村田新八というと、「大久保に次ぐ人傑」(勝海舟)と評され、西郷隆盛、大久保利通という両雄から信頼されたという逸材である。
天保七年(1836)西郷と同じ下加治屋町に生まれ、文久二年(1862)、西郷とともに大阪に入ったが、下関で待機せよという久光の命に反したため強制的に帰藩させられた。西郷が徳之島(最終的には沖永良部島)に流され、新八は喜界島に流された。元治元年(1864)、赦されて鹿児島に戻ると西郷とともに直ちに上京を命じられ、禁門の変でも活躍した。その後は薩長両藩の周旋に奔走し、慶応二年(1865)の薩長同盟成立にも立ち会っている。その後、有名な坂本龍馬の朱筆裏書のある書簡を長州に届けた。戊辰戦争でも各地を転戦した。明治四年(1871)、宮内大丞に任じられたが、そのわずか三か月後、岩倉使節団の一員として欧米に渡った。しかし同年十月、現地で辞表を提出し自費留学に切り替え、そのまま明治六年(1873)十一月まで欧州にとどまった。帰国して政変を知ると、新八は西郷を追って鹿児島に向かう。鹿児島では私学校の幹部となり、砲隊学校の責任者となった。そして西南戦争では二番大隊長として出陣。薩軍幹部として田原坂、熊本、高瀬、人吉、宮崎、延岡と転戦したが、西郷、桐野利秋らとともに城山の露と消えた。享年四十二。
この程度の事績は分かっていたつもりであったが、本書を読んで改めて村田新八のことは分かっていなかったことが分かった。更にいえば、本書を読み終わって、益々もってこの人物のことは分からないことが多いということも分かった。
まず、生誕地について。鹿児島市の加治屋町を歩いていると鹿児島中央高校の一角に「村田新八誕生之地」と記された石碑があるので、当たり前のようにここが生地だと信じていたが、本書によれば、このほかに高見馬場説と西田説があり、いずれも決定的な証拠はないようである。
戊辰戦争でも活躍したものと思っていたが、本書によれば慶應三年(1867)十二月、王政復古の大号令の直後という時期になるが、京都で会津藩士と斬り合いとなり、新八は負傷している。傷の程度は不明であるが、どうやら軽傷ではなかったようで、戊辰戦争において前線で指揮をとることができなかった可能性がある。
新八の残した文書は、喜界島に流された折の「宇留満乃日記」とわずかな書簡しかなく、その中に彼の思想信条や政治的主張が現れているものは非常に少ない。
たとえば岩倉使節団に従って欧米視察をし、フランスに留まって留学した結果、新八がそこで何を学んだのか。どのような思想を身に付けたのか。西欧の文化に圧倒され、日本も近代化を急がなくてはいけないと思ったのか。はたまた嫌悪感を抱いたのか、その辺りは謎なのである。ただ欧米から手風琴(今でいうアコーディオン)を持ち帰ったことは事実であり、彼が西欧の音楽に惹かれたというのはその通りだったのであろう。
帰国後、新八は西郷を追うように鹿児島に向かい、そのまま西郷に殉じることになった。よく「道理より情義をとった」「そのまま東京にとどまって政府の高官になることより、西郷のそばで支えることを選んだ」されるが、これも本当の心情は良く分からない。従兄弟である高橋新吉に語ったという「西郷と離るべからざる関繋」という言葉が唯一残されたヒントである。
村田新八といえば、よくテレビドラマ等で描かれるように、戦場でアコーディオンを奏でる姿が印象的である。本書によればそれも眉唾で、確かに銃弾が飛び交う中で繊細な楽器を持ち歩くというのも現実的とはいえない。ただし、ボッケモンが多い薩摩隼人の中にあって、風流人という印象を残しているのも事実であり、村田新八に惹かれる人が多い理由の一つであろう。私もその一人である。
天保七年(1836)西郷と同じ下加治屋町に生まれ、文久二年(1862)、西郷とともに大阪に入ったが、下関で待機せよという久光の命に反したため強制的に帰藩させられた。西郷が徳之島(最終的には沖永良部島)に流され、新八は喜界島に流された。元治元年(1864)、赦されて鹿児島に戻ると西郷とともに直ちに上京を命じられ、禁門の変でも活躍した。その後は薩長両藩の周旋に奔走し、慶応二年(1865)の薩長同盟成立にも立ち会っている。その後、有名な坂本龍馬の朱筆裏書のある書簡を長州に届けた。戊辰戦争でも各地を転戦した。明治四年(1871)、宮内大丞に任じられたが、そのわずか三か月後、岩倉使節団の一員として欧米に渡った。しかし同年十月、現地で辞表を提出し自費留学に切り替え、そのまま明治六年(1873)十一月まで欧州にとどまった。帰国して政変を知ると、新八は西郷を追って鹿児島に向かう。鹿児島では私学校の幹部となり、砲隊学校の責任者となった。そして西南戦争では二番大隊長として出陣。薩軍幹部として田原坂、熊本、高瀬、人吉、宮崎、延岡と転戦したが、西郷、桐野利秋らとともに城山の露と消えた。享年四十二。
この程度の事績は分かっていたつもりであったが、本書を読んで改めて村田新八のことは分かっていなかったことが分かった。更にいえば、本書を読み終わって、益々もってこの人物のことは分からないことが多いということも分かった。
まず、生誕地について。鹿児島市の加治屋町を歩いていると鹿児島中央高校の一角に「村田新八誕生之地」と記された石碑があるので、当たり前のようにここが生地だと信じていたが、本書によれば、このほかに高見馬場説と西田説があり、いずれも決定的な証拠はないようである。
戊辰戦争でも活躍したものと思っていたが、本書によれば慶應三年(1867)十二月、王政復古の大号令の直後という時期になるが、京都で会津藩士と斬り合いとなり、新八は負傷している。傷の程度は不明であるが、どうやら軽傷ではなかったようで、戊辰戦争において前線で指揮をとることができなかった可能性がある。
新八の残した文書は、喜界島に流された折の「宇留満乃日記」とわずかな書簡しかなく、その中に彼の思想信条や政治的主張が現れているものは非常に少ない。
たとえば岩倉使節団に従って欧米視察をし、フランスに留まって留学した結果、新八がそこで何を学んだのか。どのような思想を身に付けたのか。西欧の文化に圧倒され、日本も近代化を急がなくてはいけないと思ったのか。はたまた嫌悪感を抱いたのか、その辺りは謎なのである。ただ欧米から手風琴(今でいうアコーディオン)を持ち帰ったことは事実であり、彼が西欧の音楽に惹かれたというのはその通りだったのであろう。
帰国後、新八は西郷を追うように鹿児島に向かい、そのまま西郷に殉じることになった。よく「道理より情義をとった」「そのまま東京にとどまって政府の高官になることより、西郷のそばで支えることを選んだ」されるが、これも本当の心情は良く分からない。従兄弟である高橋新吉に語ったという「西郷と離るべからざる関繋」という言葉が唯一残されたヒントである。
村田新八といえば、よくテレビドラマ等で描かれるように、戦場でアコーディオンを奏でる姿が印象的である。本書によればそれも眉唾で、確かに銃弾が飛び交う中で繊細な楽器を持ち歩くというのも現実的とはいえない。ただし、ボッケモンが多い薩摩隼人の中にあって、風流人という印象を残しているのも事実であり、村田新八に惹かれる人が多い理由の一つであろう。私もその一人である。