史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「陸奥宗光」 佐々木雄一著 中公新書

2020年01月25日 | 書評

これは古本ではなくて、普通に書店で入手。二年前に発刊された比較的新しい本である。

陸奥宗光といえば「剃刀大臣」という異名をとるほど頭の切れる人物であった。自他ともに認める才子であり、能吏であり、策士であった。そして同時に、学究肌の智の人でもあった。その人となりは、「智力の輪転機」であるとか、「神経質の才子」で、そこから野心と覇気を除けば詩人・文学者に近いかもしれないなどと評された(本書「はじめに」)。

幕末、海援隊に属し、坂本龍馬の片腕として頭角を現した陸奥は、維新後、新政府に出仕し、外国事務局、大阪府、兵庫県知事、神奈川県知事などを歴任する。客観的にみれば、相応の地位を与えられていたように思われるし、いわゆる藩閥出身者と比べても、一歩か半歩遅れる程度であった。しかし、陸奥はそのわずかな差に我慢ならず、慶応四年(1868)四月、早くも辞職願兼意見書を提出した。「能力のない者が僥倖で重任を担い、あるいは門地によって登用の有無が決まるなどということがあっては新政の一大事」であり「もとよりその選任に誤りはないだろうが、不才の自分のような例もあるので」「能力不足を理由に辞職したい」という。もちろん陸奥自身は自分が不相応の重任を与えられているとは露ほども思っておらず、能力本位の人材登用がされていない。言い換えれば、自分をもっと重用せよと訴えているのである。強烈な自信家である。

陸奥は、その後もたびたび政策論などを建言しているが、藩閥という後ろ盾のない陸奥にとってそれは常にどうすれば自分が力を発揮できる環境を作り出せるか、という話でもあり、不満や焦りの裏返しでもあった。

その焦りが生んだ最大の失敗が、土佐立志社系の政府転覆計画への関与であった。西南戦争のさなか、陸奥は大阪で大江卓と会い、要人暗殺や挙兵、武器調達の計画を聞いたが、それを政府に報告することをしなかった。陸奥と親しい西園寺公望は「才子で敏感すぎるから、一時失脚したのだね。西南役の折、もしかすると西郷が勝つかもしれんから、幾分その場合に処する用意をして置こうとした」のだと解説しているが、まさにそのとおりであろう。

陸奥宗光という名を歴史上不滅のものとしたのは、明治日本の積年の課題である条約改正を達成し、日清戦争の難局を巧みに乗り切った外交指導者としてである。その冷徹な現状認識と交渉手腕は「陸奥外交」として名高い。あたかも陸奥が明確な方針や展望をもって整然と外交を仕切っていたというイメージで語られるが、本書によれば先々の展開を見通して決断を下していったわけでなく、その時点でかけたコストに見合う対価を獲得し、さらに利益の最大化を図るというのが陸奥の判断基準であった。その結果が、日清の武力衝突であり、陸奥が外務大臣でなければ、あるいは日清戦争は避けられた戦争だったのかもしれない。

藩閥という後ろ盾を持たず、己の才覚と知力のみで大臣まで上り詰めた陸奥は、病床に就くことが増えたとはいえ、依然として政治への情熱を失うことはなかった。明治三十年(1897)三月には自由党総理就任が計画された。陸奥自身にも自由党入りや総理就任への意欲はあったに違いない。しかし、ついに体調は好転することなく、陸奥が自由党を率いて首相となる夢は実現しなかった。

その年の八月、陸奥は五十四歳で死去する。天が彼にあと十年、いや五年の寿命を与えれば、首相になれていたかもしれない。心残りもあっただろうが、この手の野心家は、満ち足りるということがないから、どこまでいっても到達感を覚えることはなかったかもしれない。

 

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「芸州広島藩 神機隊物語」 穂高健一著 平原社

2020年01月25日 | 書評

先のGWは竹さんご夫妻と広島県、山口県の史跡を歩いたが、その際に東広島市で東広島郷土史研究会の方々にお世話になり、史跡や墓所の案内だけでなく、幕末芸藩の神機隊のことなど、解説をいただいた。

その時、穂高健一の著作である「芸州広島藩 神機隊物語」や「広島藩の志士」をご紹介いただいた。以来、広島での記憶が薄れないうちに読んでおきたいと思っていた。

長女が書店のアルバイトを辞めることになった。辞める前だったら少し本を安く買うことができる、というので、この本を注文することにした。

広島藩は幕末のある時期までは、薩長土と並んで政局をリードする存在であった。本書によれば、土佐藩に先んじて大政奉還を提唱したのは広島藩だったという。しかし、幕末のどさくさに紛れて土佐藩に出し抜かれる格好で大政奉還を言い出されてしまう。

戊辰戦争では、広島藩に功を立てさせないよう、甲府など主要ではない戦線に神機隊が送り込されたとする。上野戦争でも前線に立つことはなく戦闘が終わってしまった。

東広島郷土史研究会の方々に、「幕末の政局では存在感のあった広島藩が、どうして明治新政府で「薩長土肥」に並ぶ地位に立てなかったのか」と、質問をしたところ、口をそろえて「薩長の陰謀だ」とおっしゃられていたが、果たしてどうなのか。確かに戦争における配置を決めたのは薩長ではあったが、その時点で戦争後の主導権まで考えている余裕があっただろうか。結局この本を読んでも、私の疑問は解決しないままであった。

本書は小説なので、必ずしも史実に忠実である必要もないし、創作や歪曲があっても結構であるが、それにしてもあまりに広島藩の正義と、神機隊の精強さを強調する描き方には最後まで違和感を拭えなかった。広島出身者の郷土愛をくすぐるには良い本だろうが、私のような広島とあんまり関係のない人間にはちょっとしんどい。

 

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青山霊園 補遺 Ⅹ

2020年01月18日 | 東京都

(青山霊園 つづき)

 

                     

赤井家累代之墓

 

天明七年(1787)の生まれ。躯幹雄渾で幼少より武を好み、十字鎗を能くした。のち昌平黌に入り古賀精里に従い力学すること五年、文化十年(1813)黌を辞し、自ら塾を開いた。時に二十五歳。文政十二年(1829)、高松藩主に召されて十人扶持を賜り、世子に侍講した。爾後、しばしば禄を加え秩を増し、ついに使番に班して米百俵を賜る。東海は江戸在留の藩士であったが、一時高松に帰り、今の上笠居の薬師寺に寓し、藩士中では寺井樾屋と非常に親しかったという。文久二年(1862)、年七十六で没。1種イ3号5側

 

 

日南先生池原香稺翁墓

室  池田百刀自

 

天保元年(1830)、長崎の生まれ。名は香稺(かわか)。備前岡山の上田及淵に学び、安政三年(1856)、長崎で眼科医を開業する傍ら、国学を教授した。維新後は宮内庁文学御用掛。明治十七年(1884)、五十五歳にて死去。(1種イ5号24

長崎市禅林寺にも墓がある。

 

                     

磯林大尉之碑

 

磯林真三は、嘉永六年(1853)の生まれ。土佐出身の軍人。明治十年(1877)の西南戦争にも出征した。明治十一年(1878)の竹橋事件ではその鎮圧に功があった。明治十六年(1883)、花房義質に従って公使館付として朝鮮に渡った。明治十七年(1884)十二月の甲申事変の際、公使館に引き返す途中、殺害された。三十二歳。

見上げるほどの顕彰碑は、明治十九年(1886)十二月の建立。篆額は有栖川熾仁親王。撰文は山県有朋。書は日下部東作(鳴鶴)。(1種イ13号3側)

 

                     

横川省三墓

 

横川省三は慶應元年(1865)、盛岡の出身。若い頃は自由民権運動に関わり、加波山により投獄された。その後、朝日新聞の記者として日清戦争の従軍記者などを担当。記者を辞めた後は、平戸出身の沖禎作とともに特殊工作に携わった。明治三十七年(1904)、日露戦争開戦前夜、ロシアにおける諜報活動、ことに輸送路破壊活動に携わり、ロシア軍に捕らわれてハルピンで処刑された。(1種イ16号1側

 

青山霊園の墓は、雑草で覆われ長らく手入れがされていない様子である。墓石の前には「ご縁者様は霊園事務所までお立ち寄りください」と記した看板が建てられている。無縁化しているらしい。

 

 

                     

黒田氏之墓(黒田益男の墓)

 

黒田益男は、文政十年(1827)の生まれ。広島藩士。雅号を蝸亭と称した。槍術師範黒田弥五右衛門の弟で、藩政改革派の一人として行動、国老浅野式部、執政辻将曹(維岳)らに従ってたびたび上京し、文久三年(1863)二月には用達所詰となり、諸藩との交渉にあたった。慶應三年(1867)九月、神機隊の設立に際し、船越八百十郎、小鷹狩正作とともに資金調達に尽力した。慶應四年(1868)の戊辰戦争では、神機隊の総括者として同志とともに隊員三百名を率いて奥州を転戦し、同年勘定奉行になった。明治二十年(1887)、年六十一にて没。(1種ロ8号29側

 

東郷家之墓

海軍中将正四位勲一等功四級

東郷吉太郎墓

 

                       

元帥東郷平八郎母 東郷益子之墓

 

東郷益子は、東郷平八郎、小倉壮九郎の生母。東郷吉太郎中将の墓所の片隅にひっそりと墓が建てられている。東郷吉太郎は、平八郎の甥。すなわち平八郎の長兄東郷四郎兵衛の息であり、益子は祖母にあたる。(1種ロ10号34側

 

 

 

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早稲田 Ⅶ

2020年01月18日 | 東京都

(大隈庭園)

 この日は、会社の後輩の結婚披露宴がリーガロイヤルホテル東京で開かれたので、披露宴が始まるまでの一時間ほどを利用して、久しぶりに大隈庭園を訪ねることにした。紅葉が真っ盛りを迎え美しい景色を楽しむことができた。

 大隈庭園は、井伊掃部頭、松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を大隈重信が文人風に改造したもので、没後、邸宅とともに早稲田大学に寄贈された。昭和二十年(1945)五月の空襲で廃墟と化したが、多くの人びとの努力によりほぼ昔の景観とおりに復元された(新宿区戸塚1‐104)。

 

                     

大隈庭園

 

 

侯爵夫人大隈綾子之像

 

 庭園の一画に大隈夫人綾子の像がある。大隈綾子は、旧姓三枝といい、実父は旗本であった。幼少時に駿河台の小栗家に同居していた縁で、小栗忠順の遺児国子を育て、支援したことでも知られる。大隈重信との結婚は明治二年(1869)、二十歳の時で、以後五十年にわたって夫を支え、賢夫人と称えられた。大正十二年(1923)、大隈重信の没した翌年、あとを追うように死去した。七十二歳。

 大隈庭園の綾子像はいわく付きの代物である。大正天皇の即位の礼に際し、早稲田大学でも慶祝行事が執り行われたが、これを機に総長夫人綾子の御大礼袴姿の銅像を校内に建てる話が進んでいた。そのことを聞きつけた学生が騒ぎ出し、建設中の銅像を破壊してしまった。昭和二年(1927)の早稲田大学創立45周年の際、養子の大隈信常により寄贈され、大隈庭園に設置された。朝倉文夫作。

 

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川之江 Ⅱ

2020年01月11日 | 愛媛県

(かわのえ西川ふれあい塾)

 JR川之江駅から七~八分北上すると、国道11号線の手前に旧讃岐街道が走っている。郵便局の隣が本陣跡である。

 門には「謹敕之風」という文字が掲げられている。「謹敕之風」は尾藤二洲が近藤篤山の開いた塾のことを評価した言葉で、つつしみ深く自らを戒める良風という意味である。

 

かわのえ西川ふれあい塾

 

「謹敕之風」 篤山塾

 

御本陣跡

 

 実際の近藤篤山塾の位置は、本陣跡から西に二十メートルほど行った場所である。

 

(近藤篤山塾跡)

 

 

近藤篤山塾跡

 

 天明八年(1788)、大阪に出た近藤篤山は、同郷の尾藤二洲から儒学を学び、二洲が江戸に移った後、大阪で塾を開いた。寛政六年(1794)、江戸に移って再び二洲の下で学んだ。寛政九年(1797)、江戸での修学を終えて別子山に戻り、翌寛政十年(1798)、川之江で塾を開いた。川之江の塾は、篤山が伊予小松藩に招かれるまで五年間続いた。

 

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土居

2020年01月11日 | 愛媛県

(近藤篤山生家跡)

 JR予讃線伊予土居駅から十分ほど東に歩くと、近藤篤山生家跡がある。

 近藤篤山は、明和三年(1766)、この地に生まれた。父は高橋甚内。近藤家の元の姓は高橋で、先祖は北九州岩屋城主だったというが、信長・秀吉の時代、島津家に滅ぼされ、この地に流れて定住したと伝えられる。

 

                       

近藤篤山先生生誕之地

 

 

近藤篤山の生家

 

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土浦 Ⅲ

2020年01月11日 | 茨城県

(浄真寺)

 土浦への出張の機会を得たので、約束の時間一時間前の特急で先乗りし、浄真寺を訪ねた。土浦駅から合同庁舎行きのバスに乗って真鍋橋バス停で降りれば、浄真寺は目の前である(土浦市立田町3-28)。

 

 

浄真寺 

 

 浄真寺の墓地は想像以上に広かった。ここで片岡家の墓を探し当てるのは、なかなか容易ではない。十分ほど墓地を歩いて出会うことができた。

 片岡家の墓に高野長英が合葬されている。片岡家の墓の礎石に大きく「神崎屋」と刻まれているが、長英の後見人神崎屋源造家の墓である。佐藤昌介著「高野長英」(岩波新書)によれば、神崎屋源造は、水沢から江戸に出てきた長英が身を寄せた先で、日本橋堀留町で薬種屋を営んでいた。長英が長崎へ遊学した際にも経済的に支援をし、さらに長英が処刑されると遺体を引き取り、密かにこの地に埋葬したといわれる。

 高野長英という人は、相当な自信家で自我の強い人だったようだが、同時に蘭学・蘭語の水準は当代随一でもあった。神崎屋源造が惜しまず経済的支援をしたのも、長英の抜群の学識に惚れ込んだからであろう。

 

 

先祖代々之墓(片岡家の墓)

 

 傍らの墓誌の一番右に「高野長英之霊」とある。

 

 

片岡家先祖代々精霊

高野長英之霊

 

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御所 Ⅸ

2020年01月04日 | 京都府

(桂宮邸跡)

 

桂宮邸跡 

 

 文久元年(1861)十月二十日、十四代将軍家茂に嫁ぐことになった和宮は、仮御殿の桂宮邸を出発して中山道を江戸へと下向した。和宮が二年近く住んでいた御殿は、明治二十六~七年(1893~4)に二条城の本丸御殿として移築された。

 

(西園寺邸跡)

つづき

 

                     

白雲神社

 

 白雲神社の社号扁額は、明治三十八年(1905)、白雲神社七百五十年祭にあたり西園寺公望(当時五十七歳)が揮毫したもの。

 

 白雲神社には、もう一つ西園寺公望が残した書がある。「清而舒」は社務所に架かっているはずだが、いくら探しても見つからない。社務所の女性に聞いてみると、「そこにあります。」と背後を指さした。社務所の中にあった。

 「写真を撮らせていただいて宜しいでしょうか」と尋ねると「中のものは簡単には撮影できません」と取り付く島もない。泣く泣く退散することになった。

 

(相国寺)

つづき

 

相国寺

 

  

西郷吉之助家来 徳嶋仲祐墓

 

 林光院墓地は、施錠されていて立ち入りできないが、実は細身であれば抜けられる小道が通じている。薩軍戦死者の墓の奥には薩摩藩関係者の墓が多数並んでいる。その中に西郷隆盛の従者徳嶋仲祐の墓がある。

 文久二年(1862)六月、久光の激怒をかって徳之島に流刑になった際、琉仲為(りゅうなかい)という島の総横目が西郷の身元引受人となった。流刑は厳格な禁錮ではなく、監視される程度であった。仲為の甥、仲祐という十八歳の青年が西郷の面倒をみた。仲祐は一度でよいから京都に行きたいという夢をもっており、それを聞いた西郷は罪が解けた折には必ず京都に連れていくことを約束した。ところが同年八月、藩から沖永良部島への流島を命じられた。西郷が召還されたのは元治元年(1864)二月のことであった。慶應二年(1866)九月、西郷が大目付陸軍掛に任じられると、仲祐も呼び出され西郷とともに上京を果たした。仲祐は西郷の従僕となって諸用で市中を駆け巡った。そんな折、仲祐は京都で急逝した。一説には、西郷と顔立ちや体格が似ていた仲祐は、間違えられて新選組に斬殺されたともいわれる。しかし、この時期に新選組が薩摩藩士を暗殺するというのは不自然であり、真相は不明である。西郷は仲祐の死をひどく悲しみ、寺に「千疋」もの大金を納め、墓碑にも自ら揮毫したといわれる。

 

 相国寺墓地には禁門の変で戦死した長州藩士の慰霊墓がある。広い墓地だが、入って直ぐ左手にあるので、探す手間はない。

 

 

長藩士戦亡霊塔

 

 

斗米菴若冲居士墓(伊藤若冲の墓)

 

 長州藩戦死者の墓の隣には、足利義政らの墓と並んで伊藤若冲(1716~1800)の墓がある。私はまったく絵心はないが、それでも若冲の絵には惹かれるものがある。若冲は動植物を好んで描いたが、自然の造形・色彩への衝撃が作品製作の動機になっているのではないか、と勝手に想像している。私も魚や貝殻が大好きだが、突き詰めて考えると、想像を絶するフォルムや配色を見るたびに脱帽するのである。いかに優秀なデザイナーでも自然にはとてもかなわないだろう。

 

(養源院)

 相国寺の塔頭の一つ、養源院は戊辰戦争時に薩摩藩野戦病院となったという。

 

 養源院

 

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嵐山 Ⅲ

2020年01月04日 | 京都府

(寿寧院)

 

                       

寿寧院

 

 天龍寺塔頭の一つ、寿寧院の墓地に平成十七年(2005)六月、八瀬西林寺から当寺墓地に改葬された際に楢崎将作と坂本龍子(西村ツル)の顕彰碑がが建てられた。

 

倶會一處(西村家の墓)

 

 

楢崎将作 坂本龍子(西村ツル) 顕彰碑

 

 楢崎将作は、お龍の実父。青蓮院の侍医であり、勤王家。頼三樹三郎、梁川星厳、池内大学らと親交があり、数多くの志士を援助した。安政の大獄で投獄され、出獄後、文久二年(1862)六月二十日、病死。行年五十。

 坂本龍子は龍馬の死後、横須賀で西村松兵衛に嫁ぎ、明治三十九年(1906)一月十五日、横須賀にて死去。行年六十六。遺言に従い、夫松兵衛は妻の分骨を京の龍馬墓と西林寺楢崎家墓に埋葬した。

 

 顕彰碑には、龍馬が伏見から江戸に向かった際にお龍が贈った歌が刻まれている。

 

 又あふと思ふ心をしるべにて

 道なき世にも出づる旅かな

 

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鳴滝 Ⅲ

2020年01月04日 | 京都府

(三寶寺)

 つづき

 

 三寶寺には、今城家の墓所があり、今城重子ほか一族の墓がある。

 

                       

常行院殿妙修重子日淳大姉(今城重子の墓)

 

 今城重子は文政十一年(1828)の生まれ。父は権大納言今城定章(さだあや)。嘉永元年(1848)、内侍御雇として出仕。名を婦喜と賜った。ついで嘉永三年(1850)四月、衛門内侍となり、万延元年(1860)十二月、従五位下に叙せられ、少将内侍となった。孝明天皇の側近にあって重きをなし、なかんずく和宮の降嫁に際しては斡旋の労により幕府より職禄を増されたが、のちにそのことが尊攘派の公家・志士らを刺激し、四奸二嬪の一人として排撃されるに至り、文久二年(1862)七月、宮中より退出させられ、ついで辞官・隠居・洛中居住禁止の処分を受けて太秦村に閉居謹慎し、さらに翌年二月、落飾を命じられた。慶應四年(1868)七月、許されて旧位に復した。明治三十四年(1901)、七十四歳で没したが、死去に際し正五位叙された。

 

 

従三位 藤原媋子墓(今城媋子の墓)

 

 今城家の墓地の奥に夭折した常寂光院の墓があり、それに寄り添うように、今城媋子(たつこ)の墓がある。

 今城媋子は文化六年(1809)の生まれ。父は権中納言今城定成。文政六年(1823)、仁孝天皇の後宮に仕え、翌年には掌侍となり、天保三年(1832)四月、皇子常寂光院を出産。この月、従五位下に叙された。文政九年(1826)閏四月より一年間里邸に退出を命じられたが、七月別勅により帰還した。文政十三年(1830)十二月、従五位上に叙された。弘化三年(1846)正月、仁孝天皇崩御により翌年宮中を退き、薙髪して孝順院と号した。安政元年(1854)四月、その召使の失火により内裏が類焼したので、七月責任を問われて遠慮・閉門を命じられた。明治八年(1875)、年六十七で没。

 

 

常寂光院の墓

 

 

霊明院殿の墓

 

 霊明院も常寂光院と同じく今城媋子の子。仁孝天皇の皇子である。

 

 昭和四十六年(1971)に今城家子孫によって建立された慰霊碑。常寂光院や霊明院の名前も刻まれている。

 

 

當山に鎮まれる諸家の霊

 

 

今城家の墓域

 

 

今城家の墓域 

 

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