衛に対し、久坂玄瑞が罵倒されて、不本意ながら従軍して戦死するというドラマが語られてきたが、この通説に対しても、「来嶋又兵衛が、池田屋事件によってむしろ時期尚早という意見に賛意を示した」とする。では小説やドラマの出典は何なのか、という点は残念ながらここでは触れられていない。
この本は、新書としては異例の四百ページを越える厚さとなっているが、読み応えのある力作である。

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鴬谷

2012-01-17 23:11:59 | 東京都
(西宮邸)


旧陸奥宗光邸

 JR鴬谷駅北口を出て言問通り沿い、住宅が密集する一角に木造洋館が残されている。かつて外務大臣時代の陸奥宗光が別邸としていた建物である。今は個人の所有となっているが、現代まで維持保存されているのは、奇跡というほかはない。貴重な史跡は着実に次世代に繋げて欲しいものである。

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「水戸藩諸生党始末 忠が不忠になるぞ悲しき」 穂積忠著 日新報道

2012-01-11 23:13:51 | 書評
性懲りもなく、またまた天狗党関連の書籍を買ってしまった。この本がほかと違うのは、天狗党の足あとを追ったのではなく、天狗の宿敵、市川三左衛門を主役に据えた点である。
この小説の序盤は、例によって天狗党と諸生党との骨肉の争いを描くことに費やされる。単に「天狗党と諸生党」というが、元治元年の水戸藩の戦争の実態は、かなり複雑である。いわゆる天狗党とは水戸藩尊攘激派のこと。京都に駐屯した本圀寺党も、激派と一脈を通じていた。天狗党も一枚岩ではなく、倒幕を目指す田中愿蔵らの一団も所属しているし、藩外から加勢した人たちもいる。これに対し、尊攘派にも穏健な鎮派が存在する。さらにこの内訌戦には、藩主徳川慶篤の意を受けた徳川頼徳の率いる大発勢が加わり、一層複雑になった。藩内には柳派と呼ばれる無党派もあった。そして諸生党(門閥派)―――
天狗党から見れば、不倶戴天の敵であるが、彼らにも彼らなりの正義があった。この本で斉昭が市川三左衛門ら門閥派幹部に対し「その方らは世臣の家柄なれば、世情騒がしき時、常に忠勤を尽くせ」と協力を求めたとしている。これが、諸生党が自らを正統と任ずる根拠となっているのである。勿論、天狗党は斉昭の標榜した「攘夷」を実現するのが、自分たちの使命と信じている。彼らはいずれも斉昭の「遺訓」を信奉すると主張しながら、異なる道を歩み始めた。もとをたどれば、水戸藩の混乱は、藩主斉昭そしてその跡を継いだ慶篤のリーダーシップ不在に起因しているといえよう。
この小説の題名の由来は、市川三左衛門の辞世といわれる一句である。

君がため捨つる命は惜しまねど
忠が不忠になるぞ悲しき

市川三左衛門は、天狗党からの憎しみを一身に集めることになった。この本を読めば、そのわけも頷ける。徳川頼徳を切腹に追い込んだのも市川の進言によるものであるし、武田耕雲斎の妻、子供、孫など一族を処刑することを決めたのも彼であった。当然ながら、市川三左衛門の峻厳な処置は、反対派の憎悪を買った。最期は逆磔という極刑の中でも極めて残酷な刑に処されたのも、故なきことではなかったのである。
筆者は「あとがき」で「市川三左衛門という人は極く常識的な人間であり、偶々藩重役の家柄の出という立場上、常識外れの主張を唱えて社会秩序を破壊している天狗党から藩を守り抜くことを考えて懸命に行動したのにすぎない。」「市川がなまじ為政者、軍略家として有能であったために他藩では簡単に終息した尊王攘夷派と佐幕派の争いが紛糾してしまったが、市川自身は藩から与えられた責任を誠心誠意全うしようとしただけのことである」と述べているが、この小説を読むと「なるほどそういうものか」と納得できるものがある。
天狗党の末路はよく知られているように壊滅的惨敗であった。しかし、明治維新を是とする立場からいえば、天狗党は勝者であり、天狗党に対抗した諸生党は敗者であった。我々は知らず知らずのうちに勝者の側から歴史を見ているが、常に両方の立場から史実を見ておくことの重要さをこの本は思い起こさせてくれる。

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「闘将伝 小説 立見尚文」 中村彰彦著 文春文庫

2012-01-07 17:52:41 | 書評
桑名藩出身の軍人、立見尚文は戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し、常に勝利を収めた“常勝将軍”である。
若い頃、藩で軍学を修めたというが、教育を受ければ必ず優秀な軍人が生みだされるというものではない。優秀な軍人は、胆力、判断力に優れ、大局観を持ち、勇敢であると同時に慎重さと大胆さを合わせ持たねばならない。万人に一人という天性の資質が求められる。著者は、この小説の中で、会津藩の猛将佐川官兵衛に
「だがどうも、その潮目を見抜く眼力は汝の方が拙者より確かなようだ。」
と語らせているが、数々の戦闘で判断を誤らなかった背景には、立見尚文の天賦の才能があったように思う。
立見尚文は賊軍桑名藩の出でありながら、実績と実力で陸軍大将まで昇りつめた。もっともこの人が薩長の出身であったなら、総理大臣や元帥になってもおかしくなかった。
著者中村彰彦氏は、「あとがき」の中で「これまで歴史小説の主人公にならず、今なお歴史の闇のかなたに埋もれている日本人に何とか光を当てられないか、という一点」で小説を書いているという。まさに賊軍の将、立見尚文は中村氏好みの人物といえよう。
この小説には、桑名藩の家老で最後まで恭順を主張したため暗殺された吉村権左衛門が登場する。得てして敵対勢力は悪者に仕立て上げられるのが常であるが、ここでは「国学を修め、和歌に秀でていた吉村は酒も煙草もやらず、家老屋敷の自室には小鳥を放し飼いにしている穏やかな人物」として描かれている。公正中立な描き方に好感が持てた。

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松戸 Ⅲ

2012-01-07 13:26:33 | 千葉県
(ホテル千壇屋)


シティホテル 千壇屋

 松戸の駅を出て、松ノ木通を歩いていると、やがて松ノ木橋を渡る。正面に見えるホテルが、シティホテル千壇屋である。
 千壇屋は江戸末期に創業したという老舗である。流山に赴く途中、近藤勇が逗留したという。


松戸の宿 千壇屋

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北松戸

2012-01-07 13:20:40 | 千葉県
(本福寺)


本福寺

 嘉永四年(1851)十二月十四日、江戸藩邸を脱して東北旅行に出た吉田松陰は、国境を越えて松戸に達した。松陰は追手を恐れ、敢えて旅籠を避け、本福寺を選んだという。
 本福寺の門前には、「吉田松陰脱藩の道」という文字と松陰の辞世が記された石碑が建てられている。


吉田松陰脱藩の道


元治元年七月二十七日
真然證空居士

 元治元年(1864)七月二十七日、水戸藩諸生党の佐藤久太郎は、小金宿で捕えられ松戸本郷で斬首され、本福寺に埋葬された。小さな石碑には、「真然證空居士」という戒名が刻まれている。

(首切り地蔵)


首切り地蔵

 JR北松戸駅北口を出て、常磐線に並行して走る国道6号線を少し北に四~五分歩くと、龍善寺の門前に地蔵が置かれている。向かって左手の地蔵は、首から上が無い。この地蔵は、この地で斬首された水戸藩諸生党の佐藤久太郎の霊を慰めるために建てられたものであるが、何度首を繋げても無くなってしまったという。

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松戸 小金

2012-01-07 13:13:00 | 千葉県
(小金宿)
 JR北小金駅(常磐線)を降りると、小金宿の碑が出迎えてくれる。駅前から少し南に歩くと、交差点に「右水戸道中、左なが連山みち」と記された道標がある。小金を南北に走る水戸街道はここで大きく東へ屈曲する。


小金宿

 小金宿は、水戸街道にあって江戸日本橋から四番目の宿場町として栄えた。小金宿の家数は百六十九軒と、隣の松戸宿と比べると規模は小さかったが、近くに幕府の軍馬牧場である小金牧があり、重要性は高かった。また、水戸藩にとっては取り分け重要な宿場町であった。この日、穏やかな天気にめぐまれたが、百五十年前、この地は不穏な空気に襲われた。


右水戸道中
小金宿道標

 安政五年(1858)八月、水戸藩に戊午の密勅が下された。これを知った幕府は、水戸藩に対して密勅の返還を要求した。この対応を巡って水戸では藩を二分して議論が交わされた。幕府の干渉に激昂した水戸藩激派は、次々と江戸を目指して街道を上り始めた。しかし、小金宿で関門を閉ざされ、上京を阻止された。多くの殺気だった水戸藩士が小金宿で足留めされることになった。やがて、あたかも競うように、数人が前後して噴激のあまり自刃した。小金宿は異様な熱気に包まれた。藩主慶篤は、家老白井織部(久胤)、太田丹波守(資原)、弘道館教授青山延光らを小金宿に派遣し、帰藩するよう説諭したが、容易に引き下がらない。やっと四、五十人を残して帰国することになったが、これを機に脱藩して志を遂げようという者もいて、水戸藩は迷走を始めることになる。

(東漸寺)


東漸寺山門

 東漸寺は、小金宿の中ほどに位置している。
 慶應四年(1868)四月十二日、市川を発った土方歳三、秋月登之助の率いる幕軍先鋒軍は小金宿に到着。新選組は東漸寺に宿泊した。


東漸寺

 東漸寺境内には、小金出身の志士、竹内兄弟の碑が立っている。


竹内隆卿墓表

 兄弟は、父竹内貞吉に剣術、学問を習い、江戸に出て芳野金陵、千葉道三郎に漢学や剣術を学んだ。そこで尊王攘夷思想に目覚め、二人で水戸天狗党の筑波山挙兵に参加した。その後、廉之助は慶応四年(1868)の赤報隊にも幹部として参加したが(金原忠蔵と改名)、追討軍によって重傷を負い自刃した。三十一歳であった。


贈従五位竹内哲次郎碑

 弟竹内哲次郎は、天狗党の挙兵に参加したが、松平頼徳が切腹したことを知ると、潮来、鹿島方面に転戦した。元治元年(1864)九月六日、大船津、青沼にて棚倉藩、麻生藩兵と戦ったが利あらず、小舟で漕ぎだすところを撃たれて、水に投じて死んだ。年二十四。

(小金宿本陣跡)


小金宿本陣跡

 小金街道を挟んで東漸寺の向かい側の住宅街の中に小金宿本陣跡がある。本陣の屋号は井筒屋といったが、代々大塚氏が経営していた。現在も末裔の方が当地に居住されている。

(玉屋)


玉屋(小金宿の旅籠)

 街道沿いには旅籠が軒を連ねていたが、現在往時の姿を残しているのは、玉屋のみである。

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