(小金宿)
JR北小金駅(常磐線)を降りると、小金宿の碑が出迎えてくれる。駅前から少し南に歩くと、交差点に「右水戸道中、左なが連山みち」と記された道標がある。小金を南北に走る水戸街道はここで大きく東へ屈曲する。
小金宿
小金宿は、水戸街道にあって江戸日本橋から四番目の宿場町として栄えた。小金宿の家数は百六十九軒と、隣の松戸宿と比べると規模は小さかったが、近くに幕府の軍馬牧場である小金牧があり、重要性は高かった。また、水戸藩にとっては取り分け重要な宿場町であった。この日、穏やかな天気にめぐまれたが、百五十年前、この地は不穏な空気に襲われた。
右水戸道中
小金宿道標
安政五年(1858)八月、水戸藩に戊午の密勅が下された。これを知った幕府は、水戸藩に対して密勅の返還を要求した。この対応を巡って水戸では藩を二分して議論が交わされた。幕府の干渉に激昂した水戸藩激派は、次々と江戸を目指して街道を上り始めた。しかし、小金宿で関門を閉ざされ、上京を阻止された。多くの殺気だった水戸藩士が小金宿で足留めされることになった。やがて、あたかも競うように、数人が前後して噴激のあまり自刃した。小金宿は異様な熱気に包まれた。藩主慶篤は、家老白井織部(久胤)、太田丹波守(資原)、弘道館教授青山延光らを小金宿に派遣し、帰藩するよう説諭したが、容易に引き下がらない。やっと四、五十人を残して帰国することになったが、これを機に脱藩して志を遂げようという者もいて、水戸藩は迷走を始めることになる。
(東漸寺)
東漸寺山門
東漸寺は、小金宿の中ほどに位置している。
慶應四年(1868)四月十二日、市川を発った土方歳三、秋月登之助の率いる幕軍先鋒軍は小金宿に到着。新選組は東漸寺に宿泊した。
東漸寺
東漸寺境内には、小金出身の志士、竹内兄弟の碑が立っている。
竹内隆卿墓表
兄弟は、父竹内貞吉に剣術、学問を習い、江戸に出て芳野金陵、千葉道三郎に漢学や剣術を学んだ。そこで尊王攘夷思想に目覚め、二人で水戸天狗党の筑波山挙兵に参加した。その後、廉之助は慶応四年(1868)の赤報隊にも幹部として参加したが(金原忠蔵と改名)、追討軍によって重傷を負い自刃した。三十一歳であった。
贈従五位竹内哲次郎碑
弟竹内哲次郎は、天狗党の挙兵に参加したが、松平頼徳が切腹したことを知ると、潮来、鹿島方面に転戦した。元治元年(1864)九月六日、大船津、青沼にて棚倉藩、麻生藩兵と戦ったが利あらず、小舟で漕ぎだすところを撃たれて、水に投じて死んだ。年二十四。
(小金宿本陣跡)
小金宿本陣跡
小金街道を挟んで東漸寺の向かい側の住宅街の中に小金宿本陣跡がある。本陣の屋号は井筒屋といったが、代々大塚氏が経営していた。現在も末裔の方が当地に居住されている。
(玉屋)
玉屋(小金宿の旅籠)
街道沿いには旅籠が軒を連ねていたが、現在往時の姿を残しているのは、玉屋のみである。